2015年5月

第3回 鎌倉ウォーキング 朝夷奈・名越切通  解説版

1. 朝夷奈切通
朝夷奈切通しは、執権北条泰時が仁治元年(1240)六浦と鎌倉を結ぶ道の改修を和田義盛の三男・朝夷奈三郎に任務させてできたという。名称も彼の名が付けられた。六浦港は、当時塩の産地であり、安房、上総、下総などの関東地方をはじめ海外(唐)からの物資集散の重要港でした。工事に際しては、泰時自らが監督して、自らの乗馬にも土石を運ばせて普請工事を急がせたと云う。この切通しができたことで、六浦に集積した各地の物資は速やかに鎌倉に入ることになり、政治的・経済的な価値は倍増しました。また、鎌倉防衛上に必要な防御施設を考慮した平場や切岸なども痕跡が残されている。この切通しは鎌倉七口のなかでも最も険阻な道です。公文書名「朝夷奈」が「朝比奈」と呼ばれるのは、江戸時代の歌舞伎で「曽我物語」の題目のなかで「朝比奈」が使われたことにより、現在では、地名は「朝比奈」と表記している。

2.梶原太刀洗い水
鎌倉五名水のひとつと云われるこの近くで事件があった。寿永2年(1183)12月、この地からほど近い明王院付近に住む頼朝の側近梶原景時は、同じくこの一帯に屋敷を構えていた上総介広常を訪れて、双六を遊興した。そのうち些細なことで口論となり、景時はやにわに太刀を抜いて広常に斬り掛った。これは双六に事寄せての謀殺で、頼朝の命を受けての仕業であったと云う。その背景は、日頃上総介広常が頼朝に対して、臣下の態度を取らず、謀反を起こす気配を感じていたからとも云う。広常を討った太刀の血塗りを洗ったのが、このしたたり水であったことから呼ばれるようになった。その後、広常の鎧から願文が見つかったが、そこには謀反を思わせる文章はなく、頼朝の武運を祈る文書であったので、頼朝は広常を殺したことを後悔し、即座に一族を赦免したという。
3.明王院
当院は正しくは「真言宗飯盛山寛喜寺明王院五大堂」と云う。鎌倉4代将軍源頼経が宇都宮辻子幕府の鬼門除け祈願所として、この地に嘉禎元年(1235)建立した寺院で五つの大きな御堂があり、それぞれの御堂に不動明王は祀られていたので五大堂とも呼ばれた。鎌倉時代から祈願所として重んじられ、元寇の際には、異国降伏祈祷が行われた。寛永年間(1624~44)の火災では4つの御堂を焼失し、一堂が焼失を免れ、不動明王が残され、現在に至っている。当院は、現在その面影はないが、将軍の御願寺として鶴岡八幡宮寺、永福寺、勝長寿院と並ぶ高い格式であった。頼経は五摂家の一つ九条家の出身で、頼朝の遠縁にあたり、わずか2歳で鎌倉に迎え入れられ尼将軍北条政子に養育された。嘉禄元年(1225)に元服し、翌年、13歳で鎌倉幕府の4代将軍となる。その年に2代将軍頼家の娘で15歳年上の竹御所を妻に迎える。2人の間に子供ができたが、死産と云う不運で、世継ぎを設けることができず、竹御所も数年後に病で死去したため頼朝の血筋は完全に消滅した。頼経が年齢を重ね官位を高めていくにつれ、反得宗家の北条朝時らが接近してきて、幕府内での権力基盤を徐々に強めてくるようになると、これを警戒する4代執権北条経時に将軍退位を迫られ、寛元4年(1246)、五代執権北条時頼によって鎌倉を追放されている。これを宮騒動と云う。
4.足利公方屋敷跡
鎌倉幕府が滅亡のとき、尊氏が朝廷側に寝返ったのを怒った北条高時は、この地にあった足利邸を焼き討ちした。その後、建武2年(1335)足利義詮が鎌倉公方になったとき再建された。義詮が2代将軍になり、京都に引き上げると義詮の弟基氏が鎌倉公方になり、以降氏満、満兼、持氏と代々引き継ぎここに住んだ。室町時代後期には廃墟になったが土地の人々は、いつか公方様が帰ると信じ、畑にもせず、芝野にしていたという。
 
5.青砥藤綱邸跡
第5代執権北条時頼の治世のとき、評定衆の1人であった青砥藤綱は,ある夜幕府に出向く途中,東勝寺橋の上で,袋に入れておいた10 文の銭を滑川に落としてしまった。藤綱は家来に50 文で松明を買ってこさせ,川床を照らして捜し出した。この話を聞いた同僚が「藤綱は勘定知らずだ。10 文捜すために50 文を使って損をしている」と笑った。すると藤綱は「常人の勘定はそうだろう。しかし,銭が川に沈んだままでは,永久に使われることはない。50 文で松明を買えば,それを作っている町民や,商っている商家も利益を得られる」と笑った人々を諭したと云う。実際、幕府内部の動きなどを記した「弘長記」のなかで、藤綱は「謹厳実直で富んで奢らず、威あって猛けからず、私利私欲なき賢者」と評されているという。因みに、評定衆とは執権の下にあり、立法・行政・司法の実務に携わる幕府の重要職務である。
 

6.浄妙寺
文治4年(1188)、源頼朝の重臣・足利義兼が高僧退耕行勇を招いて創建した。そのときは真言宗で、名は極楽寺であった。その後、建長寺を開山した蘭渓道隆の弟子月峯了然が住職になってから臨済宗に改宗し、寺名も浄妙寺に変えた。足利義満が五山の制度定めた至徳3年(1386)には、七堂伽藍が完備し、塔頭・支院23院を数えたが、火災などのため、次第に衰退し、現在は総門、本堂、客殿、庫裡などで伽藍を形成している。本堂には本尊の南北朝時代に作られた釈迦如来像や子宝と婦人病にご利益があるという淡島明神象が祀られている。国の重要文化財に指定されている退耕行勇坐像は開山堂に安置されている。本堂左手には茶室 喜泉庵があり枯山水庭園を眺めながら抹茶を楽しめる。

7.杉本寺
天台宗大蔵山杉本寺は、鎌倉最古の寺院で、開基は藤原不比等の娘で聖武天皇妃になった光明皇后、開山は日本で初の大僧正となった行基と伝わる。東国の旅をしていた行基は、天平3年(731)、大蔵山からみて「この地に観音さまを置こう」と決め、自ら彫刻した観音像を安置した。その後、天平6年(734)光明皇后が夢の中で受けた「財宝を寄付し、東国の治安を正し、人々を救いなさい」というお告げにより、本堂を建立したと伝えられている。 寺の前を馬に乗って通ると必ず落馬するというので「下馬観音」とも、また建長寺の蘭渓道隆(大覚大師)が袈裟で顔を覆ったので「覆面観音」とも云われる。坂東三十三所観音霊場の第一番札所として知られる。本尊の十一面観音像が三体安置され中央は鎌倉初期の作で、右手は鎌倉後期の作、左手は奈良時代で行基作と云われそれぞれ国の重要文化財である。内陣の前には頼朝が寄進した運慶作という十一面観音像が安置されている。本堂前には多くの五輪塔がある。
8.衣張ハイクコース
 大切岸を通ってお猿畠・名越切通に至るハイキングコースである。このコースは、5年前に集中豪雨で、釈迦堂谷切通しが通行止めになって以来、開発されたコースで、山頂からの見晴らしが良く、近年、人気が高まっている。「衣張山」という名称は、源頼朝が夏の暑い日に、この山を白い絹で覆わせて雪景色に見立てて涼を楽しんだことから付けられたといわれている。そんな関係から「絹張山」と書かれる場合もある。頼朝ではなく、北条政子が父の北条時政に頼んで白絹を覆わせたという説もあります。別名は「衣掛山」。一説には、ある尼層が松の木に衣を掛けてさらしたことから付けられた名だといわれている。
9.大切岸
800mにもおよぶ遺構 「大切岸」は、北条氏が三浦半島の雄「三浦氏」の攻撃に備えるために築いた防禦施設だといわれてきたが、近年の発掘調査では、石切場として使用され、その堀り残された姿が現在の「大切岸」だとされている。「大切岸」の下は「お猿畠」と呼ばれ、3匹の白猿が松葉ヶ谷法難の際に、日蓮をここまで連れてきたという伝説が残されている。

 
10.名越切通
 名越切通は、武家の都として経済的にも発展してきた鎌倉と三浦を結ぶ往還路として整備された古道。鎌倉七口の一つ。切り開かれた時期は不明だが、『吾妻鏡』天福元年(1233)8月18日条に「名越坂」の記述があることから、それ以前に開通していたものと考えられている。鎌倉七口の中でも当時の面影をよく残した切通で、北方の尾根にある「まんだら堂やぐら群」には、多くのやぐらや石塔が残されている。また、古くは、日本武尊が東夷征伐の際に通った古東海道筋だったとも考えられている。
11.まんだら堂
 鎌倉七口の一つ名越切通の北尾根の「まんだら堂やぐら群」には、約150穴の中世の「やぐら」が残されている。鎌倉市内でもこれだけの「やぐら群」の存在は珍しい。やぐら内に置かれている五輪塔は、後に動かされたものが多いらしいが、古い書籍やガイドブックの写真等によると、以前は、やぐらの前に並んでいたのかと思われる。かつて、この場所には、死者を供養するための「曼荼羅堂」があったというが、その「曼荼羅堂」がどのような建物で、いつの時代まで存在していたのかは不明。「名越切通」と「まんだら堂やぐら群」は、国の史跡に指定されている。
12.長勝寺
日蓮に帰依していた石井藤五郎長勝が、伊豆に流されていた日蓮が鎌倉に戻ったとき庵を寄進したのがはじまりという。室町期に入って日静上人が中興し、石井長勝に因んで、山号を石井山(せきせいさん)、寺号を長勝寺にした山門を入った左側高台にある祖師堂は禅宗様式の建築で県重文になっている。境内の正面には帝釈堂があり、帝釈天が祀られている。堂前に辻説法姿で聳えるように立つ日蓮上人像は名工高村)光雲の作で洗足池から移築したものである。上人像を守護するように立つ四天王像(持国天、増長天、多聞天 毘沙門天・・・東南西北)は圧巻である。千葉県にある法華経寺で荒行を終えた僧たちが毎年2月11日に冷水を頭から浴びる水行の儀式は、大国祷会(だいこくとうえ)成満祭と呼ばれ鎌倉の風物詩になっている。
13.安国論寺
開山は日蓮上人として創建。妙法寺と同じく松葉ヶ谷法難の跡と伝えられる。日蓮が鎌倉にきて初めて道場とした岩窟がこの寺がつくられるもととなり、「立正安国論」もこの岩窟で書かれたという。この場所に寺ができたのは日蓮の弟子日朗が岩窟のそばに建てた安国論窟寺が始まりで、のちに安国論寺とよばれるようになったといわれる。境内には、日蓮の直弟子日朗上人の御荼毘所がる。日朗は、「日蓮六老僧」の一人で、文永8年(1271)、日蓮が捕らえられて佐渡流罪となったときには、一緒に捕らえられ、光則寺にある土牢に幽閉された(龍ノ口法難)。幽閉から解放された後は、佐渡に流されている日蓮のもとに8度も訪れ、赦免された日蓮を迎えに出向いたのも日朗だったという。御荼毘所脇の石段を登ると日蓮が富士に向かって法華経を唱えたという富士見台がある。庭には日蓮の桜の杖が根付いたという妙法桜やサザンカ・カイドウの巨木があり、墓域には行政改革で「増税なき財政再建」「三公社(国鉄・専売公社・電電公社)民営化」などに貢献した「土光敏夫」の墓がある。
14.安養院
正式には祇園山安養院田代寺と云う。安養院とは北条政子の法名。昭和3年再建の本堂には本尊の阿弥陀如来像、その後ろに1,85mの千手観音像が安置されている。坂東三十三所観音霊場の第3番札所になっている。本堂裏の3.3mの宝篋印塔は開山の尊観上人の墓で重要文化財になっている。その左脇には北条政子の供養塔と云われる宝篋印塔が並んでいる。地蔵堂には日限地蔵と呼ばれる鎌倉期の石の地蔵尊があり、その脇の槇の大木は樹齢700年と云われている。寺院をつつむ石垣の上には躑躅が植樹されていてつつじ寺とも呼ばれている。
 
15.八雲神社
大町の鎮守さまと親しまれている古社で、厄除けにご利益があると云われている。永保年間(1081~1084)源義光(新羅三郎)は後三年の役で、安部貞任と戦っている兄、八幡太郎義家の助成に向かうため、この地に立ち寄った。その際、疫病に苦しむ人々の姿を見て、京都祇園社の祭神を勧請して、人々を救ったという。ご神木の下には新羅三郎手玉石という土地の人々が力比べをしたという力石がある。

 
16.妙本寺
比企大学三郎能本が日蓮のためと比企一族の霊を弔うため、日朗を開山として文応元年(1260)に創建のが始まりといわれる。妙本寺が開山される50年前、この一帯には比企能員の屋敷があった所であった。比企能員は頼朝が旗上げしたときからの側近で、妻は2代将軍頼家の乳母であった。このことから頼家が将軍になると比企一族を重用するようになり、比企の娘若狭の局が寵愛を受けて一幡を産んだ。その後、頼家は原因不明の病となり床に伏した。頼家が亡くなると一幡が将軍になり、比企がますます権勢を強めることに危機感を覚えた北条時政は、はかって比企能員を誅殺し、大軍を擁して比企の館に攻め入って若狭の局と頼家の子一幡をはじめ一族をことごとく滅ぼした。比企一族の墓と一幡の袖を埋めたと云う袖塚がある。また、祖師堂には日蓮の生前の姿をうつした三体の像の一つといわれる座像が安置されている。同寺は、花の寺としても知られており、本堂前のシダレサクラやカイドウは名高い。また、寺北面には若狭の局の霊を慰めるために建てた蛇苦止堂がある。
  5期生 第3回鎌倉ウォーキングは、六浦道と鎌倉を結ぶ朝夷奈切通しと三浦、安房を結ぶ名越切通しめぐりを主目的にして、その周辺の寺社仏閣を散策することにした。当初予定の日が雨で延期となったため、5月27日に実施することになったのであるが幸い好天気に恵まれ新緑を目に注ぎながらのハイキングになった。金沢八景駅からバスで、朝比奈に向かい、下車してからほどなく、朝夷奈切通し に入った。この切通しは鎌倉七口のなかでも、当時の足跡が一番よく残されているとの前評判とおり、険しい道の所々に、敵の馬が走り抜けられないようにした置石や衛士が隠れていた切場などが見られ、往時の防衛上の要塞が見られ、岩場に彫り込まれた古い磨崖仏も趣きを感じさせてくれた。切通しの出口近くには、頼朝の側近の梶原景時が謀反の疑いのある武将を斬って、その太刀を洗った という伝説の場も興味を注がれた。切通しを抜けると鎌倉駅に向かう国道にでた。国道に沿ってしばらく進むとハイランド入口の交差点があり、右に折れて歩むと明王院五大堂がある。鎌倉幕府が鬼門除けとして建立した寺院で、かっては五つの御堂を構える大寺院であったが、今日はその面影はないが素朴な佇まいは安らぎを与えてくれる。この周辺は、室町時代に入ってからも、鎌倉(足利)公方の屋敷があり、有力御家人たちの屋敷もあったようで、10文の銭を探すのに、50文の松明を買ったと云う逸話の青砥藤綱の屋敷もこの周辺にあった。再び、国道に沿って歩むと浄明寺のバス停がある。この道を右に曲がると、浄妙寺への参道が続く。浄妙寺は鎌倉五山の第5位の名刹で、かっては七堂伽藍が完備していたという。境内には、お休みどころの喜撰庵や石窯ガーデンテラスがあり、人気がある。墓域には足利尊氏の父の墓がある。ここでは沖縄から修学旅行で来たという中学生たちとしばしの懇談を楽しんだ。続いて向かったのが鎌倉最古の杉本寺。昨年本堂の茅葺屋根を新装して真新しい本堂になっている。本尊の三体ある十一面観音像などが間近で拝むことができて、敬虔な気持ちにさせてくれる。この寺は、坂東観音寺三十三札所の第1番の格式を十分感じさせてくれた。
  昼食後に向かったのは、近年開発された衣張山ハイキングコースだ。僅か120m余りの山であるが、山頂までほとんどが昇り坂で、途中何度か息を入れながらの登坂である。杉林が立ち並ぶ道の傍らには夫婦地蔵やリスが現れて、気持ちを和ませてくれる。衣張山の山頂に着く。ここからの眺望は由比ヶ浜や視界が良ければ富士山が望める絶景スポットである。ここで一休み。ここから尾根道を下って15分程で大切岸に着く。かって石切り場であったというが、軟質な凝灰岩の岩肌はやぐらも多く造られたという。ここから数分で名越切通し の表札が見えてきた。これで鎌倉七切通しをすべて踏破したことになる。切通しを逗子方面に3分ほど行った所に まんだら堂やぐら群がある。フェンスで囲まれており、生憎、平日のため中に入れず隙間から覗いての観賞であった。遠くからの眺めであるが国指定の遺跡の迫力を感じた。鎌倉方面に続く尾根道を下り、横須賀線を横切って道なりに進み、国道を横切ると長勝寺がある。境内の高村光雲が制作した日蓮上人像とそれに従う四天王像は圧巻である。次に、同じく日蓮宗の安国論寺に入る。日蓮がここの岩窟で修業中、立正安国論を書いたと云われる寺院で、行政改革で知られた土光敏夫さんもここの墓域に眠っていた。次は北条政子が開基したという名刹安養院。つつじで有名であるが、5月も末になりザンネンながら花は枯れかかっていた。ここから5分ほどに、大町の鎮守として知られる源義光(新羅三郎)ゆかりの八雲神社がある。義光は秋田藩佐竹氏の祖であったことから佐竹藩からの寄進が多かったと云う。最後の散策地は妙本寺。鎌倉初期に、比企能員一族がこの谷戸に屋敷を構え、二代将軍頼家の子一幡君も住んでいたが、北条時政の謀略で殺戮され、屋敷も焼討ちされた。のちに能員の子が再建して、妙本寺を建立した。静寂につつまれた境内からは、かって陰惨な殺戮があったとは全く想像できない、こころ落ち着く寺院である。かくして、本日のハイキングをお開きにして、小町通りに繰り出して、のどの渇きを潤しながら反省会に移った。和気藹藹の、雑談に華が咲き笑いの続く飲み会でした。
 
多摩高校第11期3年9組同級会
平成27年4月12日、上田市別所温泉・旅館花屋にて
 
 平成26年3月9日、多摩高校11期の同期会を帝国ホテル東京で実施した折に、3年9組の担任であった小里先生とお会いしました。
小里先生から、「建部(現在は堀)君は今信州上田の近くに住んでいるんだね。私の学生時代の先輩が上田出身の人で、テニスを通じて上田にも行ったことがあるよ。懐かしいね」と声をかけられました。
そこで、先生がまだ元気な間に信州で同級会をやろうということに話が発展しました。
同席していた篠田君、内藤君とともに平成15年5月24日以来の同級会を上田市郊外の別所温泉で実施することに決めました。
 寒い信州にも春が来て桜の咲く時期を第一候補とし、先生のご都合を聞いて平成27年4月12日(日)に開催となりました。
先生を含めて11名の同級生が集合しました。1名は内藤君の奥さん(11期生ですが3年6組)でした。
なお、森内(小澤)さんは夕方6時からの宴会だけに出席していただきましたが、夜8時過ぎの長野新幹線で横浜まで帰宅されるという忙しい日程でした。
 高校卒業以来47年振りで再会した人も何人かいて、名前を聞くまでわからなかった人もいましたが、宴会の席で話し込むうちに全員が18歳の青春時代に戻り時間の経つのも忘れて話に華が咲きました。
 二次会となった大部屋でも、夜遅くまで諸々の語り合いが途切れることなく続き、多感だった高校生活の想い出などに浸りました。
 翌日は、8人で信州の鎌倉と言われる別所温泉界隈に二つある国宝、八角三重塔「安楽寺」と青木村当郷の見返りの塔と言われる「大法寺」を見学してから、知る人ぞ知る信州蕎麦屋でお昼を食べて解散となりました。
 小里先生は我々11期生と年齢差も7つで、集合写真を撮る際に旅館の仲居さんから「シャッターを押しますよ」と声をかけていただきましたが、どなたが先生ですか?と言われるほど若々しく、傍目には生徒よりも若く見られたようです。
 またの再会を楽しみに皆さん元気に帰宅されました。

幹事 堀(建部)、篠田、内藤
堀(建部)修  記


参加者12人が揃った宴会時


翌朝、旅館出発前

多摩高卒業生の皆さん!東大野球部三木投手(多摩高54期)を応援しよう!

2015.5.10 東京六大学野球、東大vs立大戦に
多摩高54期三木投手が東大の先発ピッチャーとして出場しました。
 前日、中継ぎとして、3回パーフェクトピッチング。東大の連敗ストップを期待されての先発となりましたが、初回に2ランを浴びて4回までに4失点と負け投手になってしまいました。

三木投手は3年生。今後の活躍、連覇ストップに期待です!

三木投手のプロフィールはこちら

2015.05.23 東大野球部三木投手(多摩高54期)、1回自責点0で勝利に貢献!
http://www.big6.gr.jp/system/prog/game.php?m=pc&e=league&s=2015s&gd=2015-05-23&gnd=2&vs=TH1




三木投手は、下手投げのピッチャーです。



応援にかけつけた多摩高校同窓会長の安部さん






三木投手と同期で多摩高54期の吉田くん(右)と同窓会長の安部さん(左)。
吉田くんは、現在、多摩高野球部のコーチをしてくれてます。



 

 第11回4期同期会開催のお知らせ
 
 春爛漫櫻満開も過ぎ、初夏の陽気になってきましたが、
皆様にはいかがお過ごしでしょうか?
 
 第10回開催幹事と第11回開催幹事の引継が無事行われ、下記の通り、
第11
回4期同期会開催日程が決まりましたので、お知らせいたします。 
 皆様のご予定に組み入れていただき、お誘い合わせの上、多くの方々の
ご出席をお待ち申し上げております。

 
               記
 
   日時  2015(H.27)11月28日(土) 17:00~
   会場  ホテルKSP       
   会費  10,000
 
 尚、詳細は後日、往復葉書にてお知らせいたします。
 
 
2015.04.27 
第11回開催幹事(4組)
 
大場光明  044-733-0533 佐藤昌孝  044-822-5273
柴田侑宏  044-866-7342 鈴木伸一  044-829-3973


4期同期会開催幹事幹事引継会:2015.2.28 (10回→11回)


 2015年 多摩高等学校 9期会のご案内


   陽春の侯 皆様いかがお過ごしですか。
  大変ご無沙汰しています。多摩高入学から50年、皆さん65才を過ぎ第2、第3の人生を歩み始めていることと存じます。
  仕事、子育てから解放され、これからが人生の楽しみです。久しぶりに学生時代の懐かしい仲間と再会する良い機会ではないでしょうか。50年もたつとすっかり忘れてしまい、こんな人がいたかな?なんていうのもいいかもしれません。新たな出会いです。
  というわけで、有志による幹事会を結成、下記日程で9期会を開催することとなりました。昔懐かしい校舎や、多摩川の空気に触れてみたい方には、多摩高校内ツアー、多摩川ぶらり散歩の部も企画しましたので、お時間が取れましたら是非御参加下さい。


日時: 6月20日(土)16時~18時
場所: NEC玉川クラブ
住所:川崎市中原区下沼部1956
会場電話:044-434-1510
南武線 向河原下車 徒歩5分
横須賀線 武蔵小杉下車 徒歩9分

会費: 女性 5,000円 男性 7,000円   

オプション1
多摩高・多摩川ぶらり散歩
6月20日(土) 13時 南武線宿河原駅改札前集合(雨天決行)
         多摩高校内ツアー、多摩川、二カ領用水周辺散策
         散策後 9期会 会場に向かいます(3Km程歩きます)

オプション2
お楽しみ2次会
    2次会も準備したいと思います。お手元に届きました案内往復はがきに
    参加希望を記入して下さい。

連絡先 質問等は下記にご連絡下さい
TEL:   080-5084-8336 (事務局8組吉沢の携帯です)
mail:  yoshizawa1569@cg7.so-net.ne.jp
 
多摩高等学校九期会  幹事会一同        事務局 吉沢明
1組 田中千恵子           4組 青木克己       7組 葛生茂
      神谷(鎌田)美智子        小泉晴夫            篠崎伸一郎
2組 伊藤(青野)志津江  5組 浅井満          8組 大谷博美
      津田(森永)良子          唐沢克己             野口義明
3組 安部卓見              6組 歳原博幸       9組 伊藤正行
    岩橋(宮腰)久美子       鈴木一美             川島理一郎


※写真は、平成24年(2012)第9期生クラス会 3年6組の時のものです。

  東青梅駅に集合し、駅前の小高い大塚山公園を経て、霞川に沿って歩きはじめました。宗泉寺に向う道を曲がり、この寺に立ち寄りました。境内には折れた枝の年輪が百年以上もあるというカヤノキの銘木がそびえていました。その先、塩船観音寺入口の案内に従って進むと、つつじ祭りとあって、地元の筍ごはんや飲み物などの露店が私達を出迎え、賑わっていました。
塩船観音寺は600年代に開かれたと伝えられる古刹です。国指定の重要文化財の仁王門をくぐり、つづいて阿弥陀堂が現れ、右手の少し上がった所に、こちらも重要文化財の萱葺きの本堂がたっていました。この奥に目をやると、2万株の赤、白、薄紫の色とりどりにつつじが咲き競っていて、千紫万紅とはこのことでしょうか。境内奥の正面には、大きな観音像が立ち、その後方から霞丘陵ハイキングコースとなっています。赤松林で楽しいお弁当タイムをとりました。
新緑と桜並木の舗装路から笹仁田峠、そして岩蔵街道を渡り、今度は杉檜の樹林帯の中を七国峠を経て岩蔵温泉へと下山しました。天候に恵まれ、新緑とつつじのハイキングで、今回の5期ハイキングは15名という大勢の参加で、中には無理が出来ないので、最初から塩船観音寺だけでも行って見たいという方もいました。
朝、道を尋ねたところ、散歩中の地元の微笑ましいご夫婦が、先導するかのように振り向きながら道案内をしてくださいました。散策中に久し振りにお逢いした皆さんと楽しい会話が弾み、話題満載の楽しい一日でした。
帰路、立川で途中下車をして夕食を兼ねて、懇親会をして帰宅しました。  齊藤三枝子
スライドショー             
第2回 法曹会(判事、検事、弁護士、司法修習生で構成)

4月26日 第二回「多摩高校法曹会(判事・検事・弁護士・司法修習生で構成)」が溝の口・桂林で開催されました。2年前に「多摩高校同窓会ネットワーク構想」の職域会のひとつとして結成された法曹会。結成後、新会員が増加し、48期にいたるまで会員数が26人を数えるにいたりました。
 業務多忙を極めるなか、5期生から46期までの幅広い期の8人の法曹が参加し、まず同窓会長から母校の改築状況や進学実績・部活の活躍ぶりなどの説明があった後、参加者一人一人の高校時代の思い出が披露されました。
 転校生として都会の高校と思い多摩高校に転入したところ、期待に反して生まれ育った田舎とさほどかわらぬ宿河原の風景に唖然としたこと、勉強の思い出はないが気合をいれた部活では好成績をのこせたこと、中学では許されなかった校則破りすれすれの身なりでも多摩では強くとがめられることなくかえって拍子抜けした思い出などが披露されました。
 参加者全員に共通していたのは自由のなかにも責任ある自主的判断を尊重する校風のもとで3年間すごすことができたということでした。あっという間に予定の時間をはるかにすぎ校歌斉唱で散会となりました。