2016年12月

第3回 お江戸散策 巣鴨・駒込 (解説版)
1 大国神社
天明3年に創建され、祭神は大国主命。木彫りの七つの大国神があり、大黒天像の福運があるとされています。徳川家斉が、鷹狩の帰りにこの神社に立ち寄り、その後に十一代将軍となったことから、出世大国や日の出大国とも呼ばれています。




2 妙義神社 (ラジオ体操曲)
日本武尊が東征の折、陣営を構えた処と伝えられる豊島区最古の神社。江戸城を築いた太田道灌が、足利成氏との合戦の際に、ここに詣でて勝利をおさめたことから、「勝戦の宮」とも呼ばれています。文明3年(1471)同9年、11年にも当社に戦勝を祈願し、その都度勝利を収めたことにより勝負の神として「勝守り」を授与している。駒込駅前から妙義神社に至る坂(本郷通り)は、「妙義坂」と呼ばれている。祭神は日本武尊と高皇産霊神 (たかみむすびのかみ)。

 
3 西福寺(さいふくじ)
江戸六阿弥陀(あみだ)詣で第一番の札所として知られる。創立年代は明らかではないが、江戸初期の建立といわれ、伊勢津藩藤堂家の祈願寺であった。山門を入ると右手に「染井吉野の里」の碑がある。このあたりがソメイヨシノの発祥の地と伝えられており、寺の前の道路は桜の名所にあげられている。墓地には江戸城の御用植木師だった伊藤伊兵衛政武の墓があり、植木職人の墓が多い。

4 十二地蔵
享保15年の大火による犠牲者の冥福を祈るため建てられたものと言われています。十二体の地蔵の由来は定かではありませんが、地蔵さまの上部に描かれているのが雲の絵ではなく、火や煙のような絵であることからも、大火を描いたのではないかということです。

5 染井霊園
染井霊園は播州林田藩建部家の跡地に明治7年
市民墓地として開設された。同墓地には、皇居前広場楠木正成像の作者高村光雲、長男で「智恵子抄」で有名な光太郎、智恵子、明治の小説家二葉亭四迷、明治時代に活躍した美術界の巨匠岡倉天心、幕末、明治の写真家下岡連杖(しもおか れんじょう)等が眠っている。

6 勝林寺
臨済宗妙心寺派の寺で山号は万年山。元和2年(1616)湯島に創立、明暦の大火で消失し、そののちも度々火災遭い(あ)、田沼意次により再建された。明治41年、当地に墓地が移転され、昭和15年に寺引っ越してきた。同寺には田沼意次や女優太地喜和子の墓がある。田沼意次は将軍の小姓から身を興し、10代家治の側用人として信頼され、破格の出世で大名、老中に上り詰める。田沼時代と呼ばれる権勢を握ってからは、数々の幕政改革を手がけ、悪化する幕府の財政赤字を食い止めるべく、重商主義政策を採る。内容は株仲間の結成、銅座などの専売制の実施、鉱山の開発、蝦夷地の開発計画、俵物などの専売による外国との貿易の拡大、そして下総国印旛沼の干拓に着手する等の政策を実施した。その他、平賀源内などと親交を持ち、蘭学を手厚く保護し、士農工商の別にとらわれない実力主義に基づく人材登用を行った。一方賄賂を許容する姿勢が保守的な幕閣の反発を受け、不運にも浅間山の噴火から生じた飢饉への対応などの批判が意次に向けられ、家治の死とともに権威を失い失脚した。

 
7 慈眼寺 (じげんじ)
後水尾天皇の御代、元和元年(1615)の創建。明治45年深川から移転。 なお墓地には司馬江漢、芥川龍之介(作家)、芥川比呂志(俳優)、芥川也寸志(音楽家)、谷崎潤一郎の菩提寺として知られている。





8 本妙寺 (ほんみょうじ)
 戦国時代の元亀2年(1571)駿府に日慶が創立した法華宗陣門流の古寺で徳川家康の江戸入府に伴い移転してきた。当初、清水御門内にあったが、寛永13年(1636)本郷丸山に移転した。明暦3(1657)年正月18日江戸を焼き払った「振袖火事」の火元と言われている。本堂右手にそのとき焼死した人々の菩提を弔う供養塔がある。当地には明治43年(1910)年に移転した。戦災で焼け残った梵鐘には天保2年(1831)の銘がある。
著名人の墓地としても知られ、下総関宿藩久世家の菩提寺で藩祖広之から、幕末に老中として井伊直弼と対峙した7代広周(ちか)など、名町奉行遠山金四郎、幕末の剣豪で神田お玉ガ池に玄武館を開き北辰一刀流を編み出した千葉周作、囲碁の歴代本因坊家元、将軍家将棋指南役 天野宗歩、幕末維新の通訳官として活躍した森山多吉郎の墓がある。

 
9 高岩寺 (とげぬき地蔵)
この寺は寺名よりも「とげぬき地蔵」として有名で、江戸時代には下谷上車坂町にあって万頂山と号し、慶長元年(1596)年に曹洞宗の寺院として創立し、明治24年(1891)年巣鴨に移転してきた。江戸のころ、巣鴨の地蔵と言えば真性寺の地蔵のことを言っていました。正徳3年(1713)田村某と言う武士の妻が重い病にかかり、治したい一心で信仰しているお地蔵さんに願を掛けた。夢のお告げどおりに地蔵の御影(みかげ)を一万体写して川に流したところ妻の病は治ったという。田村某はこの尊像を高岩寺に奉納、これが延命地蔵菩薩(とげぬき地蔵)で寺の本尊になった。そして、いつしかこの尊像の御影をいただくと病気が治るとの信仰が生まれた。現在は、本堂左手に「洗い観音」が安置されているが、患部と同じ場所を水で洗って病気平癒を願うおばあちゃん達の行列で賑わっている。毎月4の付く日は縁日で境内には露店も出ている。山門脇にある「とげぬき館」の阿弥陀三尊像の下には、高さ86cmもある室町時代の庚申待板碑が保存されている。

 
10 真性寺 (しんしょうじ)
旧中山道で地蔵通りに面した同寺は、江戸六地蔵の第四番として古くから信仰を集めている。因みに第一番は品川寺(東海道)第二は四谷太宗寺(甲州道)、第三 浅草東禅寺(奥州道)
第五 深川霊巌寺(水戸道)第六 永代寺(千葉道)である。
六地蔵は道中の安全を願って江戸府内に入る主要街道に安置された。建立したのは深川の僧地蔵坊正元で彼の志に賛同した多くの人々から寄進を受けて完成させた。そのために、台座には寄進者の名前がびっしりと刻まれている。毎年6月24日には、「百万遍大念珠供養」の行事が行われ、境内に敷いたゴザに参詣者が輪になって座り、長さ16mの大数珠を念仏唱えながら順繰りに回していく。そして11月には「菊まつり」が行われ賑わいます。地蔵の手前左手には、芭蕉の句碑があります。「志ら露もこぼれぬ萩のうねりかな」と刻まれ鯉屋杉風(さんぷう)門下の人たちが寛政5年(1793)に建てたものです。本堂裏手には江戸後期の漢学者北条霞亭(かてい)の墓がある。霞亭は北条早雲の末裔で、福山藩の儒官として藩主の信頼を得た人で、頼三陽は業績を高く讃えている。

 
11 徳川慶喜梅屋敷跡
 この地は徳川最後の将軍慶喜が静岡で30年の謹慎生活を終えて上京してから千駄ヶ谷の次に移住した地。周囲は閑静で麦畑が広がるのどかな環境であったといわれている。広大な庭には多くの梅が植えられ、「ケイキさんの梅屋敷」と呼ばれていた。慶喜は多才な人で油絵、謡曲、刺繍、囲碁などに精通し、とくに好奇心が旺盛でカメラに夢中になり愛用のカメラ3台で撮り続け、自ら現像まで行っていた。明治34年山手線の開通に伴い、騒音を嫌って小石川小日向に転居、亡くなったのは大正2年(1913)、77歳でした。墓は谷中墓地にある。

 
12 六義園(りくぎえん)
六義園は、5代将軍徳川綱吉時代の大老柳沢吉保の屋敷に作られた広さ約3000坪の「回遊式築山泉水庭園」である。柳沢吉保は幼少の頃から綱吉の小姓として仕え、綱吉が将軍になると信頼厚い側用人として、幕府の政治を一手に取り仕切り、川越7万石城主から甲府15万石へと加増され、地位も大老格になるまで出世した。元禄15年(1702)に築園し、和歌の趣味を基調とする池をめぐる園路を歩きながら移り変わる景色を楽しむ繊細で温和な庭園にした。六義園の名の由来は、中国の『詩経』に分類されている詩の分類法を和歌に適用させた紀貫之の『古今和歌集』の序文にかかれている「六義」に因む。当初は、六義園と書いて「むくさのその」とも呼ばれていた。柳沢吉保はこの『古今和歌集』に出てくる和歌を庭園で再現しようとしたものであった。この屋敷には将軍綱吉やその生母桂昌院もたびたび訪れその付き人、お奥女中たちのために市井から町人たちの屋台、出店などもつくられ大いに賑わったと言われている。吉保には、元禄の側用人政治との批判も強いが,学問を奨励し,荻生祖徠 (おぎゆうそらい)を登用するなど,文治政治へ尽くした功績も大きい。
*「詩経」というのは、仏教のお経ではなく、中国最古の詩集のことです。かつては、孔子が編纂したと伝えられ、儒教の重要な古典とされてきました。

 
13 駒込富士神社
 本郷村の名主が天正元年(1573)現在の東京大学の地に駿河の富士浅間社を勧請したことにはじまる。寛永5年(1628)加賀前田家が上屋敷をその地に賜るにあたり、浅間社を現在地に移した。拝殿は富士山に見立てた山の上にあり、江戸期の富士信仰の拠点の一つとなった。6月末から7月はじめの山開きには夜店が出てにぎわいを見せる。また、この辺り一帯は江戸の発展に伴う食料供給地として開拓され、ナス、ダイコン、ゴボウなどの野菜栽培が盛んになりました。とくにナスは優れたものができたことから「駒込ナス」として江戸庶民に親しまれました。

 
14 吉祥寺 
 曹洞宗の寺院。山号は諏訪山。室町時代長禄2年(1458)に 太田道灌が江戸城築城の際、井戸を掘ったところ、「吉祥増上」の刻印が出てきたため、現在の和田倉門のあたりに「吉祥庵」を建てたのが始まりといわれています。大永年間(1521~1527年)に高僧 青巌周陽和尚が諏訪山吉祥寺と改名しました。山号はこの地が諏訪神社の社地であったことによる。のち徳川家康の関東入府にともなって駿河台に移り、明暦の大火と江戸大火によって現在の駒込の地に移転した。境内には曹洞宗の宗門随一の学問所を意味し、後に駒澤大学となる学寮「旃檀林」があり、卍(まんじ)山道白が規則を制定して大いに繁栄し、幕府の学問所「昌平黌」と並んで漢学の一大研究地となった。多くの学寮・寮舎を備え、常時1000人余の学僧がいた。各寮には学徳兼備の者が選ばれて寮主となっていた。寮主はさらに役員を選び、これら役員によって学問の指導や日常生活が話し合いによって運営された。教科目は仏教漢学で、江戸の中間期以降は漢学が重視された。そのため僧侶以外でも、寺院に縁故のある旗本の子弟・寺侍に聴講を許した。寺堂は近代まで七堂伽藍を誇っていたが、東京大空襲で焼失し、僅かに「経蔵」を残すのみとなったが復興され、本堂、客殿、庫裏等が建ち、往時の面影を忍ばせている。
 なお、武蔵野市吉祥寺の地名は、明暦の大火で当寺の門前町の住民が住居を失い、五日市街道沿いの当地に移住し開墾したことに由来したもので吉祥寺という寺はない。経典が納められた経蔵は二重の屋根で頂には青銅製の露盤宝珠が置かれている。二宮尊徳、榎本武揚、鳥居輝蔵らの墓がある。

〇 二宮尊徳は、幕末の農政家で小田原藩下野桜町の後廃地   を復興し、幼い頃から学問に勤しんだことで知られている。
 また、彼の「経済と道徳を高める精神」は、戦後、経済一辺倒 
 で進んできた今日の日本の識者から再評価されている。

榎本武揚は、幕末の海軍奉行で幕府海軍を率いて函館五
 稜郭に立て篭もり、新政府軍に抵抗したが、のちに降伏した。
 政府軍黒田清隆が榎本の才覚を惜しみ、朝廷に助命嘆願をさ れたことから死罪を免れ、のちに政府に任官して、ロシア特命 全権公使、海軍卿、商務大臣などを歴任した。

鳥居輝蔵は、遠山金四郎と同時代に老中水野忠邦下で天  保の改革の推進に取組んだ。渡辺崋山、高野長英など、蘭学や内外の情勢を研究していた尚歯会を、「蘭学という野蛮な結社」と蔑すみ、弾圧を加えた。当時の人々からはその名をもじって“妖怪(耀・甲斐)”と渾名され、忌み嫌われた。後に水野を裏切ったために失脚させられ、財産没収の上、丸亀に蟄居させられたが、明治に入っても生き続けた。

〇また、境内には、井原西鶴が「好色五人女」の中で、八百屋お七と吉三の出会いの場として作したことから比翼の塚がありますが、これは創作で実際は円乗寺にある。


 
15 南谷寺 (なんごくじ) 
 天台宗の寺で山号は大聖山。寛永年間(1624~43)の中頃、三代将軍家光が寛永寺創建で知られる天海大僧正の具申により、江戸府内の名のある不動尊を指定し五行思想に基づく天下泰平、国家安穏を祈願して江戸五色不動を設けた。江戸時代には五眼(ごめ)不動といわれ、五方角(東・西・南・北・中央)を色で示すものです。その由来については諸説ありますが、各位置は江戸城(青)を中心として、それぞれ水戸街道(黄・最勝寺)、日光街道(黄・永久寺)、中山道(赤・南谷寺)、甲州街道(白・金乗院)、東海道(黒・瀧泉寺)といった江戸府内を中心とした五街道沿い(又は近く)にあることから、徳川の時代に江戸城を守るために置かれたといわれています。ただし、色はあくまで仏教上の方角を示すもので、目に色があるわけではありません。ここ南谷寺 は元和年間(1615~24)万行和尚が伊勢国赤目山で、不動明王像を授けられた。その後、尊像を護持して諸国をめぐり、駒込村の動坂に庵を開き赤目不動と号した。寛永年間(1624~44)三代将軍家光が鷹狩の途中に動坂の庵に寄り、目黒・目白不動に対し目赤と呼ぶべしと命じ、現在地を与えたと言われている。

 

16 龍光寺 (りょうこうじ)
 寛永年間の始め、伊勢(鈴鹿)龍光寺虎伯禅師は三代将軍家光公に請われ、芝の金地院に於いて禪書『碧巌録』を講じてよりその名声は一時に高くなり、諸侯を初め知名の人々も日を追って帰依するに至った。当初、親交のあった幕府の主官医・大橋隆慶の屋敷に僅かばかりの土地を借りて小庵を営んで居たが、後に牛込矢来下に官地を賜り、ここに御堂を建立して、天澤山龍光寺と称し、伊勢(鈴鹿)龍光寺の別院とした。中でも、特に信仰の深かった京極、小笠原の両大名は廟所を当寺に定め、それにより両氏を当寺の開基とした。明暦二年、牛込の地は御用地となり酒井讃岐守により駒込のこの地に三千六百坪を拝領して移転された。

16-1 吉丸一昌
 大分県の下級士族の長男として生まれる。幼少より学問に秀で、県から度々表彰を受けるほどだった。1889年第五高等学校に進学する。教授には夏目漱石、湯原元一、小泉八雲などがおり、当時は剣道に熱中していた。1898年、第五高等学校を卒業した吉丸は東京帝国大学国文科に進学。下宿先で「修養塾」という私塾を開き、その後生涯に渡り、地方からの苦学生と生活を共にして衣食住から勉学、就職に至るまでを世話した。1902年、第三中学(両国高校)へ教師として赴任、当時の教え子の中には芥川龍之介もいた。1908年吉丸は東京音楽学校の校長である恩師・湯原元一から文部省唱歌編纂(へんさん)委員に推挙され、作詞主任として多くの唱歌編纂に当たった。
 「故郷」「菜の花」で有名な高野辰之よりは責任の高い地位にあった。自らも作詞をし、『桃太郎』『日の丸』、『池の鯉』、『かたつむり』『早春賦』、『故郷を離るる歌』(ドイツ民謡)などがある。数多くの作品を生み、また学生たちのために出資を惜しまない吉丸だったが、本人の生活は極めて質素だったという。1916年3月7日、43歳の若さでこの世を去った。吉丸の音楽家としての活動は、唱歌の成立やその後の日本の童謡などに多大な影響を与えている。
17 園乗寺 (えんじょうじ)
 同寺は「八百屋お七」のお墓があることで有名です。恋人に会うために火をつけ、火あぶりの刑に処せられたお七の話は諸説あります。お七は本郷森川町で八百屋を営む市左衛門の娘であった。天和の大火(1682)で菩提寺の園乗寺に避難した際、そこで知り合った寺小姓の吉三郎と恋仲になった。新築された家に戻ったお七は、もう一度吉三郎に会いたいと思いは募り、火事が起きればまた、吉三郎に会えると思い込んで、翌年火をつけてしまった。火事は小火(ぼや)で済んだが、お七は捕らえられ裁きにかけられた。両親、親戚の減刑運動や16歳の可憐さに北町奉行も同情の気配を見せたが、放火は天下の大罪で減刑はならず、市中引き回しの上、鈴が森で火あぶりの刑に処せられた。このお七の恋心ゆえの火事騒ぎは江戸の人々の同情と関心を呼び、小説や芝居様々に取リあげられた。とくに井原西鶴の草紙「好色5人女」-恋草からげし八百屋物語は有名である。恋人の吉三郎については、火事を唆したどうしょうもないやくざ者であったとか、念仏僧になり諸国の霊場をめぐりお七の菩提を弔ったという物語が出来ている。

18 小石川植物園
 徳川幕府直轄の小石川御薬園でした。徳川幕府は三代将軍家光の時代寛永15年(1638)に薬用の植物を栽培するための場を麻布と大塚に開設しますがこれらを統合して、貞享元年(1684)現在地に小石川御薬園となりました。八代将軍吉宗の時代にほぼ現在と同じ規模に拡大され享保7年(1722)には小石川療養所が付属施設として開設されました。小石川療養所は「貧民のための医療施設を!」と意見書を目安箱に入れた江戸の町医者・小川笙船の提見が取り入れられ、南町奉行の大岡越前守らが建設を担当して、享保 7年(1772)に「小石川養生所」として開設された。
 小川笙船は山本周五郎の小説「赤ひげ」の主人公 新出去定(三船敏郎)のモデルになった人物で診療所の運営責任者として就任した。のち小川家は幕末まで 7代に亘って世職としてつとめた。享保11年、笙船は職をゆずって隠居し風光明媚な「金沢八景」で過したが、病気のため江戸に戻り89才で世を去った。この地は明治10年(1877)東京大学の設置に伴いその付属施設とされ薬用植物の研究施設として今日に至っています園内は、都心にあるとは思えぬほど静寂な空気に包まれ変化に富んだ地形の中に薬用植物の栽培地や珍しい樹木などを眺めることができます園内は起伏があり、この広場を中心にした高台の部分と和風庭園からなる低地の部分に分かれています低地部分の庭園には清冽な水をたたえた池が連なり池の周囲には珍しい種類の樹木が植えられています

 
19 播磨坂
第二次大戦後の区画整理でできた「環状3号線」の一部として整備された。この地にあった常陸府中松平播磨守の上屋敷にちなみ、播磨坂と名付けられた。昭和35年に坂の舗装が行われた際に、当時の花を植える運動の一つとして桜の木約200本が植えられた。桜は地元の人々の手で育てられ、立派な桜並木に成長した。また、中央部は緑道として整備され、憩いの場となっている。

 
20 傳通院
 傳通院は、今から約600年程前の応永22年(1415)、浄土宗第七祖了誉聖冏上人が開山したお寺です。当時は小石川極楽水の小さな草庵で、無量山寿経寺という名で開創されました。
それから約200年後の慶長7年(1602)、徳川家康公のご生母於大の方が逝去され、この寿経寺を菩提寺と定められ、於大の方の法名「傳通院殿」から「傳通院」と呼ばれるようになりました。徳川家の庇護のもとで大伽藍が整えられました。また、関東十八檀林の一つとして学僧の修行勉学の場となり、明治以後は淑徳女学校を設立し、檀信徒のみならず地元住民参加の新しい布教伝道方式による仏教活動や教学の振興と共に社会事業も推進しております。

20-1 於大の方は、刈谷城主水野忠政の娘に生まれ、岡崎城主松平広忠に嫁いで家康を生む。 兄水野信元が今川から織田方に寝返ったため離縁され、尾張阿久比城主、久松俊勝と再婚し、久松康元、勝俊、定勝の3男子を設けた。異父兄弟の3名は、家康より松平姓を許され、その後下総関宿(康元)、遠江掛川(勝俊)、伊勢桑名(定勝)に封じられ、江戸時代は親藩として栄えた。

20-2 千姫
 二代将軍徳川秀忠の娘。母は淀君の妹お江与。慶長8年、7歳の時に豊臣・徳川両家の関係を好転するため豊臣秀頼(11歳 母は淀君)に嫁し、大阪城に入る。元和元年(1615)大阪夏の陣で豊臣氏が滅亡後、播州姫路城主本多忠刻 (ただとき)に再嫁する。寛永3年忠刻の死により江戸へ帰り30歳にして落飾し天樹院と号す。寛文6年、69歳で死去。

20-3 清河八郎
 幕末に活躍した庄内藩(山形)出身の勤王の志士である。清河は北辰一刀流の使い手で、また学問にも優れていた文武両道の天才であった。不平等条約を締結した幕府の政治に憤りを感じていた清河は江戸に出て、尊王攘夷の倒幕派志士たちを集め、打倒幕府のための策を講じていた。清河は驚天動地な構想を画策し、”敵になるはずの幕府に向けて、「身分を問わず、優秀な人材を集め、乱れた京都の治安を回復し、将軍家茂の上洛を警護するための浪士組を結成したい」と建言状を提出した。幕府は清河を警戒していたが、この建言を採用し、文久3年(1863)2月4日山岡鉄舟、清河八郎中心に総勢234人の「浪士組」がここ伝通院の塔頭の一つであった処静院で結成された。その後、浪士隊を離れて新選組として名を馳せた近藤勇、土方歳三、沖田総司も、この結成に加わっていた.清河は、その後幕府の見廻り組から追われ、幕士・佐々木只三郎によって赤羽橋で暗殺された。

20-4 佐藤春夫
 明治25年(1892年)和歌山県新宮市に生まれました。医師である父が文芸に造詣が深かった影響を受け少年時代から文学に深く心酔した。明治43年(1910)上京して慶應義塾大学予科文学部に入る。雑誌「三田文学」「スバル」などに詩歌を発表、また「西班牙(スペイン)犬の家」を発表してその才能が注目されつつありましたが、大正7年(1918)、谷崎潤一郎の推挙により文壇に登場、以来『田園の憂鬱』『お絹とその兄弟』などの作品を次々に発表してたちまち新進流行作家となり、芥川龍之介と並んで時代を担う二大作家と目されるようになりました。友人の谷崎潤一郎の妻・千代に恋慕し、谷崎と千代子が離婚した後、三人連名の挨拶状を知人・マスコミに送り、「細君譲渡事件」としてセンセーショナルな反響を呼び起こした。代表作である「秋刀魚(さんま)の歌」は千代への思慕が背景にあったといわれる。彼の著作は多様多彩で、詩歌(創作・翻訳)、小紀行文、戯曲、評伝、自伝、研究、随筆、評論、童話、民話取材のもの、外国児童文学翻訳・翻案などあらゆるジャンルにわたっています。昭和39年72歳で死去しました。

 
 
第1回 お江戸散策 皇居東御苑・靖国神社(解説版)
1. 【東京駅】
 1914年(大正3年)2月 竣工。設計者はジョサイヤ・コンドルの弟子辰野金吾。首都・東京の表玄関とも言うべきターミナル駅であり、JRは在来線が地上に5面10線と地下に4面8線の合計9面18線、新幹線が地上に5面10線、東京地下鉄が1面2線のホームを有する。面積は東京ドーム3.6個分、1日あたりの発着列車本数は約4,000本(日本一)という、名実ともに日本を代表する駅である。当駅はJRの東海道・東北新幹線と東海道本線・東北本線・総武本線・京葉線の戸籍上の起点駅となっており、当駅構内にはこれら各線の0キロポスト(起点)がある。
〔歴史上の件〕
・1921年(大正10年)11月4日
 - 原敬首相が丸の内南口(乗車口)で刺殺される
・1930年(昭和5年)11月14日
 - 濱口雄幸首相が第4ホーム(第10番ホーム)で狙撃される。

 
2. 【丸の内】
 徳川家康が1590年に江戸城を居所とする前は、東京湾の一部で日比谷入江と呼ばれていた。1592年からこの入り江が埋め立てられて江戸城が拡張された。新たに外堀が作られ、外堀であったものが内堀となったため、御曲輪内(おくるわうち)と呼ばれるようになった。親藩や譜代大名の藩邸が24あったため大名小路とも呼ばれた。南北町奉行や勘定奉行の奉行所もおかれた。明治維新後、官有地となり、陸軍の兵舎・練兵場などとなった。1890年にこれらが移転したあと三菱の岩崎弥之助に150万円で売却され、三菱ヶ原と呼ばれた。このため現在もこの地区には三菱グループ各社の本社が置かれ、界隈のオフィスビルは三菱地所が所有しているものが多い。1894年に土佐藩屋敷跡地に東京府庁舎(のちの東京都庁舎1991年新宿へ移転―現、東京国際フォーラム)が完成した。同時期にロンドンのロンバート街に倣って赤煉瓦街が建設され、一丁ロンドンといわれるようになった。1914年に三河吉田藩・信濃松本藩の屋敷跡地が東京駅となり、以降1923年に丸ビルが完成するなど、ビジネス街として急速に発展した。1960年代に煉瓦街は改築が進み、建物の高さ(100尺・約30m)がそろった近代的なビルが整然と立ち並ぶようになった。近年は再開発が急速に進んでおり、2002年に建て替えられた丸の内ビルディングは開業から僅か4ヶ月足らずで入場者数が200万人を突破するなど一躍観光スポットとなった。その後も2004年9月14日に日本国有鉄道本社跡地、JTB本社跡地、東京中央ビルヂングの跡地に丸の内OAZOや丸の内MY PLAZAがオープンした。さらに2007年4月27日には新丸の内ビルディングがオープンし常に注目を浴びる地域となっている。
 
3. 【江戸城】
 江戸城(現在は、皇居東御苑)は、徳川将軍家の居城であり、さかのぼれば12世紀初めに桓武平氏の流れをくむ江戸四郎が江戸の台地の要害に館を作ったことに始まります。 現在の江戸城は、天正18年(1590年)徳川家康が入城し、寛永13年(1636年)三代家光のときに完成。 その当時の面影を残こし、
現在は旧江戸城本丸、二の丸、三の丸の一部を皇居東御苑として一般に開放しています

 
4. 【大手門】
 大手門は、江戸城の正面門であり、特に重要な門であるため馬上9人、徒侍3人足軽30人、仲間20人鉄砲20丁弓10張、長槍20筋、持筒2丁、持弓2組、提灯30で警護にあたりました。何故なら江戸城の本丸に登城する際の正門であるため特に堅固に作られていました。やはり、現在も枡形門で高麗門をすぎると道が右に曲がっており大きな渡り門櫓があります。これは、万が一敵が攻めてきたら直進して攻められないようにできており、渡り門櫓でくい止めているときに櫓や石垣から攻撃できるように出来ています。

 
5. 【北の丸公園】
 元々太田道灌らが江戸城を築城した際に、関東の守護神でもあった築土神社(旧田安明神)の旧地であり、のち、徳川家康が入府した際に関東代官であった内藤清成らの屋敷となった。その後、徳川忠長や徳川綱重らの屋敷を経て明暦の大火以後は火除け地になっていたが、8代将軍である吉宗が就任してからは御三卿であった田安徳川家が1731年に、清水徳川家が1759年に上屋敷を構えるようになった。敷地内には御蔵地や植溜御用地、馬場などもあった。

6. 【科学技術館】
 科学技術の知識を広く一般に普及する目的で開館され、現代から近未来までの科学技術・産業技術に関する展示物を中心に、実験型ワークショップ、科学教室、講演会も数多く開催されている。


7. 【吉田茂】
 明治11年9月22日、高知県宿毛出身の自由民権運動の闘士竹内綱(小松製作所創始者)の5男として駿河台で生誕。後に貿易商・吉田健三の養子となる。麻生太郎は孫。外交官となり、イギリス大使等を歴任して、戦後東久邇宮、幣原内閣の外務大臣に就任。昭和21年5月、自由党総裁鳩山一郎の公職追放にともない後任総裁となり首相に就任した。一貫して親米路線を推し進め戦後日本の建て直しに奔走し、朝鮮戦争勃発により内外で高まった講和促進機運により、昭和26年9月8日、サンフランシスコ平和条約を締結、同日日米安全保障条約を結んだ。その調印には、他の全権委員たちを安保条約反対派の攻撃から守るために吉田のみがサインをした。その後、吉田学校といわれた池田隼人、佐藤栄作に引継がれ、経済による国力の復興を実現した。
(エピソード)
・ バカヤロー解散
・ 450万トン食糧支援・・・70万で済んだ
・ 健康を聞かれ、「元気そうなのは外見だけです。頭と根性は生まれつきよくないし、口はうまいもの以外受け付けず、耳の方は都合の悪いことは一切聞こえません。顔色がよいのは人を食っているからね」

 
8. 【日本武道館】
  日本武道館は、1964年開催の東京オリンピックの会場のひとつとして建設され、同年10月3日に落成。設計は山田守。法隆寺の夢殿をモデルにした八角形の意匠である。大屋根の稜線は富士山をイメージしている。東京オリンピックでは柔道競技が行われた。現在、柔道・剣道・空手などの武道やダンス、マーチングバンド・バトントワリングの競技会・演武会などに使われるほか、コンサートや格闘技の興行会場、大学などの大規模な入学式・卒業式会場として幅広く使用されている。1 966年にはビートルズ、1978年にはボブ・ディランの公演が行われた。最多公演歌手は、矢沢永吉であり計100回を記録、最多使用女性歌手は松田聖子である。また、バンドとしての最多利用はTHE ALFEEである。尚、一日に同時に同じ公演を行った回数はSMAPの6回が最多。

 
9. 【田安徳川家】
 幕府8代将軍吉宗の次男宗武を家祖とし、徳川将軍家に後継ぎがないときは他の御三卿とともに後嗣を出す資格を有した。家格は徳川御三家に次ぎ、所領は10万石。家名の由来となった屋敷、田安邸は日本武道館付近にあり同地が田安明神(平将門を祀る)の旧地であったことからこの名が付けられた宗武は、俊英で知られ国学を学び和歌をよくする好学の家系であったが、嫡子の2代治察が病弱で早世。弟の定国(久松松平家-伊予藩主)、定信(白河藩主)がいたが、3代目を相続することが認められなかったため田安の名跡は絶えた。余談ながら、NHK松平定知アナウサーは伊予松平家の分家の末裔。
 

10. 【靖国神社】
 明治2年6月29日に戊辰戦争での朝廷方戦死者を慰霊するため、大村益次郎の献策により「東京招魂社」として創建された。 1879年に「靖国神社」に改称。同時に別格官幣社となった。戦前においては神社行政を総括した内務省が職員の人事権を有し、陸軍省および海軍省によって共同管理される特殊な存在であり、国家神道の象徴として捉えられていた。運営の主導権は財政をになった陸軍省が有していた。 祭主は陸・海軍武官が勤めた。戦後は政教分離政策の推進により宗教法人となり日本政府との直接的な関係はないとされている。一方で1961年、遊就館に展示するBC級戦犯の遺書や顔写真の収集について、厚生省が遺族に出品を依頼、神社に便宜を図っていたことが、2006年7月に発覚し、問題となった。

11. 【大村益次郎】
 幕末期の長州藩の医師、兵学者。村田蔵六。長州征討と戊辰戦争で長州藩兵を指揮し、勝利の立役者となった。初代の兵部省兵部大輔を務め、事実上の日本陸軍の創始者。小村の村医であったが、大坂に出て緒方洪庵の適塾で学ぶ間に長崎で1年間遊学して蘭学を修めた。宇和島藩に招聘され、そこで蘭学、医学を教授する傍ら軍艦製造の研究を行った。のちに幕府の蕃書調所教授方手伝から教授に選ばれ、長州藩で注目されるようになった。その後長州に迎えられて軍制改革に着手し、西洋兵術書を取り入れ、その教え方も無駄がなく的確で実戦に即した戦術を確立した。第2次長州征伐の折、石州口方面の実戦指揮を担当して、その才能は遺憾なく発揮され、優れた戦術で幕府側をことごとく撃破し、浜田城を陥落させた。この戦術は、のちに上野に立て篭もった彰義隊征伐にも大いに発揮された。明治新政府のもとで木戸孝允、大久保利通と並ぶ幹部となり、武士を廃して、国民皆兵による近代軍隊の創設に尽くしました。これが武士を中心とした軍隊を主張する者達から恨まれ、志半ばにして、京都において刺客に襲われ、その傷がもとで大阪でなくなりました。その最後を看取ったのが、彼の弟子であった、日本最初の女性産婦人科医シーボルト・イネでした。

12. 【千鳥ケ淵戦没者墓苑】
 千鳥ケ淵戦没者墓苑は、昭和34年国によって建設され、戦没者のご遺骨を埋葬してある墓苑です。今から約60余年前の大東亜戦争では、広範な地域で苛烈な戦闘が展開され、海外地域の戦場において、多くの方々が戦没されました。戦後、遺骨が日本に持ち帰られましたが、ご遺族にお渡し出来なかったものを、この墓苑の納骨室に納めてあります。いわば「無名戦士の墓」とでもいうべきものです。現在、約35万柱のご遺骨がこの墓苑に納められております。
 

13. 【英国大使館】
 英国大使館は、さくらの名所として有名。このさくらは、幕末から明治において日本の近代化に功績を残した外交官アーネスト・サトウ (Sir Ernest Mason Satow)が1895年に駐日大使として赴任したときに、彼の意向で植樹された。親日家のサトウはこれに漢字を当てて「薩道」または「佐藤」という日本名を名乗った。本人も自らの姓が日本人に親しみやすいものだったため、大きなメリットになったと「一外交官の見た明治維新」の中で語っている。
 

 
14. 【半蔵門】
 名前は、警備を担当した徳川家の家来服部半蔵に由来する。立地条件や服部家の部下(与力30騎、伊賀同心200 名)が門外に組屋敷を構え、四谷へと通じる街道沿いは旗本屋敷で固められ、非常時には将軍を甲州街道から幕府の天領である甲府へ避難させる手はずになっていたと言われている。実質、搦手口にあたる。また、服部半蔵は、明智光秀謀反の際、堺に居た家康を浜松へ帰還する手助けをしたことから、家康に信頼される家臣になったことで有名である。

15. 【国立劇場】
 歌舞伎や日本舞踊、他に演劇が行われる大劇場、文楽・邦楽・日本舞踊(小規模公演)・雅楽・声明・民俗芸能が行われる小劇場、落語・漫才が行われる演芸場の3つで構成されている。また、伝統芸能の公演の他これに携わる人材育成も行っている。また、歌舞伎俳優や囃子方など。文楽関係は国立文楽劇場で行っている。2003年、国立劇場裏には伝統芸能情報館が開館している。

16. 【憲政記念館】
 憲政記念館は、昭和45年(1970年)にわが国が議会開設80年を迎えたのを記念して、議会制民主主義についての一般の認識を深めることを目的として設立され、昭和47年(1972年)3月に開館しました。この記念館のある高台は、室町時代に太田道灌が「わが庵は松原つづき海ちかく 富士の高根を軒端にぞ見る」と詠んだ松原の一角に連なっていた景勝の地で江戸時代の初めには加藤清正が屋敷を建て、その後、彦根藩の上屋敷となり、幕末には大老井伊直弼もここに住んでいましたが、明治になってからは参謀本部・陸軍省がおかれていました。昭和27年(1952)にこの土地は衆議院の所管となり、昭和35年(1960年)には、憲政の功労者である尾崎行雄を記念して建設されました。

 
17. 【三宅坂】
 坂の名前は、江戸時代、この坂の途中に三州田原藩・三宅家の上屋敷(現在の国立劇場周辺)があったことに由来する。当時はこの坂に沿って三宅家のほかにも近江彦根藩・井伊家上屋敷の広大な敷地(現憲政記念館・国会前庭等)もあった。また、三宅家や井伊家の屋敷から坂道を挟んだ向かい側は江戸城の内堀(桜田濠)であるが、堀端に橿の木が植えてあったため、橿木坂の別名があった明治には三宅家・井伊家の屋敷の用地は政府の手に移り、陸軍の中枢が三宅坂に沿って置かれた。坂道から一段高い台地になっている井伊家屋敷跡は参謀本部庁舎に転用され、戦前には「三宅坂」といえば「陸軍参謀本部」を指した。

 
18. 【桜田門】
 当初は小田原街道の始点として小田原口と呼ばれていた。1636年(寛永13年)に桝形門に改築、桜田門とよぶようになる。外側の高麗門と内側の渡櫓門の二重構造になっている。間に桝形とよばれる四角形の広場がある。この広場は門から打って出る兵の待機場所であり、また敵に攻められた時はここに敵兵を引き入れ周囲から弓・鉄砲などで攻撃するように作られている。江戸城無血開城の際、官軍はこの城門から江戸城に入城した。

19. 【「桜田門外の変】
 万延元年3月3日、江戸城桜田門外で水戸・薩摩の18名の浪士たちが大老井伊直弼を殺害した事件。大老 井伊直弼は天皇の勅許を得ないで開国したことにより、水戸をはじめ多くの諸藩から反対を受けましたが、これに対して力で弾圧を加えました(安政の大獄)。これに怒った水戸の尊攘激派志士は脱藩し薩摩の同志と連絡をとり、井伊大老の登城時に襲撃した。

(After Story)
(水戸・薩摩側)討死 1、自害 4、自訴 8、水戸へ逃走5名。自訴者のうち4名は重傷で数日内に死亡。
(彦根側)死者8名、重軽傷者13名。死亡者は跡目相続が認められたが、生存者は重傷が減知のうえ配流。軽傷が全員切腹、無傷の者は士分から駕篭かきにいたるまで全員が家名断絶のうえ斬首となった。
 
20. 【楠木正成像】
 幕末日本では「尊皇攘夷」という思想が流行し、その流れが明治政府を樹立させる力になりました。この流れを確立させた本が頼山陽の「日本外史」ですが、この本においては南北朝時代における南朝こそが正当であり、これを守って果敢に戦い、寡をもって衆を破った楠木正成を英雄視しています。明治から終戦までの時代においては、足利尊氏は天皇に刃向った逆賊、正成は忠臣として見られていたことによる。平河門外にある和気清麻呂像も同様の見解と思われる。この楠木正成像は、別子鉱山創業200年を記念して、住友吉左衛門が、明治30年(1897)寄進・建立したもので、正成像は高村光雲、馬は後藤貞行が制作した。

 
 
第2回 お江戸散策 両国・佃島
1. 両国駅
 明治37年(1904 ) 総武鉄道のターミナル駅「両国橋駅」として開業。 元来、両国とは両国橋を挟んだ隅田川の両岸を指す地名であった。しかし、総武鉄道は当初隅田川の東岸までの開通に留まったため、両国橋の東、東両国に両国橋駅を開業し、昭和6年(1931)両国駅と改称した。駅名の影響に両国国技館の開設も加わり、現在では両国という地名はもっぱら両国橋の東の地域に対して用いられる。
 
2. 両国国技館
 大相撲の国技館は1906 年に作られ、当初本所回向院の境内にありました。戦後の1950 年1 月に蔵前国技館へ移り、1984年の9月秋場所まで行われていました。1985年1月場所より使用されている現在の新国技館は二代目。旧両国貨物駅跡地に建設された。新国技館は地上2階、地下1階。総工費150億円であったが、すべて自己資金で賄われた。1985年1月9日、盛大に落成式が催され、千代の富士と北の湖の両横綱による土俵入りが披露された。相撲の起源は非常に古く、古墳時代の埴輪・須恵器にもその様子が描写されている。人間としての力士同士の戦いで最古のものとして、垂仁天皇7年7 月7 日 ( 旧暦)にある野見宿禰と(当麻蹴速(すまひ)との戦いが記録されています。鎌倉時代には、源頼朝が相撲を奨励し、戦国時代には織田信長が相撲を奨励しました。また、信長は土俵の原型の考案者とも言われております。江戸時代から職業としての大相撲が始まり、今日の隆盛に至っています

3. 安田庭園
 旧安田庭園は、元禄4年(1691) 、下野足利藩主本庄氏の下屋敷として作られたのが始まりです本庄氏は小大名でしたが 将軍家より松平姓を賜り常陸笠間藩や丹後宮津藩の藩主を歴任しています庭園は安政年間に大規模な改修が施され 隅田川の水を引いた汐入回遊庭園として整備されました小規模ながら徳川時代における大名庭園の典型をなす名園です明治22年(1889)、安田財閥の所有に移り、大正11年(1922)東京市に寄贈されました

 
4. 震災慰霊堂
  東京都慰霊堂がある横網町公園は元陸軍被服廠があった場所でした。大正12 年(1923) 9 月1 日、関東大震災が起きると、この場所は多くの罹災者の避難場所になりました。多くの家財道具が持ち込まれ、立錐の余地もないほどであったが、周囲からの火災が家財道具に燃え移り、また火災旋風が起こったため、この地だけで東京市全体の死亡者の半数以上の3万8000人程度が死亡したとされる。震災後、死亡者を慰霊し、このような災害が二度と起こらないように祈念するための慰霊堂を建てることになり、官民協力のもと、広く浄財を求められました。東京震災記念事業協会によって1930年9月に「震災記念堂」として創建され、身元不明の遺骨が納骨されました。翌年には震災復興記念館が建立されました。その後、太平洋戦争における一連の空襲により、再び東京は焦土と化し、関東大震災を超える7万7000人あまりが死亡しました。1948年より、各地に仮埋葬された身元不明の遺骨を納骨堂に改葬し、戦災者整葬事業が完了した1951年に「東京都慰霊堂」と改称しました。

5. 吉良邸跡
 高家肝煎( 筆頭)吉良上野介義央は江戸城呉服橋門内に屋敷を与えられていたが、刃傷事件の数ヶ月後に隠居申請が受け入れられて、家督を子の(実孫)の義周に譲りました。義央が隠居すると幕府は吉良家に対して呉服橋門内の屋敷を召し上げとし、代わりに本所松坂町に屋敷替えとなりました。これは幕府が万一赤穂浪士たちが吉良を討ちにきた際に都心部で騒ぎを起こされないように、敢えて本所という当時としては新興住宅地を選んだと云われています。吉良側としても、既に隠居の身では幕府からの護衛の援助は期待できないので、実子が継いでいる米沢藩上杉家からの家臣団や浪人たちを雇って厳重な警備を行ないました。しかし寝込みを襲われた吉良側は突然の騒ぎにまともに対応できず、討入から約3時間後に物置小屋に隠れていた吉良上野介は発見されて首を討取られて、その首を洗ったという「首洗いの井戸」なども残されています。当時の本所はまだまだ淋しいところでした。この地は明暦3年(1657)の明暦の大火で江戸の3分の2が焦土と化してしまい、新たな土地を本所に見出して開発が行なわれました。大火後3年目から入居が始まり、吉良邸が移ってきたときはまだ開発後40年余の新興住宅地でした。隣近所も下町のように地縁的な親しさも無い状態で、当時の住民たちがいかに疎遠だったかは「秋深し隣りは何をする人ぞ」という松尾芭蕉の句からも読み取れます。当時本所の外れ深川に庵を結んでいた芭蕉が目の当たりに見た本所・深川の人々模様です。こんな風だから、47人もが徒党を組んで吉良邸に討ち入った大騒動でも「関わりを持ちたくない」という住民たちは知らぬ振りをしたといわれています。こうした土地柄も手伝って赤穂浪士の討入は無事に果たせたのでした。

 
6. 回向院
 回向院は、今からおよそ350年前の明暦3年(1657 ) に開かれた浄土宗の寺院です。この年、江戸には「振袖火事」の名で知られる明暦の大火があり、市街の6割以上が焼土と化し、10万人以上の尊い人命が奪われました。この災害により亡くなられた人々の多くは、身元や身寄りのわからない人々でした。当時の将軍家綱は、このような無縁の人々の亡骸を手厚く葬るようにと遵誉上人に命じてこの地で無縁仏の冥福に祈りをささげる大法要を執り行いました。このとき、お念仏を行じる御堂が建てられたのが回向院の歴史の始まりです。回向院は江戸庶民に尊崇されることとなり、様々な巡拝の札所となって江戸中期からは、全国の有名寺社の秘仏秘像の開帳される寺院として、境内は毎年のように参詣する人々で隆盛をきわめました。そして江戸後期になると勧進相撲の定場所が当院に定められ、明治末期までの76年間、いわゆる“回向院相撲”の時代を日本相撲史上に刻したのです。回向院の歴史はこのように見ると一見隆盛一途をたどったかのように受取られがちですが、当院自体も度重なる大火に被害をこうむり、明治の廃仏毀釈、大正の大震災、更には第二次大戦下の大空襲などによって、幾度か存亡の危機に立たされたのです。しかし、その時々の歴代住職は檀信徒の浄信にささえられ、由緒あるこの寺院の法灯の絶えぬよう骨を惜しまず身を砕き、その度ごとに一大危機を乗り切って来ました。その根本は、申すまでもなく、御仏の御加護、万霊のお力によるのであり、開祖法然上人、また開山上人に対する報恩の念のひとしお深くされる由縁です。
 
7. 芭蕉記念館
 松尾芭蕉は、俳句の歴史における最初の偉大な作家として知られています。芭蕉は、延宝8年(1680)それまでの宗匠生活を捨てて江戸日本橋から深川の草庵に移り住みました。そして、この庵を拠点に新しい俳諧活動を展開し、多くの名句や『おくのほそ道』などの紀行文を残しています。記念館は、このゆかりの地に、松尾芭蕉の業績を顕彰するため、昭和56年(1981)に造られました。

8.芭蕉稲荷神社
  俳聖芭蕉は、杉山杉風に草庵の提供を受け、深川芭蕉庵と称して延宝八年から元禄七年大阪で病没するまでここを本拠とし、「古池や蛙飛びこむ水の音」等の名吟の数々を残し、またここより全国の旅に出て有名な「奥の細道」等の紀行文を著した。ところが芭蕉没後、この深川芭蕉庵は武家屋敷となり幕末、明治にかけて滅失してしまった。たまたま大正6年(1917)津波襲来のあと芭蕉が愛好したといわれる石像の蛙が発見され、故飯田源次郎氏等地元の人々の尽力によりここに芭蕉稲荷を祀り、同10年旧跡に指定された。

9. 清澄庭園
 この地には元禄期の豪商・紀伊國屋文左衛門の屋敷があったと伝えられる。享保期には下総関宿藩主・久世家の下屋敷となり、ある程度の庭園が築かれたと推定されている。明治11年(1878)、荒廃していた邸地を三菱財閥創業者の岩崎弥太郎が買い取り、三菱社員の慰安と賓客接待を目的とした庭園の造成に着手。明治13年(1880)に竣工し、深川親睦園と命名された。三菱社長の座を継いだ岩崎弥之助は庭園の泉水に隅田川の水を引き込むなど大きく手を加え、回遊式築山林泉庭園としての完成を見た。後には庭園の西側にジョサイア・コンドル設計による洋館が建てられている。その後、大正12年(1923)に発生した関東大震災で庭園は大きな被害を受けて邸宅も焼失したが、図らずも近隣住民の避難場所となり多くの人命が救われた。それを受けて1924年、三菱3代目社長の岩崎久弥は当時の東京市に庭園の東半分を公園用地として寄贈。市は大正記念館の移築や深川図書館の新館舎建設など整備を進め、昭和7年(1932)に清澄庭園として開園した。

 
10. 霊厳寺
 「寛政の改革」で江戸の窮民救済に力を注いだ、改革の人  老中「松平定信公」の墓所があります。境内には江戸六地蔵の第五番があります。江戸六地蔵とは正徳2年( 1712 )よりおよそ十年がかりで、江戸中からの浄財により、旅人と江戸市民の安全を祈願して各街道口に建立されました。六道(地獄道、飢餓道、畜生道、修羅道、人間道、天上道)をさまよう人々を救う地蔵菩薩です。

11. 成等院
 司馬遼太郎は「本所深川散歩・神田界隈」の中で、紀ノ国屋文左衛門について書いています。「ともかくも、江戸第一期の繁栄期である元禄時代( 1688~1704 )には、深川木場は大いににぎわった。とくに江戸中期までは経済社会の密度も粗かったから、巨利を得る者が多く、ときににわか成金も出た。そういう者が、色町で財を散じた。色町では、大づかみで散財してくれる者を”お大尽″とよび、下にもおかぬもてなしをした。十七世紀の紀州人で、紀伊国屋文左衛門などは、その代表だったろう。略して”紀文”とよばれたこの人物は、材木商として巨利を博した。かれのあそびの豪儀さを讃美して、二朱判吉兵衛という者が、「大尽舞」という囃子舞をつくって大いに広めた。歌詞は、まことにばかばかしい。そもそもお客の始まりは、高麗もろこしは存ぜねど、今日本にかくれなき、紀ノ国文左でとどめたり」とある。

12. 深川不動尊
 成田山 東京別院 深川不動堂、東京都江東区深川にある成田山新勝寺の東京別院。通称は深川不動尊、深川不動堂。江戸時代、江戸市民のあいだでは歌舞伎の市川団十郎の人気などにより、成田山の不動明王を拝観したいという気運が強まっていた。そのため、元禄16年( 1703)に成田山の本尊の出張開帳が深川富岡八幡宮の別当・永代寺の境内でとりおこなわれ、大変な人気を博した。これが深川不動堂の始まりである。永代寺は明治維新後、神仏分離令により廃寺となり、旧境内は深川公園となった。しかし不動尊信仰は止むことがなく、明治3年(1870)に現在の場所に「深川不動堂」として存続することが認められた。明治15年(1882)に本堂が完成。その後本堂は関東大震災・東京大空襲と二度にわたって焼失したが、本尊は焼失を免れた。永代寺の名前は門前の吉祥院が明治29年( 1896)に受け継いだ。なお、門前仲町という地名は永代寺の門前の町という意味である。
 


13. 富岡八幡宮
 寛永4 年(1627) 、当時永代島と呼ばれていた現在地に創建された。周辺の砂州一帯を埋め立て、社地と氏子の居住地を開き、総じて60,508坪の社有地を得、源氏の氏神である八幡大神を尊崇した徳川将軍家の手厚い保護を受けた。また、町民層にも「深川の八幡様」と親しまれた。尚、富岡八幡宮というと、世間一般的にはこちらの事を指すほうが多いが、この富岡八幡宮は分社であり、本家は神奈川県横浜市金沢区にある。明治から終戦までの社格は、延喜式神名帳に記載がないため府社と決して高いものではなかったが、勅祭社(官幣大社のうち特に重視された神社及び別格官幣社の靖国神社)に準ずる准勅祭社に治定され、依然尊崇を受けた。昭和20年(1945) 3月10日の東京大空襲により焼失。その直後の3月18日、被災地を視察した昭和天皇が富岡八幡宮に立ち寄り、境内で被害状況の説明を受けた。その帰り、侍従長藤田尚徳に「今度の場合は、はるかに無残な感じだ。コンクリートの残骸などが残っているし、一段と胸が痛む。悲惨だね。侍従長!これで東京もとうとう焦土になったね」。昭和天皇は皇太子摂政時代にも関東大震災被災地を視察したので、こう感想を語ったという。境内には天皇陛下御野立所の碑と天皇陛下御製碑がある。また、敷地内には江戸時代の測量家である伊能忠敬の像がある。伊能忠敬は、当時深川界隈に住居を構え、測量の旅に出かける際は、安全祈願のために、富岡八幡宮に必ず参拝に来ていたことから、2001年に当八幡宮の境内に銅像が建立された。


15. 佃島
 佃煮のルーツで知られる東京都中央区佃は、隅田川の河口に位置し、いまだに江戸情緒を残すレトロな町として多くの観光客が訪れています。そもそも佃は、天正18年( 1590)徳川家康公が関東に下降の際、摂津国佃村から漁民33人呼び寄せ、鉄砲州向干潟を埋め立てさせ佃島と命名し住まわせたことに始まります。この佃を社地とする住吉神社は、正保3 年(1646)住吉大社の分神霊を奉遷祭祀し建立されました。以来、住吉神社の例大祭(佃祭り)は、江戸幕府に許可された由緒ある祭りとして今日に至っております。揃衣の若衆が獅子頭の鼻先めがけ殺到する獅子頭宮出しや隅田川を渡御する船渡御祭、江戸三大囃子のひとつである佃ばやしにのって、高さ20mにも及ぶ六基の大幟のもと八角神輿が繰り出す風情は、文化的にも希有なものと言えましょう。香りのもとは佃煮です。小魚などの海産物を醤油で煮た佃煮は、元々佃島の漁師達が、舟で食事をする時の保存食として考案されたものです。
写真下は、1837年創業の老舗佃煮屋「天安」。
 

16. 佃大橋
 隅田川最後の渡船場として320 余年続いていた「佃の渡し」の位置に架けられた橋であり、上流に平行している永代橋、下流の勝鬨橋の交通量の増加、および東京オリンピック開催に備えた関連道路の一部として、戦後初めて隅田川に架橋された橋である。右岸側では隅田川の手前100mほどの位置から高架が始まり、左岸では月島全幅にわたって高架のまま、朝潮運河に架かる朝潮大橋へと繋がっている。これは桁の下面から水面までの距離を勝鬨橋と合わせたためである。また他の隅田川にかかる橋は川に対してほぼ直角に交わっているが、佃大橋は中心線が岸に対して60度ほど斜めになっている。本橋は個性的なデザインの多い隅田川橋梁群の中で、一見無個性で無粋な橋といわれがちであるが、大ブロック工法など、当時の技術の粋を凝らし、オリンピックに間に合わせるために急ピッチで架橋され、むしろ戦後に急速な復興を遂げた高度成長期の日本を象徴した橋といえる。その構造形式は主桁 3径間連続鋼床鈑箱桁橋で、長さ40m、重量150 トンに及ぶブロック別に当時日本最大の海上クレーン船にて一括で組み上げるという、大ブロック工法の先駆けともなる画期的な橋でもあった。
橋長 476.3m 。

17. 佃の渡し
 現在の佃大橋付近にあった渡し。はじめは佃島の漁民たちの私的な渡しであった。佃島は漁村のほか、藤の花の名所でもあったため、江戸期には不定期に渡船が運行されていたが、日常的に運行されることはなかった。明治期に入り、佃島や石川島、月島に造船所などが生まれると従業員のための重要な交通機関として発展し、明治9年の運賃記録によると1人5厘の料金だったようである。明治16年(1883)には定期船の運行が開始、大正15年(1926)に運営が東京市に移管された。翌昭和2年3月には無料の曳船渡船となった。一日に70往復という賑わった渡しであったが、昭和39年(1964 )8月27日、佃大橋架橋に伴い廃された。佃大橋両岸に渡し跡の碑が残る。

18. 聖路加タワー&病院
 隅田川の橋梁、佃大橋と勝鬨橋の間にひと際目立つノッポなビル。聖路加ガーデン内にあるツインタービルのひとつ、「セントルークスタワー」です。1階~2階が商業施設で、3階~46階までがオフィス、そして47 階が展望室とレストランになっております。地上200メートルの高さから見渡すロケーションは、言うまでも無く文句無しの眺望です!聖路加病院名は、使徒パウロの協力者のルカの漢字表記からとられている。宮家、皇族の縁者、文化人、財界人などが利用する病院としても有名で、戦前の旧病棟の建設には皇室から多額の資金が下賜されている。初代理事長は渋沢栄一。生活困窮者や心身障害者などに対しては、社会資源の利用を調整したり患者の家族の悩みに応じるなどの役割を担った医療ソーシャルワーカーが常駐している。1933年竣工の旧病院棟はネオ・ゴシック様式の建物で、マサチューセッツ総合病院をイメージしてデザインされた。礼拝堂のステンドグラスは、抽象的な図像でキリスト教の殉教の歴史を象徴する画が配されており、鐘楼からは賛美歌の鐘が流れ、築地・佃一帯で聴く事が出来る。また、戦時や大規模災害時には「野戦病院」機能を遂行できるよう設計されている。具体的には、施設内のあらゆる壁面に酸素供給口が設けられており、大規模災害時などにチャペル・ロビー・ホール・廊下などの病院内の全ての空間が「野戦病院化」して当該時に激増する患者・被災者に対して院内のどこでも救急救命医療処置を施すことが可能になっている。これは当時の常務理事である日野原重明が提案して作られ、1995年の地下鉄サリン事件において劇的な形でいかんなく発揮されることになった。薬品・物品の搬送は専門の係員を雇い、看護師・薬剤師の業務を大きく軽減し、電子カルテを積極的に導入して、現在は完全にペーパーレス化を実現している。テレビ局などのドキュメンタリー取材もよく受け入れている。しかし杏林大学病院などのような、病院を舞台としたドラマや映画の撮影に施設を提供するという
    
第4回 お江戸散策 高輪・三田 (解説版)
1. 品川駅の歴史
 品川駅は、わが国の鉄道駅の中で、最も古い駅であります。明治 5(1872)年10 月14 日新橋、横浜間の6駅中、新橋からの最初の駅として開業。木造平屋2棟、現在の位置よりやや横浜方、海に面したのどかな駅で、駅前線路の築堤から釣もできました。品川駅からすぐ海岸線が迫り、海上の築堤上を走って行き、のどかな風景が望めました。
2. 高輪プリンスホテル 貴賓館
 鹿鳴館時代を想わせる品格のある建物のこれは「貴賓館」と呼ばれ、ジョサイア コンドルに師事して、赤坂離宮(現迎賓館)を設計した片山東熊氏がこれも設計したものです。明治43 年に完成し、フランス・バロック様式といわれています。現在は結婚式やミニコンサートなどに使われ、ホテルに断れば内部も見ることができます。この敷地は、明治に入ってから北白川ノ宮の屋敷のあったところです。江戸期は隣のパシフィックホテルも含めて薩摩藩下屋敷のあったところで、慶応4 年3 月14 日に、西郷隆盛と勝海舟が江戸城無血開城について会見が行われたところです。

 
3. 東禅寺 イギリス公使館跡
 東禅寺は、徳川家康、秀忠の禅学の師であった嶺南禅師が虎ノ門に開山したのち、1636年にこの地に移転してきた。禅宗の大寺院として、多くの大名家が菩提寺としており、12 家の大名墓地があったと言われています。現在でも、日向飫肥藩、備前岡山藩池田家、伊予宇和島藩伊達家の大名墓群がある。安政6 年(1859)にイギリス公使館が置かれた。同寺は攘夷派に志士達の標的となり、2度の襲撃事件が起きている。1度目は水戸藩脱藩の攘夷派浪士有賀半弥ら14 名が押し入り、書記官や領事が殺され、英国公使オールコックは、あやうく難を逃れた。彼はアメリカのハリス、フランスのベルクール、オランダのデウィト各公使たちと共に幕府へ強硬な抗議をした結果、日本側警備兵の増強、賠償金1万ドルの支払いという条件で事件は解決をみた。2 回目は、東禅寺警備の松本藩士伊藤軍兵衛が起こした事件で、警備により自藩が多くの出費を強いられている事や、外国人のために日本人同士が殺し合う事を憂い、公使を殺害し自藩の東禅寺警備の任を解こうと考えた末の犯行で、警備のイギリス兵2 人を戦闘の末、倒したが自らも負傷し、番小屋で伊藤は自刃した。オールコックや後任のハリー パークスたちが駐在した奥の院は、当時のまま残されている。 この時期、外国人殺傷事件が相次いでおこり、3ケ月後の文久2 年8 月21 日には生麦事件が起きている。

 
4. 高輪消防署二本榎出張所
港区の重要歴史建造物にも指定されている高輪消防署二本榎出張所で、昭和8年に完成され、都内で唯一望楼が残されている消防署です。内部も外側のデザインも丸い曲線を多く使っており、建築上ドイツ表現派といわれています。高層ビルのなかった時代、海の方から見て「陸の上の軍艦」といわれていたそうです。内部はアールヌーボー風の曲線の高い天井で古いガス燈もそのまま保存されています。
5. 承教寺
元禄文化を代表する画家、英一蝶の墓があり、都の旧跡に指定されている。一蝶は承応元年(1652)伊勢亀山藩の侍医の子として大阪の藩邸で生まれた。15 歳で父とともに江戸に出て、狩野安信に絵画を学んだ。絵画のほかにも書や俳諧、音曲に優れた才能を発揮して、風流人として名声が高まり、芭蕉らの元禄文化人とも交流が深まった。しかし、「当世百人一首」「浅妻船」などの作品が、五大将軍綱吉や大奥を風刺しているとされ、三宅島に流罪となった。流人生活中でも絵を描き続け、12 年後、綱吉死去に伴う恩赦で、58 歳にして江戸に帰った。
その後、一蝶と名のり、人気絵師として73 歳で没するまで狩野派の大家として描きつづけた。名作「琴棋きんき書画図しょがず屏風びょうぶ」「琴棋の僧侶が参学する学寮でした。
6  泉岳寺
「それまではただの寺なり泉岳寺」と川柳に読まれたように、元禄15 年(1702 の赤穂浪士の吉良邸討入り後、日本中に知れわたった。討入りした義士たちは預け置かれた大名家で切腹したが、主君浅野内匠頭が眠る同に大石蔵之助ら46名の志士たちは並んで葬られた。戒名にはいずれにも「刃」「剣」の文字が使われている。関係者への報告役であった足軽の寺坂吉衛
門は但馬の大石夫人に顛末を伝えたのち自首したが不問に付され、放免となり、秋月家に奉公し74 歳まで長寿した。毎年12 月14 日と4 月1~7 日に赤穂義士祭が開催される。

7. 大石内蔵助自刃の地
当地は大石内蔵助ら17 名の赤穂浪士が切腹した熊本藩細川越中守の下屋敷でした。細川家は大石たちが切腹するまでの間、彼らを丁重にもてなしたと言われています。細川邸は54 万石の大名家にふさわしく、この付近を敷地とする広大なものでした。明治から大正にかけては高輪御所になったこともあり、現在も高松宮邸が近くにある。敷地内にはシイやいちょうの大木が生い茂っている。これは震災や戦災を免れた幸運もあるが、ここが旧大名家や皇室の用地であったことから開発の波を受けずに済んだからといわれています。

8.覚林寺
 覚林寺は寛永8 年(1631),熊本藩の中屋敷だった当地に日延上人が開いた寺であり,祀っているのは熊本藩主の加藤清正である。文禄元年(1592)から始まった朝鮮出兵で清正は二番手で一万の兵を率い,朝鮮に渡った。その後,破竹の勢いで首都京城に達した。だが,しばらくすると日本軍の旗色が悪くなり,帰国命令が出る。慶長2 年(1597)に秀吉は再び朝鮮出兵を命ずる。清正は再度一万の兵を率いて朝鮮半島へ上陸するも,前回とは違い,初めから苦戦続きであった。明の大軍に襲われ,九死に一生の思いで帰国した清正は,6 歳の女の子と4 歳の男の子を連れて帰った。この4 歳の男の子が,後の日延上人である。何故,清正が王族の子供を日本に引き連れてきたのかは謎だという。親と離ればなれになって日本にやってきた日延は,日蓮宗に帰依していた清正の計いにより,千葉・小湊の日蓮宗誕生寺に入門し,やがて最高位の18 代貫主までつとめあげた。貫主を退きのいた後,加藤家の下屋敷の一角に覚林寺を開く。彼は,この寺で30 年ほど余り,寺の境内を花畑にしたりして静かに余生を過ごしていたという。

 
9. 立行寺
天下のご意見番で有名な大久保彦左衛門(1560-1639)は三河松平家の家臣の家に生まれました。(彼の実兄は小田原城主 大久保忠世)彼は多くの兄たちとともに家康に従って数々の戦さで活躍し、家康を守って徳川幕府の成立に多大の貢献をしました。しかしひとたび平和な時代が訪れると時代は武威に優れた者よりも政治に必要な官僚を求めるようになりました。大久保家は所領を減らされ閑職に追いやられて不遇な時代が続きました。また家康が苦労をしていた頃に家康を裏切ったりしたよう
な元家臣が復権して高い地位に付いたりしているのを見るにつけ彦左衛門の憤懣は募るのでした。その彦左衛門に光を当てたのは家康の孫・三代将軍家光です。彼は彦左衛門を自分の伽衆に加え、祖父家康公の話や戦国の世の苦労話などを進んで聞いたと言われています。神田の駿河台に屋敷を構えていましたが、隠居後は、現在の八方苑の地に住み79歳まで長寿しました。一心太助は実在の人物で、若いころ大久保彦左衛門の草履取りだったという説もある彼もここ立行寺に眠っております。
10. 大信寺・石村近江の墓
石村近江は、名工として知られた江戸時代の三味線製作者でした。石村家は代々名を継いだが、とくに2代から5代までは名工と謳われました。バイオリンで言えば、アントニオ・ストラディバリに匹敵すると評価する人もいます。3代目が作った作品の「雷電」、「小蝶」は紀伊国屋文左衛門に愛用されたと言われております。3代が初期に製作した三味線は「古近江」と呼ばれて特に珍重されています。

 
11. 長松寺
 荻生徂徠(おぎゅうそらい)のお墓があることで有名。徂徠は柳沢吉保や八代将軍徳川吉宗への講学や政治的助言者として活躍した儒学者。赤穂浪士の処分裁定論議で、賛美助命論が高まる中、徂徠は「義は自分を正しく律するための道であり、法は天下を正しく治めるための基準である。今、赤穂浪士が主君のために復讐するのは、武士としての義を知るもので、それ自
体は理に適うものである。だが、それは彼ら見た論理にすぎない。そもそも浅野長矩は殿中をも憚らず刃傷に及んで処罰されたのに、これを赤穂浪士は吉良上野介を仇として幕府の許可も得ずに騒動を起こしたのは、法として許せぬことである。今、赤穂浪士の罪を明らかにし、武士の礼でもって切腹に処せられれば、彼らも本懐であろうし、実父を討たれたのに手出しすることを止められた上杉家の願いも満たされよう。そして、忠義を軽視してはならないという道理も立つ。これこそが公正な政道というものである」と私義切腹論を主張し、これを綱吉が採用して赤穂浪士の切腹が決まった。
12. 済海寺 ・フランス公使館跡
 済海寺は第26 番江戸観音霊場札所として知られた浄土宗の寺院。安政6年(1859)日仏修好通商条約によりフランス公使館が置かれました。伊予松平家の菩提寺で、同地は三田の高台にあることから、江戸湾を一望できる名所として知られていました。初代フランス公使として、ベルクールはここに駐在しました。文久3年(1863)に着任した後任のロッシュは幕府と好意的な外交を展開したことで幕府とフランスの関係は、かなり良好なものでした。1865 年(慶応元年)、徳川幕府はフランスから人材・資材の提供を受け、横須賀村に横須賀製鉄所および港湾施設を建設することになり、小栗上野介忠順と、フランス海軍技師のレオンヴェルニーが中心となり推進されることになりました。この建設工事は幕府が倒れた後も、新政府はそのままフランスに建設を委ね、明治4年に完成しています。ここに日本近代化の基盤が築かれました。最後の将軍である徳川慶喜もフランスびいきとして知られており、フランスから幕府に贈呈された伝習生の軍服や装備の一切を喜んで受け入れ、自らも陸軍の軍服を着用して写真に収めています。
13. 龍源寺
 わかりやすい仏教の本や講演で人気だった松原泰道さんが住職をしていた臨済宗の寺院。
松原泰道さの教え「七福」 ・・・戒めの幸福論とは
1.「惜福」・・・福を使い尽くし取り尽くしてしまわないこと。
2.「分福」・・・自分の幸福を他の人と分かち合うこと。
3.「植福」・・・未来に生きる人のために徳を積み、種を植えるこ   と。
4.「知足福」・・・足るを知る心を養うこと。
5.「逆縁福」・・・うまくいく縁に恵まれることを“順縁”という一方で、物事が裏目裏目に進んでしまうことを“逆縁”といいこの逆 境のときにこそマイナスをプラスに変えていく努力をできるチャンスで、それを人さまにおすそ分けしていくと説いている。
6.「点灯福」・・・心に灯をともせること。これはまた幸福なことであり、どんなときでも心に灯をともすことが大事であると説く。
7.「保福」・・・いまの幸せは、いろいろな方や先達からいただいたというより預かっている預かり物である。いまは自分のもとに保留しておいて、やがてそれはまた他の人にお預けしていく、そのためにいまの福を使い減らさないようにと言っている。

 
14.善福寺 アメリカ公使館跡
 善福寺は天長元年(824)、弘法大師が関東一円に真言宗を広げるために、西の高野山に模して開山したのが始まりと伝えられ、都内で最古の寺のひとつと言われている。鎌倉時代に親鸞聖人が滞在し、その教えに帰依した了海住職が、浄土真宗に改宗している。幕末の安政6 年にアメリカ公使館が置かれタウンゼント ハリスや通訳官ヒュースケンらが駐在した。ハリスは、5年余り、同寺に滞在し、通貨交渉において、金貨も銀貨も同質同量の原則すなわち、1 ドル銀貨は同じ質量に相当する一分銀3 枚と交換すべきとの主張を貫いた。この結果、国内の金貨(小判)が著しく海外に流出し、日本の経済は混乱に見舞われることになった。ハリスは安政5 年6 月、アメリカに有利な日米修好通商条約を幕府と締結し本国から賞賛された。経済の混乱は攘夷派浪士たちの怒りを増長し、文久3年(1859)には、水戸浪士たちが同寺を襲撃して放火し、書院を消失してしまう事件も起きました。境内には、樹齢700 年と伝えられる「逆銀杏」があります。また、三井物産の創設者益田孝が建てた「ハリス記念碑」、作詞家岩谷時子らによる「越路吹雪の碑」そして、昭和52 年に上大崎の常光寺から転墓した「福沢諭吉の墓」がある。

 
15.  綱町三井倶楽部
緑豊かな庭園を背景に優雅な佇まいを見せる綱町三井倶楽部本館は、三井家の迎賓館として鹿鳴館の設計者として知られる「ジョサイア・コンドル」の設計によって建てられました。大正2 年竣工。昭和4 年に改修。その原型を崩すことなく改修工事を施しました。 その後幸いにも第2 次大戦の戦禍を免れ、昭和28 年から三井グループ企業による会員制倶楽部として再生し今日に至っています。現在はわが国の明治、大正建築史上貴重な建造物としてまた西洋建築の傑作として注目されています。その隣に位置する別館は、緑多い庭園を見晴らせる宴会場として本館とともに、多くの方々にご利用されております。都心とは思えない静寂な環境、古き良き時代から受け継がれた伝統が脈々と息づき「三井グループの迎賓館」にふさわしい風格ある社交場になっております。

 
16. 慶応義塾 三田キャンパス
福澤諭吉は幕末の蘭医学者の緒方洪庵の適塾に学んだ。
1860(安政7)年、木村摂津守従者として咸臨丸で渡米して以降、度々欧米諸国を見聞した福澤は自らが設立した慶応義塾において、古いしきたりや慣習にとらわれない教育を実践していきました。明治5年に出版した『学問のすゝめ』では、「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言われている。今日、人間世界を見渡すと、賢い人愚かな人貧乏な人金持ちの人身分の高い低い人とがある。その違いは何だろう?人は生まれながらにして貴賎上下の別はないけれどただ学問を勤めて物事をよく知る者は貴人、富人となり、無学なる者は貧人となり下
人となるのだ。」と広く教養を高めることを説いている。この福沢諭吉の自由・平等・権利の尊さを訴求する教育理念は、慶應義塾に今も脈々と受け継がれています。

 
17. イタリア大使館
イタリアの大使館の庭は、伊予藩松平隠岐守の中屋敷跡で、東京でも有数の風雅で由緒ある名園である。17世紀にはすでにできていたのは確かで、何世紀もの歳月を経てきた樹木がその生き証人である。澤庵和尚の設計によるといわれ、典型的な日本庭園の様式をとどめている。小山の一つには今も祠が残っているが、これも造園当初からあったものと思われる。江戸時代、ここは、赤穂浪士の大石主税、堀部安兵衛ら10 名がこの庭で切腹したところで、中庭にはこの事件について日伊両国語で刻まれた記念碑が建立されている。明治になってからは内閣総理大臣をニ回つとめた松方正義が住み、松方コレクションの松方幸次郎はこの邸で育った。
18. 薩摩藩上屋敷跡
ここは薩摩藩江戸藩邸の上屋敷があったところです。
13代将軍家定に嫁いだ篤姫も嫁入りまで、2年間をこの屋敷で
過ごしたが、安政5年の大地震で建物の多くが倒壊し、一時渋
谷の方に転居する。後に再建され、ここから江戸城に輿入れをした。この藩邸には500余人の薩摩武士たちがいて、西郷隆盛の指示で、江戸城下に数々の狼藉をはたらき、犯人の所在を突き止めた町奉行方が犯人の引渡しを求めたが拒絶され、いがみ合いが端を発して、幕府側は屋敷を焼打ちする挙にでた。この結果、屋敷は全焼し、周囲の寺社も消失した。このことを契機として、薩摩・長州は戦の大義名分を得て幕府に宣戦布告し、慶応4年1月2日の鳥羽伏見の戦いが起った。

 
19. 西応寺 オランダ公使館跡
安政5年(1858)日英修好通商条約の締結のためにイギリス使節エルギン卿一行10名が宿泊した浄土宗の寺。エルギン卿らは上陸前から礼砲を打ち鳴らし、上陸後も軍楽隊付きのパレードを行って西応寺までを行進したため、見物客が押し寄せてお祭り騒ぎになったと言われています。同寺は、のちにオランダ公使館として使用され、初代公使クルティウスが駐在しました。慶應三年(1867)12月の幕府による薩摩藩邸襲撃事件の兵火により類焼して全焼。その後オランダ公使館は伊皿子の長応寺に移転しました。

20. 勝海舟、西郷隆盛会見の地  ( 戦火を避けて平和的解決)
ここは薩摩藩の蔵屋敷があったところで、慶応4年3月14日に勝
海舟と西郷隆盛との間で会見が行われ、駿府での予備折衝で
取り交わした約定について、第一条の徳川慶喜を備前藩に預けるという項目を水戸に隠居して謹慎するという内容に改正された以外は、ほとんど西郷が提示する要求を幕府側が承諾することで、江戸城総攻撃が回避された歴史的な場所です。
この一連の議題が済んだ後、西郷と勝は、友人同士としての会話を成し、会談終了後は、西郷が勝を見送りに外まで出て両者は別れた。勝はこの会談で西郷が取った「礼儀を失わず、勝者振ることもなく、敗軍の将に接するようなところが少しもなかった」と氷川清談で賞賛している。 西郷はこの会談の一ヶ月ほど前までは、江戸城総攻撃を断固遂行する考えでいた。しかし、イギリス公使・パークスが西郷に将軍・慶喜の処遇をどうするのか尋ねたところ、西郷が「大逆無道、その罪は死にあたるをもってす」と意気込んで答えると、パークスは「どこの国の法律でも、恭順し、降伏する姿勢を見せているものに更なる攻撃を加える法はない。まして徳川氏はこれまで天下統治の政権運営を300年も続けてきた。その徳川氏をあくまでも討ち滅ぼすというのであれば、英仏は合同して徳川氏を助け、新政府に攻撃を加える」という手厳しい非難を西郷に浴びせたという。 この諸外国行使らの意見が江戸を戦火から守る一因にあったことも特筆すべき点である。

参考 文久元年(1861) 5月28日 東禅寺第1次襲撃
文久元年(1861)12月 4日 ヒュースケン暗殺
文久 2年(1862) 5月29日 東禅寺第2次襲撃
文久 2年(1862) 8月21日 生麦事件
ハリー・パークス(1828 – 1885 年)
幕末期の英国外交官。イングランドのスタッフォードシャーの鉄工場主の長男として生まれた。1865 年(慶応元年閏5 月)にはオールコックの後任として駐日全権公使に就任。(37 歳)フランスの駐日公使ロッシュが徳川将軍権力の絶対主義路線を支援し自国の政治的有利を確立しようしたのに対して、パークスは通訳官アーネスト・サトウの助言もあり薩摩藩・長州藩と接近しその支援を行ない、高杉晋作と会談したり、鹿児島や土佐を訪問するなどして倒幕、明治新政府樹立の政治路線を大きく推進した。一方、英仏米蘭の連合艦隊を兵庫沖に派遣し威圧的に幕府と交渉、条約における税率の改正、兵庫開港を実現させるなど、巧みな外交手腕を見せた。1868 年の戊辰戦争では局外中立を保ち、江戸開城を斡旋、他の列強諸国が日本に介入することを防止する役目も果たした。明治政府を最初に承認し政府が対外的難局に直面すると政治的基盤の確立に力を貸し、自国の指導的立場を確固たるものにすることに尽力した。1878 年の条約改正問題では日本側の税権回復要請を拒絶したが、日本に対して西洋文明の導入を推進するなど、日本の近代化と日英交流に貢献している

ミシェル・ジュール・マリー・レオン・ロッシュ
(1809 年 – 1900 年)
1864 年、初代駐日公使であったドゥシェーヌ・ド・ベルクールの後任として横浜に来日した。ロッシュはアラビア語には堪能であったが、日本語には疎かったため、函館の宣教師・メルメ・カションを呼び出して公使館の通訳としている。その後は本国フランスがイギリスと対立している関係から幕府に接近し、積極的
な軍制改革などにおいて幕府を支援した。65 年横須賀製鉄所建設の請け負い、横浜仏語学校の設立を行った。66 年経済使節団を来日させ借款・武器契約の売り込みを結び67 年軍事顧問団を招聘し幕府に軍制改革を着手させた。徳川慶喜が将軍となると幕政改革の構想を建言し幕府中心の統一政権確立に努めた。一連の政策はイギリスの対日政策に対抗するものであった。67 年パリ万国博覧会への日本の参加を全面的に支援した。 しかし、本国で自らの親幕府外交を支持した外相が罷免され、後任の外相が親薩摩藩・長州藩政策を採用したため、ロッシュは公使を罷免されて1868 年に帰国した。

タウンゼント・ハリス
(Townsend Harris, 1804- 1878 年)
 ニューヨーク州出身。上海で貿易業を行っていたハリスは、1853 年マシュー・ペリー率いるアメリカ東インド艦隊への同乗を望むが、軍人でないために許可を得られなかった。ハリスは国務長官など政界人の縁を頼って政府に働きかけ、日米和親条約の11 条に記された駐在領事への就任を望み、初代駐日領事に任命される。ハリスは日本を平和的に開国させ、諸外国の専制的介入を防いでアメリカの東洋における貿易権益を確保することを目的に、日本との通商条約締結のための全権委任を与えられる。ハリスは通訳兼書記官ヘンリー・ヒュースケンを雇い、1856 年8 月に日本へ到着し伊豆の下田玉泉せん寺に領事館を構える。ハリスのたび重ね江戸出府を要請に対して、水戸斉昭らの反対もあり、幕府は拒んでいたが、1857 年7 月にアメリカの砲艦が下田へ入港すると、幕府は江戸へ直接回航されることを恐れて江戸城への登城、将軍との謁見を許可した。ハリス、ヒュースケンらの一行は1857 年10 月に13 代将軍
の徳川家定に謁見して親書を読み上げている。日本貨幣と米国貨幣との交換比率について幕府側と交渉を行ったハリスは金貨も銀貨も同質同量の原則すなわち、1 ドル銀貨は同じ質量に相当する一分銀3 枚と交換すべきと主張し、幕府側と対立したが、最終的にハリスの主張が通され、この結果、短期間のうちに多額に上る小判が日本国外へ流失する事態が発生した。翌年、日米修好通商条約を締結し、母国に有利な条約を締結したことで賞賛を博した。結果、初代駐日公使に任命され、公使館を江戸の元麻布善福寺に置いた。当時しきりに日本の領土を狙っている国があったが、それを排除する行動をとり幕府の信頼を得ていた。1862 年に病気を理由に辞任し5 年9 ヶ月の滞在を終えて帰国した。帰国後は特に公職には就かず、動物愛護団体の会員などになり、ニューヨーク市立大学シティカレッジの創設にも貢献している。反面、日本においては、自らも、日本国内と海外における金銀比価の違いを利用して小判を買い漁り、それを上海等で売却して私腹を肥やしていたという一面もあったと言われている。
アーネスト サトウ
1843 年、ロンドンで生まれた。1861 年イギリス外務省に入省、通訳見習として清国に赴き、1862 年9 月、英国駐日公使館の通訳見習として来日した。その直後の9 月14 日、生麦事件が勃発した。翌年には薩英戦争の現場に立会い、四国艦隊下関砲撃事件にも立ち会った。後に正規の通訳官及び書記官に昇進して、駐日公使ハリー・パークスの下で活躍し1883 年(明治16年)まで、20 年間日本に滞在した。その後、シャム、ウルグアイ、モロッコ駐在領事を経て、1895 年(明治28 年)日本に戻り、5 年間、駐日特命全権公使として活躍した。その後、駐清公使として北京に滞在し義和団事件の後始末や日露戦争を見届けた後、日本の枢密院顧問官に任命されている。英国大使館の桜並木は、サトウが植樹を始めたもの。「サトウ」という姓はスラヴ系の希少姓で、当時スウェーデン領生まれドイツ系人だった父の姓であり、もともと日本と関係はなかったが、親日家のサトウはこれに漢字を当てて「薩道」または「佐藤」という日本
名を名乗った。本人も自らの姓が日本人に親しみやすいものだったため、大きなメリットになったと言っていたらしい。日本滞在は計25 年間に及び、明治時代前期の外国人キー・パーソンと言っても過言ではない。私生活は法的には生涯独身であったが、明治中期に日本滞在時に武田カネを内妻とし3 人の子を設けた。カネとは入籍しなかったものの子供らは認知し経済的援助を与えており、特に次男の武田久吉をロンドンに呼び寄せ植物学者として育て上げた。また、最晩年は孤独に耐えかね家族の居る日本に移住しようとしたものの、病に倒れ果たせなかった。
 

Q1  演じた幸村の兄・信幸(大泉洋)の妻「こう」は病弱で、数話で出演が終わるともきいてましたが。
A1  当初の出演依頼は数か月の予定でしたが、終わってみれば3話から49話まで(すべてにではないですが)出演しました。

Q2  三谷幸喜さんの作品ははじめてですか?
A2  これまで三谷さんの演出の舞台作品に2回出演しました。

Q3  ストーリーはどのくらい先まで俳優に知らされているのでしょうか?
A3  台本は出来上がるたびごとに、大体3話先程度までが渡されました。どのように話がすすんでいくのかは、誰にもわかりませんでした。出番がいつになるか、気を張り続けた1年でした。

Q4  撮影はどのようにおこなわれるのでしょうか?
A4  基本的に渋谷のNHKのスタジオ内で、同じセットを使って数話まとめて撮影を行いました。朝から晩までが基本パターンでしたが、ときには深夜ということもありました。
リハーサルの服装は俳優によってまちまちです。Gパンだったり、浴衣であったり自由でした。本番用の衣装・メイクなどの支度には一時間程度かかります。
リハーサルは月曜日でしたが、終盤になるにしたがって、三谷幸喜さんの台本の出来上がりが遅くなり、リハーサルなしで撮影することもありました。

Q5  「こう」を演じた感想をきかせてください。
A5  実在の人物で幸村の父、昌幸の兄の信綱の娘です。ただ、人物像はまったく明らかではなく、最後がどうなったのかもわかりませんでしたから(一応40代後半で亡くなったことは分かっています)、病弱でせき込む演技など、役作りでは三谷さんに指示された志村けんさんのコントなどを研究し、工夫しました。放送後、SNSなどの反応は早くて楽しくもあり、恐ろしくもありました。

Q6  「こう」が夫の信幸(大泉洋)と抱き合って泣くシーンがカットされたとか聞きましたが。
A6  「こう」が離縁された際、そのシーンの終わりに夫と抱き合って泣くところが三谷さんの台本に描かれていたのですが、編集でカットになりました。1話45分ですからその範囲に収めるため、いくつかの台詞は大抵カットせざるを得ないものです。演じた役者としては残念ですけどね。

Q7  演じきった役者さんの気持ちとはどういうものですか?
A7  役者は演じるにあたって演じる人物のお墓参りをしたり、故郷を訪ねたりして、役への想いを深めていきます。
私の役もお墓も分かっていないけれども、実在人物ではありますので、撮影前に真田の里を訪れて、その雰囲気を体に染み込ませました。そこから1年にわたり演じるので、役と共に歩み、悲しみや喜びなど、自分のもののように思い込んでいたので、撮影が終わったからと言って、すぐに忘れられるものではありません。
私以外でも、たとえば片桐且元を演じた小林隆さんは秀吉の直参であったにもかかわらず、結果的に豊臣家を裏切り大坂落城の6月後に無念のうちに謎の死をとげますが、小林さんは片桐且元の魂をしばらく引きずるのではないかとおっしゃっていました。
共演した堺雅人さん草刈正雄さんはじめみなさんドラマが終わったことに寂しさを感じているようです。

Q8  今月の6日間、上田市でトークイベントが開催されましたが、その様子をお話ください。
A8  県外や市外からも多くの方が抽選に応募されて、大変盛り上がりました。私はMCだったのですが、毎日出演者が日替わりゲストで入れ替わるので、気が抜けませんでした。おかげで、お客様は大喜びしてくださり、最終日のパブリックビューイングに向けて、どんどん熱が高まっていったように感じます。
大河ドラマをこんなふうにみんなで盛り立てて行くなんて、前代未聞のことだと思うし、この「真田丸」は全国のイベント的にも、SNSでの広がり的にも、新しい試みがうまくマッチして、社会現象にまでなっているのではと思います。

Q9  俳優をめざしたのはいつでしょうか?
A9  多摩高校の文化祭で創作劇をおこない仲間を集い脚本を書き上演しましたが、その時期からプロを目指そうかなと考えだしました。在学中に先生の紹介でプロを目指している方の話を聞く機会がありましたが、俳優の道はとても厳しく成功する保証は全くないので断念したほうがいいと言われました。私も今、俳優志望の若者に聞かれれば、老婆心ながら、まず一度は考え直した方がよいと言うと思います。生半可な気持ちで続けて行ける職業ではありませんから。
早稲田にはいってから文学座に所属し俳優の道を歩み始め、小劇場で演技するようになり、続けて行く確信を得たものの、その後特に映像の世界に入るようになってからは、やはりその道は険しく困難の連続でした。

Q10  ロンドン留学のときのことをお聞かせください。
A10  文化庁芸術家在外派遣制度で95年に1年間、演劇を学びにイギリスへ行かせていただきました。当時、イギリスではフィジカルシアターのウェーブが盛んになって来た頃で、そのワークショップに参加するのは面白かったのですが、それ以外のシェイクスピアなどはやはり言葉の壁が厚くて、1年の留学ではなかなか難しく、入口だけ垣間見て帰らざるを得ない感がありました。しかし、世界各国から学びに来ている若者たちと触れ合ったり、日本にいるだけでは絶対会えないイギリス演劇界の人々に会えたのは収穫でした。

Q11  最後に多摩高校の思い出をお聞かせください。
A11  卓球部の練習は、俳優として活躍する基礎体力をつくってくれました。自由な校風も忘れられません。女優としての活動の原点は、さきほど述べた文化祭での活動にあったと今にして思い知らされています。
 (平成28年12月20日、於:東京三田倶楽部・聞き手/安部同窓会長)






第26回 お江戸散策 小石川後楽園・江戸城二の丸庭園(解説版)
1. 小石川後楽園
 江戸時代初期、寛永6年(1629)に水戸徳川家の祖である頼房が、江戸上屋敷の庭として造ったもので、二代藩主の光圀(水戸黄門)の代に 完成した庭園である。光圀(みつくに)は作庭に際し、明の儒学者である朱舜水の意見をとり入れ、中国の教え「(士はまさに)天下の憂いに先だって憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」から「後楽園」と名づけられた。 庭園は池を中心にした「回遊式築山泉水庭園」になっており、随所に中国の名所の名前をつけた景観を配し、中国趣味豊かなものになっている。また、当園の特徴として各地の景勝を模した湖・山・川・田園などの景観が巧みに表現されている。この地は小石川台地の先端にあり、神田上水を引入れ築庭されている。また光圀の儒学思想の影響の下に築園されており、明るく開放的な六義園と好対照をなしている。なお、当園は昭和27年3月、文化財保護法によって特別史跡及び特別名勝に指定されている。

 
2. 東京大神宮
 当神社はかって有楽町の大隈重信邸宅跡地に建立された皇大神宮遙拝殿(はいでん)が起源で、その場所から日比谷大神宮と呼ばれていた。戦後の昭和21年(1946年)4月、当地に移転し、宗教法人東京大神宮として再発足した。東京のお伊勢さま〟として親しまれ、格式高い「東京五社」のひとつである。そしてさらに、いま東京で最も縁結びのご利益がある〝恋のパワースポット〟としても人気急上昇中。東京大神宮は、とにかくお守りの種類が多いことでも有名である。なんとそのかず40種類以上!とくに、縁結びの神社・恋愛成就〟のご利益効果が授(さず)かるとして若い女性の参拝が多い。「参拝したあとすぐに良縁が相次ぎ、結婚できた!」「ずっと子どもができず悩んでいて参拝をしたら、参拝二か月後に妊娠することができた!」などの口コミが数多くあると云われている。

 
3. 築土(つくど)神社
 築土神社は天慶3年(940)6月、関東平定後、藤原秀郷らの手で討たれ京都にさらされた平将門公の首を首桶に納め密かに持ち去り、これを武蔵国津久戸(現・大手町周辺)の観音堂に祀って津久戸明神と称したのが始まりである。江戸城築城後の文明10年(1478)には、太田道灌が江戸城の乾(北西)に当社社殿を造営し江戸城の鎮守神として厚く崇敬した。天正17年(1589)徳川家康江戸入城して以降、築土明神と改称して、山王(日枝神社)、神田(神田明神)とともに江戸三社の一つに数えられ、江戸庶民の崇敬の的となった。1657年明暦の大火の際には、幕府より唐金水桶 ・金燈籠 ・銅瓦等の奉納援助金を受けている。徳川幕府終焉後の明治7年(1874)、築土神社と改称した。昭和20年4月、戦災により社殿 ・社宝その他、悉く全焼し、千代田区富士見へ移転を余儀なくされたが。平成2年(1990)同地に復建し鎮座1050年記念大祭を斎行したのち、平成6年(1994)5月、社殿・社務所の大改築を実行し地上8階(地下1階)建ての現代的な神社となった。ビル名は「アイレックスビル」と名付けられたが、「アイレックス」とはモチの木を意味し、かつて築土神社が九段坂からモチの木坂に至る田安の地に鎮座していたことに因んでこの名が付けられた。参道入口にはビルのシンボルとしてモチの木が植えられている。また、拝殿前の狛犬は、江戸最古のものである。

 
4. 清水門
 寛永元年(1624)広島藩主 浅野長晟により建てられた枡形の城門。門名については,昔この辺りに清水が湧き出ていた、また、古くはこの辺りに清水寺があったことから、その名をとって清水門と称したともいわれている。現在、門は国指定重要文化財になっている。宝暦9年(1759)九代将軍家重の第二子徳川重好が、現、北の丸公園の武道館付近に屋敷を賜り、門名に因んで御三卿清水家と称した。初代当主の重好以降世継ぎが生まれず、11代将軍家斉の治世においては、家斉の子どもたちが次々に当主を引き継いだ。幕末期においては、15代将軍慶喜の弟昭武が当主になっている。清水家は明治に入り伯爵の爵位を受けている。

 
5. 北詰(はね)橋門
 天守閣の北の本丸大奥から外部に直接通じる門で、重要地点にあるところから、濠を深くして石垣は最も堅固雄大にしてある。また、橋は、はね上げる仕掛けにしてあり、通常は上げられているが、有事の際には外部への逃避や交通を遮断出来る様になっている。



 
6. 天守閣
 江戸城本丸の一番北側に位置している天守閣は、慶長11年(1606)の家康、元和8年(1622)の秀忠、寛永15年(1638)の家光と将軍の代替わりごとに築き直され、将軍の権力の象徴であった。 慶長の天守は、現在より南の富士見多聞のあたりに位置していたと考えられます。5層の天守の高さは、国会議事堂とほぼ同じくらいだったといわれている。寛永15年(1638)、3代将軍家光のときの天守が最大規模で、「江戸図屏風」によると金の鯱をのせた五層の天守閣だった。この寛永の天守は、明暦3年(1657)の火災で焼け落ち、翌年に加賀藩前田家の普請により高さ18mの花崗岩でできた天守台が築かれた。これが現在残る天守台であるが、四代将軍家綱の叔父である会津藩主 保科正之が「戦国の世の象徴である天守閣は時代遅れであり、城下の復興を優先すべきである」との提言により、以後天守閣は再建されることはなかった。現在、東西約41m、南北約45m、高さ11mの石積のみが残っている。江戸城の天守閣は、江戸初期の50年間だけの存在でした。

 
7. 二の丸庭園
 江戸城二の丸は、将軍世子や大御所(隠居した前将軍)や
大奥の御殿があり、寛永13 年(1636)に完成した御殿には、
小堀遠州作といわれる庭園があった。慶応3 年(1867)に
二の丸御殿が焼失した後荒廃していたが、昭和35 年(1960)の閣議決定で皇居東地区の旧江戸城本丸、二の丸及び三の丸の一部を皇居付属庭園として整備することとなり、昭和43 年(1968)に現在の庭園が造られ、一般公開された。この庭園は、9 代将軍 家重時代の庭絵図面を基に回遊式庭園として復原され、現在は各都道府県の木など様々な植物が多数植えられ、四季に亘って花鑑賞を楽しむことができる。

 
8. 将門塚
 三井物産ビルの東側、将門伝説の首塚の碑が建っている。平安時代、朝廷に反逆し下総で討死した平将門の首が京でさらされ、その首を所縁の人々がもらい受け、当時の武蔵の国豊島郡平川村(皇居平河門あたり)の観音堂かたわらに埋葬したとも、怨念で京から首がこの地に飛んできたものを祀ったともいわれている。13世紀になって首塚は荒廃し、将門の亡霊は大いに怒って江戸の民に祟り、また改めて手厚く供養したといい伝えがある。塚そのものは関東大震災後、大蔵省再建の際に崩されたと云われている。なお、この地は、江戸時代寛文年間、酒井雅楽頭(うたのかみ)の上屋敷の中庭であり、山本周五郎の歴史小説「樅の木は残った」の家老・原田甲斐の刃傷事件の舞台となったところである。

 

9. 江戸北町奉行所跡
 江戸の町奉行は、江戸市中の行政・司法・警察など、幅広い分野を担当していた。南北2ケ所に設置され、それぞれ何度か移転している。北町奉行所は文化3年(1806)から幕末まで、呉服橋御門内にあった。現在の呉服橋交差点の南西、東京駅日本橋口周辺に当たり、発掘された敷地北東部の溝から角を削り面取りした石が出土し、屋敷の鬼門・艮(うしとら)(北東)の方角を護るおまじない的な意味があるといわれている。「遠山の金さん」のモデル・遠山左衛門尉景元は幕末の北町奉行ですが、水野忠邦の天保の改革に反対して僅か3 年で罷免された。その際、町人の生活や歌舞伎などの娯楽を守ったことで、「金さん」の芝居が盛んに上演され人気を博した。後に南町奉行に返り咲き7年務めるが、南北両方の町奉行を務めるのは異例のことでした。8代将軍吉宗の治世で活躍した大岡越前守忠相は南町奉行でその所跡は、現在の有楽町駅南東側マリオンのある所です。大岡忠相はのちに寺社奉行にまで出世し大名になるが、遠山景元は奉行で引退している。

 

スライドショー
  12月11日(日)天候晴れながら気温10℃の冷え込む日、お江戸散策愛好者15名が、9時30分JR水道橋西口に集合した。齢72歳になりながら、皆至って元気そのものである。最初の散策地小石川後楽園をめざして出発。集合場所から5分ほどで公園に着く。高齢者の特権を活用して半額で入園した。 まづ、目にした庭園は多くの大名屋敷が採用した池を中心にした回遊式築山泉水庭園で、典型的な日本庭園の美しさが目に飛び込んできた。ここは江戸期徳川御三家水戸藩の上屋敷があったところである。第2代藩主 徳川光圀(水戸黄門)は、明国から招いた儒学者 朱舜水の助言も取入れ、到る所に中国様式の建造物を造っている。なかでも円月橋は水面に写ると円形に見える特異なもので庭園の中の珠玉を放っている。また、光圀は愛読した史記の中の伯夷伝を読んで感銘を受け、伯夷、叔斉の木像を安置した得仁堂を建立している。庭園の名は後楽園といい、故事「先憂後楽」に因んで水戸黄門自らが名付けたものである。園内には梅林、稲田、花菖蒲、藤棚などの田園風景が展開しており、晩秋には真紅に紅葉した木々がわれわれの目を楽しませてくれる。1時間ほど園内を周遊して景観を満喫し、公園を後にして、次の散策地東京大神宮に向かった。飯田橋から九段へ辿る大通りの信号2つ目を右折して、100m程坂を登った所に東京のお伊勢さまと呼ばれる東京大神宮がある。縁結びの神として若者に人気のあるこの神社は、若いカップルが多勢参拝に来ていて賑わっている。若者の熱気に押されて吾々も丁重に参拝して次の築土神社へ向かった。築土神社は日枝神社、神田明神とともに江戸三社の一つで、格式が高く、重税に苦しむ庶民のために朝廷に反旗を翻した平将門を祭神としていて江戸庶民に崇敬されていると云う。社殿裏側を降りていくと靖国通りに出た。靖国通りを横断した右手には、九段会館がある。東日本大震災のとき専門学校の卒業式の最中に天井が落下して多くの死傷者を出して休業し、その後廃業したとかで館は閉鎖されていた。九段会館を横目に先に進むと、江戸城内堀が右手に見え、豪壮な構えの枡形門が見える。 清水門である。この門は、明暦大火の翌年、1658年に建てられたもので、国指定の重要文化財になっている。この門をくぐり進んだ先に「武道館」が見えてきたが、この一帯は、江戸期御三卿清水家の屋敷があって江戸城明け渡しの後、天璋院篤姫は、大奥からこの屋敷に移ったと云われている。時は昼飯どき。気温も温かくなってきた。武道館前にある休憩所でランチを取ることとした。(つづく)
ランチタイム
  昼食後は、すっかり紅葉して晩秋の美を堪能できる北の丸公園東側の散歩道を進むと、乾門前にでる。そこを濠に沿って少し下ると江戸城東御苑の入口北桔橋がある。橋の東側の乾濠、西側の平河濠と高い石垣の美しさは格別である。お城大好きの人々に愛される景観だ。橋を渡って城内に入ると正面に大きな石を平面に切り込んだ巨大な石垣が見える。 江戸城天守閣跡である。南側に回り込んで、天守台への道を登る。北側には武道館、南側の眼下にはかっての大奥跡、東側には丸の内ビル群を望むことができる。しばしここで眺望を楽しんだのち、蓮池濠の石垣上に建てられた長屋「富士見多聞」内部を見学。江戸城には多くの多聞があったが現在残されている貴重な遺産である。それから吉良上野介刃傷事件で有名な松の廊下跡、大奥跡などを見学して、紅葉の名所 二の丸庭園に移動する。午前中に見学した後楽園と比しても劣らない紅葉は素晴らしく訪れたことの満足感が込みあげてくる。ゆっくり歩きながら、しばし美景を堪能してから、大手門を通り抜け、江戸城を後にして、次の散策地、 将門塚へ歩みを進めた。将門塚は丸の内の一等価地にある。隣は三井物産の本社ビル(現在新築中)で、数々の呪い伝説のある霊感スポットである。今日でも献花が絶えず、祟りを恐れて、庇護されている実感を受ける。つづいて読売新聞社本社ビルの箱根駅伝歴代優勝大学碑などを見学して、本日最終散策地北町奉行所跡に向った。奉行所跡は国電のガードを抜けて八重洲口北側にある丸の内トラストシティN館脇に碑が建てられている。北町奉行所は江戸の治安を守り、犯罪を防止し、裁判を行った所である。遠山の金さんで知られる町奉行遠山景元は三年ほど在勤して後世に名を残している。以上をもってお江戸散策はお開きとし、喉を潤しに駅構内にある居酒屋へ向かい本日を振り返った。(文・石井義文)
居酒屋で懇親会
スライドショー


平成28年11月20日(日)に29期ハンドボール部同期会を開催致しました。ハンドボール部は残念ながら、年次横断的なOB・OG会が組織化されておりませんし、我々29期も卒業後30年近く、一度も同期会を開いておりませんでしたが、この度一念発起し、初の開催に漕ぎ着けました。

音信不通になっている仲間もおり、また個人情報保護法の高い壁もあり、各人に連絡を取るのも一苦労でしたが、同窓会事務局様のご協力を得たり、その他個人的ネットワークを駆使したりして連絡を取り、今回は11名(男性7名・女性4名)が参加致しました。

限られた時間の中での会であったことや、卒業後約30年という時間があまりにも長かったということもあり、会は、参加者の卒業から現在までの軌跡や近況の報告に大半を費やしましたが、苦楽を共にした仲間達との再会を心から喜び、感謝し、大いに盛り上がりました。また、皆誰もが、話し足りない感がいっぱいでしたので、今後もこのような会を開催していくことを約束しつつ、会は終了致しました。

次回は、今回参加出来なかった仲間達や、恩師である石川泰弘先生(現相模田名高監督)にもご参加いただけるよう声掛けを行なっていくと共に、これを機会に、現在途切れている先輩や後輩との交流も試みていきたいと思います。
文責 29期 宮岸 隆     


11月27日(日曜日)多摩高2期同窓会が行われた。
参加者、28名、古谷先生、西先生奥様・西光子様、はじめ2期生有志が参加。
午後1時から、田園都市線鷺沼駅近くの「とうふ屋うかい・鷺沼店」が会場であった。
みな、後期高齢者の75歳前後ということで、ダウンする人も徐々に増える中で、
参加できたかたは意気軒昂で、毎年一回は集まろうということを確認した。    幹事 井浦幸雄

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