第5期生

第2回 横浜散歩 総持寺~神奈川宿界隈

2014年04月22日(火)
  ♪ 六郷渡れば川崎の万年屋 鶴と亀との米饅頭 こちゃ急いで神奈川へ ♪と民謡「お江戸日本橋」の2番で歌われた「米饅頭」は江戸時代から鶴見の名物である。鶴見駅近くの老舗「清月」で買って、おやつを手に入れたところから、第2回横浜散歩が始まった。鶴見の名刹、曹洞宗大本山「総持寺」に向かう。全国に末寺1500余寺を抱える大寺院は、山門、大祖堂など圧倒する威容を誇っていた。境内には、数十本の赤い花を咲かせたエゾヒガンサクラが満開になっていて美しい。墓域には、人気俳優だった石原裕次郎の墓があり、折しも彼岸日であることもあり、沢山の花で墓石が覆われていた。墓所の左には、裕次郎夫人、北原三枝さん自筆の墓碑が置かれている。総持寺を出て海岸線に向かい旧東海道に入ると鶴見線国道駅があり、江戸期にぎわったという街道を歩むと生麦事件現場がある。旧東海道のこの界隈は、漁村として知られたところで、現在でも魚店が軒を並べていて活気がある。この一角で、1862年9月14日午後3時ころ、薩摩藩主島津久光一行の行列に無礼を働いた角で、イギリス人4人が殺傷される生麦事件が起きた。この詳細を理解するべく「生麦事件資料館」へと向かう。資料館は、生麦で酒店を営んでいた浅海武夫氏が自宅を改造して作ったもので、われわれ16名が入ると部屋がいっぱいなった。浅海館長の、約1時間に及ぶ講演ビデオを鑑賞して、事件の真相とその後この事件が倒幕の遠因になったことを学ぶ。84歳のご高齢とは思えない言語明瞭で迫真に満ちた語り口の浅海館長の説明に感服。退出時、一緒に記念撮影を収めさせていただき、ハッピーな気分になったところで空腹を感じてきた。近くの若い人たちに人気のあるキリンビアビレッジのレストランで昼食を取ることにした。うまいビールに、美味しい料理、これもハッピーであった。
 昼食後は、京浜急行生麦駅から神奈川新町に向かった。新町から旧神奈川宿の散策となる。神奈川宿の界隈には、寺院が多い。幕末にオランダ領事館となった長延寺は移転して、現在は公園になっている。外国の領事館にされるのを嫌い、本堂の屋根を剥がし、「修理中だ」と届け出て領事館にされるのを拒んだ良泉寺、霊験あらたかな稲荷社として信仰の厚い笠のぎ稲荷神社神明宮の別当寺であった能満寺、神奈川の語源と伝えられ、現在は暗渠になっている上無川などをテンポよく散策した。神奈川小学校の外壁には、当時の神奈川宿の図会がタイル画にして描かれている。この興味深い図会をしばし鑑賞した。続いて、ここから程近い大田道灌ゆかりの東光寺、徳川家康から朱印地を許された金蔵院、熊野権現の分社、熊野神社を周る。しばらく、休憩を取らせていただいた神奈川地区センターには幕府の法度や法令を庶民に通達させた高札場が復元されていた。当時の原始的な情報伝達に、庶民生活の姿を想像ししばし感慨を深める。続いて、アメリカ人宣教師の宿舎になっていた成仏寺、浦島伝説があり、フランス領事館だった慶運寺、イギリス領事館だった浄瀧寺が近接したところにあるので、短時間で散策ができた。東海道中の名井戸と言われた神奈川大井戸もこの一角にあり復元されていた。この井戸に隣接している寺院が宗興寺で、ヘボン式ローマ字で知られるヘボン博士が逗留していたとき生麦事件が起きて、ヘボン博士は負傷者の傷の手当に本覚寺へここから出向いた。この寺院から坂道を上り切ったところに権現山公園がある。かっては古戦場で砦があったところで、向かいの本覚寺まで尾根続きになっていた。公園の西側は深い谷になっていて、東海道線、京浜東北線、京急線が走っているが、これは明治初期に、権現山を削って鉄道を走らせたのだという。公園を下ったところに漁民たちの信仰を集めた洲崎神社がある。大木に覆われた、静かな境内は一抹の清涼剤だ。神社前の旧東海道にある宮前商店街を西に向かって数分で第一国道に出る。横断したところにアメリカ公使館が置かれた本覚寺がある。大震災や戦災でも焼失をまぬがれた山門の脇には日米通商条約締結に心血を注いだ岩瀬忠震の顕彰碑がある。旧東海道に戻り、保土ヶ谷方面へ歩むと右手に大綱金比羅神社がある。船乗りたちの、航海の安全を祈る神社があることはこの場所が海に海に近接していた証しであるが、今日ではビルに囲まれていて望むべくもない。ここから道は登り坂になっているが江戸期、この一帯は台町と呼ばれ、浮世絵師広重は、この坂道に面して並ぶ旅籠、料亭とその左手の海原とそこに浮かぶ舟を描いている。この料亭のなかに坂本龍馬妻おりょうが働いていた「田中屋」がある。また、東海道の要所であったこの地には、外国人の出入り調査と保護を目的とした神奈川台関門が設けられていた。台町は、明治に入ってから、横浜三名士の一人、高島嘉右衛門が、この丘から鉄道敷設の陣頭指揮を行い、自らもこの高台に住んだことから、高島台と呼ばれるようになった。現在も子孫の方が住んでいるという。ここで本日の散歩を終えることにした。
見上げると日も遠き山に沈んで行き、喉を潤したくなってきた。横浜駅西口まで歩き、程よい居酒屋に入って、きょうの一日を振り返りました。(石井義文)

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