第5期生

第4回 鎌倉ウォーキング 覚園寺~瑞泉寺・・・・本覚寺

2015年08月25日(火)
 8月10日(月)名刹覚園寺の黒地蔵縁日が行われる機会を捉えて、第4回鎌倉ウォーキングを猛暑日が続くなかに実施しました。最初に訪れたのが覚園寺。同寺の「黒地蔵」縁日は別名「火焚き地蔵」とも呼ばれ、地獄に落ちた罪人を苦しみから助けようと獄卒に代わって火を焚いたため黒くすすけたと言い伝えられている地蔵菩薩立像です。人々はこれを参拝することで自らの苦悩を和らげて貰えるとの信仰から、この縁日には多くの参拝客が訪れ、境内は参詣客で賑わっていました。同寺の茅葺薬師堂には、圧巻の木造薬師三尊像や十二神将像があり、この仏像を間近で拝観できただけでも訪れた甲斐がありました。次の散策地は鎌倉宮。同宮は明治時代に入り明治天皇の勅命で建立された神社で後醍醐天皇の皇子「大塔宮護良親王」が祀られている。続いて頼朝が建立したと伝わる「永福寺跡」を訪れました。小山に囲まれた平地に大伽藍の寺院が建っていたというが、いまは全くの小草原である。同所に建っている案内板に描かれた「寺院想像図」で往時を偲ぶのみである。ここから10分ほどで瑞泉寺に着く。云わずと知れた鎌倉の名刹で、山門脇に「吉田松陰の碑」がある。なぜ松陰かと問うてみたら、松陰の母親が、幕末期同寺の住職であったようだ。有名な枯山水の庭園をしばし鑑賞したのち墓所を拝見。ここには評論家「大宅壮一」や名優「志村喬」が眠っていた。合掌!。瑞泉寺をあとに、元来た道を戻り鎌倉宮にきて、その周辺にある”そば処”に入り、しばしの休息と腹ごしらへをすることにしました。
 昼食後は、荏柄天神社へ向かう。頼朝が鬼門の守護社として崇敬したと云われ鎌倉最古の神社建築や境内の樹齢900年と云う公孫樹は歴史の重みを感じさせてくれる。境内奥にある「絵筆塚」は鎌倉にゆかりの漫画家たちを思い起こしてくれて楽しい。その後、和歌を詠んで命を救われた者が恩返しに作ったという「歌の橋」、頼朝の父義朝の冥福を祈るために建立したという「勝長寿院跡」、頼朝のフィクサーを担っていた「文覚上人屋敷跡」、東京渋谷の名にゆかりの「土佐坊昌俊屋敷跡」を経て、執権北条得宗家の屋敷跡に建立されたという宝戒寺に向かう。萩の寺とも呼ばれ、徳川将軍家にも庇護されて、鎌倉地蔵尊第24番札所の第1番に置かれている天台宗の名刹である。北条家の末裔という高倉健もしばしば同寺を訪れ、お布施や進物を寄進していたそうです。この宝戒寺から、小町大路に出て、山側に折れると滑川に掛る東勝寺橋がある。この橋は幕府評定衆の青砥藤綱の逸話で有名なところである。橋を通り抜けて登って行くと山裾に宝戒寺が管理している「腹切やぐら」がある。北条氏が新田軍に攻められて敗退した時、北条一族870余名が自害したと伝わる所である。このやぐらには高倉健が近年、毎年訪れてお塔婆を奉じているという。今回、この腹切やぐらから「祇園山ハイキングコース」を辿る予定でしたが、気温がかなり上昇してきて、疲労も溜まってきたので、大事を取ってコース変更することにしました。山道登りを避けて、元来た道を戻り、また小町大路に出ました。小町大路を100mほど南に下ると右手に妙隆寺がある。この寺院は不老長寿の寿老人信仰でも有名であるが、足利義教に拷問を受けて焼鍋を頭に被せられたという日親上人の寺としても知られています。また、新劇の団十郎と云われた丸山定夫の顕彰碑があります。この通りをさらに下ると「日蓮上人辻説法跡」や、この地域の鎮守「蛭子神社」があり、当時も人通りの多い街路であったことが想像できる。このあと前回にも訪れた緑林に囲まれた静寂の古刹「妙本寺」でしばし休息を取りました。時もすでに午後4時になりましたので駅までの帰り道にある「本覚寺」で恵比寿様をお参りして、ハイキングをお開きとしました。本日は朝方に強い雨が降り、干天の慈雨とでも言いますか、地面を濡らしてくれたおかげで、時折心地よい、そよ風が靡いて、快適なハイキングを楽しむことができました。   感謝!! (報告:石井義文)
 

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