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第4回 鎌倉ウォーキング 解説版

2015年08月25日(火)
第4回 鎌倉ウォーキング  解説版
1. 覚園寺
  真言宗泉涌寺派の寺院で山号は鷲峰山、開山は智海心慧。第2代執権北条義時が建立した大倉薬師堂を前身に、永仁4年(1296)第9代執権北条貞時が「元軍襲来が再び起こらぬ」ことを祈願し、寺院に改めた。奥深い境内は静寂としていて古都鎌倉の面影をよく残している。鎌倉最大の茅葺(かやぶき)の薬師堂には足利尊氏が書いた棟札(むなふだ)がある。本尊の木造薬師三尊坐像(国重文)は十二)神将立像(国重文)などの仏像彫刻の多彩さは鎌倉有数のものである。また黒地蔵(くろじぞう)として親しまれる木造地蔵菩薩立像(国重文)の黒地蔵縁日(8月10日、0時~12時)は鎌倉の夏を代表する宗教神事で、地蔵菩薩が、地獄に落ちた罪人にも情を示し、苦しみから助けようと獄卒に代わって火を焚いたため黒くすすけたと云われる。当日の寺はお盆を前に先祖供養のために訪れる参拝客のために午前0時から開聞しており、多数の参拝者が訪れる。また、この寺院に、2月~3月にかけて咲く椿は「太郎庵」と呼ばれ、英勝寺の「侘助」とともに「鎌倉の名花」として知られている。

 
2. 鎌倉宮
  祭神は大塔宮護良親王。大塔宮とも呼ばれる。護良親王は後醍醐天皇の皇子として生まれ、11歳のとき、比叡山延暦寺の大塔に入室したことから「大塔宮」と称された。20歳で天台座主になったが、後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒すと宣下したとき、挙兵に応じて、還俗して護良と名乗った。元弘元年(1331)元弘の変により、後醍醐天皇が隠岐の島に流されたが、元弘3年(1333)天皇を補佐する足利尊氏や新田義貞らによって、鎌倉幕府は滅ぼされた。天皇は親政を復活し、護良親王は征夷大将軍になった。しかし、親王は足利尊氏らと対立し、捕えられ鎌倉に幽閉された。幽閉されていたという土牢が現在境内裏手に残されている。その後、北条の残党が幕府復活を計って鎌倉を攻略して来た(中先代の乱)とき、鎌倉を守っていた尊氏の弟直義は、親王を北条方に奪われると面倒なことになると考え、鎌倉を脱出する際、家臣淵辺義博に命じて護良親王を殺害させた。明治2年(1869)護良親王の意志を後世に伝えることを望んだ明治天皇の勅命により、幽閉されていた地に神社が創建された。「鎌倉宮」も明治天皇自らが命名された。
3. 永福寺跡(ようふくじ)
  源頼朝は鎌倉に3つの大きな寺院を建立した。一つ目は鶴岡八幡宮、二つ目は勝長寿院、三つ目は永福寺(ようふくじ)である。現在、残っているのは鶴岡八幡宮だけで後の2つは焼失してしまった。永福寺のあった所は、広大で周辺約9万平方メートルあり、国指定史跡に指定されている。建立の目的は、源義経や藤原泰衡を初め、奥州合戦の戦没者の慰霊の為であった。文治5年(1189)12月に工事を着手した。頼朝は、奥州・藤原一族を征討した際、平泉中尊寺の二階大堂(大長寿院)のすばらしさに心をうたれ、それを模して永福寺を建てている。二階の堂があった為「二階堂」と呼ばれ、付近一帯の地名にもなった。堂は左右対称に配置され、二階堂を中心に北側に薬師堂、南側に阿弥陀堂が配され、東を正面にした全長が南北230mの大伽藍であった。また、前面には、南北200m以上の池が作られていた。室町期の応永12年(1405)に焼失してしまったが、二階堂という地名だけが残っている。

4. 瑞泉寺
  臨済宗円覚寺派の寺院。山号は錦屏山。創建は嘉暦2年(1327)。
開山は夢窓疎石(国師)。疎石は背後の山が屏風のように迫る地形が禅院に相応しいとしてこの地を選び、寺院を建立した。のちに足利基氏をはじめ代々の鎌倉公方の菩提寺となり、塔頭も10を超え、関東十刹第一位の格式を誇った。後醍醐天皇や足利尊氏が帰依した疎石は瑞泉寺の石庭にも心血を注いだ。岩盤を削り出した岩の作庭は本堂裏に発掘保存され、国の名勝に指定されている。この庭は書院庭園の起源ともなった。本堂には徳川光圀が寄進した千手観音像や夢窓疎石像(国重文)などが祀られている。また、裏庭には「お塔やぐら」「瑞泉寺やぐら群」があり、境内には吉野秀雄の歌碑、大宅壮一評論碑、久保田万太郎句碑などがある。境内入口には、「松陰吉田先生留跡碑」がある。これは第25代住職竹院和尚が松陰の母「たき」の実兄であったことから、松陰は3度同寺を訪れている。最初は松陰22歳のときで、池田屋騒動で新撰組に斬られた宮部鼎蔵と一緒だった。叔父である和尚竹院とは、世を徹して談論したと云う。そのとき和尚から「一切名聞利禄の念を断って国家に尽くせ」と諭されたという。瑞泉寺一帯は紅葉谷とも呼ばれるように紅葉の美しさは鎌倉随一とも云われている。

 
5. 荏柄天神社
  荏柄天神社は荏柄山天満宮とも称され,京都の北野天満宮,福岡の太宰府天満宮とともに日本三天神の一つに数えられる。創建は長治元年(1104)。祭神は学問の神様として知られる菅原道真と須佐男尊である。源頼朝は鎌倉幕府開府にあたり、鬼門の守護社として崇敬し社殿を造営している。幕府滅亡後も鎌倉公方足利家の尊崇を受け、江戸期に入っても鶴岡八幡宮とともに徳川家に庇護されてきた。本殿は鎌倉最古の神社建築(国重文)で、社宝には、憤怒の表情で「怒り天神」と呼ばれる木造天神坐像(国重文)がある。境内には推定樹齢900年の御神木の大銀杏が聳えている。天神社には付き物の梅の木も「古代青軸」や「寒紅梅」など100本以上植えられている。漫画家清水崑の「かっぱ筆塚」があり石碑の裏の文字は,作家川端康成が揮毫している。また、平成元年(1989)に完成した絵筆塚は、「フクちゃん」で知られる横山隆一を始め,漫画家154人の漫画で飾られている。

 
6. 歌の橋
  建保元年(1213)和田義盛が黒幕の謀反の疑いで捕えられた御家人渋川兼守は、無実を訴えたが斬首されることになり、辞世の歌を十首読み荏柄天神社に奉納した。将軍実朝は、その和歌を詠んで感心し、罪を許して釈放した。兼守は、そのお礼に荏柄天神社の参道近くに橋を架けて、謝意を示した。この逸話から、歌の橋と呼ばれるようになった。

 
7. 勝長寿院跡
  勝長寿院は、源頼朝が鶴岡八幡宮の次に造営した寺院である頼朝の父、源義朝は平治元年(1159に起こった平治の乱に敗れ東国に逃れる途中、尾張国野間で長田忠致の裏切りに遭い、郎党の鎌田政長と共に殺された。頼朝は父義朝の菩提を弔うため、この谷戸一帯に大御堂を建立した。大御堂にはのちに北条政子や源実朝もこの寺に葬られたというが、その存在は不明である。本堂の阿弥陀堂には、頼朝に招かれて、奈良から来た仏師成朝に依って彫られた「黄金の阿弥陀仏」が本尊として安置され、藤原為久によって壁画の浄土瑞相二十五菩薩像が描かれた。のちに、五仏堂には運慶の五大尊像が安置されていた。正嘉2年(1258)の再建時には、本堂・弥勒堂・五仏堂・三重塔・惣門が建てられたといわれているが、その後度重なる火災に遭い、16世紀前期頃に廃寺となったと伝えられている。

 
8. 文覚上人屋敷跡
  この地は文覚上人の屋敷があったところと伝わる。 文覚上人はもと上皇の身辺を警護する遠藤盛遠と云う北面武士であったが、同僚の渡辺渡の妻袈裟御前に懸想し、誤って殺してしまった。これを悔いて出家して僧侶になった。熊野山で荒修行を積み、都に戻って神護寺を再興するために、後白河法皇に勧進したが、その額が大きいので法皇に断られると、法皇を非難するような言動を吐いたため、法皇の怒りを買い、伊豆に流刑になった。その頃この地には源頼朝が流されていたことから頼朝と文覚は親交を深めるようになった。文覚は頼朝のブレーンとして働き、平家打倒を勧め、自らも関東各地の豪族を訪ね、頼朝に加担するよう暗躍したと云う。頼朝は平家打倒の旗揚げを興し、石橋山の合戦に挑んだという。この縁から頼朝が幕府を開き、奥州平泉の藤原泰衡・源義経征伐の際には、江の島に琵琶湖竹生島から軍神としての弁財天を勧請して、戦勝祈願の祈祷を行っている。頼朝が死去すると
さまざまな政争に巻き込まれ、佐渡へ配流される。のちに許されて京に戻るが、元久2年(1205年)、後鳥羽上皇に謀反の疑いをかけられ、対馬へ流罪となる途中、筑前で客死している。大御堂橋下を流れる滑川のことを文覚の法名に因んで坐禅川ともいう。

 
9. 土佐坊昌俊屋敷跡
  ここはかって頼朝の近臣土佐坊昌俊が住んでいた所である。『吾妻鏡』によれば、文治元年(1185)10月源頼朝は勝長寿院での父義朝の供養を終えると、その席に参列した御家人たちに義経討伐を宣言し、名乗り出る者を募った。多くの者が辞退する中、頼朝の近臣土佐坊昌俊は、もしものときに年老いた母や幼い子供たちに情けを掛けてやって欲しい旨を頼朝に嘆願したうえで、この役を引き受けた。土佐坊昌俊は、平治の乱で源義朝に従い、平清盛に敗れて義朝が東国へと落ちびる際も同行していた人物である。昌俊は手勢を率いて京に上り、堀川の館にいる源義経に夜襲をかけたが、義経は事前に叔父の源行家から聞いて、「昌俊の襲撃」を事前察知していた。逆襲され、昌俊は捕らえられて、六条河原で梟首にされた。
余談ながら、土佐坊昌俊は渋谷重国の子で名を渋谷金王丸ともいわれ、東京渋谷区にある金王八幡神社の地は、かって、山城があり、昌俊がこの山城を治めていたという。渋谷の名はこれに因んでいると伝わる。神社境内の金王桜は、一重と八重が混じって咲くもので、頼朝が金王丸を偲び植えたのだと神社は伝えている。

 
9. 宝戒寺
  宝戒寺は、正式には天台宗金龍山釈満院円頓宝戒寺という。この地は北条高時の屋敷があったところで、代々、北条徳宗家が住んでいた。徳宗とは第2代執権北条義時以降、執権を務める北条氏の惣領を云う。鎌倉幕府滅亡後、建武2年(1335)後醍醐天皇の命で、北条一族の霊を弔うために足利尊氏が当山を建立した。建立にあたっては、国家的人材の育成と円頓大戒(すべての物事を丸く治める戒律の意)の修行の場となるようにと天台密教四宗見学の道場が置かれた。江戸時代には大僧正天海の推挙で、徳川将軍家から庇護を受け、今日に至っている。本尊は重要文化財で仏師 三条法印憲円作の木像地蔵菩薩像で鎌倉地蔵尊第24番札所の第1番に置かれている。境内にある太子堂には、職人の守護神として崇敬されている聖徳太子の2歳尊像が祀られていて、毎年1月22日には市内の建築関係者、植木屋、石屋などが集まり、護摩を炊いて読経し、木遣唄などを奉納する「聖徳太子講」が行なわれている。鎌倉・江の島七福神の1つでもあり、病魔退散、財宝富貴の神― 毘沙門天が祀られている。また、萩の寺としても名高く、10月初旬には境内一面に咲くシロハギは見事である。
11.  東勝寺橋
  第5 代執権北条時頼の治世のとき、評定衆の1人であった青砥藤綱は,ある夜幕府に出向く途中,東勝寺橋の上で,袋に入れておいた10 文の銭を滑川に落としてしまった。藤綱は家来に50 文で松明を買ってこさせ,川床を照らして捜し出した。この話を聞いた同僚が「藤綱は勘定知らずだ。10 文捜すために50 文を使って損をしている」と笑った。すると藤綱は「常人の勘定はそうだろう。しかし,銭が川に沈んだままでは,永久に使われることはない。50 文で松明を買えば,それを作っている町民や,商っている商家も利益を得られる」と笑った人々を諭したと云う。実際、幕府内部の動きなどを記した「弘長記」のなかで、藤綱は「謹厳実直で富んで奢らず、威あって猛けからず、私利私欲なき賢者」と評されているという。因みに、評定衆とは執権の下にあり、立法・行政・司法の実務に携わる幕府の重要職務である。


 
12. 東勝寺跡、腹切りやぐら
  東勝寺は3代執権北条泰時が開基し、開山は栄西の弟子 退耕行勇が開山したと伝わるが創建の時期などは不明。元弘3年(1333)新田義貞の鎌倉攻めで敗退した、北条一門は、寺に火を放ち、第14代執権高時ら北条一族283人、総勢約870余名が自害したと云われる。東勝寺は全焼し、室町時代に復興して再建されたが、その後廃寺となった。近くの滑川が濠の役割をもち、城郭としての意味を持つ寺であったと思われる。この葛西ガ谷の北条一族が葬られたやぐらは「腹切やぐら」と呼ばれ国指定の史跡になっている。先祖が名越北条氏という「高倉健」さんは、文化勲章受賞後、管理する宝戒寺に先祖供養に参られてお塔婆を奉じたという。

 
13.   妙隆寺
日蓮宗の寺院。山号は叡昌山。この辺り一帯は鎌倉幕府の有力御家人・千葉氏の屋敷跡と云われ、この寺は一族の千葉胤貞が日英上人を迎えて建立しました。第二代目の日親上人は宗祖日蓮上人にならい「立正治国論」で室町幕府第6代将軍足利義教の悪政を戒(いまし)めましたが、弾圧され、数々の拷問を受けました。ついには焼けた鍋を頭に被せられたので「鍋かむり日親」と呼ばれました。本堂前右手の池は寒中・百日間水行をした池とされ、厳しい修行の跡と云われています。また、同寺は鎌倉・江の島七福神の1つで、不老長寿の神―「寿老人」を祀っている。また、本堂脇には、広島で被爆死した「新劇の団十郎」こと丸山定夫の顕彰碑がある。

 
14.  日蓮上人辻説法跡
  日蓮上人は建長5年(1253)安房から鎌倉に来て、松葉ケ谷に草庵を持った。鎌倉時代、ここ小町大路辺りは武士の屋敷と商家が混在した地域と考えられ、毎日のように、日蓮はこの辺りを訪れて法華経の功徳を説く、辻説法を行っていたと伝えられている。説法では震災、干ばつ、疫病などの原因は他宗にあるとして舌鋒鋭く非難をしたという。文応元年(1260)5代執権北条時頼に提出した「立正安国論」が原因で、怒りをかい、松葉ケ谷の草庵は焼き討ちされた。明治時代の日蓮宗学者、田中智学は跡地に腰掛け石や石碑を建てて整備を行った。辻説法の場所は、ここから小町大路を800mほど南に下ったところの本興寺にもある。

 
15.  蛭子神社(ひるこじんじゃ)
  小町の鎮守。祭神は大己貴命。かって、現在の夷堂橋付近に夷三郎社という神社があったが永享(1429~1441)の本覚寺創建の際に境内に移され、夷堂となった。明治の神仏分離令で現在地に移り、同地の七面大明神、宝戒寺境内の山王大権現とともに合祀され、蛭子神社と改称され、小町の鎮守として村社に列格された。

 
16. 妙本寺
  比企大学三郎能本が日蓮のためと比企一族の霊を弔うため、日朗を開山として文応元年(1260)に創建された。妙本寺が開山される50年前、この一帯には比企能員の屋敷があった所であった。比企能員は頼朝が旗上げしたときからの側近で、妻は2代将軍頼家の乳母であった。このことから頼家が将軍になると比企一族は重用されるようになり、比企の娘 若狭局が頼家の寵愛を受けて一幡を産んだ。その後、頼家は原因不明の病となり床に伏した。頼家が亡くなると一幡が将軍になり、比企がますます権勢を強めることに危機感を覚えた北条時政は、謀って比企能員を誅殺し、大軍を擁して比企の館に攻め入り、若狭局と頼家の子一幡をはじめ一族をことごとく滅ぼした。比企一族の墓と一幡の袖を埋めたと云う袖塚がある。また、祖師堂には日蓮の生前の姿をうつした三体の像の一つといわれる座像が安置されている。寺北面には若狭の局の霊を慰めるために建てた蛇苦止堂がある。
17. 本覚寺
  本覚寺は、永享8年(1436)日蓮宗の高僧日朝が日蓮上人の遺骨を身延山から分骨してきたことから東身延とも云われている。この場所は鎌倉幕府の守護神として祀られていた夷堂のあった所で日蓮が流刑地の佐渡から戻ったとき滞在していたと云われる。本堂には南北朝期に作られた釈迦三尊像や日蓮像が安置されている。境内にある夷堂には鎌倉・江の島七福神の恵比寿さまが祀られており毎年1月に行われる「初えびす」は多くのひとで賑わう。仁王門を出た所の滑川に掛る橋は夷堂橋である。墓域には、名刀工岡崎五郎正宗の墓がある。

 

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