横浜・川崎・千葉散歩

第3回 横浜散歩 旧横浜居留地・掃部山公園界隈ー解説版

2016年02月25日(木)

第3回 横浜散歩 旧横浜居留地・掃部山公園界隈ー解説版

1. 横浜三塔
 横浜市の歴史的建造物「キングの塔」「クイーンの塔」「ジャックの塔」は「横浜三塔」と呼ばれている。神奈川県庁本庁舎は「キングの塔」と呼ばれ、昭和初期に流行した帝冠様式の建物で、昭和3年(1928)に竣工した。神奈川県庁庁舎としては4代目の建物で、国の有形文化財に登録されている。この地は、安政6年(1859)、横浜開港に伴って神奈川奉行管理の下、神奈川運上所が設けられた所で、通関関税業務や各国領事との交渉をする外交業務、船の入出港手続き、洋銀両替、各国領事との交渉、違法行為取締りなどの業務を行っていた。 明治4年(1871)、通関事務などが大蔵省管轄となり、翌年には全国の運上所の名称が税関に変更された。 慶応2年(1866)の大火で焼失した後、横浜役所として新築され、その後、横浜税関に改められた。「クイーンの塔」は横浜税関本関庁舎の建物で、昭和9年(1934)に竣工した。イスラム寺院を想わせる緑色のドームが形づくられている。設計者は国会議事堂を設計した大蔵省営繕局の技師・吉武東里が担った。正面玄関の標札は、当時の大蔵大臣高橋是清の直筆と伝えられている。横浜税関本関庁舎1階にある資料展示室は「クイーンのひろば」と呼ばれ、開港からの横浜港・横浜税関の歴史をつづるスクロール年表や貿易の変遷、麻薬や拳銃などの密輸の手口、知的財産を侵害した偽ブランド商品やワシントン条約に該当するはく製や標本等を映像や実物展示により紹介している。「ジャックの塔」は、明治42年(1909)の横浜港開港50周年記念事業として、大正6年(1917)に完成した。関東大震災時に全焼したが、昭和2年(1927)に初期の建築を復元した状態で再建された。平成元年(1989)に高さ36mの時計塔ドーム部が再建されると同時に、国の重要文化財に指定され、現在は横浜市中区公会堂として利用されている。大阪市中之島公会堂などと並び、大正期の公会堂建築物の傑作の一つである。

キングの塔
クィーンの塔
ジャックの塔
2、 日米和親条約調印の地 (現・開港資料館)
  嘉永6(1853)年米国東インド艦隊司令長官ペリーが浦賀に来航し、大統領の国書を提出して日本の開国を要求した。 幕府はその威力に屈し、翌年3月横浜で日米和親条約を結ぶため、嘉永7年(1854)2月10日(太陽暦3月8日)正午、ペリー提督は随員を従えて横浜に上陸した。この地に作られた横浜応接所に入り、日米和親条約締結のため会談が始められた。日本側の全権は大学頭 林復斎が応対した。合計4回に及ぶ会談の結果、漂流民の救助、アメリカ船の伊豆下田・箱館(現函館)2港の入港、薪水・食料・石炭の補給、下田に総領事を置くことなどを取り決め、日米和親条約を締結した。わが国は長い鎖国の時期を終え、開国することになった。画面右端には水神社という小さな神社、背後の大木が「玉楠の
木」の元の姿と伝えられている。この絵はペリー艦隊の随行画家ハイネの原画による石版画である。そして、米国につづき英国、フランス、ロシア、オランダなど西欧諸国に相次いで門戸を開いていった。
その後、安政3年(1856)、下田駐在の総領事として来日したハリスは通商条約の締結を強く求めてきた。大老井伊直弼は天皇の勅許を得られないことで危惧を抱きながらも、開国が日本の将来に必要なことと判断し、下田奉行・井上清直,目付・岩瀬忠震を日本側全権に立てて会談に臨み、安政5年(1858)6月 横浜港沖に停泊していた米艦ポーハタン号艦上で日米修好通商条約に調印した。この結果、横浜は長崎・箱館・兵庫などと共に開港場となり、翌年から貿易が開始されることになった。



3、 岩亀楼跡
 幕末に開国して、外国人が大勢来るようになると、彼らの遊び場が必要となってきた。そこで、幕府は遊廓をつくることを思い立ち、決めた建設用地がこの辺だった。ここら一帯には、大・中・小の「遊廓」と芸者屋が急ごしらえで作られたが、その中で、最も豪華で「竜宮城」にも例えられた大店が岩亀楼だった。岩亀楼には、「異人客専門棟」と「日本人客専門棟」の2つの建物があり、2棟の遊女たちは、完全に区別されていた。異人客の相手をしていた女たちは、洋妾とよばれ蔑まれていた。洋妾たちの多くは、高給にひかれてやって来た貧しい漁村の娘たちで、美貌も教養も劣っていた。それに気付いた外国人客が不満を言い出したので、やがて日本人客相手の上級遊女を侍らすようになった。しかし、外国人に対する懼れや誤解がうずまく当時のこと。岩亀楼一の売れっ子・亀遊が自殺するという事件が起こった。亀遊の死は当時、外国人嫌いな日本人に利用され、大きく騒ぎ立てられた。
 「露をだに 厭ふ大和の女郎花 ふる亜米利加に 袖は濡らさじ」という、辞世の歌が捏造され、亀遊は、「異人に屈せず、誇りを見せた日本婦女子」として祀り上げられた。「亀遊が攘夷女郎にされていく」。このお話は歌舞伎にもなり、滑稽演劇にも上演されて世間の関心を集めた。しかし、反面、本気で尽くして、外国人と夫婦同然になった女たちもいた。カレーラス・モンブランが、幕府とフランスを結びつけることに成功したのは、ラシャメン「お政」の協力のおかげであり、横須賀製鉄所の技師ヴェルニーには、純愛で結ばれた「お浅」がいて、2人は仲良し夫婦のようであったと云う。このように世間の冷たい眼差しも国籍もそして生活文化の違いも乗り越えて尽くす素直で健気な日本女性たちがいたのである。

4、旧横浜生糸検査所 (横浜第二合同庁舎)
 横浜は幕末の一寒村から日本を代表する近代都市として急速に発展してきたが、その礎となったのは一貫して貿易によるものであった。開港すると貿易が始まり、大量の生糸が外国商館を通して輸出されだした。茶や海産物など、その後、蚕種(蚕の卵)の輸出も行われたが、主体は生糸であった。
文久2年(1862)には生糸が全輸出額の約86%を占め、その後も80%台の年が続くなど輸出品第一位の王座を長く守り続けた。しかし、避けて通れない日本の粗悪品生糸の課題を解決するため生糸検査制度が確立され、横浜と神戸に生糸検査所が設けられた。横浜生糸検査所が発足したのは明治29年(1896)4月のことである。フランスから製糸技術や生糸検査の方法を学び検査機械を買い入れて検査を始めたが、業務開始当初は利用者が少なかった。昭和2年(1929)からは輸出生糸検査法が施行され、輸出生糸はすべて強制的に正量検査を行うようになったので、相互に信頼できる貿易が行われるようになった。
5、 横浜指路教会
 横浜指路教会は、宣教師であり医師のヘボン博士を中心に設立された教会である。ヘボン博士は、明治維新より以前の安政6年(1859)にアメリカからクララ夫人を伴って来日した。当時はキリスト教が禁じられていた時代であった。ヘボン博士はまず日本語を学び、日本初の和英辞書を編纂し、英語塾をはじめた。「ヘボン式ローマ字」は、ヘボン博士の和英辞書に使われた日本語のアルファベット表記をもとに作られている。生麦事件で負傷したイギリス人を本覚寺に出向いて治療をしたのもヘボン博士である。「ヘボン」という名前は、本来は英語名「ヘップバーン」であって、当時の日本人の耳には、ヘップバーンがヘボンと聞こえたらしい。そこから博士は自己紹介でも「ヘボン」と名乗り、時には「平文」という漢字をあてて署名することもあった。ヘボン博士の英語塾では、後に総理大臣となる高橋是清や西園寺内閣の外務大臣となる林薫(初代陸軍軍医総監・松本良順の実弟)などそうそうたるメンバーが学んだ。この英語塾はやがて、明治学院やフェリス女学院となっていく。明治に入ってヘボン英語塾の青年たちを中心に教会設立の声が高まり、明治7年(1874)に横浜指路教会の前身となる教会が設立された。当初は何度か場所を変えたが、明治25年(1892)、現在の場所にヘボン博士の尽力で赤レンガの教会堂が建てられ、この時に横浜指路教会と名前も改められた。「指路」は、ヘボン博士がアメリカで属していた教会の愛称「Shiloh Church」の「Shiloh=シロ」に漢字をあてたものである。シロとは、旧約聖書にある「平和を招く者=メシア」と、「古い時代の聖なる町」という両方に用いられている言葉である。宣教師として33年もの間、敬愛されてきた、温厚なヘボン博士は横浜指路教会が完成した後、惜しまれつつ日本を去った。その後、大正12年(1923)の関東大震災により赤レンガの教会堂は倒壊してしまう。そこで3年後の大正15年(1926)年に再建されたのが現在の建物である。震災を教訓に当時最先端の鉄筋コンクリート造を採用しながら、デザインはゴシック風の教会らしい建物になっている。大きなバラ窓と、その上部を囲む尖頭アーチに、建物の角がそのまま持ち上がるようにそびえる鐘楼という厳粛な姿を今日も留めている。


6、 料亭 富貴楼跡 (現・中小企業センター)
尾上町5丁目、現在、中小企業センターが建っているところが、明治初期、有名を馳せた料亭 富貴楼
のあった所である。富貴楼の主はお倉(本名は斎藤たけ)」といい花柳界の女傑という異名があった女である。江戸で生まれ、6歳の時に家族が離散し、20歳のとき新宿で遊女となった。働いても放蕩者の夫が散財し、借金を返す日々で、芸者となって働いた。明治4年(1871)、宴席で横浜の生糸相場で財産を築いた田中平八の知遇を得たことが、お倉の人生を大きく好転させた。田中平八から資金を得て、関内・尾上町に料亭(待合)の「富貴楼」を開いた。富貴楼には富豪 田中平八が招く大久保利通・伊藤博文・井上馨・大隈重信・大山巌・西郷従道・山県有朋・陸奥宗光らの元勲そして、東京・横浜間の鉄道・国道工事に尽力して“横浜の父”と呼ばれた高島嘉右衛門などが出入りして、当時の新たな政治の舞台となっていった。現在に繋がる日本独特の料亭政治の形態を作ったのは富貴楼とも云われている。大久保利通の次男で、吉田茂の義父、牧野伸顕は「お倉は、もし男として生まれたら、大臣・参議にもなれた女傑であった。人を懐柔する力は実に大したもので、それは決して美貌や色恋で引付けるものではない。頑固だった父・大久保利通もお倉には参っていたよ」と云う。また、伊藤博文が、国会開設にあたり、喧嘩別れしていた大隈重信の助力を得たいと思っていたとき、両者の仲を取り持って、和解させる場を作ったのがお倉であったという。
お倉は、明治43年(1910)9月死去し、東福寺に永眠している。

 
7、 鉄の橋 (現・吉田橋)
幕末期、外国人居留地と現在の伊勢佐木町街とを結ぶために作られた架橋で、当初は木橋であったが明治2年(1869)、英国人土木技師 リチャード・H・ブラントンにより、橋長24m、幅員 6mの日本最初のトラスト橋が完成した。橋は「鉄の橋」と呼ばれ、市民に親しまれるとともに、文明開化のシンボルとして錦絵が描かれるなど大変人気を集めました。その他、ブラントンは、横浜居留地の日本大通などに西洋式の舗装技術を導入し、街路の整備も行っている。そして横浜公園の設計も行い、東京・築地~横浜間に日本初の電信架設を完成させ、灯台建設、日本最初の鉄道建設、そして大阪港や新潟港の築港計画に関しても意見書を提出するなど近代日本の黎明期に多大な貢献を果たしている。橋の下の高速道路の走っているところは、そのまた下には地下鉄が走っているが、昭和30年代前半までは、掘割になって、船が浮かび、ボート競技なども行われていた。

 
8、 東福寺 (赤門)
光明山遍照院東福寺は後嵯峨天皇の勅願で元心法師が寛元年間(1243~7)に開山し、太田道灌が中興したと伝えられる高野山真言宗の仏教寺院である。天正19(1591)年には徳川家康公より寺領3石の御朱印を拝領し、その折、葵の御紋の使用を許されたという名刹で、江戸時代は22の末寺を有していた。町名にもなっている朱塗りの山門、赤門でも知られている。往時の山門は二階の豪壮なものだったが、創建以来戦災を含めて七度焼尽され、現在のものは昭和35年に再建されたものである。ご本尊は90センチの観世音菩薩。東国八十八ヵ所霊場36番です。境内墓地には、「富貴楼お倉」」が眠っている。
9、 野毛山公園
 野毛山公園は横浜公園や掃部山公園に次ぐ歴史を持っており、元々都市防災の要地、また市民の憩いの場として国が整備したものを大正15年(1926)に横浜市が管理する事になったのがその始まりである。更に時を遡ると、現在の動物園区域は生糸商売で財を成した明治の商人、茂木惣兵衛の別荘地であり、樹林区域は同時期の豪商だった原富太郎(三溪)が、ここに別荘を所有していた。それが大正12年(1923)の関東大震災によって壊滅的打撃を受け、後年の震災復興とともに公園建設が行われたのである。そして終戦後は米軍に接収されたが、昭和24年に開催された日本貿易博覧会の会場となり、その後は、動物園と遊園地が設置され、昭和26年より市立野毛山遊園地となった。動物園の入園料は、現在に至るまで、無料となっている。公園内には展望台があり、高台という立地条件とあいまって眺望は素晴らしく、横浜の街並みを見事に一望する事ができる。今でも人々にとっての安らぎの場であり、また、子供達の楽しげな声が響く夢のある施設として、横浜市民にとって貴重な存在となっている。



10、 近代水道跡
横浜は土地柄、殆どの地区を沼や海の埋め立てによって成り立たせている為、水質は良いとは言えなかった。井戸を掘っても、飲料用になるものは少なく、人々は水売りから水を買うのが当たり前だった。しかし、横浜は市街地を中心に発展が目覚しく、人口も増加の一途であった。当然、水売りの水だけでは手が回らず、質の悪い井戸水や川の水を利用する者も多く、伝染病などが広まって行き、水道建設が必要とされた。当時の横浜の人口は7万ほどあり、神奈川県は充分な供給のできる水道作りに悩んだ。そこで、明治16年(1883)に広東の水道計画を成功させたイギリス人ヘンリー・スペンサー・パーマー元工兵少佐を雇い水道工事を委任した。 パーマーは、試行錯誤の末、水源を現在の津久井郡三沢村三井を流れる相模川支流の道志川に決定して、野毛山貯水池に至る44kmに及ぶ水道工事を断行し、明治20年(1887)9月、洋式水道を完成させた。現在は、山梨県道志村からの清涼な水が野毛山貯水池から市街へと配水され、横浜は水の悩みから解放され、横浜市民の喉を潤した。全てヘンリー・スペンサー・パーマー工兵少将無くしてはあり得なかった事である。これが近代水道の始まりである。




 
11、 伊勢山皇大神宮
 伊勢山皇大神宮は、明治維新後、神仏分離、国家神道の時代を迎え、横浜がわが国の貿易の要として開港されるに及び、人々の心を一つにして、国家の鎮護を祈ることを目的として、明治3年に、時の神奈川県知事 井関盛艮の発案により創建された。伊勢神宮と同じ、天照大御神を祭神とすることから「皇大神宮」「関東のお伊勢さま」とも称され、横浜の総鎮守として知られている。境内は4,500余坪、御社殿は神明檜造り。境内には、大山厳元帥や乃木希典陸軍大将が題字した日清・日露戦争戦没者慰霊の「彰忠碑」「表忠碑」そして「以徳報恩」をもって戦後処理の日本に対して天皇制を擁護するなど、寛大な処置をしてくれた中華民国 蒋介石総統の顕彰碑がある。
●井関盛艮(もりとめ)
宇和島藩主伊達宗城に仕え、大目付や寺社奉行を務めた後、新政府入りして、神奈川県知事、愛知県知事を歴任後、実業界入りして、東京―八王子間の鉄道敷設に貢献した。



12、 神奈川奉行所跡 (現・県立青少年センター)
 奉行所とは、現在で言うところの警察と役所を合体させたような機能を持った機関である。運上所が主に外交関係や税関業務を行っていたのに対し、奉行所は、開港間もない横浜で専ら行政事務や外国人遊歩区域内の風俗取締、裁判や農民・町人の出願事項の受付・処理などを行っていた。設立されたのは安政5年(1859)6月2日で、開港直後の事である。その所在地から「戸部役所」と呼称され、運上所と共に行政を司っていた。神奈川奉行は外国奉行とも呼ばれ、奉行所と運上所を馬で行き来していた。急坂を登ったり降りたりと、通うのに不便な事この上ないが、場所を戸部にした事には理由があった。一つは開港場の中央から離れた場所に設置する事で、外国人に内政を秘密にできたからである。二つには万が一、外国側との変事が起きた場合には横浜の町を眼下にできる好位置から、城砦へとその機能を変える事が容易だったからである。これにより、野毛を含む戸部地区には行政関連の施設が出現した。そのため、住民は移転する事を余儀なくされ、生業を失う者も多くあった。これに対する補償金もあったが3年待たないと支払われなかったと云われている。

13、 掃部山公園
掃部山は、江戸時代には「不動山」、明治時代に入ってからは「鉄道山」と呼ばれていた。これは日本に初めての鉄道が新橋~横浜間に敷設されたときに、この地が事業拠点となったからである。明治15年(1882)頃に旧彦根藩の藩士の孫で、横浜正金銀行の頭取であった相馬永胤が、旧士族らに呼びかけ、寄付金を募り、故井伊掃部頭直弼の記念碑建設のため、この「鉄道山と呼ばれていた丘を買収し、井伊家の所有としたのである。それに伴い、井伊直弼の官職名に因んで掃部山と呼ぶようになった。
井伊掃部頭直弼像は明治42年(1909)に横浜開港50周年を記念して建てられ、その除幕式は式典の10日後に行われた。しかし、その後、 第二次大戦中の金属回収令で取り払われてしまった。現在の銅像は昭和29年(1954)に開国100周年を記念して横浜市が再建した2代目である。銅像の制作者は鋳金師 慶寺丹長父子。慶寺丹長は薪を背負いながら読書する二宮金次郎の銅像を描いたことで知られている人物で、直弼を衣冠束帯姿で、朝廷から授かった位の高さを示し威厳を表して制作している。顔は直弼の四男で画家であった井伊直安が描いた直弼の肖像画から登用している。直安は幼少期、直弼に可愛がられていたので、優しい父の面影を追憶し描いたと云う。この像は台座を含めると11メートルある。この台座の作者は、「日本橋」、「横浜赤レンガ倉庫」、「横浜正金銀行本店(現、神奈川歴史博物館)」を設計した妻木頼黄である。妻木頼黄は東京駅を設計した辰野金吾、赤坂迎賓館を設計した片山東熊と並ぶ明治三大建築家の一人と謳われた人物で、発起人の相馬永胤が台座の設計をアメリカ留学時代からの友人であった妻木頼黄に依頼している。相馬永胤は、銀行頭取を退任したのち、教育に力を注ぎ、専修大学を創立している。相馬永胤の祖父隼人は彦根藩の公用人だった人物で、彦根藩の代表として、桜田門外で切り取られた井伊直弼の首を取り戻し、首と胴体を縫い付けさせて主君井伊直弼を豪徳寺に埋葬している。永胤は祖父隼人の意志を継いで、井伊直弼の無念を晴らすことを誓い、上野公園や日比谷公園に銅像建設を計画するが、政府の許可が下りず、立ち消えになりそうになったが、明治42年開国50周年の機会を得て、井伊直弼像建立が実現となったのである。大正3年(1914)、井伊家はこの地を市民の憩いの場として提供することとし、横浜市に寄贈した。横浜市は整備の後、同年11月に「掃部山公園」として開園した。この掃部山公園には、約200本の桜が植えられ桜の季節だけは花見客で大賑わいとなる。また、井伊直弼が茶道に通じていたことから、昭和40年(1965)より毎年8月には野点も開催している。園内には「横浜能楽堂」があり、毎年9月には「薪能」も開かれる。



14、第二代目横浜駅跡
 明治5年(1872)新橋~横浜間が開通され、現在の桜木町駅の場所に、初代横浜駅が作られた。その後東海道線を横浜~国府津(小田原市)に延伸する際に、駅の構造的な問題から、横浜駅に入った列車を一端、スイッチバックさせて、本線に戻り、保土ヶ谷方面に走らせなければならなかった。その不便を解消するため短絡直通線を開設し、そこに平沼駅を作るなどの試行錯誤を重ねたが、結果的にさらに不便になってしまい、東海道線が横浜駅を通過するような状況になってしまった。そこで新たに作られたのがこの二代目横浜駅である。しかし、残念ながら完成8年後の1923年に起きた関東大震災で二代目横浜駅は焼失し、閉鎖された。そして同所に再建するのではなく、直線的に大船方面に走らせるために、1928年、今日ある横浜駅の場所に3代目が作られた。現在の横浜駅は1980年に改築され、第4代目である。

 

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