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第6回 鎌倉ウォーキング 和田塚、和賀江島~披露山公園ー解説版

2016年03月22日(火)
第6回 鎌倉ウォーキング 和田塚、和賀江島~披露山公園ー解説版 
1, ラングドン・ウォーナーは、アメリカの東洋美術研究家。親日家。 太平洋戦争が勃発すると、日本の三大古都の歴史遺産に戦禍が及ばぬよう訴え、芸術的歴史的建造物を空爆から救ったといわれている。 碑には、ウォーナーのレリーフがはめられ、碑文には「文化は戦争に優先する」と書かれている。昭和62年(1987)、古都保存法の制定20周年を記念して、社団法人 鎌倉同人会によって、ウォーナー博士の記念碑が建てられた。
2. 鎌倉市役所の裏にある御成小学校は、明治天皇の皇女のために造られた御用邸の跡地に建てられている。大正12年(1923)の関東大震災で御用邸は崩壊し、再建されることはなかった。正門は、コンクリート造に建て替えられたが、格好は御用邸の門が受け継がれている。門標は高浜虚子が書いた。地名ともなっている「御成」の名は、御用邸にちなんで付けられた。
3, 問注所跡と裁許橋
この一角は、かって問注所があったところである。問注所は鎌倉幕府の裁判機関で、元暦元年(1184)に設置され、当初は源頼朝の屋敷内(大倉幕府)にあったが、言い争いや喧嘩が絶えなかったことから、二代頼家のときにこの場所に移転されたといわれる。執事(長官)は学識にすぐれた三善康信(善信)が就任した。三善康信は、伯母が頼朝の乳母だったという縁で、京都に住み、伊豆に流されていた頼朝に京の情報を送り続けて、頼朝から信頼されていた。以後、三善氏が問注所執事を世襲している。 問注所での裁判の結果、無罪放免となった者が渡った橋を裁許橋と呼んでいる。一方、有罪となった者は六地蔵辺りにあった刑場で処刑された。

 
4, 六地蔵
由比ヶ浜通りと今小路の交差点に並ぶ六体の地蔵を云う。鎌倉時代、この北側には刑場があり、そのため「
飢渇()畠(けかちばたけ)()」と呼ばれる荒地であった。罪人の供養のために生死を繰り返す六つの迷いの世界(六道)から救うといわれる六体の地蔵が祀られた。江戸時代、俳人松尾百遊が、芭蕉を偲んで「夏草や兵どもが夢のあと」と刻んだ句碑を建てた。そのため、ここを「芭蕉の辻」とも呼ばれている。
 
5. 和田塚
かつて、この辺りは向原古墳群と呼ばれる古墳があった。その中には采女塚と無常堂塚があり、塚には多くの五輪塔が転がっていた。明治22年(1889)の道路改修工事によって采女塚が削られ、続いて、明治25年(1892)には無常堂塚が削られた。その時、無常堂塚からは多くの人骨が発見され、中には刀を握ったままの骨も発見されたという。調査の結果、その人骨が建暦3年(1213)に起こった和田合戦の戦死者のものだったことが分かり、無常堂塚を「和田塚」と呼ぶようになったという。明治42年(1909)、塚の上に「和田一族戦没地」と記された碑が建てられた。和田合戦は、執権 北条義時と幕府の軍事面の長官であった侍所別当 和田義盛との間で起きた権力闘争で、和田は三浦一族であったが三浦の助成を得られずこの地で敗退し滅亡した。この戦い以降、北条の権勢は強まり、義時の子、3代執権 泰時のとき盤石となった。
6. 下馬
鎌倉時代、現在の下馬四ツ角から鶴岡八幡宮までは、馬の乗り入れが許されず、参拝するときはここで馬を下りた。また、若宮大路を横切るときもここで馬を下りて礼拝したことから「下馬」と呼ばれるようになった。現在も地名として残されている。下馬橋は3つあって、源平池にかかる橋を「上の下馬橋」、二の鳥居付近の扇川に架けられていた橋を「中の下馬橋」、そして下馬四ツ角の橋が「下の下馬橋」と呼ばれていた。文永8年(1271)9月12日、龍ノ口刑場へと護送される日蓮は、下馬橋で鶴岡八幡宮に向かい、「法門のために霊験を現わしたまえ」と大音声で請願したといわれている。元治元年(1864)11月20日、下馬で江ノ島・鎌倉見物にきていた英国軍人ボールドウィン少佐とバード中尉の二人が殺傷されるという英国人殺害事件が起きた(鎌倉事件)。事件の犯人は、攘夷浪士の清水清次と間宮一で、二人はすぐに逮捕され、横浜西区にある「くらやみ坂」の刑場で斬首された。首は吉田橋に3日間晒されたのち、願成寺に葬られた。
7. 畠山重保の墓
 鶴岡八幡宮一の鳥居の傍らに建つ宝篋印塔は、畠山六郎重保の墓と伝えられ、明徳6年(1393)の銘のある石塔。重保は、頼朝の御家人畠山重忠の嫡男で、屋敷は、大鳥居の近くにあったと伝えられている。元久元年(1204)、三代将軍源実朝と公家坊門家息女との縁談が整ったことから、姫を迎え入れるため15人の若武者が京都へ差し向けられた。畠山重保もその一人に加わっていた。その折、京都守護の平賀朝雅と重保は些細なことから喧嘩となり、それを根に持った朝雅が、義父・北条時政に「畠山父子が謀叛を企てている」と讒言したことにより、畠山父子は討たれることになる。元久2年(1205)6月22日早朝、重保は、「由比ヶ浜に謀叛人が集結している」との報を耳にすると、従者3人とともに浜に向かった。しかし、待ち構えていた三浦義村の手の者が重保を取り囲み、重保は訳のわからぬまま討ち取られてしまった。同日、父重忠も北条義時らの軍に攻められ武蔵国二俣川で討死している。頼朝の側近で、幕府創設以来有力御家人として、幕府を支えてきた畠山一族は、比企一族に続いて、北条に滅ぼされた。

 
8. 一の鳥居
寛文8年(1668)江戸幕府第4代将軍徳川家綱によって、若宮大路に石造明神鳥居の一の鳥居、二の鳥居、三の鳥居の三基が建て替えられて、寄進された。高さは約8.5mあった。しかし、大正12年の関東大震災のとき三基とも損壊してしまった。その後、昭和12年(1937)、一の鳥居だけが石造で元通りに再建されたが、二の鳥居、三の鳥居は鉄筋コンクリートで再建された
9. 元八幡宮(由比若宮)
元八幡宮(由比若宮)は、康平6年(1063)、源頼義が前九年の役の勝利に感謝するため、源氏の氏神だった京都の石清水八幡宮を勧請して創建された。頼義の子・義家も社殿を修復するなどして源氏と鎌倉の結び付きを強くした。その後、鎌倉に入った源頼朝が、由比若宮を小林郷北山に遷座し、現在の鶴岡八幡宮が造営された。祭神は鶴岡八幡宮本宮(上宮)と同じく、応神天皇(第15代)・比売(神)(15代の妻)・神宮皇后()(15代天皇の母)。授けられる「破魔矢」は、源頼義が奉納した弓矢に因むものという。境内には、石清水ノ井、源義家「旗立の松」がある。
10. 妙長寺
正式には日蓮宗海潮山妙長寺という。創建は正安元年(1299)開山の日実は、伊豆で日蓮を救った漁師舟守弥三郎で、のちに鎌倉を訪れ一堂を建立した、これが妙長寺の始まりと云われている。境内には日蓮の法難を記念して建立された相輪搭、法難御用船の模型などがある。明治時代には鎌倉、逗子、三崎の漁師や魚商たちの手による鱗供養塔が建てられた。明治24年、作家泉鏡花は尾崎紅葉の弟子になる前、夏の2か月間を当寺で過ごし、この時の体験をもとに小説「みだれ橋」を書いた。のちにこの小説は「星あかり」と改題した。

 
11. 九品寺
九品寺は、新田義貞が京より招いた風航順西によって開かれた浄土宗の寺。この地は義貞が鎌倉攻めの際に本陣を構えたところとされ、北条方の戦死者を弔うために建立された。鎌倉では、唯一義貞が建立した寺で、山門の「内裏山」、本堂の「九品寺」の掲額は、義貞の筆蹟と伝えられている。本尊阿弥陀如来立像は宋元風様式を伝えるもので市の重要文化財。その他、石造薬師如来坐像(永仁4年銘の県重要文化財)、石造閻魔大王像、石造奪衣婆像があるが、鎌倉国宝館に
寄託()されている。九品寺の山門と本堂に掲げられた「内裏山」「九品寺」の額の字は新田義貞の筆跡を写したもので,当初の額は本堂に保存されている。
 


12. 光明寺
光明寺は、四代執権北条経時が然阿良忠を招いて開いた浄土宗の大本山(末寺56ヶ寺を有していた)。寛元元年(1243)の創建と伝えられ、鎌倉四大寺にも数えられる(他は建長寺・円覚寺・遊行寺)。良忠は浄土宗第三祖で、良忠が鎌倉に住まいしたことで浄土宗が関東以北へ広がったといわれる。
光明寺は朝廷との関係が深く、三門(山門)の扁額(天照山の文字)は後花園天皇の直筆と伝えられ、後土御門天皇からは「関東総本山」の称号を受けるとともに「お十夜法要」も勅許された。お十夜法要とは、三日三晩にわたり本堂で念仏や御詠歌を唱える法会のことで関東一円の浄土宗寺院の僧侶が一堂会して行われる当寺最大の行事である。江戸時代には、徳川家康によって念仏信仰と仏教研鑽の根本道場(僧侶の学問所)として「関東十八檀林」(浄土宗十八ヶ寺)が定められ、その筆頭寺院として栄えた。戦後には、新しい時代の教育を目指す自立大学「鎌倉アカデミア」が開校されている。光明寺記主庭園内に聳そびえる大聖閣は,宗祖法然上人800年大遠忌を記念して建てられた堂。鎌倉で唯一、鳳凰が乗せられた堂です。

 
13. 和賀江嶋
 現存する日本最古の築港遺跡として国の史跡に指定されている和賀江嶋は貞永元年(1232)、第3代執権北条泰時が、九州筑前でも港を築いた実績のある往阿弥陀仏という勧進僧に命じて築かせました。材木座の古名である和賀の地は、遠浅で、風波は強く難破、破損する船が多かったが、日本各地からの物産の集積、宋との交易などから大型の船が安全に出入りできる港湾の建造が求められていた。貞永元年(1232)往阿弥陀仏という勧進僧が、三代執権北条泰時の許しを得て造り上げた。相模川や酒匂川などから運ばれた石が海中に200メートル程積み上げられ、1か月ほどで完成したといわれる。材木座(由比ヶ浜)は、遠浅で風波が荒く、難破・破損する船が多かったため、防波堤の役割を果たしたと考えられる。積まれた玉石は、漬物の押石や石垣用としてよく盗まれたため、警官が巡回していた時代もあった。材木座海岸には、当時運ばれてきた陶磁器などの破片が今でも流れ着く。鎌倉時代には、極楽寺の管理下に置かれ、関料徴収の権利も極楽寺に与えられていた(港を利用する人や貨物から津料と呼ばれる税金を徴収していた)。

 
14. 住吉城跡
 この断崖の背後に続く丘陵と谷戸を含めた一帯は、自然の地形をうまく利用した山城で住吉城と呼ばれ、三浦半島に勢力を持っていた三浦氏が再興し、盟主・三浦道寸が出城としていた。三浦道寸はその後、平塚の岡崎城をも奪い、相模に勢力を拡大していった。永正9(1512)、小田原を本拠として、関東制覇をめざした北条早雲は果敢な攻撃で、道寸が篭もる岡崎城を攻略し、落城させた。続いて、逃げた道寸を追撃し、弟の道香とともに立て篭もる住吉城も昼夜を分かたぬ激しい攻撃を行い圧倒的な勢いで攻略した。城を抜け出し、三浦の本拠地に退却する弟道香は逗子延命寺近くで家臣たちとともに自刃したと云う。兄の三浦道寸は、本拠地・新井城(油壷湾に面した所)まで逃れ、北条に包囲されて籠城したが、3年後の永正13年(1516)、早雲の攻撃に耐えきれずこの城で自刃し、三浦氏は滅亡した。以降、三浦半島は小田原北条氏の勢力下になった。

 
15. 大崎公園
大崎公園は披露山高級住宅地奥の突き出した岬の上にあります。遊歩道とベンチしかない簡単な公園ですが、この公園からは江ノ島や富士山を眺望でき、 逗子マリーナ・小坪港を見下ろすことができます。一番奥に一段高い展望台があり、葉山の山々や葉山マリーナも見降ろすことができます。途中の休憩所には兎のモニュメントに刻まれた泉鏡花文学碑があります。


16.  披露山公園
披露山公園は、昭和33年(1958)に開園された。逗子市の西側に位置し、高さ100mほどの台地にある。ここからは東に逗子湾、北西には江の島とその背後に富士山、伊豆箱根連山、南には伊豆大島を望む絶景の景勝地になっている。披露は「ひらきあらわす」というめでたいこと、良いことを公表する意味があり、献上の品物を披露する役人が住んでいた所とも云われています。披露山公園の広場は戦時中、海軍の高射砲陣地があったところで、3つの高射砲座(直径12m)と監視所の地下室が残されていた。現在、これらを利用して砲座には展望台、円形花壇および猿舎になっている。監視所跡にはレストハウスが造られている。駐車場には終生逗子を愛した「憲政の神様」尾崎行雄の記念碑があり、「人生の本舞台は常に将来にあり」と刻まれている。

 


17.  高養寺(浪子不動) 今から600年以上も昔のこと、披露山あたりの山から毎晩ふしぎな光がさすようになり、それまで沢山獲れていた魚がとれなくなった。鎌倉の補陀落寺の住持頼基法印が人々の嘆きを聞き、周辺を調べると、岩の洞穴の中に石の不動尊を発見し、村人に大切に祀るようにさせたところ、また魚が獲れるようになったという。この祠は、小坪の船を暴風雨から守ったところから「浪切不動」とか、後ろに滝があるので「白滝不動」とか呼ばれ、漁村の信仰を集めるようになった。明治に入り、徳富蘆花の小説「不如帰」が、この地を舞台にしていたので主人公の「浪子」にあやかり、「浪子不動」と呼ばれるようになった。高養寺という名は、寺の建物を作るのを援助した政治家、高橋是清・犬養毅の名を取って付けられたものである。御堂の傍らにあった重要文化財指定の石造五輪塔は神武寺駅近くの東昌寺に移されている。また、昭和8年(1933)、御堂前の海中に蘆花の兄、蘇峯の筆による「不如帰」の碑が建てられた。引き潮時には、この碑のまで行くことができる。碑に使われた石材は江戸城を築くために九州鍋島藩が伊豆から運んできた石垣用の石が、船の難破で大崎の海に落ちたと言い伝えられている。
『不如帰』は、明治31年(1898)から32年(1899)にかけて国民新聞に掲載された徳冨蘆花の小説。のちに出版されてベストセラーとなった。 なお徳冨蘆花自身は『不如帰』の読みとして、少なくとも後年「ふじょき」としたが現在では「ほととぎす」という読みが広まっている。
「片岡中将の愛娘浪子は、実家の冷たい継母、横恋慕する千々岩、気むずかしい姑に苦しみながらも、海軍少尉川島武男男爵との幸福な結婚生活を送っていた。しかし武男が日清戦争へ出陣してしまった間に、浪子の結核を理由に離婚を強いられ、夫を慕いつつ死んでゆく。浪子の「あああ、人間はなぜ死ぬのでしょう! 生きたいわ! 千年も万年も生きたいわ!」、「ああつらい! つらい! もう女なんぞに生まれはしませんよ」は日本近代文学を代表する名セリフとなった。家庭内の新旧思想の対立と軋轢、伝染病に対する社会的な知識など当時の一般大衆の興趣に合致し、広く読者を得た。

 
18. 亀岡八幡宮
 亀岡八幡宮は、第15代の応神天皇を祭神とする神社。応神天皇は文明開化に意欲をもち、大陸文化の製鉄・製陶・機織・皮革加工・金工などのすぐれた技術をもつ帰化人を迎え入れ、幾内やその周辺に居住させ、我が国の産業・文化の発展に貢献した。また天皇の時代には、百済から王仁が「論語」と「千字文」を献上され、以後漢字を用いて記録や外交文書なども作製されるようになった。このように、応神天皇は日本の文明史上に重要な御事績を残されている。天皇は百才を越える長寿を保たれたと伝えられ、崩御後、豊後国宇佐の地に、八幡大神として祀られた。それが現在の宇佐神宮であり、全国7800ある八幡宮の大元である。亀岡八幡宮の勧請の年月は明らかではないが、「新編相模風土記稿」によれば江戸時代初期には延命寺を別当寺として村の鎮守に八幡宮があったと記されている。明治維新の神仏分離令により延命寺の管理から脱し、明治6年逗子の鎮守と定められ、境内がなだらかな岡で、亀の背中のようであったというところから、鎌倉の「鶴岡八幡宮」に対し「亀岡八幡宮」と名付けられたと云う。社殿は、大正12年2月に新築され、その年9月1日の関東大震災に遇ったが辛うじて倒潰を免れ、修覆を加えて現在に至っている。

 

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