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第26回 お江戸散策 (解説版)

2016年12月15日(木)
第26回 お江戸散策 小石川後楽園・江戸城二の丸庭園(解説版)
1. 小石川後楽園
 江戸時代初期、寛永6年(1629)に水戸徳川家の祖である頼房が、江戸上屋敷の庭として造ったもので、二代藩主の光圀(水戸黄門)の代に 完成した庭園である。光圀(みつくに)は作庭に際し、明の儒学者である朱舜水の意見をとり入れ、中国の教え「(士はまさに)天下の憂いに先だって憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」から「後楽園」と名づけられた。 庭園は池を中心にした「回遊式築山泉水庭園」になっており、随所に中国の名所の名前をつけた景観を配し、中国趣味豊かなものになっている。また、当園の特徴として各地の景勝を模した湖・山・川・田園などの景観が巧みに表現されている。この地は小石川台地の先端にあり、神田上水を引入れ築庭されている。また光圀の儒学思想の影響の下に築園されており、明るく開放的な六義園と好対照をなしている。なお、当園は昭和27年3月、文化財保護法によって特別史跡及び特別名勝に指定されている。

 
2. 東京大神宮
 当神社はかって有楽町の大隈重信邸宅跡地に建立された皇大神宮遙拝殿(はいでん)が起源で、その場所から日比谷大神宮と呼ばれていた。戦後の昭和21年(1946年)4月、当地に移転し、宗教法人東京大神宮として再発足した。東京のお伊勢さま〟として親しまれ、格式高い「東京五社」のひとつである。そしてさらに、いま東京で最も縁結びのご利益がある〝恋のパワースポット〟としても人気急上昇中。東京大神宮は、とにかくお守りの種類が多いことでも有名である。なんとそのかず40種類以上!とくに、縁結びの神社・恋愛成就〟のご利益効果が授(さず)かるとして若い女性の参拝が多い。「参拝したあとすぐに良縁が相次ぎ、結婚できた!」「ずっと子どもができず悩んでいて参拝をしたら、参拝二か月後に妊娠することができた!」などの口コミが数多くあると云われている。

 
3. 築土(つくど)神社
 築土神社は天慶3年(940)6月、関東平定後、藤原秀郷らの手で討たれ京都にさらされた平将門公の首を首桶に納め密かに持ち去り、これを武蔵国津久戸(現・大手町周辺)の観音堂に祀って津久戸明神と称したのが始まりである。江戸城築城後の文明10年(1478)には、太田道灌が江戸城の乾(北西)に当社社殿を造営し江戸城の鎮守神として厚く崇敬した。天正17年(1589)徳川家康江戸入城して以降、築土明神と改称して、山王(日枝神社)、神田(神田明神)とともに江戸三社の一つに数えられ、江戸庶民の崇敬の的となった。1657年明暦の大火の際には、幕府より唐金水桶 ・金燈籠 ・銅瓦等の奉納援助金を受けている。徳川幕府終焉後の明治7年(1874)、築土神社と改称した。昭和20年4月、戦災により社殿 ・社宝その他、悉く全焼し、千代田区富士見へ移転を余儀なくされたが。平成2年(1990)同地に復建し鎮座1050年記念大祭を斎行したのち、平成6年(1994)5月、社殿・社務所の大改築を実行し地上8階(地下1階)建ての現代的な神社となった。ビル名は「アイレックスビル」と名付けられたが、「アイレックス」とはモチの木を意味し、かつて築土神社が九段坂からモチの木坂に至る田安の地に鎮座していたことに因んでこの名が付けられた。参道入口にはビルのシンボルとしてモチの木が植えられている。また、拝殿前の狛犬は、江戸最古のものである。

 
4. 清水門
 寛永元年(1624)広島藩主 浅野長晟により建てられた枡形の城門。門名については,昔この辺りに清水が湧き出ていた、また、古くはこの辺りに清水寺があったことから、その名をとって清水門と称したともいわれている。現在、門は国指定重要文化財になっている。宝暦9年(1759)九代将軍家重の第二子徳川重好が、現、北の丸公園の武道館付近に屋敷を賜り、門名に因んで御三卿清水家と称した。初代当主の重好以降世継ぎが生まれず、11代将軍家斉の治世においては、家斉の子どもたちが次々に当主を引き継いだ。幕末期においては、15代将軍慶喜の弟昭武が当主になっている。清水家は明治に入り伯爵の爵位を受けている。

 
5. 北詰(はね)橋門
 天守閣の北の本丸大奥から外部に直接通じる門で、重要地点にあるところから、濠を深くして石垣は最も堅固雄大にしてある。また、橋は、はね上げる仕掛けにしてあり、通常は上げられているが、有事の際には外部への逃避や交通を遮断出来る様になっている。



 
6. 天守閣
 江戸城本丸の一番北側に位置している天守閣は、慶長11年(1606)の家康、元和8年(1622)の秀忠、寛永15年(1638)の家光と将軍の代替わりごとに築き直され、将軍の権力の象徴であった。 慶長の天守は、現在より南の富士見多聞のあたりに位置していたと考えられます。5層の天守の高さは、国会議事堂とほぼ同じくらいだったといわれている。寛永15年(1638)、3代将軍家光のときの天守が最大規模で、「江戸図屏風」によると金の鯱をのせた五層の天守閣だった。この寛永の天守は、明暦3年(1657)の火災で焼け落ち、翌年に加賀藩前田家の普請により高さ18mの花崗岩でできた天守台が築かれた。これが現在残る天守台であるが、四代将軍家綱の叔父である会津藩主 保科正之が「戦国の世の象徴である天守閣は時代遅れであり、城下の復興を優先すべきである」との提言により、以後天守閣は再建されることはなかった。現在、東西約41m、南北約45m、高さ11mの石積のみが残っている。江戸城の天守閣は、江戸初期の50年間だけの存在でした。

 
7. 二の丸庭園
 江戸城二の丸は、将軍世子や大御所(隠居した前将軍)や
大奥の御殿があり、寛永13 年(1636)に完成した御殿には、
小堀遠州作といわれる庭園があった。慶応3 年(1867)に
二の丸御殿が焼失した後荒廃していたが、昭和35 年(1960)の閣議決定で皇居東地区の旧江戸城本丸、二の丸及び三の丸の一部を皇居付属庭園として整備することとなり、昭和43 年(1968)に現在の庭園が造られ、一般公開された。この庭園は、9 代将軍 家重時代の庭絵図面を基に回遊式庭園として復原され、現在は各都道府県の木など様々な植物が多数植えられ、四季に亘って花鑑賞を楽しむことができる。

 
8. 将門塚
 三井物産ビルの東側、将門伝説の首塚の碑が建っている。平安時代、朝廷に反逆し下総で討死した平将門の首が京でさらされ、その首を所縁の人々がもらい受け、当時の武蔵の国豊島郡平川村(皇居平河門あたり)の観音堂かたわらに埋葬したとも、怨念で京から首がこの地に飛んできたものを祀ったともいわれている。13世紀になって首塚は荒廃し、将門の亡霊は大いに怒って江戸の民に祟り、また改めて手厚く供養したといい伝えがある。塚そのものは関東大震災後、大蔵省再建の際に崩されたと云われている。なお、この地は、江戸時代寛文年間、酒井雅楽頭(うたのかみ)の上屋敷の中庭であり、山本周五郎の歴史小説「樅の木は残った」の家老・原田甲斐の刃傷事件の舞台となったところである。

 

9. 江戸北町奉行所跡
 江戸の町奉行は、江戸市中の行政・司法・警察など、幅広い分野を担当していた。南北2ケ所に設置され、それぞれ何度か移転している。北町奉行所は文化3年(1806)から幕末まで、呉服橋御門内にあった。現在の呉服橋交差点の南西、東京駅日本橋口周辺に当たり、発掘された敷地北東部の溝から角を削り面取りした石が出土し、屋敷の鬼門・艮(うしとら)(北東)の方角を護るおまじない的な意味があるといわれている。「遠山の金さん」のモデル・遠山左衛門尉景元は幕末の北町奉行ですが、水野忠邦の天保の改革に反対して僅か3 年で罷免された。その際、町人の生活や歌舞伎などの娯楽を守ったことで、「金さん」の芝居が盛んに上演され人気を博した。後に南町奉行に返り咲き7年務めるが、南北両方の町奉行を務めるのは異例のことでした。8代将軍吉宗の治世で活躍した大岡越前守忠相は南町奉行でその所跡は、現在の有楽町駅南東側マリオンのある所です。大岡忠相はのちに寺社奉行にまで出世し大名になるが、遠山景元は奉行で引退している。

 

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