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第3回 お江戸散策 巣鴨・駒込 (解説版)

2016年12月29日(木)
第3回 お江戸散策 巣鴨・駒込 (解説版)
1 大国神社
天明3年に創建され、祭神は大国主命。木彫りの七つの大国神があり、大黒天像の福運があるとされています。徳川家斉が、鷹狩の帰りにこの神社に立ち寄り、その後に十一代将軍となったことから、出世大国や日の出大国とも呼ばれています。




2 妙義神社 (ラジオ体操曲)
日本武尊が東征の折、陣営を構えた処と伝えられる豊島区最古の神社。江戸城を築いた太田道灌が、足利成氏との合戦の際に、ここに詣でて勝利をおさめたことから、「勝戦の宮」とも呼ばれています。文明3年(1471)同9年、11年にも当社に戦勝を祈願し、その都度勝利を収めたことにより勝負の神として「勝守り」を授与している。駒込駅前から妙義神社に至る坂(本郷通り)は、「妙義坂」と呼ばれている。祭神は日本武尊と高皇産霊神 (たかみむすびのかみ)。

 
3 西福寺(さいふくじ)
江戸六阿弥陀(あみだ)詣で第一番の札所として知られる。創立年代は明らかではないが、江戸初期の建立といわれ、伊勢津藩藤堂家の祈願寺であった。山門を入ると右手に「染井吉野の里」の碑がある。このあたりがソメイヨシノの発祥の地と伝えられており、寺の前の道路は桜の名所にあげられている。墓地には江戸城の御用植木師だった伊藤伊兵衛政武の墓があり、植木職人の墓が多い。

4 十二地蔵
享保15年の大火による犠牲者の冥福を祈るため建てられたものと言われています。十二体の地蔵の由来は定かではありませんが、地蔵さまの上部に描かれているのが雲の絵ではなく、火や煙のような絵であることからも、大火を描いたのではないかということです。

5 染井霊園
染井霊園は播州林田藩建部家の跡地に明治7年
市民墓地として開設された。同墓地には、皇居前広場楠木正成像の作者高村光雲、長男で「智恵子抄」で有名な光太郎、智恵子、明治の小説家二葉亭四迷、明治時代に活躍した美術界の巨匠岡倉天心、幕末、明治の写真家下岡連杖(しもおか れんじょう)等が眠っている。

6 勝林寺
臨済宗妙心寺派の寺で山号は万年山。元和2年(1616)湯島に創立、明暦の大火で消失し、そののちも度々火災遭い(あ)、田沼意次により再建された。明治41年、当地に墓地が移転され、昭和15年に寺引っ越してきた。同寺には田沼意次や女優太地喜和子の墓がある。田沼意次は将軍の小姓から身を興し、10代家治の側用人として信頼され、破格の出世で大名、老中に上り詰める。田沼時代と呼ばれる権勢を握ってからは、数々の幕政改革を手がけ、悪化する幕府の財政赤字を食い止めるべく、重商主義政策を採る。内容は株仲間の結成、銅座などの専売制の実施、鉱山の開発、蝦夷地の開発計画、俵物などの専売による外国との貿易の拡大、そして下総国印旛沼の干拓に着手する等の政策を実施した。その他、平賀源内などと親交を持ち、蘭学を手厚く保護し、士農工商の別にとらわれない実力主義に基づく人材登用を行った。一方賄賂を許容する姿勢が保守的な幕閣の反発を受け、不運にも浅間山の噴火から生じた飢饉への対応などの批判が意次に向けられ、家治の死とともに権威を失い失脚した。

 
7 慈眼寺 (じげんじ)
後水尾天皇の御代、元和元年(1615)の創建。明治45年深川から移転。 なお墓地には司馬江漢、芥川龍之介(作家)、芥川比呂志(俳優)、芥川也寸志(音楽家)、谷崎潤一郎の菩提寺として知られている。





8 本妙寺 (ほんみょうじ)
 戦国時代の元亀2年(1571)駿府に日慶が創立した法華宗陣門流の古寺で徳川家康の江戸入府に伴い移転してきた。当初、清水御門内にあったが、寛永13年(1636)本郷丸山に移転した。明暦3(1657)年正月18日江戸を焼き払った「振袖火事」の火元と言われている。本堂右手にそのとき焼死した人々の菩提を弔う供養塔がある。当地には明治43年(1910)年に移転した。戦災で焼け残った梵鐘には天保2年(1831)の銘がある。
著名人の墓地としても知られ、下総関宿藩久世家の菩提寺で藩祖広之から、幕末に老中として井伊直弼と対峙した7代広周(ちか)など、名町奉行遠山金四郎、幕末の剣豪で神田お玉ガ池に玄武館を開き北辰一刀流を編み出した千葉周作、囲碁の歴代本因坊家元、将軍家将棋指南役 天野宗歩、幕末維新の通訳官として活躍した森山多吉郎の墓がある。

 
9 高岩寺 (とげぬき地蔵)
この寺は寺名よりも「とげぬき地蔵」として有名で、江戸時代には下谷上車坂町にあって万頂山と号し、慶長元年(1596)年に曹洞宗の寺院として創立し、明治24年(1891)年巣鴨に移転してきた。江戸のころ、巣鴨の地蔵と言えば真性寺の地蔵のことを言っていました。正徳3年(1713)田村某と言う武士の妻が重い病にかかり、治したい一心で信仰しているお地蔵さんに願を掛けた。夢のお告げどおりに地蔵の御影(みかげ)を一万体写して川に流したところ妻の病は治ったという。田村某はこの尊像を高岩寺に奉納、これが延命地蔵菩薩(とげぬき地蔵)で寺の本尊になった。そして、いつしかこの尊像の御影をいただくと病気が治るとの信仰が生まれた。現在は、本堂左手に「洗い観音」が安置されているが、患部と同じ場所を水で洗って病気平癒を願うおばあちゃん達の行列で賑わっている。毎月4の付く日は縁日で境内には露店も出ている。山門脇にある「とげぬき館」の阿弥陀三尊像の下には、高さ86cmもある室町時代の庚申待板碑が保存されている。

 
10 真性寺 (しんしょうじ)
旧中山道で地蔵通りに面した同寺は、江戸六地蔵の第四番として古くから信仰を集めている。因みに第一番は品川寺(東海道)第二は四谷太宗寺(甲州道)、第三 浅草東禅寺(奥州道)
第五 深川霊巌寺(水戸道)第六 永代寺(千葉道)である。
六地蔵は道中の安全を願って江戸府内に入る主要街道に安置された。建立したのは深川の僧地蔵坊正元で彼の志に賛同した多くの人々から寄進を受けて完成させた。そのために、台座には寄進者の名前がびっしりと刻まれている。毎年6月24日には、「百万遍大念珠供養」の行事が行われ、境内に敷いたゴザに参詣者が輪になって座り、長さ16mの大数珠を念仏唱えながら順繰りに回していく。そして11月には「菊まつり」が行われ賑わいます。地蔵の手前左手には、芭蕉の句碑があります。「志ら露もこぼれぬ萩のうねりかな」と刻まれ鯉屋杉風(さんぷう)門下の人たちが寛政5年(1793)に建てたものです。本堂裏手には江戸後期の漢学者北条霞亭(かてい)の墓がある。霞亭は北条早雲の末裔で、福山藩の儒官として藩主の信頼を得た人で、頼三陽は業績を高く讃えている。

 
11 徳川慶喜梅屋敷跡
 この地は徳川最後の将軍慶喜が静岡で30年の謹慎生活を終えて上京してから千駄ヶ谷の次に移住した地。周囲は閑静で麦畑が広がるのどかな環境であったといわれている。広大な庭には多くの梅が植えられ、「ケイキさんの梅屋敷」と呼ばれていた。慶喜は多才な人で油絵、謡曲、刺繍、囲碁などに精通し、とくに好奇心が旺盛でカメラに夢中になり愛用のカメラ3台で撮り続け、自ら現像まで行っていた。明治34年山手線の開通に伴い、騒音を嫌って小石川小日向に転居、亡くなったのは大正2年(1913)、77歳でした。墓は谷中墓地にある。

 
12 六義園(りくぎえん)
六義園は、5代将軍徳川綱吉時代の大老柳沢吉保の屋敷に作られた広さ約3000坪の「回遊式築山泉水庭園」である。柳沢吉保は幼少の頃から綱吉の小姓として仕え、綱吉が将軍になると信頼厚い側用人として、幕府の政治を一手に取り仕切り、川越7万石城主から甲府15万石へと加増され、地位も大老格になるまで出世した。元禄15年(1702)に築園し、和歌の趣味を基調とする池をめぐる園路を歩きながら移り変わる景色を楽しむ繊細で温和な庭園にした。六義園の名の由来は、中国の『詩経』に分類されている詩の分類法を和歌に適用させた紀貫之の『古今和歌集』の序文にかかれている「六義」に因む。当初は、六義園と書いて「むくさのその」とも呼ばれていた。柳沢吉保はこの『古今和歌集』に出てくる和歌を庭園で再現しようとしたものであった。この屋敷には将軍綱吉やその生母桂昌院もたびたび訪れその付き人、お奥女中たちのために市井から町人たちの屋台、出店などもつくられ大いに賑わったと言われている。吉保には、元禄の側用人政治との批判も強いが,学問を奨励し,荻生祖徠 (おぎゆうそらい)を登用するなど,文治政治へ尽くした功績も大きい。
*「詩経」というのは、仏教のお経ではなく、中国最古の詩集のことです。かつては、孔子が編纂したと伝えられ、儒教の重要な古典とされてきました。

 
13 駒込富士神社
 本郷村の名主が天正元年(1573)現在の東京大学の地に駿河の富士浅間社を勧請したことにはじまる。寛永5年(1628)加賀前田家が上屋敷をその地に賜るにあたり、浅間社を現在地に移した。拝殿は富士山に見立てた山の上にあり、江戸期の富士信仰の拠点の一つとなった。6月末から7月はじめの山開きには夜店が出てにぎわいを見せる。また、この辺り一帯は江戸の発展に伴う食料供給地として開拓され、ナス、ダイコン、ゴボウなどの野菜栽培が盛んになりました。とくにナスは優れたものができたことから「駒込ナス」として江戸庶民に親しまれました。

 
14 吉祥寺 
 曹洞宗の寺院。山号は諏訪山。室町時代長禄2年(1458)に 太田道灌が江戸城築城の際、井戸を掘ったところ、「吉祥増上」の刻印が出てきたため、現在の和田倉門のあたりに「吉祥庵」を建てたのが始まりといわれています。大永年間(1521~1527年)に高僧 青巌周陽和尚が諏訪山吉祥寺と改名しました。山号はこの地が諏訪神社の社地であったことによる。のち徳川家康の関東入府にともなって駿河台に移り、明暦の大火と江戸大火によって現在の駒込の地に移転した。境内には曹洞宗の宗門随一の学問所を意味し、後に駒澤大学となる学寮「旃檀林」があり、卍(まんじ)山道白が規則を制定して大いに繁栄し、幕府の学問所「昌平黌」と並んで漢学の一大研究地となった。多くの学寮・寮舎を備え、常時1000人余の学僧がいた。各寮には学徳兼備の者が選ばれて寮主となっていた。寮主はさらに役員を選び、これら役員によって学問の指導や日常生活が話し合いによって運営された。教科目は仏教漢学で、江戸の中間期以降は漢学が重視された。そのため僧侶以外でも、寺院に縁故のある旗本の子弟・寺侍に聴講を許した。寺堂は近代まで七堂伽藍を誇っていたが、東京大空襲で焼失し、僅かに「経蔵」を残すのみとなったが復興され、本堂、客殿、庫裏等が建ち、往時の面影を忍ばせている。
 なお、武蔵野市吉祥寺の地名は、明暦の大火で当寺の門前町の住民が住居を失い、五日市街道沿いの当地に移住し開墾したことに由来したもので吉祥寺という寺はない。経典が納められた経蔵は二重の屋根で頂には青銅製の露盤宝珠が置かれている。二宮尊徳、榎本武揚、鳥居輝蔵らの墓がある。

〇 二宮尊徳は、幕末の農政家で小田原藩下野桜町の後廃地   を復興し、幼い頃から学問に勤しんだことで知られている。
 また、彼の「経済と道徳を高める精神」は、戦後、経済一辺倒 
 で進んできた今日の日本の識者から再評価されている。

榎本武揚は、幕末の海軍奉行で幕府海軍を率いて函館五
 稜郭に立て篭もり、新政府軍に抵抗したが、のちに降伏した。
 政府軍黒田清隆が榎本の才覚を惜しみ、朝廷に助命嘆願をさ れたことから死罪を免れ、のちに政府に任官して、ロシア特命 全権公使、海軍卿、商務大臣などを歴任した。

鳥居輝蔵は、遠山金四郎と同時代に老中水野忠邦下で天  保の改革の推進に取組んだ。渡辺崋山、高野長英など、蘭学や内外の情勢を研究していた尚歯会を、「蘭学という野蛮な結社」と蔑すみ、弾圧を加えた。当時の人々からはその名をもじって“妖怪(耀・甲斐)”と渾名され、忌み嫌われた。後に水野を裏切ったために失脚させられ、財産没収の上、丸亀に蟄居させられたが、明治に入っても生き続けた。

〇また、境内には、井原西鶴が「好色五人女」の中で、八百屋お七と吉三の出会いの場として作したことから比翼の塚がありますが、これは創作で実際は円乗寺にある。


 
15 南谷寺 (なんごくじ) 
 天台宗の寺で山号は大聖山。寛永年間(1624~43)の中頃、三代将軍家光が寛永寺創建で知られる天海大僧正の具申により、江戸府内の名のある不動尊を指定し五行思想に基づく天下泰平、国家安穏を祈願して江戸五色不動を設けた。江戸時代には五眼(ごめ)不動といわれ、五方角(東・西・南・北・中央)を色で示すものです。その由来については諸説ありますが、各位置は江戸城(青)を中心として、それぞれ水戸街道(黄・最勝寺)、日光街道(黄・永久寺)、中山道(赤・南谷寺)、甲州街道(白・金乗院)、東海道(黒・瀧泉寺)といった江戸府内を中心とした五街道沿い(又は近く)にあることから、徳川の時代に江戸城を守るために置かれたといわれています。ただし、色はあくまで仏教上の方角を示すもので、目に色があるわけではありません。ここ南谷寺 は元和年間(1615~24)万行和尚が伊勢国赤目山で、不動明王像を授けられた。その後、尊像を護持して諸国をめぐり、駒込村の動坂に庵を開き赤目不動と号した。寛永年間(1624~44)三代将軍家光が鷹狩の途中に動坂の庵に寄り、目黒・目白不動に対し目赤と呼ぶべしと命じ、現在地を与えたと言われている。

 

16 龍光寺 (りょうこうじ)
 寛永年間の始め、伊勢(鈴鹿)龍光寺虎伯禅師は三代将軍家光公に請われ、芝の金地院に於いて禪書『碧巌録』を講じてよりその名声は一時に高くなり、諸侯を初め知名の人々も日を追って帰依するに至った。当初、親交のあった幕府の主官医・大橋隆慶の屋敷に僅かばかりの土地を借りて小庵を営んで居たが、後に牛込矢来下に官地を賜り、ここに御堂を建立して、天澤山龍光寺と称し、伊勢(鈴鹿)龍光寺の別院とした。中でも、特に信仰の深かった京極、小笠原の両大名は廟所を当寺に定め、それにより両氏を当寺の開基とした。明暦二年、牛込の地は御用地となり酒井讃岐守により駒込のこの地に三千六百坪を拝領して移転された。

16-1 吉丸一昌
 大分県の下級士族の長男として生まれる。幼少より学問に秀で、県から度々表彰を受けるほどだった。1889年第五高等学校に進学する。教授には夏目漱石、湯原元一、小泉八雲などがおり、当時は剣道に熱中していた。1898年、第五高等学校を卒業した吉丸は東京帝国大学国文科に進学。下宿先で「修養塾」という私塾を開き、その後生涯に渡り、地方からの苦学生と生活を共にして衣食住から勉学、就職に至るまでを世話した。1902年、第三中学(両国高校)へ教師として赴任、当時の教え子の中には芥川龍之介もいた。1908年吉丸は東京音楽学校の校長である恩師・湯原元一から文部省唱歌編纂(へんさん)委員に推挙され、作詞主任として多くの唱歌編纂に当たった。
 「故郷」「菜の花」で有名な高野辰之よりは責任の高い地位にあった。自らも作詞をし、『桃太郎』『日の丸』、『池の鯉』、『かたつむり』『早春賦』、『故郷を離るる歌』(ドイツ民謡)などがある。数多くの作品を生み、また学生たちのために出資を惜しまない吉丸だったが、本人の生活は極めて質素だったという。1916年3月7日、43歳の若さでこの世を去った。吉丸の音楽家としての活動は、唱歌の成立やその後の日本の童謡などに多大な影響を与えている。
17 園乗寺 (えんじょうじ)
 同寺は「八百屋お七」のお墓があることで有名です。恋人に会うために火をつけ、火あぶりの刑に処せられたお七の話は諸説あります。お七は本郷森川町で八百屋を営む市左衛門の娘であった。天和の大火(1682)で菩提寺の園乗寺に避難した際、そこで知り合った寺小姓の吉三郎と恋仲になった。新築された家に戻ったお七は、もう一度吉三郎に会いたいと思いは募り、火事が起きればまた、吉三郎に会えると思い込んで、翌年火をつけてしまった。火事は小火(ぼや)で済んだが、お七は捕らえられ裁きにかけられた。両親、親戚の減刑運動や16歳の可憐さに北町奉行も同情の気配を見せたが、放火は天下の大罪で減刑はならず、市中引き回しの上、鈴が森で火あぶりの刑に処せられた。このお七の恋心ゆえの火事騒ぎは江戸の人々の同情と関心を呼び、小説や芝居様々に取リあげられた。とくに井原西鶴の草紙「好色5人女」-恋草からげし八百屋物語は有名である。恋人の吉三郎については、火事を唆したどうしょうもないやくざ者であったとか、念仏僧になり諸国の霊場をめぐりお七の菩提を弔ったという物語が出来ている。

18 小石川植物園
 徳川幕府直轄の小石川御薬園でした。徳川幕府は三代将軍家光の時代寛永15年(1638)に薬用の植物を栽培するための場を麻布と大塚に開設しますがこれらを統合して、貞享元年(1684)現在地に小石川御薬園となりました。八代将軍吉宗の時代にほぼ現在と同じ規模に拡大され享保7年(1722)には小石川療養所が付属施設として開設されました。小石川療養所は「貧民のための医療施設を!」と意見書を目安箱に入れた江戸の町医者・小川笙船の提見が取り入れられ、南町奉行の大岡越前守らが建設を担当して、享保 7年(1772)に「小石川養生所」として開設された。
 小川笙船は山本周五郎の小説「赤ひげ」の主人公 新出去定(三船敏郎)のモデルになった人物で診療所の運営責任者として就任した。のち小川家は幕末まで 7代に亘って世職としてつとめた。享保11年、笙船は職をゆずって隠居し風光明媚な「金沢八景」で過したが、病気のため江戸に戻り89才で世を去った。この地は明治10年(1877)東京大学の設置に伴いその付属施設とされ薬用植物の研究施設として今日に至っています園内は、都心にあるとは思えぬほど静寂な空気に包まれ変化に富んだ地形の中に薬用植物の栽培地や珍しい樹木などを眺めることができます園内は起伏があり、この広場を中心にした高台の部分と和風庭園からなる低地の部分に分かれています低地部分の庭園には清冽な水をたたえた池が連なり池の周囲には珍しい種類の樹木が植えられています

 
19 播磨坂
第二次大戦後の区画整理でできた「環状3号線」の一部として整備された。この地にあった常陸府中松平播磨守の上屋敷にちなみ、播磨坂と名付けられた。昭和35年に坂の舗装が行われた際に、当時の花を植える運動の一つとして桜の木約200本が植えられた。桜は地元の人々の手で育てられ、立派な桜並木に成長した。また、中央部は緑道として整備され、憩いの場となっている。

 
20 傳通院
 傳通院は、今から約600年程前の応永22年(1415)、浄土宗第七祖了誉聖冏上人が開山したお寺です。当時は小石川極楽水の小さな草庵で、無量山寿経寺という名で開創されました。
それから約200年後の慶長7年(1602)、徳川家康公のご生母於大の方が逝去され、この寿経寺を菩提寺と定められ、於大の方の法名「傳通院殿」から「傳通院」と呼ばれるようになりました。徳川家の庇護のもとで大伽藍が整えられました。また、関東十八檀林の一つとして学僧の修行勉学の場となり、明治以後は淑徳女学校を設立し、檀信徒のみならず地元住民参加の新しい布教伝道方式による仏教活動や教学の振興と共に社会事業も推進しております。

20-1 於大の方は、刈谷城主水野忠政の娘に生まれ、岡崎城主松平広忠に嫁いで家康を生む。 兄水野信元が今川から織田方に寝返ったため離縁され、尾張阿久比城主、久松俊勝と再婚し、久松康元、勝俊、定勝の3男子を設けた。異父兄弟の3名は、家康より松平姓を許され、その後下総関宿(康元)、遠江掛川(勝俊)、伊勢桑名(定勝)に封じられ、江戸時代は親藩として栄えた。

20-2 千姫
 二代将軍徳川秀忠の娘。母は淀君の妹お江与。慶長8年、7歳の時に豊臣・徳川両家の関係を好転するため豊臣秀頼(11歳 母は淀君)に嫁し、大阪城に入る。元和元年(1615)大阪夏の陣で豊臣氏が滅亡後、播州姫路城主本多忠刻 (ただとき)に再嫁する。寛永3年忠刻の死により江戸へ帰り30歳にして落飾し天樹院と号す。寛文6年、69歳で死去。

20-3 清河八郎
 幕末に活躍した庄内藩(山形)出身の勤王の志士である。清河は北辰一刀流の使い手で、また学問にも優れていた文武両道の天才であった。不平等条約を締結した幕府の政治に憤りを感じていた清河は江戸に出て、尊王攘夷の倒幕派志士たちを集め、打倒幕府のための策を講じていた。清河は驚天動地な構想を画策し、”敵になるはずの幕府に向けて、「身分を問わず、優秀な人材を集め、乱れた京都の治安を回復し、将軍家茂の上洛を警護するための浪士組を結成したい」と建言状を提出した。幕府は清河を警戒していたが、この建言を採用し、文久3年(1863)2月4日山岡鉄舟、清河八郎中心に総勢234人の「浪士組」がここ伝通院の塔頭の一つであった処静院で結成された。その後、浪士隊を離れて新選組として名を馳せた近藤勇、土方歳三、沖田総司も、この結成に加わっていた.清河は、その後幕府の見廻り組から追われ、幕士・佐々木只三郎によって赤羽橋で暗殺された。

20-4 佐藤春夫
 明治25年(1892年)和歌山県新宮市に生まれました。医師である父が文芸に造詣が深かった影響を受け少年時代から文学に深く心酔した。明治43年(1910)上京して慶應義塾大学予科文学部に入る。雑誌「三田文学」「スバル」などに詩歌を発表、また「西班牙(スペイン)犬の家」を発表してその才能が注目されつつありましたが、大正7年(1918)、谷崎潤一郎の推挙により文壇に登場、以来『田園の憂鬱』『お絹とその兄弟』などの作品を次々に発表してたちまち新進流行作家となり、芥川龍之介と並んで時代を担う二大作家と目されるようになりました。友人の谷崎潤一郎の妻・千代に恋慕し、谷崎と千代子が離婚した後、三人連名の挨拶状を知人・マスコミに送り、「細君譲渡事件」としてセンセーショナルな反響を呼び起こした。代表作である「秋刀魚(さんま)の歌」は千代への思慕が背景にあったといわれる。彼の著作は多様多彩で、詩歌(創作・翻訳)、小紀行文、戯曲、評伝、自伝、研究、随筆、評論、童話、民話取材のもの、外国児童文学翻訳・翻案などあらゆるジャンルにわたっています。昭和39年72歳で死去しました。

 
 

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