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第5回 お江戸散策 目白・雑司ヶ谷・護国寺 (解説版)

2017年01月04日(水)
第5回 お江戸散策 目白・雑司ヶ谷・護国寺 (解説版)
1 学習院大学
 学習院は明治維新後の1876年に華族学校という校名から始まる。翌年明治天皇のもとで開校式が行われた際に学習院と改名された。学習院ではこの年を学校の創立年としている。もともとは皇室の設置する私塾という位置づけであったが1884年には宮内省が所轄する正式な官立学校となる。第二次世界大戦前の学習院は文部省ではなく宮内省の管轄下に置かれ、華族の子弟なら原則として無償で学習院に入ることができた。平民はごく限られた人数が入れたが、授業料は有償であった。華族を中心とした上流階級が通う学校として閉鎖性とエリート教育を維持されてきたが、第二次世界大戦後に華族制度が廃止され、私立の学校法人として再出発し、一般市民との差別待遇も無くなった。しかし現在でも皇族が通い、“御学友”が存在するなど、戦前の華族を中心とした教育機関の性格を少なからず残しているなかで、多彩な卒業生を排出している。主な卒業生には、麻生太郎、亀井久興、島村宣伸、徳川恒孝(つねなり)(徳川宗家第18代当主)近衛忠煇(細川護煕元首相の実弟) 島津久永(貴子妃の夫)、〔その他〕吉村昭、塩野七生(ななみ)、オノ・ヨーコ、都倉俊一、田宮二郎、児玉清、角野卓造、仲本工事などがいる。

2  目白不動尊
 真言宗 神霊山 金乗院 慈眼寺を通称目白不動尊と読んでいる。本尊は弘法大師作と伝えられている聖観世音菩薩。目白不動尊は、東豊山 浄滝院 新長谷寺と号し、早稲田方面を望む高台の関口にあったが昭和二十年五月の戦災により焼失したため、本尊の不動明王像を金乗院に移して合併したのである。弘法大師が唐より帰朝後、羽州湯殿山に参籠された時、大日如来が忽然と滝の下に出てきて、その姿は利剣を立てて、霊火包まれた不動明王の姿となっていた。大師はこの像を持ち帰り、自ら護持されたという。その後、武蔵国関口の住人松村氏に渡り、関口の地主渡辺石見守からこの地の寄進を受けて、この地に仏堂を建立して像を安置したことが濫觴と言われている。その後、不動明王は三代将軍家光公より目白の号を賜り江戸五街道守護の五色不動(青・黄・赤・白・黒)のひとつとして称することになった。元禄期には五代将軍綱吉公および同母桂昌院の篤い帰依を受け、たびたびの参詣があり、堂塔伽藍も荘麗を極め、大いに隆盛した。このことからメジロが木の枝にとまるとき、押し合うように沢山並んでとまることのメジロ押しを、「目白押し」としゃれた。

3  雑司が谷 鬼子母神
 鬼子母神は広く子授け、安産、子育ての鬼神として知られています。しかし、鬼子母神は当初、他人の子を取って食べる邪悪なものであったのを、仏によって教化され、仏の守護神になったとされています。普通「鬼子母神」と書きますが雑司が谷鬼子母神は「角(つの)」がないと伝えられ、正式には鬼の字にツノがありません。この雑司が谷鬼子母神堂の創建は寛文4年(1664)で、永禄4年(1561)、目白台付近の畑より鬼子母神が出土し、法明寺内の深森を切り開いて像を安置、鎮守としたのがはじまりで、1666年に安芸藩主浅野光晟の正室自昌院が宝殿(ほうでん)を建立しました。正面の壁面写真は明治末期の鬼子母神境内を画家昇雲が描いたものです。うっ蒼と茂る木々と掛茶屋がよく境内の雰囲気を出しています。鬼子母神堂は東京都の指定有形文化財となっていて、境内の大イチョウ、参道のケヤキ並木も都の指定天然記念物となっています。雑司が谷鬼子母神は宝殿が建立された江戸初期から多くの参詣人を集め、門前には茶屋や料亭が建ち並び繁昌しました。そして江戸町人が経済力を増し、商業が活発化した時期の享保(きょうほ)期(1716~36年)より文化・文政(1804~30年)ころには、物見遊山を兼ねた参詣が多くなり、それが一層、門前の料亭などを栄えさせることになりました。

4 雑司ヶ谷霊園
 雑司ヶ谷霊園は、東京都豊島区南池袋にある東京都立の霊園。面積は約115,400平方メートル(縦横340mに相当)。明治政府の自葬禁止、旧江戸城下内の埋葬禁止などの墓地令等の法令・布告にともない共葬墓地の必要が生じ、東京府が東京会議所に命じて雑司ヶ谷旭出町墓地を造営して、明治7年(1874)9月1日に開設した。その後、明治22年(1889)東京会議所から東京市の管轄となったのち、昭和10年(1935)「雑司ヶ谷霊園」に名称変更。現在は東京都公園協会が管理している。ジョン万次郎、小泉八雲、夏目漱石、島村抱月、竹久夢二、泉鏡花、東條英機、永井荷風、サトウハチロー、東郷青児、大川橋蔵など著名人の墓が多くあり、夏目漱石の小説『こゝろ』の舞台にもなっている。

5 雑司ヶ谷旧宣教師館
 雑司ヶ谷旧宣教師館は、明治40年にアメリカ人宣教師のマッケーレブが自らの居宅として建てたもので、豊島区内に現存する最古の近代木造洋風建築であり、東京都内でも数少ない明治期の宣教師館として大変貴重なものです。また当時の新興住宅地における布教活動と幼児教育の拠点としての意味を持っていたことを地域の人が記憶しており、昭和62年9月1日に、豊島区の登録有形文化財として登録し、その後、特に重要な文化財として保存、活用をさらに進めるため、平成4年11月10日に、指定文化財としました。この建物は木造総2階建て住宅で、全体のデザインはシングル様式であり、細部のデザインはカーペンターゴシック様式を用いており、19世紀後半のアメリカ郊外住宅の特色を写した質素な外国人住宅です

6 東京音楽大学
 東京音楽大学は明治39年(1907)に創設された東洋音楽学校が前身の私立音楽大学。略称は東京音大。創設者は鈴木米(よね)次郎。日本の私立音楽大学の中では音楽学校としての時代を含めると最も古い歴史を持ち、国内の私立音楽大学として唯一、創立から100年以上経過している。
 主な卒業生は、作曲家に池辺晋一郎、三枝成彰、服部克久、海沼實(みかんの花咲く丘)佐々木俊一(高原の駅よさようなら) 船村徹(王将、風雪ながれ旅、矢切の渡し)米山正夫(りんご追分)歌手には、淡谷のり子、春日八郎、菊池章子、霧島昇、奈良光枝、三浦洸一がいる。その他 黒柳徹子(タレント)、池田理代子(ベルサイユのバラ) 、石橋エータロー(ピアニスト)、大空真弓(俳優)、津島恵子(俳優)、藤原釜足(俳優)らも同校の卒業生である。

7 護国寺
 護国寺の創建は天和元年(1681)、五代将軍徳川綱吉公が、その生母、桂昌院の発願により、上野国碓氷八幡宮の別当、亮賢僧正を招いて開山し、殿堂を建立し、桂昌院念持仏の如意輪観世音菩薩像を本尊とし、号を神齢山悉地院護国寺と称し、寺領三百石を賜ったことに始まる。桂昌院は亮賢僧正の徳をしたい厚く帰依されていて、当山をしばしば訪れた。元禄七年十月には綱吉公と共に当寺に参詣し、その折、寺領を六百石に加増している。将軍家の庇護のもと護国寺境内は様々な建造物が甍をならべ、元禄十年(1697)には、元禄時代の建築工芸の粋を結集した大伽藍が完成した。その雄大さは江戸隋一のものとなり、護国寺界隈は隆盛を極めていった。その後、上野寛永寺と並び称せられた神田護持院が火災を受け、護国寺と合併することになり、寺領も両寺合わせて2700石に加増され、幕府祈願の大任を受けて、一層繁栄し、江戸の名所として発展していきました。明治の代になると一変し、護持院は廃寺となり、護国寺は何とか廃寺を免れたが、明治16年、大正15年の火災で堂宇の多くを失った。その中で観音堂(本堂)は元禄以来の姿を変えず、近江三井寺より移築された月光殿(重文)は桃山期の建築美を今に伝えている。また、元禄文化の粋を集めた書画・什器の他、国宝、重要文化財等の数多くが寺宝として現存している。同寺には、三条実美、大隈重信、山県有朋、田中光顕、益田孝、ジョサイア・コンドルが眠っている。

8 鳩山会館
 鳩山邸は1924年、鳩山一郎の私邸として建設された。設計者は友人の建築家、岡田信一郎である。1950年3月、自由党が発足したとき一郎が中心人物の一人として動いたことから、この私邸が会合の場として度々用いられた。一郎が首相に就任したのちにもソ連との国交回復に向けた打ち合わせがここで行われている。太平洋戦争中の空襲により屋根に損害を受けたが、長男、威一郎が書斎を増築するなどの大改造が行われた。竣工後70年に鳩山家の業績を伝える記念館として再生することになり、屋根が竣工当時の姿に復元され外壁の焦げ跡も修復されるなど往時の姿を取り戻した。1996年6月1日にオープン。

9 講談社
 創業者の野間清治により、1909年に「大日本雄弁会」として設立される。「講談社」の名称はその名の通り「講談」に由来するもので、「講談倶楽部」を創刊した1911年より、大日本雄辯會と併せて使用している。戦前の評論家の徳富蘇峰は、戦前の少年や青年たちに大きな影響を与えた講談社を私設文部省と評した。野間家が社長を継続し、1958年野間省一のときに「株式会社講談社」と改称して、今日に至っている。現在の社長は6代目野間佐和子氏が就任。「面白くて為になる」をモットーに、戦前から大衆雑誌『キング』、『少年倶楽部』などの様々な雑誌や書籍を世に出し、国内出版最大手として君臨して来た。一時は年間売上高が2,000億円を超えていたこともあったが近年は「出版不況」により売上が減少し、一時、小学館に業界最大手の座を譲るときがあったが、2007年度の決算で小学館を抜き返し、以後、業界最大手の座を奪還維持している。傘下に光文社、日刊現代などを持ち「音羽グループ」を形成している。

10 椿山荘
 武蔵野台地の東縁部にあたる関口台地に位置し神田川に面したこの地は、南北朝時代から椿が自生する景勝地だったことから「つばきやま」と呼ばれていた。明治の元勲である山縣有朋が明治11年(1878)に私財を投じてこれを購入し「椿山荘」と命名した。大正7年(1918)には大阪を本拠とする藤田財閥の二代目当主藤田平太郎男爵がこれを譲り受け、東京での別邸とした。戦災で一部が焼失したが、昭和23年(1948)に藤田興業の所有地となり、その後1万余の樹木が移植され、昭和27年(1952)より結婚式場として営業を開始した。昭和30年(1955)藤田興業の観光部門が独立して藤田観光(初代社長 小川栄一)が設立され、椿山荘の経営は藤田観光に移管された。そして平成18年(2006)には、藤田観光の本社が敷地内に移転して、事業展開しておりフォーシーズンズホテル椿山荘をはじめワシントンホテル、箱根小涌園などの経営の中枢となっている。余談ですが、準大手ゼネコンだったフジタ組は、藤田一郎・定市兄弟が広島市で創業して東京に進出したもので藤田観光とは関係ない。

11 野間記念館
 講談社野間記念館は、講談社創業90周年事業の一環として、閑静な目白の杜に囲まれた一角に、2000年4月設立されました。展示品は、主に3つに大別され、第1は、講談社の創業者・野間清治が、大正期から昭和初期にかけて収集した美術品を主体とする「野間コレクション」。第2は明治から平成にわたり蓄積されてきた貴重な文化遺産ともいえる「出版文化資料」。第3は、講談社とゆかりの深い画家、村上豊画伯の画業が見てとれる「村上豊作品群」です。これらユニークなコレクションから、珠玉の作品をご覧いただけます。
12 和敬塾
 (財)和敬塾は男子大学生・大学院生向けの学生寮。昭和30年(1955)、前川製作所の創業者である前川喜作によって創設された。東寮、西寮、南寮、北寮の4つの寮がある。塾生は約450名であり、学生が所属する大学は約50校ある。留学生もいる。和敬塾は、単なる「住居」としての学生寮ではなく、その設立趣旨は、男子大学生が「共同生活を通して、社会人として必要な徳性と社会性を身につけること」を基本理念とした「教育の場」です。2005年4月より、大学院生と留学生のための巽寮が加わり、2009年4月より、早稲田大学の学生向けの乾寮が加わった。年間を通じて様々な行事があり、なかでも各界著名人による講演会が数多く催されている。和敬塾本館は、1936年、細川護立(元首相細川護煕の祖父)が細川侯爵家の本邸として建てた西洋館であった。細川護煕も幼少時、和敬塾本館で過ごしている。現在は敷地が分割されているが、新江戸川公園、永青文庫の敷地まで細川邸であった。和敬塾内では、人に会ったら「こんにちは」と挨拶することになっている。新入生に対し厳しい行事があるが、乗り越えると和敬塾の一員としてみとめられる。隣接する公園は田中角栄元首相邸跡。

13 永青文庫
 永青文庫は、東京都文京区目白台にある、日本・東洋の古美術を中心とした美術館である。昭和25年(1950)旧熊本藩主細川家16代当主細川護立(1883 – 1970)によって設立された。伝来の美術品、収集品、歴史資料などを収蔵し、展示、研究を行っている。目白台の閑静な住宅街のなかにある。細川護立は旧侯爵、貴族院議員で、国宝保存会会長などを務め、戦前・戦後の日本の文化財保護行政に多大な貢献をしている。「美術の殿様」と言われ、美術品収集家としても著名であった。
文庫の所在地は細川家の屋敷跡であり、建物は昭和時代初期に細川家の事務所として建てられたものである。文庫名の「永青」は細川家の菩提寺である*建仁寺塔頭永源院の「永」と、細川幽斉の居城・青龍寺城の「青」から採られている。一般公開されるようになったのは、当主が第17代細川護貞になった昭和47年(1972)からである。正宗の名刀をはじめ8点の国宝や狩野元信、宮本武蔵、菱田春草らが描いた絵画など多数の重要文化財を所蔵している。所蔵品は芸術新潮編集部 編『細川家の700年 永青文庫の至宝』で詳しく紹介され、現在の第18代当主・理事長で元首相の細川護煕も執筆している。* 建仁寺:京都市東山。栄西が開山した臨済宗建仁寺派大本山の寺院。

14 新江戸川公園
 新江戸川公園は、東京都文京区目白台にある文京区立の公園である。当地一帯は江戸時代中頃まで幕臣の邸宅があったところであった。その後、幾度かの所有者の変遷を経て、幕末に細川家の下屋敷になり、明治時代には細川家の本邸となった。昭和35年(1960)に東京都が当地を購入し、翌年には公園として開園した。昭和50年(1975)文京区に移管されて現在にいたる。当地付近は目白台からの湧水(わきみず)が豊富な地点で、その湧水を生かした回遊式泉水庭園を主体とした公園となっており、江戸時代の大名屋敷の回遊式泉水庭園の雰囲気を現在でも楽しむことが出来る。

15 関口芭蕉庵
 松尾芭蕉が二度目に江戸に入った後に請け負った神田上水の改修工事の際に、延宝5年(1677)から延宝8年(1680)までの4年間、当地付近にあった「竜隠(りゅうげ)庵」と呼ばれた水番屋に住んだといわれているのが、関口芭蕉庵の始まりである。後の1726年(享保11年)の芭蕉の33回忌にあたる年に、「芭蕉堂」と呼ばれた松尾芭蕉やその弟子らの像などを祀った建物が敷地に作られた。その後、1750年(寛延3年)に芭蕉の供養のために、芭蕉の真筆の短冊を埋めて作られた「さみだれ塚」が建立された。また「竜隠庵」はいつしか人々から「関口芭蕉庵」と呼ばれるようになった。1926年(大正15年)には東京府の史跡に指定された。また芭蕉二百八十回忌の際に園内に芭蕉の句碑が建立された。芭蕉庵にある建物は戦災などで幾度となく焼失し、現在のものは戦後に復元されたものである。現在では講談社・光文社らが中心となって設立された「関口芭蕉庵保存会」によって維持管理されており、池や庭園などもかつての風情を留めた造りとなっている。

16 水神社
 創建の年代は不明。祭神は15代応神天皇。江戸中期の俳人、菊岡沾涼(せんりょう)が著した「江戸砂子」には「上水開けてより関口水門の守護神なり」とある。伝えによれば、水神が八幡宮社司の夢枕に立ち、「我水伯(水神)なり。我をこの地に祀らば堰の守護神となり、村民を始め江戸の町ことごとく安泰なり」と告げたのでここに水神を祭ったという。上水の恩恵にあずかった神田、日本橋方面の人々の参詣が多かったといわれる。江戸時代、このあたりは田園地帯で清らかな神田上水が流れ、前には早稲田田んぼが広がり、後ろには目白台の椿山を控え、西には富士の姿も美しく眺められた行楽の地だったという。

17 早稲田大学
 明治14年(1882)大隈重信が創立した東京専門学校が前身である。その後明治34年(1902)早稲田大学と改称、さらに大正9年(1920)大学令に基づく大学となった。
大正2年(1913)に制定された建学の精神には「学問の独立」「学問の活用」「模範国民の造就」を理念とし、以下の教旨が定められている。
1、早稲田大学は学問の独立を全うし、学問の活用を効し、
 模範国民を造就するを以て建学の本旨と為(な)す。
2、早稲田大学は学問の独立を本旨と為すを以て、之が自由
  討究を主とし、常に独創の研鑽に力め、以て世界の学問に
 裨補(ひほ)せん事を期す。
3、早稲田大学は学問の活用を本旨と為すを以て、学理を学
 理として研究すると共に、之を実際に応用するの道を講じ以
 て時世の進運に資せん事を期す。
4、早稲田大学は模範国民の造就を本旨と為すを以て、個性
 を尊重し、身家を発達し、国家社会を利済し、併せて広く世界
 に活動すべき人格を養成せん事を期す。
 校歌は、作詞相馬御風、作曲東儀鉄笛。同じ雅楽家であるが
 東儀秀樹とは家系が異る。

 
   

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