* 解 説
清水谷公園
江戸時代の初期から、この界隈には紀州藩徳川家上屋敷、尾張藩徳川家中屋敷、彦根藩井伊家中屋敷がありました。 紀尾井町の名前は、紀伊・尾張、井伊の三家よりそれぞれ一字ずつ取って名付けられたものです。また、紀尾井坂より南、弁慶橋辺(あた)りまでの低地は、清水が湧き出ることから「清水谷」と呼ばれていました。明治以降の紀尾井町は、政府用地、北白川宮邸(のちの李王邸、元・赤坂プリンスホテル)や伏見宮邸(現・ホテルニューオータニ)、行政裁判所(現・城西大学)、尾張徳川邸(現・上智大学)などになりました。明治11年(1878)5月14日朝、維新後の近代日本の礎を築いた功労者内務卿大久保利通が、加賀藩士族 島田一郎ら6名の暴漢によって清水谷前の道で暗殺されました。事件後、現場近くの地に大久保利通の哀悼碑が設置され、のちに整備されて清水谷公園となりました。
赤坂見附
明治維新直後の東京は、諸大名が国許に帰り、旗本、御家人は離散し、武家に生計を依存していた町民層も困窮していました。江戸時代の最盛期には130万人に達していた人口は明治4年には、58万人に激減していました。江戸から東京への変化の中で、武家屋敷のほとんどが解体され、江戸城に近い地区の大名屋敷は官庁、学校、軍用地、皇族用地、新政府の高官の邸宅に当てられました。また、新政府は国家体制を充実させるために、版籍奉還、廃藩置県、徴兵令、地租改正条例の発布などを実行していきました。また、皇居を中心とした官庁街の整備を進め、人馬も往来をよくするために、江戸城の城門のほとんどを撤去しました。これによって、町人町と山の手とが直接結ばれるようになりました。ここ赤坂見附の城門もこのような新政府の方針で、城門が撤去された一つです。見附とは主に城の外郭に位置し、外敵の侵攻、侵入を発見するために設けられた警備のための城門のことで、江戸城には外濠)および内濠に沿って36ケ所の見附があったとされています。赤坂見附はそのうちの一つで、他に現在、名を残すものとしては四谷見附、市谷見附、牛込見附などがあります。赤坂見附の城門は枡形門の形式で、出入り口に桝形とよばれる四角形の広場があり、この広場は敵に攻められた時はここに敵兵を引き入れ周囲から弓・鉄砲などで攻撃するようになっていて江戸城の田安門、桜田門などと同じでものです。
旧華族女子学校跡 
この地は、江戸時代松江藩の中屋敷があったところで、明治に入ってから屋敷は荒廃していたが、大日本帝国憲法が公布された明治23年(1889)年に華族女学校がこの地に四谷から移転して設立されました。この華族女子学校は後に学習院女学校になります。この女学校では、津田塾を創立した津田梅子がここで3年間英語を教えていましたが、旧幕臣の出身の梅子には上流階級的気風には馴染めなかったと言われ、この頃には何度か薦められていた縁談も断っている。この地は現在、参議院議長の公邸になっています。
日枝神社
万治二年(1659)、半蔵御門外にあった山王権現がこの地に移され鎮守の森となりました。この森には溜池があり、玉川上水を引く前には江戸の水道の水源にもなっていました。旗本屋敷の庭園の緑が照り映え、茶屋が点在する風情があり、清く澄んで、静寂なこの溜池では、将軍家光が水泳をしたと伝えられています。しかし静寂なだけではなく、神田明神と交替で隔年六月に行われる山王権現の本祭は、江戸時代より将軍の上覧に供する豪華な天下祭で、行列には山車や曳物、お囃子、踊りが出て、人々の装束も華麗でした。とくに江戸時代に大きな象の作り物を伴なった朝鮮通信使来朝の行列は大変な人気で、見物も店の前に桟敷を作り、緋毛氈を敷き、金屏風や名流百家の手になる衝立を立てて見物をしたと言われています。仏教と神道が合体した、この山王権現を、江戸の人たちは「山王様」と呼んで親しんでいました。その後、明治政府は仏教を分離し、国家神道に組み込んで、皇城鎮護の「日枝神社」としました。大正元年(1912年)には官幣大社に昇格しています。昭和20年(1945)の東京大空襲で社殿が焼失し、昭和33年(1958)に再建され、今日に至っています。
氷川公園
江戸時代前期、この公園付近には、広島藩浅野家や分家の赤穂藩 浅野内匠頭の屋敷がありました。元禄10(1697)年には、その一部が幕府旗本の屋敷地となり、この公園の一角も旗本屋敷になりました。享保14(1729)年には、隣接していた三次藩浅野家屋敷の一部が氷川神社の宮地と定められたのち幾多の変遷を重ねて幕末を迎えました。明治2(1869)年、この辺り一帯の町が合併して赤坂氷川町になり、明治39(1906)年、農商務技師で馬産事業に貢献した新山荘輔の邸宅になっていたこの地を赤坂区が買収して、氷川尋常小学校になりました。その後、火災により、氷川小学校は、勝海舟邸跡に移転したので、ここは昭和10年に公園となりました。
勝海舟邸跡
ここは幕末から明治にかけて、幕臣として活躍した勝海舟が明治5(1872)年から満76歳で亡くなるまで明治元年(1868)まで住んだ邸宅跡です。その間、新政府の参議、海軍卿、枢密顧問官、伯爵として顕官の生活を過ごす傍ら、徳川一門や旧幕臣たちへの経済的世話をしたり、明治31年には徳川慶喜を明治天皇に拝謁させて、徳川と朝廷とのわだかまりを解す任を行っています。また、有名な「氷川清話」は、ここで口述筆記されたものです。海舟には、福澤諭吉が、幕臣でありながら、幕府を見捨てて新政府に使えた事などを批判していますが、彼が成し遂げた「江戸城無血開城」は、江戸の町を戦火から防ぎ、百万の生命と財産を保ち、徳川家の滅亡を救ったことになりました。その功績は日本の歴史のなかでも燦然と輝く快挙と言えます。
氷川神社
氷川神社は天武3(375)年、あるいは天暦5(951)年の創建と伝えられ、元は紀州藩邸にあった産神を紀州徳川家から 八代将軍になった吉宗が深く崇敬して社領200石を寄進してこの地に移転させ、享保15(1730)年に社殿を建立しました。それ以前、この地は盛岡南部藩の屋敷であったが、有栖川宮公園のところにあった浅野家の屋敷と交換したため、元禄の頃には浅野土佐守の屋敷になりました。浅野内匠守が切腹したあと夫人の瑶泉院は浅野本家に引き取られ、当屋敷で暮らし、討入りに際して大石内蔵助はこの屋敷を訪れています。浪曲や講談でおなじみの南部坂は、氷川神社の東側にあり、ここが南部藩の屋敷だったことに因んでいます。境内には、幹囲が7.5メートルもあるイチョウの巨木があり、港区では善福寺にあるものに次ぐ大きさです。
志賀直哉居住跡
ここは志賀直哉が14歳(明治30年)から29歳(大正2年)まで、明治期の財界で重きをなした父直温とともに住んだ所です。当時の屋敷は1682坪(550m2)もあり、雑木林も備える広大なものでした。直哉はここで人間形成のもっとも重要な時期を過ごし、処女作である「或る朝」をはじめ「網走まで」「正義派」「大津順吉」などの初期の名作を生み出しています。作品のなかには、当時の父とのいきさつを扱ったものや「剃刀」「自転車」のように、この土地にかかわるものも執筆しています。当時の家屋は昭和20年3月の空襲で全焼しました。
檜町公園
ここは江戸時代長州藩の中屋敷があったところで、ヒノキの木が多かったことから檜屋敷とも呼ばれて、邸内には清水亭という庭園がありました。幕末期には村田蔵六(大村益次郎)が、蘭学塾を開いていました。長州征伐が下されたとき、藩邸は幕府によって取り壊され、維新後はしばらく更地になっていました。明治になってから陸軍の筆頭連隊と呼ばれた第一師団第一歩兵連隊の兵舎が置かれました。戦後、昭和40年から港区に移管され檜町公園として管理されています。
旧乃木邸
ここは明治の陸軍大将乃木希典の旧邸宅です。明治12年に転居してきた乃木は、大正元年(1912)9月13日ここで夫人と共に殉死しています。乃木は長門府中藩邸(六本木ヒルズ)で生まれ新婚時代は、虎ノ門で過ごすなど港区には縁が深い人です。屋敷は明治35年に自身の設計で建てられたものでフランス軍隊の建物を参考にしています。当時の将官が住むものとしては質素な木造平屋建てであるのに、厩舎は立派な煉瓦造りになっていて、乃木が馬を可愛がり、大切にしていた一面が見られます。乃木は西南戦争時、薩軍と交戦中に軍旗を喪失する失態をしたり、日露戦争では旅順攻撃では4万人を超える犠牲者を出すなどして一時国民から非難されているように軍歴には優れたものは見られないが、旅順で降伏した敵将の名誉を重んじた行為は世界から称賛され、また、息子2人を相次いで戦死させるなど同情も受けている。そして明治天皇に追うように殉死して、人間的美学を示したことで軍神として崇められるようになりました。
大久保利通
天保元年8月10日〜明治11年5月14日 (1830〜1878)
鹿児島生まれ。政治家。明治維新の指導者。島津久光のもとで公武合体運動を推進。やがて討幕へと転じ、薩長連合を成立させる一方、岩倉具視らと結んで慶応3年(1867)12月、王政復古のクーデターを敢行する。維新後、新政府の中枢に参画し、版籍奉還・廃藩置県・廃刀令などを断行しました。明治4年(1871)特命全権副使として岩倉遣外使節団に随行して、国際見聞を広げる。帰国後、西郷らが主張する征韓論に反対して、内政整備優先を主張する。征韓派参議たちが敗れて下野すると、各地で新政府の方針に不満を持つ士族の反乱が合い次いで起こるが、大久保は佐賀の乱(江藤新平)、神風連の乱(大田黒伴雄、秋月の乱(今村百八郎)、萩の乱(前原一誠、西南戦争(西郷隆盛)等の反政府暴動をことごとく鎮圧した。その一方で殖産興業の推進を行い、地租改正反対一揆には、地租を引き下げて農民を擁護した。また、木戸孝允、板垣退助らと大阪会議を開き、国会開設を準備するなどの手腕を振るい資本国家体制の基礎を築いた。(   )内は首謀者。
後藤新平
安政4年6月4日〜昭和4年4月13日 (1857〜1929)
岩手生まれ。父は水沢藩士。須賀川医学校卒。24歳で愛知県病院長兼愛知医学校長となる。その後内務省衛生局に入り、ドイツ留学をへて、35歳で衛生局長に昇進。明治31年児玉源太郎台湾総督により民政局長に抜擢、のち民政長官。36年(1903)貴族院議員に勅選。桂内閣で逓相、鉄道院総裁、寺内内閣では内相、外相等を歴任し、シベリア出兵を推進。大正9年(1920)東京市長。桂内閣内相のとき関東大震災に遭遇。帝都復興院総裁として東京復興計画を立案・推進。有名語録 「金を残して死ぬ者は下だ。仕事を残して死ぬ者は中だ。人を残して死ぬ者は上だ。」
広瀬武夫 
 明治元年5月27日〜明治37年3月27日 (1868〜1904)
大分、竹田藩士の子で攻玉社中学を経て、明治18年海軍兵学校に入学する。明治30年から5年間ロシア留学から駐在部官として、ロシア内陸部や欧州諸国の見聞を広めた。明治37年の日露戦争では、旅順口閉塞作戦の指揮官となり、作戦中に行方不明になった部下の捜索中に、海岸砲台からの敵方砲撃を受けて戦死した。最後まで、部下の安否を気遣ったことで国民的英雄となり、軍神として崇められるようになった。
秋山好古
安政6年1月7日〜昭和5年11月4日(1859〜1930)
松山藩士の子で明治10年陸軍士官学校に入り、18年には参謀将校になる。その後4年間フランスに留学し、騎兵戦略を学び、日清戦争では騎兵第一隊長、日露戦争では旅団長として従軍して、多大な功績を挙げる。明治42年中将に昇進し、大正9年には教育総監となる。退役後は故郷北予中学校の校長を務めている。
北里柴三郎 
嘉永5年12月20日〜昭和6年6月13日(1853〜1931)
熊本生まれ。細菌学者。庄屋の長男に生まれ、熊本医学校、東京大学医科大学を卒業後、内務省衛生局に勤務。ドイツに留学し、明治19年(1886)よりコッホに師事、22年(1889)に世界初の破傷風菌培養に成功した。24年(1891)医学博士となり、25年(1892)帰国後は伝染病研究所長を務めた。研究所の文部省移管に反対して辞職、大正4年(1915)北里研究所を設立し、6年(1917)には慶応義塾大学医学科創設に尽力した。
高木兼寛
宮崎市出身。イギリスに留学し,帰国後、難病といわれた脚気の予防法を確立し、日本の医学会に多大な貢献をした。また東京慈恵会医科大学の創立、日本初の看護学校の創設、さらには宮崎神宮の大造営など数々の偉業を成し遂げた。横須賀海軍カレーは彼の発案から生まれた。(1849〜1920)
長谷寺(ちょうこくじ)
長谷寺は、江戸初期の慶長3(1598)年、牛久藩山口家の屋敷の邸内にあった観音像に堂を建てて、同家の菩提寺にしたのが始まりです。曹洞宗の永平寺東京別院で山号は補陀山。本尊は十一面観音で、通称麻布大観音と言い、江戸三十三箇所観音霊場の第22番札所でとしても江戸町民に親しまれてきました。大観音像は戦災で焼失しましたが、9年の歳月を要して、昭和52年に高さ約10メートルの巨大な像が完成し開眼供養が行われました。禅の修行道場として僧堂があり、墓地には、長州出身の元勲で外務大臣として条約改正に献身的な役割を果たした井上馨、日本の近代洋画家の大家 黒田清輝、喜劇王 榎本健一(エノケン)、歌手坂本九たちが眠っています。
岡本太郎記念館
ここ岡本太郎記念館は、1996年、84歳で亡くなるまで、岡本太郎のアトリエ兼住居だった。1954年から五十年近くも彼が生活した空間である。絵を描き、原稿を口述し、彫刻と格闘し、人と会い、万国博の太陽の塔をはじめ巨大なモニュメントや壁画など、あらゆる作品の構想を練り、制作した場所。彼のエネルギーが今も満ち満ちている。更に言えば、ここは、戦前は青山高樹町三番地。岡本一平・かの子・太郎の一家が永く暮らし、一家でヨーロッパへ旅立ったのもこの地からである。旧居は戦災で焼失した。戦後、友人の坂倉準三の設計でアトリエを建てた。ル・コルビュジェの愛弟子だった坂倉は太郎の求めに応じ、ブロックを積んだ壁の上に凸レンズ形の屋根をのせてユニークな建物を作った。当時話題をよんだ名建築である。岡本太郎の作品は一人の人間の枠を超えて多彩に広がるそのすべてがここから閃(ひらめ)き出たものである。
高野長英 終焉地
江戸時代この辺は「青山百人町」と言い、幕府の与力や同心の組屋敷が集中いました。同心たちの多くは、家計の足しに拝領地の一部を富裕な町人に貸していたが、この地も与力小島家が質屋の「伊勢屋」に貸していました。伊勢屋ではここに別宅を構えていたが、そこに高野長英が沢三白という偽名で住んでいました。長英はここで町医者を営み、幕府捕方の追跡をかわしていました。高野長英は仙台支藩岩手水沢の出身で江戸に出て医術と蘭学を学び、長崎ではシーボルトの門下生になりました。「夢物語」を著して、幕府の対外政策を批判したため投獄されたが、伝馬町獄舎の火事に乗じて脱獄し、全国各地を転々と逃亡しました。最初に投獄されたとき弁明さえすれば済むと思って自首したが、予想に反して永牢とされ、以来伝馬町に6年も牢獄に押込められました。とにかく出獄したい一念から、火事になれば解き放たれると承知の上で、獄吏を買収して放火をさせたと言われています。逃亡後、日本各地に潜行中、薬品で顔を焼いて人相を変え、江戸に戻って、ここを隠れ家としていたが嘉永3(1850)年ついに捕り方に包囲され、自決して果てました。後藤新平は、長英とは歳が50年違うが、同郷の親類筋にあたります。現在、この地にはギャラリーやレストラン・バー、生活雑貨ショップなどが入っている多目的ホール「青山スパイラル」が建っています。