解 説
鉄道唱歌の碑ー新橋駅
 日本の鉄道は、品川〜横浜間が明治5年(1872)6月に開通されました。その4カ月後の10月に品川〜新橋が開通して、横浜まで1時間ほどで行かれるようになりました。開通式には明治天皇も出席して乗車し大満足し、「朕みずから開行し、その便利をよろこぶ」と語っています。汽車賃は上等1円12銭5厘、下等37銭5厘でした。白米10キロが36銭で買えたことを考えると非常に高額でした。それでも鉄道は評判が高く、明治6年の1年間で延143万人が利用し、総収入も予想以上の成果をあげたので、その後運賃が値下げされました。その後明治32年(1909年)に大和田建樹(たてき)作詞で「鉄道唱歌」が発表されると鉄道は日本の産業・文化の原動力として大きく発展していきました。
浜離宮恩賜庭園
 潮入の池と二つの鴨場をもつ江戸時代の代表的な大名庭園で面積は約250千平方メートル、樹木数は6,000本に及びます。公園内の潮入の池とは、海水を導き潮の満ち干によって池の趣(おもむき)を変えるもので、海辺の庭園で通常用いられていた様式です。旧芝(きゅうしば)離宮(りきゅう)恩賜(おんし)庭園、清澄(きよすみ)庭園なども昔は潮入の池でしたが、現在、実際に海水が出入りしているのはここだけです。この地は、寛永年間(1624〜1644年)までは、将軍家の鷹狩場で、一面芦の原でした。ここに初めて屋敷を建てたのは、四代将軍家綱の弟で甲府宰相の松平綱重で、その後、綱重の長子の綱豊(家宣)が六代将軍になったのを契機に、この屋敷は将軍家の別邸となり、名称も浜御殿と改められました。以来、歴代将軍によって幾度かの造園、改修工事が行なわれ、十一代将軍家斉のときにほぼ現在の姿の庭園が完成しました。明治維新以降は皇室の離宮となり、名称も浜離宮となりました。その後、関東大震災や戦災によって、御茶屋など貴重な建造物や樹木が焼失し、往時の面影はなくなりましたが、戦後復活、整備されて今日に至っております。 また、同庭園は、徳川慶喜が鳥羽伏見の戦いのあと、大阪城を幕府軍艦で抜け出して、江戸の帰還したときに上陸した場所としても知られています。
イタリア公園
「日本におけるイタリア2001年」を記念し同国から寄贈された公園です。面積は3,660平方メートルほどあり、本格的なイタリア式庭園の外観でイタリア製の、ミロのビーナス、ミケランジェロのダビデ像などのコピーアート彫刻、美しい噴水が印象的です。汐留地区の代表的な公園として憩いの空間になっています。
福澤・近藤両翁学塾跡
この地は1868年から1871年まで慶応義塾の在った所です。福澤諭吉は築地鉄砲州にあった家塾をここに移し、新たに塾舎を建て、年号に因んで、慶応義塾と称しました。あたかも明治維新の激動に際し、国中が学問・芸術などに顧みる者が少なかったとき、この塾に集まった福澤以下の少壮学徒は、自ら信ずる文明の主義を據として学問の独立を護り、わが国文運の命脈を一日も絶やすことはありませんでした。近藤真琴が設立した攻玉社は、慶応義塾が三田に移転した後、福澤からこの学舎を譲り受け、築地一橋邸跡から移転してきました。1925年に現在ある、西大崎に移るまでこの地で和魂漢洋才、質実剛健、礼儀を重んじ、誠意を旨とすることを理想として掲げ、中壮部では英漢数の三科目を主として海軍兵学校入学志願者を養成し、また上級学校進学希望者のために中学校を起して、歴史、地理、物理、化学等の諸科も教授しました。更に、1879年には、陸地測量修練所を設立して土木工学技術者の養成に尽力しました。
旧芝離宮恩賜庭園
  江戸初期の大名庭園の一つで、区画や石の配置がすぐれた庭園と言われています。面積は約43千平方メートル、樹木数は約2,000本。明暦(1655〜1658年)の頃に海面を埋め立てた土地を、延宝6年(1678年)に老中・大久保忠朝が四代将軍家綱から拝領しました。忠朝は屋敷を建てるにあたり、国許の小田原から庭師を呼び庭園を造ったと言われています。庭園は「楽壽園」と呼ばれていました。庭園は幾人かの所有者を経たのち、幕末頃は紀州徳川家の芝御屋敷となりました。明治4年には有栖川宮家の所有となり、同8年に宮内省が買上げ、翌年に芝離宮となりました。離宮は、大正12年の関東大震災で建物や樹木に大変な被害を受けました。翌年の大正13年1月には、皇太子(昭和天皇)のご成婚記念として東京市に下賜され、市が離宮の復旧と整備を施し、同年4月に一般公開しました。また、昭和54年6月には、文化財保護法による国の「名勝」に指定されました。
尾崎紅葉誕生地
  「多情(多恨」「金色夜叉」などの作品で知られる明治の文豪尾崎紅葉は、慶応3年(1867)12月、増上寺近くの商家で生まれました。東大予備門に入った頃から小説を書き始め、当初、山号の三縁山に因んでと縁山と号していましたが、増上寺境内の紅葉山に因んで、紅葉と号するようになりました。明治18年には山田美妙とともに、日本最初の文学団体「硯友社」を設立しました。門下生に、泉鏡花、厳谷小波、徳田秋声などの近代文学作家が数多くいました。「金色夜叉」の間貫一は厳谷小波がモデルといわれ、一方、泉鏡花「婦系図」では、紅葉が先生のモデルにされています。
芝大神宮
  東海道に隣接し、増上寺にも程近い芝大神宮は寛弘2年(1005)の創建。天照大神(内宮)、豊受大神(外宮)を主祭神として祀っています。江戸時代には幕府の庇護の下、「大江戸の大産土神」「関東のお伊勢様」として庶民にも信仰され、大いに賑わっていました。大神宮の祭礼は9月16日を中心に11日間も続くため「だらだら祭」と呼ばれ、生姜市が立つことから「生姜祭」とも呼ばれています。また、江戸後期に起きた町火消しのとび職と江戸相撲力士との大乱闘事件の所謂「めぐみの喧嘩」でも有名となりました。
大門
当山の総門・表門にあたり、地名の由来になっている門です。現在のものは国道の通行整備のため、昭和12年(1937年)に原型より大きく、コンクリート製に作り直されたものですが、旧大門は慶長三年(1598年)に江戸城の拡張・造営にあたり、増上寺が芝に移転した際、それまで江戸城の大手門だった高麗門を、徳川家康公より寺の表門として譲(ゆず)られたものです。その旧大門は大正12年(1923年)の関東大震災により倒壊の恐れが生じたため、両国・回向院に移築されましたが、両国が昭和20年の空襲に遭い焼失しています。
浅岡飯炊き井戸
 万治3年(1660年)、仙台藩62万石、第三代藩主・伊達綱宗が幕府から放蕩三昧の咎を受け、突然隠居を命じられます。嫡男で僅か2歳の亀千代(のちの四代綱村)が藩主となります。幼君の後見役として伊達兵部宗勝(正宗の10男)が任命され、仙台藩政の実権は兵部と家老原田甲斐宗輔たちが握ってゆくようになります。藩政を握った兵部たちは専横を極めるようになり、綱宗の近習たちとの間で確執が起きるようになります。そして寛文6年(1666年)には、亀千代の毒殺未遂事件にまで発展していきます。このことから亀千代の生母である浅岡の局は、我が子を護るため食事を自ら作るようになります。ここはその仕度所の井戸の遺構です。事件は、その後、反兵部派の伊達安芸宗重が幕府に上訴して伊達兵部を告発するという事態になります。詮議は大老酒井雅楽頭忠清の屋敷で行われ、それぞれ当事者の弁明を聞いて、いよいよ判決の裁可を下す段になったとき、原田甲斐が急に乱心して、告発者の伊達安芸を殺害し、自らも自害してしまうという事態が起きます。結局、当事者であった伊達安芸や原田甲斐が判決を前にして死亡したことなどもあって、仙台藩はお咎め無しで終わり、藩領62万石は安堵されて、一件落着になりました。これが世に名高い「伊達騒動」で、これには幕府の政策で外様大藩である仙台藩の取り潰しを画策する酒井雅楽頭が伊達兵部を唆し、騒動を起させて30万石位に減封させて仙台藩を兵部に委ねる意図があったと言われています。原田甲斐は、自らが乱心して起した事件に装ったことでお家安泰となり、後世、彼が伊達藩を救った功労者と言われるようになります。この事件で兵部は土佐に流罪となっています。
三解脱門
増上寺の表の顔として、東京都内有数の古い建造物であり東日本最大級を誇るこの門は、当山の中門にあたり、正式名称を三解脱門といいます。徳川幕府の助成により、幕府大工頭・中井正清とその配下により建立されました。元和八年(1622)に再建されました。増上寺が江戸の初期に大造営された当時の面影を残す唯一の建造物で、国の重要文化財に指定されています。三解脱門とは三つの煩悩「むさぼり、いかり、おろかさ」を解脱する門のことです。建築様式は、唐様(からよう)の入母屋造で二重門、朱漆塗を施し、そり曲がった欄干も備えた美しさを見せています。二階内部には、釈迦三尊像と十六羅漢像が安置されています
鐘楼堂
  最初の鐘楼堂は寛永十年(1633)に建立されましたが、現在の堂は戦後の再建によるものです。鐘楼堂に収められている大梵鐘は、延宝元年(1673年)に七回の鋳造を経て完成しており、江戸三大名鐘の一つに数えられています。朝と夕べ、二回撞くその鐘の音は、時を告げるだけではなく、人を惑わす百八の煩悩を浄化し、人々の心を深い安らぎへと導いてくれます。江戸時代の川柳には「今鳴るは芝か上野か浅草か」・「江戸七分ほどは聞こえる芝の鐘」・「西国の果てまで響く芝の鐘」等と謳われ、「江戸っ子鐘」と親しまれています。
三縁山広度院増上寺
  三縁山広度院増上寺は、徳川家康が関東の地を治めるようになって天正十八年(1590)、徳川家の菩提寺として定められ、慶長三年(1598)、江戸城の拡張工事に伴い、現在の紀尾井町付近から当地に移転されました。江戸幕府の成立後には、家康公の手厚い保護もあり、増上寺の寺運は大隆盛へと向かって行きました。三解脱門、経蔵、大殿の建立、三大蔵経の寄進などが相次ぎ、朝廷からは寺主の源誉存応上人へ「普光観智国師」号の下賜と常紫衣の勅許もありました。家康公は元和二年(1616)増上寺にて葬儀を行うようにとの遺言を残し、75歳で歿しました。増上寺には、二代秀忠、六代家宣、七代家継、九代家重、十二代家慶、十四代家茂の、六人の将軍の墓所が設けられています。墓所には各公の正室と側室の墓もあり、秀忠の正室崇源院江、悲劇の皇女として知られる静寛院和宮もここに眠っております。現存する徳川家墓所は、門が本来、家宣公の墓前にあった鋳抜きの中門で、内部に各公の石塔と各大名寄進の石灯籠が配置されています。

安国殿の阿弥陀如来像は黒本尊と言われ、家康公が深く尊崇したもので、勝運、災難よけの霊験あらたかな仏として、広く庶民の尊崇を集めてきました。
江戸時代、増上寺は徳川家の菩提寺として隆盛の極みに達しました。全国の浄土宗の宗務を統る総録所が置かれたのをはじめ、関東十八壇林の筆頭主座をつとめるなど、京都にある浄土宗祖山・知恩院に並ぶ位置を占めました。壇林とは僧侶養成のための修行および学問所で、当時の増上寺には、常時三千人もの修行僧がいたといわれています。寺所有の領地(寺領)は一万余石。25万坪の境内には、坊中寺院48、学寮百数十軒が立ち並び、「寺格百万石」と謳われていました。 明治期に入って2度の火災によって、堂宇の多くが焼失しましたが、明治後期から大正期に多くが再建されました。しかし戦災によってまた多くが焼失し、昭和33年から文化財保護委員会の手に寄って再建がすすめられて、昭和49年(1974)大本堂の完成とともに、近代的に整備され今日に至っております。
金地院
  当寺は臨済宗南禅寺派の寺院で、勝林山と号し、その役務は京都南禅寺の東京出張所的な役割をしています。本尊は宋の名工、陣和郷が彫った観世音菩薩像。開山は“黒衣の宰相”と言われた本光国師以心崇伝。崇伝は慶長10年(1605)頃、京都南禅寺金地院の住持となり、同15年徳川家康に召されて政治顧問となり、居住寺として駿府城内に金地院を創設することが許されました。 元和5年(1619)、芝にも金地院を建立し、同年、崇伝が五山およびその諸流の禅寺を統轄し、かつその人事を司る僧録に任命されて以降、幕末まで歴代住職が僧録に付くという五山寺院の支配的地位を獲得しました。崇伝は寺社行政に携わり、キリスト教の禁止や、僧侶の統制を図る寺院諸法度、諸大名や徳川家家臣達への規律を示した武家諸法度、そして朝廷の権威に制限を加える禁中並公家諸法度の三法令の制定を起草したと言われています。その他、豊臣家との戦いである大坂の陣の発端にもなった方広寺鐘銘事件にも関与しています。このように幕府の根幹に関わる政策に多大な影響を与えた崇伝ですが、徳川家康が死去したとき、その尊号が重要な問題となりました。崇伝は将軍秀忠に、「大明神」の尊号を推挙しましたが、大明神はすでに、豊臣秀吉が「豊国大明神」として名乗っていることから、後塵を拝するのは権威が示せないとの理由で、崇伝の大明神案は退けられました。代わりに、「大権現」の方が相応しいと提案した南光坊天海大僧正の意見が取り入れられて、徳川家康は、死後「東照大権現」と呼ばれるようになりました。
東京都芝給水所
  都内23区内には、97ケ所の大小給水所があり、そのうち浄水場の兼ねた給水所が29ケ所あります。ここはその中の1つで、明治31年からその役割を続けています。現在、浄水所の上は、サッカーなどが出来る区民のスポーツ運動場として利用されております。給水所の正門柱は、明治31年に造られた淀橋浄水場に設置されていたものを昭和40年に移設し、平成11年に再整備され当時、実際に使用された遺構が保存され、近代水道の建築に従事した関係者の情熱や技術力を伝えています。
渡辺海旭先生
 海旭先生は明治5年浅草に生まれ、14歳のとき浄土宗西光寺で得度しました。専ら学問に専念し、明治33年(1900)から10年間ドイツに留学しました。ドイツでは当時の仏教学研究で名高いストラスブール大学で研鑽を積み、数多くの論文を発表し、ドクトルフィロソフィーの学位を得ました。帰国後、39歳にして、芝学園の校長に迎えられ、以降22年間に亘って教壇に立ち、名校長を謳われ、生涯独身、同校の発展に全力を傾注しました。関東大震災に際して、罹災者のために全校舎を開放し、人々の再起と東都の復興に貢献しました。先生の行動の規範は、浄土宗の開祖法然上人の念仏行精神の実践で、それを自ら定めた「遵法自治」を教壇から説き、全生徒に生涯忘れえぬ感動を与えたといわれています。昭和8年、行事式典のときに倒れ61歳で生涯を閉じました。増上寺で行われた本葬儀には同氏を慕う人8000人が会葬したと言われています。海旭先生は仏教界ばかりでなく社会事業の先駆者としても活動し、深川に労働者救済会館を設立しています。また徳富蘇峰、カルピス創業者三島海雲、新宿中村屋創業者相馬愛蔵など当時を代表する名士との交友も深く、カルピスは海旭先生の命名と言われています。
青松寺
  青松寺は文明8年(1476)大田道灌が開基した曹洞宗の寺院で、吉祥寺、泉岳寺とともに江戸府内の曹洞宗の寺院を統括した江戸曹洞三カ寺の一つと言われる大寺院です。山号は萬年山。浅野家の菩提寺で、本懐を遂げた赤穂浪士たちは、当初この寺に立ち寄る予定でしたが、吉良邸討入り事件に関わることを恐れた、時の住持が入山を拒んだことで、同寺の末寺である高輪泉岳寺に向かったと言われています。また、同寺は、境内に「獅子窟学寮」を擁し、幾多の人材を輩出しました。この学寮は、明治8年(1875年)には、港区高輪の泉岳寺学寮、文京区駒込の吉祥寺学寮「旃檀林」と統合して、今日の駒澤大学へと発展していきました。
愛宕神社
  愛宕神社は、江戸時代「お伊勢七度、熊野は三度、芝の愛宕は月詣り」と謳われ、江戸町民に火伏せの神として信仰されてきました。海抜26メートルの高さからは、東京湾が見通せて風光眺望の名所にもなっていました。男坂にかかる石段は86段、勾配は37度の急峻で、ここを三代将軍家光が観覧する中で、讃岐丸亀藩士 曲垣平九郎が見事馬で石段を駆け上がって枝を取ってくることに成功したことで有名です。その場に立つと信じられない感じですが、明治期に元仙台藩の馬術指南役 石川清馬が成功したと記録されています。また、愛宕山は、万延元年3月3日水戸浪士たちが、ここに集結して江戸城桜田門外で井伊直弼を襲撃したことでも知られています。
天徳寺
  浄土宗江戸四ヶ寺のひとつに数えられる天徳寺は光明山和合院と号し、天文2年(1533)親誉称念上人によって開山されました。慶長16年(1611)、江戸城拡張に伴い霞ヶ関から現在の地に移転してきました。安政6年(1859)7月26日、当天徳寺において、ロシアとの国境交渉が行われました。幕府の代表、外国事務掛遠藤胤統、酒井忠毘は、東シベリア総督ムラヴィヨフと樺太境界について談判し、ロシア側が主張する「樺太ロシア領」案を退けましたが、「北緯50度国境」案を主張する幕府側主張も受け入れられず、物別れに終わっています。
栄閑院 
 久遠山栄閑院は浄土宗の寺院で寛永年間、天徳寺の塔頭として創建されました。栄閑院が開山された頃、猿回しに化けた盗賊が役人に追われて逃げ込んできました。盗賊は住職の説導に帰依して改心し諸国行脚に旅立ちました。残された猿は住職に懐き、寺の人気物になりました。爾来、栄閑院は「猿寺」と呼ばれるようになりました。猿塚は昭和の後半に建立されたもので、言い伝えを塚という形で具現化したもののようです。境内には猿の彫像が2体、本堂の木鼻の下の彫りこみも猿の絵柄が見られます。また「解体新書」を訳した杉田玄白の墓所としても有名です。杉田玄白(1733-1817)は江戸中期、小浜藩の藩医で江戸に生まれました。若くして蘭学を修得し、前野良沢、桂川甫周たちとオランダ語解剖医学書「タートルアナトミア」を翻訳しました。この「解体新書」は日本医学史上画期的な文献といわれ、文化12年(1815)に脱稿した「蘭学事始」は「解体新書」翻訳の苦心談を回想した書として知られています。
仙石伯耆守邸跡(赤穂浪士が自首した屋敷)
  ここ消防会館の地は、赤穂浪士による吉良邸討入り事件が起きた元禄15年、当時の幕府大目付仙石伯耆守久尚の屋敷がありました。主君の仇を討った大石内蔵助良雄ら四十六士は、本所吉良邸から泉岳寺に向かう途中、吉田忠左衛門と富森助右衛門を仙石屋敷に出頭させ、討入りの報告をさせました。大石たちは浅野内匠頭の墓前に報告を済ませたのち、同屋敷に自首してきました。このあと幕府の指示で、赤穂浪士たちは細川、毛利、松平、水野の四藩の屋敷に移されました。
金刀比羅宮
  「こんぴらさん」で親しまれている金刀比羅宮は、万治3年(1660)丸亀藩 京極高和が讃岐の金刀比羅宮を三田の屋敷内に勧請したのが始まりで、延宝7年(1679)藩邸の当地移転に伴い移りました。明治に入り京極家はこの地を離れましたが、宮は残りました。邸内社のため、毎月10日に限って、江戸庶民の参詣を許してきました。今日でも、毎月10日には縁日が立っています。元々が氏子を持たない邸内社のため運営は信者の賽銭や寄付金に頼りました。縁結びの御利益があることで人気が高まり、多くの参詣者が集まり大いに繁昌しました。 銅製の大鳥居の円柱に彫られた青龍、玄武、朱雀、白虎の豪華な四霊獣像からも金刀比羅宮の繁栄ぶりが伺えます。