第10回 お江戸散策地 解説
ヤン・ヨーステン記念碑
正式な姓名は、ヤン=ヨーステン・ファン・ローデンスタイン(1556? - 1623年)オランダの航海士。オランダ船リーフデ号に乗り込み、航海長であるイングランド人ウィリアム・アダムス(三浦按針)とともに1600豊後に漂着した。徳川家康に信任され、江戸城近くに屋敷を貰い、日本人と結婚した。屋敷のあった場所は現在の八重洲のあたりだが、この「八重洲」の地名は彼自身に由来する。「ヤン=ヨーステン」がって「楊子」と呼ばれるようになり、これがのちに「八代」となり、「八重洲」になったのである。やがて東南アジア方面での朱印貿易を行い、その後帰国しようとバタヴィア(ジャカルタ)に渡ったが帰国交渉がはかどらず、結局あきらめて日本へ帰ろうとする途中、乗船していた船がインドシナで座礁して溺死した。

江戸秤座
秤座は、江戸幕府の認可を受けて、全国の量目の統一を図るため、秤の製造・検査・販売等の権利を独占した御用商人の事業所です。江戸と京都の二か所に置かれ、江戸の秤座は守随が東国33か国を、京都の秤座は、神家が西国33か国を管轄しました。守随は、もと甲斐の武田家に仕えた秤師で、のちに徳川家康に仕え、家康の度量衡統一政策の任務をい、徳川家領であった八州の責任者に任命されました。承応二年(1653)に幕府が公式に秤座を定め、事業所は初め、京橋具足(京橋三丁目)に置かれましたが、その後各地を移転し、天保十三年(1842)、日本橋箔屋の現在地に移転しました。明治八年(1875)、明治政府の度量衡取締条例の施行によって、秤座は廃止されました。江戸時代の度量衡に関する重要な史跡として、中央区民文化財に登録されています。

高島屋
高島屋は、天保2(1831)、近江国高島郡(現、高島市)の出身の飯田新七が京都で古着・木綿商を開いたこと始まり、屋号はこの出身地に因んでいる。豪華な刺繍を施した着物が京都市中で評判となり、その後、宮内省御用達の栄誉を得てから発展する。大正8年(1919)大阪・長堀橋に支店を構え、昭和7(1932)には、大阪・難波に竣工し、東洋一の規模を誇る大規模百貨店を開店する。また、翌昭和8(1933)には、東京・日本橋に東京店を開店させ、知名度を飛躍的に高めた。戦後は、相模鉄道と合弁し、横浜高島屋を開店させ、主要都市の要所への大型店舗の展開を成功させ、今日の地位を築いてゆく。日本におけるショーウィンドウを早くから導入した百貨店でもある。

白木屋の名水
江戸時代初期に埋め立てられたこの辺りは良水の確保に苦労していました。京都の小間物・呉服問屋として名が知られていた白木屋は2年(1662)に江戸に進出しここに呉服店を開業しました。京都のブランドの評判もあり、町人から大名・大奥までをも顧客として発展し、越後屋(三越)、大丸屋(大丸)とならぶ江戸三大呉服店の一つになりました。2代目の木村安全は日本橋一帯の良水の乏しさを救うため、白木屋の店内に井戸を掘ることを思いつきました。これはなかなかの難工事でしたが、ある日、井戸掘りのの先に何か手応えがあって、一体の観音様が出現し、これを機に良水がこんこんと湧き出してきました。そこで白木屋は店内にを建て、観音様をったところ、沢山の人々が参詣に訪れ、長年の病気が癒えたという人も出てきて評判となり、店は賑わい、「白木屋の名水」として江戸名物となりました。 この白木名水は湧き出してから数百年の時を経て193212月の白木屋大火により建物の取り壊しで消失しました。

竹久夢二 港屋絵草紙店跡
情熱と悲愁の画家であり、詩人でもあった岡山県出身 竹久夢二(18841934)は大正3年(1914)この地に「港屋草紙店」を開き夢二のデザインによる版画・封筒カード・絵葉書・手拭半襟などを売り出しました。美術家自身がその作品を商品化し販売する店を作ったという点で「港屋絵草紙店」は日本の商業美術史上重要な意義を持つもの、夢二の業績をえて記念碑が建てられました。記念碑には夢二の詩である宵待の第一節「待てど暮らせど こぬひとを 宵待草のやるせなさ こよいは月も 出ぬそうな」と刻まれています。この詩には、1つのエピソードが残っています。明治43年(1910)、夢二は千葉県・銚子の海鹿島海岸でを過ごしました。そのとき、成田町から避暑にきていた長谷川カタと恋に落ち、ふたりは逢瀬ねます。カタはつぶらな瞳の美しい女性だったといいます。まもなく夏は終わり、二人はそれぞれの住所に帰りますが、文通が続きました。夢二の日記には、彼がその後何度か成田を訪れたことが記されています。翌年の夏、夢二は再び海鹿島を訪れます。しかし、そこにカタの姿はありませんでした。彼女はすでに作曲家の須川政太郎に嫁いで鹿児島へと去っていたのです。それを知ったときの夢二のやるせない気持ちを凝縮されたのが、このというわけです。また、歌の歌詞2番「暮れて河原に星一つ 宵待草の花の露 更けては風も 泣くそうな」は、西條八十が作詞したものです。

石橋親柱
江戸時代の一石橋は外堀と日本橋川の分岐点に架けられた木橋でした。一石橋に由来は橋の北側に金座御用の後藤庄三郎の屋敷があり、南側には、家康が岡崎城に在住していた頃からの御用呉服商 後藤縫之の屋敷があり、五斗+五斗=一石をもじった洒落から一石橋と名付けられたと伝わる。大正11年(1922年)6月に鉄筋コンクリート製、花崗岩張りのアーチ橋として改架された。43m幅員27mあり、市電を通す構造になっており、翌大正129月の関東大震災にも耐え抜きました。戦後、橋は修復されましたが、威風堂々とした花崗岩の親柱一基は残され、当時の姿を忍ばせています。

 石橋の迷子しらせ石標
江戸期〜明治期にかけて付近はかなりの繁華街であり、迷い子が多く出た。当時は迷い子は地元が責任を持って保護するという決まりがあり、地元の人々によって安政4年(1857年)2月に「満よひ子の志るべ(迷い子のしるべ)」が南詰に建てられた。しるべの右側には「志(知)らする方」、左側には「たづぬる方」と彫られて、上部にみがある。使用法は左側のみに迷子ね人の特徴を書いた紙を貼り、それを見た通行人の中で心当たりがある場合は、その旨を書いた紙を窪みに貼って迷子、尋ね人を知らせたという。ここのほか浅草寺境内や湯島天神境内、両国橋橋詰など往来の多い場所に数多く設置されたようだが、現存するものは一石橋のものだけである。

渋沢栄一
天保11年(1840)武蔵国(現深谷市血洗)に豪農の家に生まれ、幼少時に四書五経や日本外史を学び、英才ぶりを発揮した。21歳の時、江戸に出てお玉が池の千葉道場に入門し、剣術修行の時に知り合った、一橋家家臣・平岡円四郎の推挙により一橋慶喜に仕えることになる。主君の慶喜が将軍となったのに伴い幕臣となり、パリで行われる万国博覧会に将軍の名代として出席する慶喜の弟・徳川昭武の随員として、パリ万博を視察したほか、ヨーロッパ各国を訪問する。各地で先進的な産業・軍備を実見すると共に、将校と商人が対等に交わる社会を見て感銘を受ける。この時通訳として同行していたシーボルトの長男アレクサンダーとは交友を深め、その後の活動で大いに協力を受けることになる。明治2年10月、大隈重信に説得されて大蔵省に入省した渋沢は、度量衡の制定や国立銀行条例制定等に携わる。しかし、予算編成をって、大久保利通や大隈重信と対立し、1873年(明治6年)に井上と共に退官した。退官後間もなく、官僚時代に設立を指導していた第一国立銀行の頭取に就任し、以後は実業界に身を置き、第一国立銀行のほか、東京ガス、東京海上火災保険、王子製紙、秩父セメント、帝国ホテル、秩父鉄道、京阪電気鉄道、東京証券取引所、キリンビール、サッポロビール、東洋紡績など、多種多様の企業の設立に貢献しました。このことから、「近代日本資本主義の生みの親」「産業・ 経済界の父」とも呼ばれています。また、日本移民排斥運動などで日米関係が悪化した際には、対日理解促進のためにアメリカの報道機関へ日本のニュースを送る通信社の設立を立案、これが時事通信社と共同通信社の起源となった。澁澤が三井・岩崎・安田・住友・古河などといった他の明治の財閥創始者と大きく異なる点は、「渋沢財閥」を作らなかったことにある。「私利を追わず公益を図る」との考えを、生涯に亘って貫き通し、後継者の敬三にもこれを固くめた。また、他の財閥当主が軒並み男爵まりなのに対し、澁澤が子爵をかっているのも、そうした公共への奉仕が早くから評価されていたためである。公共への奉仕としては、東京慈恵会、日本赤十字社、聖路加国際病院そして、女子教育の必要性を考え、日本女子大学校、東京女学館の設立にも貢献している。1926年と1927年のノーベル平和賞の候補にもなった。 
常磐橋門跡
常盤橋門は江戸城大手門外郭の正面に当たり江戸初期には浅草門又は大手口と云われ奥州街道に通じる重要な場所でしたが、その後、常磐橋御門と呼ばれるようになりました。この門は石塁で枡形を築き正面には右側の石塁に渡りやぐら大門があり、郭内に入るように造られました。常磐橋は木造でしたが、明治10年の洋式石造アーチ橋に架け替えられました。しかし大正12年の関東大震災によって相当の被害を受け、昭和8年渋沢榮一の思想と行動を顕彰する財団法人澁沢青淵翁記念会の支援により下流に新しく架橋され、現在は上流にある人通専用の旧橋を常磐橋、その後造られた新橋を常盤橋と称しています。現在は文化財保護法により史跡として保存されております。
日本銀行本店本館
日本銀行本店本館は、フランスでナポレオン3世によるパリ改造計画を契機に興ったネオバロック建築様式で造られています。厳格な左右対称、角型ドーム、マンサード屋根などを特徴としています。設計者は、ジョサイアコンドルに師事を受けた辰野金吾で、多くの欧米の銀行建築を視察し、ベルギー国立銀行をモデルに設計したと言われています。構造は、石積レンガ造による地上3階、地下1階建てで、周囲を堅固な建物で囲んであり、上空から見ると円の文字のようになっております。この地は、江戸幕府の造幣所の金座があったところで、永代橋のにあった日本銀行が移転してきて、明治29(1896)竣工したものである。関東大震災、東京大空襲の災禍にも比較的軽微な損傷にまり、ほぼ原型を保っております。

三井本館
三井本館は関東大震災で被災したために、建替えることになり、昭和4年(1929)、三井の主要各社が入るオフィースビルとして竣工した建物。です。構造は鉄骨、鉄筋コンクリート造りで、地上7回・地下2階となっています。設計・施工には、当時最高水準の技術を有していたアメリカのジェームズ・スチュワート社を起用しました。新古典主義様式の外観を持つ建物で、イタリア・ヴェネツィア産大理石などが使用され、コロネード(列柱)は、他の建物を圧倒しています。関東大震災の教訓からその2倍の地震にも耐えることができるように作られていて、全館完全空調も初めて導入されている。地下には重量約50トン、最大厚さ90cmの扉をもつ大金庫があり、搬入に際して、日本橋を損傷する恐れがあるために通過が認められず、川に浮かべて、船で運ばれたと言われています。また、この地は、江戸時代、向かいにある三井越後(三越)の両替商があったところです。

日本橋魚河岸記念碑
徳川家康の関東入国の後、摂津から漁民が佃島に移り住み、幕府の膳所に供するために漁業を営みました。のちに、日々上納する残りの鮮魚を舟板の上で並べて一般に販売するようになりました。これが日本橋魚河岸の始まりです。関東大震災まで、江戸および東京の台所として活況を呈していました。「日本橋 龍宮城の港なり」龍宮城の住人である海の魚がことごとく日本橋に集まったという意味です。記念碑は、龍宮城の乙姫(おとひめ)を表しています

日本橋
天正18年(1590)に江戸入りした徳川家康は、江戸城を修築するよりも先に、城下町建設のほうを優先し、運河や水道を整備し、湿地帯の開拓なども進めました。天海僧正の意見を取り入れ、京と比べても遜色のない都を造るために、江戸の鬼門にあたるには、東叡山寛永寺、琵琶湖に見立てた不忍には弁天島をつくりました。そして江戸からの主幹道路である五街道を造って、日本橋をその基点と定めました。日本橋は当初、太鼓になっていて、橋の中央に立つと日本橋川の真向かいに江戸城天守閣そして日本一の富士山が眺められる様に設計し、江戸幕府の権威を象徴する景観を見事に演出しています。慶長8(1603)に最初の橋が架けられてから、400余年の間に、度々の災禍により橋は架け替えられ、今日の橋は19代になります。明治44年(1911)に完成し、橋梁の設計には、横浜正金銀行本店(1904年、現神奈川県立歴史博物館)を手掛けた妻木頼、 日本橋の欄干麒麟獅子のブロンズ像は、渡辺長男(朝倉文夫の実兄)が制作しました。像は芸術的完成度の高い作品で、麒麟像はこの地を基点にして全国に羽ばたき、東京市の繁栄を、獅子像は守護をしています。日本橋は明治期に入ってからも、江戸時代を踏襲して道路元標となりました。また、「日本橋」の文字は徳川慶喜によって揮毫されました。

三浦按針屋敷跡
ここは通りを按針通りといい、かっては按針町と呼ばれていました。これは、江戸初期にイギリス人ウィリアム・アダムス(日本名・三浦按針)が住んでいたことに因みます。按針は、1600年豊後臼杵に漂流して、徳川家康に迎えられて、この地に屋敷をわった。造船、砲術、地理、数学に才能を発揮して家康・秀忠の外交顧問として業績をあげ、その功により、相模の国三浦郡逸見250石の知行を受けた。外国人初めての旗本である。彼は三浦で獲れた魚類を日本橋までやかに運搬する技術などを魚師たちに指導して尊敬を受けたといわれている。そのとして、逸見の浄土寺には、ここ按針町の商家たちが、按針の200年忌に法要において贈った、仏壇の天板に敷く絹製の豪華な打敷が保存されています。

郵便発祥の地
ここは新制度発足当時、逓司(今の郵政省)と東京の郵便役所(今の中央郵便局)が置かれたところです。前島密は、(18351919享年84歳。) 越後国の豪農の家に生まれ、幕臣前島家の養子に入りました。維新後大蔵省に出仕して昇進し、逓司権正のときに英国へ郵便制度の視察をしました。帰国後、郵便制度創設に尽力し日本の近代的郵便制度の基礎を確立しました。これにより日本の近代的な郵便制度は、明治4(1871)東京-大阪間で始まりました。前島密は、「縁の下の力持ちになることをうな。人のためによかれと願う心を常に持てよ」という信条どおり、近代化が進む日本でまさしくながらより便利でより快適な暮らしの方法を提案し続けました。郵便の創業者としてその名を不動のものとしていますが、郵便関連のほか、江戸遷都、国字の改良、海運、新聞、電信・電話、鉄道、教育、保険など、その功績は多岐にわたります。 

海運
海運橋は、その昔、旧本材木町と茅場町の間に架かっていた橋です。橋の名は、江戸時代の頃は、橋の東詰めに御船手奉行向井将監の屋敷があったことから、将監と呼ばれていたそうです。向井将監は二代将軍秀忠に信頼篤く、三浦郡三崎に6000石を拝領する旗本で、幕府の御座のほとんどを預かり、御船蔵の管理を任されていた人物です。明治元年に縁起いで「海運橋」に改称されました。そして、明治8年に西洋風のアーチ型の石橋に改装されたことで、有名になりました。しかし、関東大震災で損傷したことから、昭和2年に鉄橋に架け替えられました。その後、川が埋め立てられ、高速道路が作られたことから、橋そのものは取り除かれてしまい、現在のように石柱のみが残されました。

銀行発祥の地
明治6年、前年に制定された「国立銀行条例」に基づき、日本最初の銀行である「第一国立銀行」がここに創立されました。当時の建物は、三井組が建てた「三井組替方」を譲り受けたもので、海運橋のたもとにそそり立つ壮麗な和洋折衷建築として有名だったそうです。(「三井組ハウス」と呼ばれていたそうです。)現在はみずほ銀行兜町支店の外壁に「わが国銀行発祥の地」という銘板がはめ込まれているだけになってしまっています。なお、当時、第一国立銀行頭取であった渋沢栄一邸は、この第一国立銀行の構内ともいうべきところにあったそうです(明治9年に転居)

神社
証券界の信仰を集めて守り神本尊とされる兜神社です。こちらの神社の御祭神は、が商業の守護神である「(御稲荷さんの別名)」で、合祀されている神様は、大国主恵比寿です。大黒様と恵比寿様は夫婦のようなもので、豊穣、金運をもたらす神様です。境内にある兜岩は岩承平の乱(西暦935940)にて、藤原秀郷が平将門の首を打って京都へ運ぶ際、その平将門の打首に兜を沿えていたのですが、この地で罪滅ぼしにと兜だけ土中に埋め塚を作って供養したそうです。この塚を当時は兜山と呼んだそうですが、そこに兜神社が建ち、いつしか兜岩だけが残ったとのことです。

小網神社 -寿弁財天 
稲荷大明神とし、527年前に鎮座した歴史的に古い御社で、日本橋七福神の一つ。5月の大祭では東部有数の神社大御輿い、11月末の、どぶろく祭りはとして有名。七福神の福禄寿は福徳長寿の神、また弁財天は商売繁盛、学芸成就の神として親しまれ、室町時代末期頃から信じられるようになった民間信仰とされています。それぞれに大変に御利益がおありになる神様なので、日本の庶民世界に深く根ざしながら、現在も熱心な参拝者が新年に参詣しています。七福神信仰は我が国独特の民俗行事で七福神の神様方はそれぞれに大変個性豊かな神様たちで、一般に夷(恵比寿)・大黒・毘沙門天・弁財天・福禄寿・寿老人・布袋の七神を指します。ここ小網神社は、パワースポットとしても知られており、関東大震災や東京大空襲の災禍にも免れ、お払いを受けて出征した兵士が全員帰還したというエピソードがあり、今日でも篤く信仰されています。境内の銭洗い弁天は、ここで洗ったお金が倍になって戻るとの御利益も語られております。

西郷隆盛屋敷跡
ここは明治初期、明治維新の元勲西郷隆盛が住んでいたところで、江戸期は姫路藩酒井雅楽頭の下屋敷でした。明治6(1873)の「第一大区沽券図(こけんず)1丁目1番 2600坪 金1586円 西郷隆盛」と書かれております。屋敷には、長屋に15人ほどの書生を住まわせ、下男を7人雇い猟犬を数頭飼っていたと言われています。維新後、西郷は鹿児島に居ましたが、明治4年に新政府からわれて上京し、参議に就任、同年10月に岩倉を特命全権大使、木戸、大久保利通を副使とする使節団が欧米に派遣された後には、筆頭参議として、留守政府首班となり、学制・徴兵制度・地租改正などの重要政策を実現した。明治6年になって、朝鮮との国交問題が緊迫し、武力出兵を主張する所謂征韓論が高まると、西郷は自らが朝鮮との交渉することで問題解決にあたろうとしました。閣議でもいったんは西郷の使節派遣が決定されましたが、海外視察から帰国した岩倉・大久保等の猛烈な反対により、使節派遣は中止となります。この決定を受けて西郷をはじめ、江藤新平、板垣退助等が参議を辞して下野しました。(明治6年の政変)。下野後、西郷はこの地にあった屋敷を売って鹿児島に帰郷します。鹿児島では士族子弟の教育の為に私学校をつくり、また農耕と狩猟に悠々自適の生活を送っていましたが、明治10年に西南戦争を起こして自害しました。

谷崎潤一郎生誕地
谷崎潤一郎(1886年〜1965)は、明治19年、現在の人形町で生まれました。幼少期から神童と言われ、一高卒業後東京帝国大学文科大学国文科に進むが後に学費未納により中退。在学中に和辻哲郎らと『新思潮』を創刊し、処女作の戯曲「誕生」や小説「刺青」(1909年)を発表し、作家としての地歩を固めた。谷崎は、大正の中期までは耽美背徳の空想的な世界を華麗に描きましたが、大正の後期から日本的な伝統美に傾倒して、王朝文学の息吹を現代に生かした新しい境地を開きました。「蓼喰ふ虫」「春琴抄」「細雪」「少将の母」などの代表作があります。

水天宮 -弁財天 
文政元年(1818年)9月、久留米藩9代藩主有馬頼徳が江戸・三田の久留米藩江戸屋敷に分霊を勧請した。これが江戸の水天宮の始まりである。藩邸内にあったため一般人の参拝が難しかったが、幕府の許可を得て、江戸庶民の一般参拝を行うことになった。その人気ぶりは「情け有馬の水天宮」といわれるほどでした。有馬家の会計記録によると賽銭、奉納物、御札などは安政年間の記録で年間2000両に上り、財政難であえぐ久留米藩にとって貴重な副収入でした。明治5年(1872年)、有馬家中屋敷のあったこの地に移転した。今日でも安産・子授け・七五三・初宮・芸能祈願・水難除けなどのご利益で多くの参詣者を集めています。

蛎殻銀座
今日の銀座二丁目に銀貨鋳造所である「銀座」が開かれてから約200年後、幕府は銀座の組織改革を行い、座人の御役取放を命じ、享和元年(1801)日本橋蛎殻町に銀座を移しました。この地は、蛎殻銀座と呼ばれ、明治2年に造幣局が新設されるまで、68年間、銀貨鋳造が行われました。

玄冶店
玄冶店(げんやだな)」の地名は、江戸時代、ここに屋敷のあった医者岡本玄冶(15871645)が住んだことに由来し、切られ与三・お富みで有名な歌舞伎「与話浮名」の舞台ともなりました。玄冶は幕府の医官で、将軍家光が痘瘡を病んだ時、見事にこれを全快させて、一躍その名を高めた名医で、子孫も九代この地にその職と名跡を継ぎました。

椙森神社
椙森神社の創建は社伝によれば、平安時代に平将門の乱を鎮定するために藤原秀郷が戦勝祈願をした所と言われています。室町中期には、大田道灌どうかんが雨乞祈願のために、山城国伏見稲荷の神を勧請して篤あつく信仰した神社でした。そのために江戸時代には江戸の三森(烏森、柳森、椙森)の一つに数えられ、椙森稲荷と呼ばれて江戸庶民の信仰を集めました。しばしば、江戸城下の火災で神社は焼失し、その再建費用を工面するために富くじ興行が行われ人々に親しまれていました。明治維新後も東京市し中古社として信仰されましたが、関東大震災で全焼し、現在の社殿は鉄筋造りで再建されました。10月の恵比寿神大祭は毎年盛大に盛り上がっています。
大安楽寺
大安楽寺は、小伝馬町牢屋敷の刑場の跡に建立された高野山真言宗のお寺です。明治の初年、ここを通った高野山の山科というお坊さんが刑死した人々の霊を慰めるためにお寺の建立を思い立ち、明治8年にお寺を建設しました。その頃、一坪100円程度した土地の値段が、ここは牢屋敷の跡だということで、350銭だったそうです。建立に際して、大倉財閥と安田財閥の創業者の大倉喜八郎と安田善次郎が多額の資金を出したことから、二人の名前をとって大安楽寺と名づけたと言われています。しかし、本当は真言密教経典」に基づく寺号とのことです。大安楽寺のご本尊は弘法大師様で、札所ご本尊様は台座を入れても30センチに満たない小さな十一面手観世音菩薩像です。
延命地蔵菩薩像
延命地蔵菩薩像が建っているところは、罪人が処刑されたところです。斬首される場所のことを土壇場と言います。延命地蔵菩薩像は、ここでなくなった人たちを供養するために建立されました。台座下の供養文「為囚死群霊離苦得脱」山岡は鉄舟が書いた文字です。地蔵菩薩像の隣のお堂の中には、江戸八臂弁財天様が祀られています。八臂(はっぴ)とは八つの腕という意味です。
伝馬町牢屋敷跡
小伝馬町牢屋敷は、江戸時代の初期慶長年間(1596〜1615)に出来て以来、明治8年(1875年)に市ヶ谷監獄が設置されるまで使用されました。牢屋敷というと刑務所と思う方が多いと思いますが、江戸時代には、刑罰は死刑と追放刑が中心で、懲役刑がありませんでしたが永牢という長期間収監する刑が例外的にありました。ですから、この牢屋敷は、刑が決まるまでの一時的な収容所(拘置所)でした。牢屋敷は、約2、700坪ありました。現在の十思公園のほか、隣の十思スクェアと大安楽寺や身延山東京別院や民家のある場所を含めた範囲でした。牢屋敷は、町家のなかに位置し、周囲には 高さ7尺8寸(2m36cm)の練塀らし、練塀の外側に堀がありました。牢屋敷の表門は西側にあり、東側に裏門がありました。屋敷内の南側には、牢屋奉行の屋敷や役人の詰め所があり、牢屋は北側にありました。因みに、十思とは、「治通」の中で唐の名臣が、大宗皇帝した十ケ条の天子のわきまえなければならぬ戒めを著した十思之疏に因んでいます。
吉田松陰終焉の地の碑
吉田松陰は、2回、小伝馬町の牢屋敷に入っています。一度目は 安政元年(1854年)のペリーの2回目の来航の時に、アメリカに密航しようとして果たせず、下田奉行所に自首した後、この牢屋敷に入っています。2度目は、安政の大獄で牢に入れられます。安政の大獄は、特に水戸藩や一橋派を標的にしたものでしたので、吉田松陰は、それらに関係していた訳ではなかったので、遠島ぐらいと思われていましたが、斬首の刑となってしまいました。これは井伊大老の指示だったという説もあります。1859年(安政6年)1027日に、小伝馬町牢屋敷で処刑されました。この碑は、松蔭のお墓ではありません。お墓は、世田谷の松蔭神社、千住の小塚原回向院、萩の吉田家の墓地にそれぞれあります。碑には、辞世「
身はたとえ 武蔵の野辺にちぬとも めおかまし 大和魂」と書かれています。吉田松陰の辞世には、この歌のほか、家族宛に「親思うこころにまさる親心 今日のおとづれ なんと聞くらん」があります
石町時の鐘
江戸の時の鐘で最も古いのが「石町の鐘」である。この鐘は、将軍秀忠の時、江戸城内の西の丸で撞いていた城鐘でした。鐘楼堂が御座の近くで差し障りがあるため、太鼓に替えて、鐘は日本橋石町に鐘楼堂を作ってそこへ移しました。その管理費は町人から1ヶ月永楽銭1文を集めて経常費に当て、修理その他大金が必要な時は幕府から公金を受け取っていたといわれる。

長崎屋跡
江戸時代ここには長崎屋という薬種屋があり、長崎に駐在したオランダ商館長の江戸参府における定宿でした。諸外国のうち鎖国政策のため外国貿易を独占していたオランダは幕府に謝意を表するために、江戸に参府し、将軍に謁見して献上品を贈りました。江戸参府は江戸前期から毎年行なわれており、商館長の他、通訳、医師が随行し、にぎやかに行列してきました。しかし、経費の問題もあり、江戸中期からは、4年に1回となっています。随行したオランダ人の中にはケンペル、ツンベルク、シーボルトなどの医師がいたため、蘭学に興味を持つ、青木、杉田、中川桂川平賀源内をはじめとした日本人の蘭学者、医師等が訪問し、江戸における外国文化の交流の場として、或いは先進的な外国知識を吸収する場として、有名になりました。この地は、鎖国下の日本における数少ない西洋文明との交流の場として貴重な所です。