第14回 お江戸散策 京橋・銀座・日比谷界隈 解説

東京駅
平成24年秋、100年前に近代建築の父と言われた辰野金吾の設計で建設された東京駅が、当時の姿に蘇りました。復元された東京駅は、3階建てで、全長335mに及び、その威容は明治大正期の技術の粋を集めて作られました。中央口には、バルコニーを付けた品格を備え、両端の八角形のドームには、およそ100トンの銅板を使用して、上品な輝きを放っています。ドームの天井には、東西南北を除く八方位の干支や大鷲のレリーフを飾っています。建物の煉瓦外壁には、花崗岩に擬した擬石や江戸期に流行ったナマコ壁の技術を取り入れた覆輪目地を採用して美しさを引き出しています。そして屋根には、大震災で壊滅的な被災を受けながら奇跡的に助かった石巻市雄勝町の天然スレートを採用しています。また、時計下のリボンレリーフは銅板を打ち叩いて形作った日本の職人技術が生かされています。

千葉道場跡
千葉定吉(?〜1879)は、北辰一刀流剣術の創始者千葉周作の弟であり、自身も北辰一刀流の使い手として知られています。千葉周作は、文政五年(1822)に道場を日本橋室町に開き、その後神田お玉ヶ池に移転をしました。玄武館道場と名付けられたこの道場は、江戸三大道場の一つに数えられるほどの隆盛を極めました。定吉は、兄周作の玄武館道場の隆盛に貢献した後、自らもこの地付近に「小千葉道場」や「桶町千葉道場」などと通称される道場を開きました。嘉永六年、剣術修行のために江戸へ出てきた坂本龍馬(18351867)は、定吉の門に入ったとされています。龍馬は安政三年(1856)に江戸へ再出府した際にも、定吉の道場で剣術修行を行い、安政五年正月には定吉から「北辰一刀流長刀兵法」の目録を伝授されました。この間、定吉の娘佐那と恋仲になったと言われています。
江戸歌舞伎発祥地跡
この地は、江戸の中橋南地と呼ばれ、寛永元年(1624年)に、猿若勘三郎(初代中村勘三郎)を座元として猿若座 (後に中村座)が創設され、幕府より歌舞伎興行を許された江戸三座のひとつと言われ、江戸歌舞伎の発祥となりました。その後寛永9年(1632年)現日本橋堀留町に移転して以降、人形町〜浅草へと転座して明治26年(1893年)火災により消失して、廃座となったが、 平成12年(2000年)18代目中村勘三郎によって、平成中村座が立ち上げられ今日に至っています。

大根河岸青物市場跡
京橋から紺屋橋にかけての京橋川河岸は江戸時代から大根を中心とした野菜の荷揚げ市場で、江戸八百八町の住民たちに新鮮な野菜を提供していました。別名「大根河岸」とも呼ばれ、明治、大正と続き、関東大震災(大正1291)の前まで続いていました。関東大震災以後、区画整理や都市再編成で大根市場は野菜市場となって、神田、築地へと移り今日に至っています。昔を偲んで、京橋大根河岸青物市場跡の記念碑が建てられました。 

京橋親柱
京橋は、江戸時代から日本橋とともに有名な橋でした。昭和34年(1959)、京橋川の埋め立てによって撤去され、現在では見られませんが、その名残をとどめるものとして、三本の親柱が残っています。橋北詰東側と南詰西側に残る二本の親柱は、明治8年(1875)当時の石造り橋のものです。江戸時代の橋の伝統を引き継ぐ擬宝珠の形で、詩人佐々木枝陰の筆によって、「京橋」「きやうはし」とそれぞれ橋の名が彫られています。一方、橋南詰東側に残る親柱は、大正11年(1922)に架けられた橋のものです。石及びコンクリート造りで、照明設備を備えたものです。京橋の親柱は、明治、大正と二つの時代のものが残ることから、近代の橋のデザインの変化を知ることができる貴重な建造物として、中央区民文化財に登録されています。

煉瓦銀座碑
明治5(1872)、和田倉門から出火した火事は、銀座一帯を焼きつくし、築地ホテル館にまで及ぶ大火になりました。これを機に、時の東京府知事由利公正は不燃性の都市を建設することを主張し、銀座煉瓦街の誕生となりました。彼の功績を讃えて造られたのが「煉瓦銀座之碑」です。由利公正とは、越前福井藩士、三岡八郎のことで、松平春嶽に見出され、坂本龍馬とも親交を深めた人物です。維新後新政府に迎えられ、財政・金融政策を担当し、太政官札を発行したり、五か条の御誓文の原案作りにも貢献しています。

銀座発祥の地
「銀座」は江戸時代金貨(小判)を扱う金座に対し、銀および銀貨の鋳造・取締りを司った幕府の機関で、慶長6(1601)に伏見に創設されました。同11年には駿河にも設けられ、同13年伏見銀座は京都に、同17年駿河銀座は江戸(現在の銀座2丁目。当時は新両替町)に移されました。これが銀座の地名の起こりです。 のちに銀座は蛎殻町へ移り、明治2(1869)、金座とともに廃止になりましたが、銀座の名は町名として残しました。

関東大震災記念碑
大正1291日午前1158分、東京を中心に関東一円を襲った大震災を記念するため、広く浄財を集めて十周年目に建てられました。彫刻界の巨匠北村西望氏が「平和の神」を象徴して制作し、台石には朝日新聞社が全国から募集して選んだ「不意の地震に不断の用意」の評語が刻まれ、この惨事を二度と繰り返さぬよう注意を喚起しています。関東大震災では、「死者99331人 負傷者103733人 行方不明43476人 焼失家屋447,128軒 倒壊家屋154499軒」の被害がありました。

銀座出世地蔵尊
銀座出世地蔵尊は明治のはじめの頃、三十間堀より出世したと云われております。当時、地元の鳶職が銀座4丁目の空地へ安置しましたところ、道行く人々や近隣の信心篤い人達が花や団子を供え参詣するようになりましたが、やがてこの地蔵尊は開運・出世・延命・商売繁盛のあらたかな御利益があると云うので、参詣者が増えて非常な賑わいを呈して参りました。その後震災・戦災などの被災を経て、銀座三越が新築するに際して、築地本願寺により開眼法要を行い、新たな堂宇に安置して銀座八丁の守り本尊として広く一般のご参詣を受けることになりました。

狩野画塾跡
江戸時代、幕府の奥絵師として画業を独占していた狩野家には鍛冶橋・木挽町・中橋・浜町の4家がありました。そのうち最も栄えていたのは木挽町狩野家で、五代狩野曲信は安永6(1777)、今の銀座五丁目付近に画塾を開きました。8代(まさ)(のぶ)の門からは明治画壇の巨匠狩野芳崖と橋本雅邦らが出ました。

佐久間象山塾跡
この地域には、江戸時代後期の思想家で、信濃松代藩士佐久間象山(18111864)の私塾がありました。儒学を修めた象山は、初め神田お玉ヶ池付近に塾を開き、さらに松代藩の江戸藩邸学問所頭取などを務めました。後に海防の問題に専心して西洋砲術や蘭学を学び、嘉永四年(1851)、兵学及び砲術を教授し、海防方策の講義などを行う目的で、木挽町のこの地に兵学塾を開きました。この塾は二十坪程の規模で、常時三十〜四十人が学んでいたといいます。その門下には、勝海舟・吉田松陰・橋本左内・河井継之助など、多くの有能な人材が集まり、土佐藩士坂本龍馬の名も門人帳に確認することができます。龍馬は、嘉永六年に江戸へ最初の剣術修行に出て、その最中である12月1日に象山に入門しています。木挽町の塾には、諸藩から砲術稽古の門下生が急増しましたが、嘉永七年に門人の吉田松陰がアメリカ密航に失敗した事件に連座して、象山は国許に蟄居を命じられて塾も閉鎖されました。 

芝口御門跡
ここの南方、高速道路の下には、もと汐留川が流れ、中央通り(旧東海道)には、昭和39年(1964年)まで新橋が架かっていました。宝永7年(1710年)、朝鮮通信使の来朝に備えて、新井白石の建策に基づきわが国の威光を顕示するため、新橋の北詰に、現に外桜田門に見られるような城門が建設されました。これは芝口御門と呼ばれ、新橋は芝口橋と改称されました。城門は橋の北詰を石垣で囲って枡形とし、橋のたもとの冠木門から枡形に入って右に曲ると、渡櫓があって堅固な門扉が設けられていました。しかしこの芝口御門は建築後15年目の享保9年(1724年)正月に焼失して以来、再建されず、石垣も撤去されました。 

銀座の柳碑
銀座は埋め立て地だったため、地下水位が高いので桜や楓などは根腐れを起こして樹木は枯れてしまいました。その点、柳は水辺を好む植生から、この地の街路樹に適していることから採用されました。明治17年には「銀座の街路樹は柳」に統一されるほどその存在は確固たるものになったのですが,ところが柳は次々と姿を消すことになりました。一度は道路の拡張整備による交通標識の邪魔になるため、そして関東大震災,東京大空襲のためです。昭和29年、「銀座に再び柳の木を!」という思いが庶民の中から生まれ、挿し木によって柳の木の二世が誕生しました。今では400本にも増えて、中央区の木となっています

金春屋敷跡
江戸時代、幕府直属のおかかえ能役者で,宅地や給料を支給されていた家柄に金春観世、宝生、金剛の四家がありました。金春家はこの四座のうちで室町時代から栄えた最も伝統のある家柄でした。この金春家の屋敷は,現在の銀座8丁目6〜8番の及ぶ広い屋敷を与えられていました。このことから、この通りに金春の名が付けられました。また、この通りには金春湯という銭湯があり、今日でも花柳界の人たちに利用されています。

石川啄木歌碑
啄木(1885年〜1912)が滝山町の朝日新聞社に勤務したのは明治4212月から45413日、27歳でこの世を去るまでの約3年間でした。短い生涯の大半を放浪のうちに過ごした啄木は、彼に冷淡であった故郷をなお思い、優れた望郷の歌を数多く残しました。歌碑には次の歌が刻まれています。 ”京橋の滝山町の新聞社 灯ともる頃のいそがしさかな”

数寄屋橋跡
数寄屋橋は寛永6(1629)江戸城外郭見附として架けられ、橋の有楽町側に有名な南町奉行所がありました。関東大震災後、近代的な美観の石橋に架け替えられ、以来銀座の入口として親しまれてきました。今は首都高速と地下鉄に上下を挟まれ橋の姿も消え、菊田一夫筆「数寄屋橋此処にありき」と刻んだ碑が建っているのみです

藤村・透谷記念碑
泰明小学校は明治11年(1876)に開校され、北村透谷と島崎藤村はその初期の卒業生でした。北村透谷(1868-1894)は、小田原市に生まれ、明治14年に家族とともに、現在の銀座4丁目に転居し、卒業するまで、泰明小学校に通いました。その後、自由民権運動に惹かれて政治運動を志しましたが、後に文筆活動に転じて、文芸評論家・詩人として活躍しました。明治主義を唱え、近代浪漫主義の開拓者と言われました。島崎藤村(1872-1943)は、中山道馬篭宿に生まれ、明治14年に上京し、現在の銀座3・4丁目に居住していた姉の嫁ぎ先から同校に通学していました。その後、姉夫婦が帰郷したことにより、同郷人の家に寄寓し、明治17年に卒業しました。明治学院在学中に、文学への関心を深めた藤村は文学界の活動を通して、透谷から深い影響を受けました。著作に「若菜集」「春」「夜明け前」などがあり、中でも「破戒」は自然主義文学の先駆といわれています。

明治大学発祥地
明治法律学校(現明治大学), 明治14(1881)に 旧肥前島原藩主松平氏の上屋敷であったこの地に開校しました。 創立者の岸本辰雄、宮城浩蔵、矢代操の三人は、明治政府の命をうけた藩の選抜生として鳥取藩、天童藩、鯖江藩を代表して大学南校(後の東京大学)に遊学した。その後、司法省法学校で「お雇い外国人」教師のボワソナードらからフランス法学を学んだ彼らは、フランスに留学し, とくに「権権利自由, 独立自治」の精神の普及をめざして明治法律学校を創設しました。 当時彼らは いずれも三十歳に満たぬ 白面の書生でありました。

 

鹿鳴館跡
日比谷通りを挟み日比谷公園の向かい側にある大和生命ビル前に、「鹿鳴館跡」のプレートがあります。鹿鳴館はイギリス人ジョサイア・コンドルによって設計されたレンガ造り二階建ての洋風建築で、明治16(1883)年落成しました。時の外相井上馨は、不平等条約の改正を早めるためには、日本人がいかに西欧文化を受け入れているかを外国人に見せる必要があると主張しました。そのための社交場として政府が建築したのが鹿鳴館です。連日連夜、政府高官や貴族、外国人が宴会、舞踏会開き風紀紊乱のそしりも受けました。宴会場だけでなく様式ホテルも併設されていたようですが、当時のヨーロッパの人たちにはあまり評判がよくなかったようです。 明治27(1894)華族会館に払い下げられ、1927(昭和2)年には 現在の大和生命保険に売却され, 1940(昭和15)年に解体されました。

 

日比谷公園(松本楼の公孫樹)樹齢400年になる巨大大イチョウは、当初日比谷見附そばにあったが、道路拡張で伐採されるところを、日比谷公園の設計者本多静六が、「首を掛けてでも移植させてみせる」と豪語した曰く付の樹木で“首掛けイチョウ”と呼ばれています。本多静六は、明治2年埼玉県久喜市に生まれ、東京大学農学部を卒業後、ドイツに留学し、造園技術を習得して帰国後、東大の教授として、後進の育成に従事した。同時に、明治神宮をはじめ、会津の鶴ヶ城公園、金沢の卯辰山公園、福岡の大濠公園など全国主要都市の公園の設計・改良に携わった。特に明治神宮の造園設計は100年後を見据えた最高傑作として評価されている。彼は、名造園家として大きな資産を残したが、その生活は質素、倹約で、退官後は匿名でほぼすべてを教育、公共の関係機関に寄付したことでも知られています。

 

大岡越前守忠相屋敷跡
大岡越前守忠相(1677-1751)江戸時代を代表する江戸町奉行です。享保元年(1716)に紀伊藩主吉宗が将軍に就くと、かねてから山田奉行として厳正なる裁きをしている忠相を江戸町奉行に抜擢します。町奉行所は北と南が月交代ですが、その休みの月でも調査や報告書作成にあたり実質は常時仕事をしている状態ですから、その責任者たる者の多忙たるや一言では表現できない事だったと思われます。忠相は江戸町奉行を19年、社寺奉行を15年勤め、寛延元年10月に1万石に加増し三河国大平の大名となります。寛延4年、病気により社寺奉行を辞し、同年6月に将軍吉宗が亡くなると後を追うように12月に死去します。江戸時代を通じて、江戸町奉行から大名になったのは忠相のみである

  烏森神社
天慶3年(940年)、平将門が乱を起こした時、ムカデ退治の説話で有名な鎮守府将軍藤原秀郷(俵藤太)が武蔵国のある稲荷神社に戦勝を祈願したところ、白狐が現れて白羽の矢を秀郷に与えた。その矢によって速やかに乱を鎮めることができたので、それに感謝してどこかに稲荷神社を創建しようと考えていたところ、秀郷の夢に白狐が現れ、神鳥が群がる場所が霊地であるとお告げする。そして、秀郷が現在地である桜田村の森に来たところ、お告げの通り烏が群がっていたので、そこに神社を創建したのが当社の始まりであるという。江戸時代には、江戸三森(烏森神社・柳森神社・椙森神社)の一つに数えられ、江戸庶民の信仰を集めている。