第18回 お江戸散策 神楽坂・市ヶ谷界隈 解説
1. 市ヶ谷見附跡
 市ヶ谷見附は、寛永13年(1636)、第2代津山藩主森長継の普請によるものであった。この市ヶ谷の御門は枡形門で、一つ目の高麗門をくぐると、90度直角に曲り、もう一つの櫓門をくぐるという形態で、現存する江戸城の遺構では桜田門、大手門田安門などの城門に同様のものが見られる。市ヶ谷見附は明治4年(1871)に道路拡張に伴い撤去されたが、現在も当寺使用された石垣が残されている。また、この市ヶ谷門には面白い特徴の石があった。それは「烏帽子石」と呼ばれるもので、明治の撤去時に日比谷公園に移設されて、現在、公会堂前の交番裏に置かれている。市谷の由来は幾つかあるが物売りの市が立ったので市売りとか、一番目の谷であったのでこの名が付いたなど諸説がある
  2. 浄瑠璃坂
 赤穂浪士の吉良邸討ち入りより約30年前の4代将軍家綱治世の、寛文12年(1672)2月2日未明、この坂の中腹にあった奥平隼人邸宅に火事装束に身を固めた奥平源八ら42名が斬り込んで、隼人側40余名との激戦の末、隼人を討ち取った事件がありました。事件の発端は、源八の父内蔵充と隼人とは藩主奥平家の親類同士で同じ家老職でした。しかも隼人も内蔵充も奥方同士は姉妹という関係であるが剛腕な剣術使いの隼人に対し、勤勉な能吏型の内蔵充は日ごろから不仲であった。ある日、宇都宮藩主奥平忠昌の追善法要の席で口論となって、内蔵充が刃傷沙汰に及び、内蔵充は切腹、子息の源八は改易、即日追放の裁を受けた。一方、隼人も改易となるが切腹は免れることとなり、喧嘩両成敗に則せず、片手落ちの裁定に不服を持った源八は、親類縁者たちと仇討の機会を伺っていた。4年後に居所を突き止め、ついに隼人を討ち取り本懐を遂げたという仇討事件のあったところです。幕府はこの行為を許るさず、武士の私闘を悪として封じ込める策を採り、源八らを遠島にするが、源八の殊勝な態度に感銘を受けた大老・井伊直澄は、6年後、恩赦で赦免された源八を彦根藩で召し抱えています。赤穂浪士の大石内蔵助は、この事件を参考にしたと言われています。
3. 宮城道雄記念館
 作曲家・箏曲家。宮城道雄は明治27年神戸市に生まれる。生後200日にして、悪質な眼病にかかり、9歳にして失明する。筝曲の大家2代目中島検校の門下となり、音楽において芸術的天分を発揮して11歳で免許皆伝を取り、14歳で箏曲「水の変態」を書き上げて伊藤博文に評価される。その後京城(今のソウル)へ渡って頭角を現し、結婚して宮城姓を名乗る。1929年に発表した「春の海」は、フランス人女流ヴァイオリニスト、ルネ・シュメーと競演して、世界的な評価を得ることになった。作家の内田百閧竝イ藤春夫とは親友同士で、交流が深く、双方の随筆で度々言及していた。



4. 太田南畝生誕の地
 江戸時代の狂歌師。通称、直次郎。別号、蜀山人、四方赤良、寝惚先生、を号す。太田南畝は弁天坂に近いこの地で生まれた。光照寺西方の中御徒町の組屋敷で幕臣の子として育ち、大久保に転居するまで60年間この地に住んだ。後世、田沼時代と呼ばれる時期に洒落本、噺本、黄表紙などで文才を発揮した。とりわけ狂詩、狂歌では第一人者であった。天明7年(1787)寛政の改革が始まるが、改革に対する政治批判の狂歌「世の中に蚊ほどうるさきものはなし ぶんぶといひて夜もねられず」を発表する。
その後、大阪銅座に赴任して、職務に励むかたわら、蜀山人と号して、随筆などを執筆する。因みに、銅の異名を蜀山居士という。辞世の歌は「今までは 人のことだと 思ふたに 俺が死ぬとは こいつはたまらん」と伝わる。墓は小石川の本念寺にある。
5. 牛込城跡と光照寺
 光照寺一帯は戦国時代にこの地域の領主であった牛込氏の居城があったところである。堀や城館など城内の構造については記録がなく、詳細は不明であるが、高台に築かれ、南側は崖や湿地帯がある要害の地に住居を主体とした館が建っていたと推定される。牛込氏は上野国赤城山麓の勢多郡大胡の領主大胡氏を祖とする。天文年間(1532〜55)に当主大胡重行が南関東に移り、北条氏の家臣となった。天文24年(1555)重行の子勝行は姓を牛込と改め、赤坂、桜田、日比谷付近も領有したが、天正18年(1590)北条氏の滅亡後は徳川家康の臣下となり、牛込城は取り壊された。この地にある光照寺は浄土宗増上寺の末寺で、正保2年(1645)神田誓願寺町から移転したものである。出羽松山藩酒井家の菩提寺で、初代忠常をはじめ歴代藩主の墓約50墓が墓地の東側に林立している。寺宝には、鎌倉時代の仏師快慶の作と云われる木造地蔵菩薩坐像、江戸時代の仏師木食明満の作と云われる「木造十一面観音坐像」、絹本着色「阿弥陀三尊来迎図」がある。墓地にも見るべきものがあり、神田の旅籠紀伊国屋の主人利八が旅先で亡くなった客の菩提を弔うために建立した「諸国旅人の碑」、江戸中期の狂歌師で、「三度たく米さへこわし柔らかし 思うままにはならぬ世の中」と詠った便々亭湖鯉鮒の墓がある。
 
6. 善国寺
 日蓮宗の寺院善国寺は、文禄4年(1595)麹町6丁目に創建されたが、この地はたびたび火災に遭ったため、その日除け地として召し上げられ、寛政5年(1793)神楽坂の当地に移転してきた。神楽坂の毘沙門天として江戸時代から信仰を集め、この一帯は門前町として繁栄した。本尊の毘沙門天像は開山の日惺上人が関白二条昭実から贈られたものと寺録にあるが、一説には加藤清正の守仏とも云われている。甲冑具足に身を固め、左手に宝塔、右手に宝棒を持ち、夜叉鬼を踏みつけている有様は誠に勇ましい。像は木造黒漆塗りで像高30cm、室町末期から江戸初期のものとされる。毘沙門天は、またの名を多聞天と称し、増長天・持国天・広目天と共に天の四方を守護する四天王のひとつであり、 北方を守るとされている。毘沙門天への信仰は時代とともに盛んになり、将軍家、旗本、大名へと広がり、江戸末期、特に文化・文政時代には庶民の尊崇の的ともなり、江戸の三毘沙門の随一として、《神楽坂毘沙門》の威光は増幅していった。こうして善国寺界隈は明治から昭和初期の頃には山の手随一の繁華街となっていった。特に毎月、寅の日の縁日は夜店も出るようになり夜遅くまで賑わいを見せるようになり、今日に至っている。
7. 築土八幡神社
 築土八幡神社の起源は社伝によると平安期の弘仁9年宇佐八幡宮から勧請を受けて鎮守としたと云われているが、江戸名所図会では慈覚大師が、伝教大師の阿弥陀如来像を祀ったことが起こりとしている。文明年間(1469〜1487)になって、関東管領の上杉朝興の砦があり、社殿を造って弓矢の神として勧請したという。江戸時代には門前町があって賑わい、境内には樹木も多く、築土の杜と称されていたが戦災で焼けて面影は失われた。参道の階段途中にある石鳥居は、享保11年(1726)常陸下館の城主黒田豊前守直邦が寄進したもので、新宿区内では最古のものである。また、境内に「金太郎」「花咲爺」の作曲者 田村虎蔵の碑がある。
8. 赤城神社
 赤城神社は上野国の赤城山神社の霊を、現在の早稲田鶴巻町の森中に小さな祠を建てて勧請したのが始まりという。室町中期に太田道灌持資により牛込郷に遷座された。その後、徳川家康が江戸に入府したとき、この地を治めていた豪族大胡重行は家康に臣従し、許可を得て現在の地に神威を尊ぶ赤城神社を建立した。5代将軍綱吉の治世、天和3年(1683)江戸幕府は、赤城神社を江戸大社の列に加え、牛込郷の総鎮守社にしている。以降、赤城大明神として称えられ、現在に至っている。
9. 芸術倶楽部跡と島村抱月終焉の地
 明治39年余丁町で坪内逍遥とともに文芸協会を設立した島村  抱月は、新旧思想の対立から協会を脱退し女優の松井須磨子らと共に芸術座を興した。その根拠地の研究所兼劇場が当地にあった芸術倶楽部でした。建物は2階建て180余坪、舞台があり座席は250席。この舞台から数々の名演劇や流行歌が誕生した。中でも復活で松井須磨子が歌った「カチューシャ可愛いや」は全国に大流行するほど人気を博した。また「行こか戻ろかオーロラの下へ」「宵待草のやるせなさ」など、大正ロマンを代表する歌もこの舞台から生まれた。島村抱月は大正7年11月15日肺炎を併発し当倶楽部の一室で死去した。
10. 尾崎紅葉旧居跡
  尾崎紅葉が明治24年〜36年に死去するまでの12年間居住し、代表作の「多情多恨」「金色夜叉」など多くの作品を執筆した所です。紅葉は鳥居家の母屋を借り、「十千万堂」と称した。2階の8畳と6畳を書斎と応接間にし、1階には泉鏡花などが起居したこともあり、近代作家が育った重要な場所である。当時の家は、戦災で焼失したが、鳥居家には今も紅葉がふすまの下張りにした俳句の遺筆が2枚保存されている。
11. 林家墓所
  林家は朱子学を修めた林羅山が徳川家康の信任を得て、封建幕藩体制の理念を講じる儒者として任官したことに始まる。幕府成立後、徳川政権がまだ不安定なとき、方広寺の梵鐘に「国家安康」「君臣豊楽」の文字を見つけて問題視する意見を献じて、金地院崇殿とともに豊臣家滅亡のきっかけを作ったのも羅山と云われている。羅山は3代将軍家光のときには、参勤交代の制度化、500石以上の大船の建造禁止等の寛永令の起草に貢献している。5代将軍綱吉に仕えた信篤のときには幕府の学問所湯島聖堂の差配、朝鮮通信使を応接する外交業務そして幕府の文書行政を司る大学頭の地位を得て、林家は代々この地位を継承して、幕府安定の重要な役割を担っていく。幕末期の9代復斎は、傑出した人物で、ペリーが来航した際に、幕府代表として応接し、ペリーの要求した通商は断固拒絶し、異国船への薪水食料の給与や下田、函館の2港の開港に留める日米和親条約の締結に尽力した。
復斎の甥には、4年後日米修好通商締結をした、岩瀬忠震がいる。また、天保の改革で、老中水野忠邦に抜擢され、南町奉行として辣腕を奮い、蘭学派を弾圧し、“まむしの妖怪”と恐れられた鳥居甲斐守耀蔵は実兄である。
  
12. 浄輪寺(関孝和墓所)
 浄輪寺には、日本が誇る数学者 関孝和が眠っている。関孝和は駿河大納言徳川忠長に仕えた内山永明の二男として生まれた。その後、甲府藩勘定役を勤める関五郎左衛門の養子となります。この時代は、戦国の世が終わり、藩士には武より文が求められ、貨幣経済の発展とも呼応して経理に強い者が登用されるようになり、孝和は甲府藩で検知や租税を監督する役職についていました。藩主徳川綱豊が6代将軍になると幕臣として、江戸詰めとなり御納戸組頭を勤めましたが、後に出世して勘定吟味役となり屋敷は南新宿の天龍寺に隣接したところに構えました。孝和は中国から伝来した算木を用いる「天元術」を改良して、「点竄術」と呼ばれる、筆算による代数の計算法を発明しました。これは「和算」と呼ばれ独自の高等数学として発展するための基礎を築きました。後に連立方程式と呼ばれる行列式は、ドイツのライプニッツが発明したと云われるが、孝和はそれよりも10年前に発明していたという。その他、円周率も11ケタまで算出した功績があるが、これは弟子の建部賢弘に受け継がれ41ケタまで算出している。孝和の死後、彼の開拓した和算は弟子たちによってさらに高度な数学に発展させられ、江戸和算の全盛期が築かれた。額や絵馬に数学の解法を記して、神社などに奉納するという日本独自の算額の風習が全国に広まった。日本が外国の植民地化を防げた理由の一つに日本人の数学思考の高さが欧米人に比して劣らなかったことが挙げられる。
13. 多聞院
 多門院には分骨埋葬された松井須磨子の墓が墓地の右手中ほどにある。 松井須磨子(本名:小林正子)は明治19年信州士族の末子に生まれ、15歳のとき上京し、姉の住む麻布飯倉に来て戸板女学校に通う。17歳のとき木更津の割烹旅館に嫁ぐが、病にかかり離縁されるという憂き目に遭った。暗澹たる生活の中で、明治42年坪内逍遥が主催する文芸協会付属演劇研究所に心のよりどころを得て、演劇に没頭するようになる。そこで運命の出会いとなった島村抱月から指導を受ける。44年(1911)文芸協会第1回公演「ハムレット」でオフェリア、さらに「人形の家」でノラを演じ好評を博す。島村抱月との恋愛関係が広まり、大正2年(1913)に協会を除名される。同じく協会幹事を辞任した抱月と芸術座を結成、『復活』『サロメ』等を上演。特に『復活』の劇中歌「カチューシャの歌」は全国的に大ヒットした。大正7年(1918)11月抱月がスペイン風邪をこじらせて急死するとその2ケ月後「抱月と一緒に葬って欲しい」という遺書を残して追って自殺した。しかし、この願いは抱月夫人の反対で実現しなかった。恋に生きた須磨子の一生でした。
  14 宗参寺
宗参寺は、天文13年(1544)牛込城主牛込重行により創建された歴史のある曹洞宗の寺院です。寛文4年(1664年)に末裔の牛込勝正が祖先を供養して建てた供養塔を中心に歴代の墓があります。牛込氏はもと武蔵国守護の上杉氏の家臣でしたが、重行、勝行、勝正の3代に亘り小田原北条氏の家臣となって牛込郷の領主になりました。のちに江戸幕府の旗本となり、牛込の地名の基になりました。また、当寺院には江戸時代の儒学者・兵学者である山鹿素行の墓もあります。山鹿素行は会津に生まれ寛永5年(1628)6歳のとき江戸に出る。寛永7年(1630)9歳のとき大学頭を務めていた林羅山の門下に入り朱子学を学び、15歳からは小幡景憲の下で軍学を、廣田坦斎らに神道を、それ以外にも歌学など様々な学問を学んだ。のちに家塾をおこして多くの門弟を育てましたが、当時の官学であった朱子学)を批判したため、赤穂藩へお預けの身となりました。しかし、赤穂藩では、厚遇され、藩士たちの教育に携わりました。 国家老の大石内蔵助良雄も門弟の一人でした。晩年には許されて江戸に帰り、私塾「積徳堂」を開き多くの門人を育て、その教えは後世の吉田松陰にも深い影響を与えています。墓は国指定史跡とされています。その他、同寺の境内には乃木将軍遺愛の梅記念碑があります。
  15. 夏目漱石終焉の旧居跡
  この公園一帯は、文豪夏目漱石が晩年の明治40年9月29日から、大正5年12月9日に死去するまで住んだところで、「漱石山房」と呼んでいた。山房とは書斎のことである。漱石はここで「坑夫」「三四郎」「それから」「門」などの代表作を発表し、「明暗」執筆の半ばに世を去った。漱石死去の当日の様子は内田百閧フ「漱石先生臨終記」に詳述されている。また漱石山房の様子は漱石の「文士の生活」や芥川龍之介の「漱石山房の冬」などに克明に描かれている。この石塔は俗称「猫塚」呼ばれているが、「吾輩は猫である」の猫の墓ではなく、漱石没後、遺族が家で飼っていた猫や犬、小鳥の供養のために建てたもので、昭和28年の漱石の命日にここに復元されたものです。
  16. 月桂寺
月桂寺は喜連川足利氏ゆかりの寺である。
喜連川藩足利氏は、足利尊氏の末裔で、室町時代における関東地方の将軍代行職の鎌倉公方子孫です。5代成氏の嫡女嶋子は、下野国の豪族・塩谷氏に嫁いでいましたが、豊臣秀吉が小田原から関東へ攻め上って来たとき、奥方の嶋子を置いて塩谷は逃げ出しました。高貴な家柄の女性を好む豊臣秀吉は、置き去りにされた嶋子を寵愛し、側室にしました。嶋子は秀吉に、由緒ある古河公方家の再興を願い出て、喜連川家を興すことに成功します。嶋子はその後、家康に召されて、老女として会津にも赴いています。月桂寺には、嶋子が所持していた水晶の宝珠は、「厄除御安産諸願成就の宝玉」が寺宝として伝わり、厄除け安産成就の寺として知られています。また、元禄年間には柳沢吉保もこの寺の檀家となっています。墓場の奥の方には吉保の供養墓、2代吉里の墓、その他ほか、柳沢一族の墓があります。明治の朝日新聞主筆で文豪夏目漱石の小説を新聞連載した池辺三山の墓もあります。
  17. 旧尾張藩上屋敷跡
現在の防衛省のあるこの敷地は江戸時代、親藩尾張藩62万石の上屋敷が置かれていたところです。
明暦2年(1656)第2代藩主徳川光友この地を拝領、広大な敷地には御殿や楽々園という庭園や琵琶湖を模した泉水池がありました。維新後は、陸軍士官学校、陸軍予科が置かれ、戦時中には、陸軍省参謀本部など軍の中枢部署が配置されました。終戦後はアメリカ軍が駐屯し、ここに極東国際軍事裁判所を設置し、東條英機らA級戦犯を裁きました。その後、アメリカ極東司令部、米軍将校宿舎などに使用され、昭和33年(1958)日本に返還され防衛庁が置かれました。昭和45年(1970)11月25日に作家、三島由紀夫が憲法改正のため自衛隊の決起を呼びかけた後に割腹自殺をした事件を起したのがこの地である
  18. 市ヶ谷亀岡八幡宮
  当神社は太田道灌が文明11年(1479年)、江戸城築城の際に西方の守護神として鎌倉の鶴岡八幡宮の分霊を番町に祀ったのが始まりである。「鶴岡」に対して亀岡八幡宮と称した。当時は市谷御門の中(現在の千代田区内)にあった。江戸時代に入り寛永13年頃(1636)に江戸城の外堀が出来たのを機に現在地に移転した。市谷亀岡八幡宮は三代将軍家光や5代将軍綱吉の母桂昌院などの信仰を得て、社殿が豪華に再建された。江戸時代には市谷八幡宮と称した。境内には茶屋や芝居小屋なども並び人々が行き交い、例祭は江戸市中でも華やかなものとして知られ、大いに賑わったという。 明治期に入ると、神仏分離令により別当寺の東円寺が廃寺となり、芝居小屋なども撤退して、その跡地に樹木が植えられかつての賑わいはなくなっていった。その後、1945年に第二次世界大戦による戦火により神木なども含め焼失した。1962年に現在の社殿が再建されている。現在でも地域の人々などから信仰を得ている。
 〔料亭 松ケ枝のこぼれ話〕
戦後、公職追放解除後の第25回衆議院議員総選挙では、選挙中の立会演説会で対立候補の福家俊一から「戦後男女同権となったものの、ある有力候補のごときは妾を4人も持っている。かかる不徳義漢が国政に関係する資格があるか」と批判された。ところが、次に演壇に立った三木は「私の前に立ったフケ(=福家)ば飛ぶような候補者が、ある有力候補と申したのは、不肖この三木武吉であります。なるべくなら、皆さんの貴重なる一票は、先の無力候補に投ぜられるより、有力候補たる私に…と、三木は考えます。なお、正確を期さねばならんので、さきの無力候補の数字的間違いを、ここで訂正しておきます。私には、妾が4人あると申されたが、事実は5人であります。5を4と数えるごとき、小学校一年生といえども、恥とすべきであります。1つ数え損なったとみえます。ただし、5人の女性たちは、今日ではいずれも老来廃馬と相成り、役には立ちませぬ。が、これを捨て去るごとき不人情は、三木武吉にはできませんから、みな今日も養っております」と愛人の存在をあっさりと認め、さらに詳細を訂正し、聴衆の爆笑と拍手を呼んだ。ただし、エピソードが違えばこの妾の数も違っています。某日、演説中に「六人の妾はどうした!」と聴衆から野次られると、即座に「いや、六人ではなく正確には七人いるが、皆、キチンと面倒を見ているから御心配無用!」と切り返したというのは、あまりにも有名な逸話である。この妾の一人が「料亭松ケ枝」のおかみでした。元総理大臣田中角栄が芸者辻和子と逢っていたのもここ料亭松ヶ枝でした。


〔料亭 うを徳のこぼれ話〕
金沢に生まれた泉鏡花は尾崎紅葉に心酔し牛込にあった紅葉宅に書生として寄宿します。鏡花は神楽坂の「料亭うを徳」に桃太郎という名で出ていた芸者伊藤すずに恋をして、結婚しようとしますが、師匠の紅葉は許しませんでした。鏡花の代表作「婦系図―湯島の白梅」のこの一件をモデルにしています。紅葉が死去したあと鏡花はすずと結婚し、ここ神楽坂に住みました。