第20回 お江戸散策 根津・白山 界隈 解説
1. 本行寺
長久山 本行寺は、大永6年(1526)、北条早雲に攻められて討死した大田道灌の子、資康の菩提を弔うために江戸城内に建立された寺院で、江戸時代に谷中に移り、宝永6年(1709)当地に移転した。景勝の地であったことから通称「月見寺」とも呼ばれていた。風流を好む江戸の文人墨客が集まったことで知られ、二十一世の日垣上人は多くの俳人たちと交遊があり、小林一茶はしばしば当寺を訪れ、「青い田の 露をさかなや ひとり酒」などの句を詠んでいる。幕臣永井(ながい)尚(なお)志(むね)(なおのぶとも言う)の墓がある。永井は幕末・維新期に活躍した幕臣で、外国奉行、軍艦奉行を歴任し、安政の大獄で一時蟄居したが、若年寄、大目付を務め、榎本武揚らと函館五稜郭に拠(よ)り新政府軍と戦ったが投降したが、のち赦されて、新政府に仕えた。その他、映画評論家 荻昌弘の墓や江戸期、大田南畝に「詩は詩仏、書は米庵、狂歌 俺、芸者小万に料理 八百善」と謳われた儒学者市河寛斎・書家米庵父子の墓がある。(詩仏=漢詩家 大窪詩仏。小万=深川芸者。八百善=創業300年 江戸料理の老舗。)
2. 経王寺
経王寺は、明暦元年(1655)日暮里の豪農 冠勝平が身延山日蓮の高僧日慶上人に土地を寄進し開基した寺院で、山号は大黒山という。門を入った右手の大黒堂には日蓮上人作と言われる開運大黒天が安置されている。本尊は十界曼荼羅で、寺宝は日蓮上人坐像。山門の門扉や柱に穴があいているが、これは上野戦争で敗れた彰義隊士が当寺に隠れたため、新政府軍が銃撃を加えた銃弾の傷痕である。彰義隊士は、抵抗した者は撃たれましたが、降伏したものは捕らえられた後、ほとんどが赦免されました。中には、その後新政府に登用された者も多くおります。

3. 夕焼けだんだん
夕やけだんだんは夕焼けが美しいことと、下町情緒が感じられる名前として、森まゆみが命名した。日暮里駅方面から谷中銀座に下る坂(階段)をいう。御殿坂の延長線上にあたる。階段の傾斜は15度で緩やかであり、高低差は4メートル、段数は36段ある。幅は4.4メートルあり、長さは15メートルとなっている。階段上から谷中銀座を見下ろす風景は谷中関連の雑誌や番組にしばしば登場する有名なもので、夕焼けの絶景スポットにもなっている。階段の下には「谷中ぎんざ」と書かれたゲートがある。また、階段には野良猫・飼い猫を問わず、沢山の猫が集まっているので、「夕やけにゃんにゃん」と呼ばれることもある。
4.須藤公園
加賀前田藩の支藩大聖寺藩主松平備後守の屋敷であった。このあたりは江戸の郊外で、閑静で敷地も広く、 地形を立体的に巧みに構成して、遊歩道をめぐらした趣のある庭園を作った。当時の大名の趣味生活がうかがえる。明治になって政治家品川弥二郎の邸宅となった。品川は松下村塾で吉田松蔭の薫陶を受け高杉晋作らと行動を共にして尊王攘夷運動に奔走し、英国公使館焼き討ちなどを実行した。その後、木戸孝允らと薩長同盟の成立に尽力し、戊辰戦争では奥羽鎮撫総督参謀として重責を果たした。維新後、明治三年にドイツ、イギリスに留学し、帰国後枢密顧問官などを歴任した。明治33年肺炎で死去した。その後、この屋敷は実業家の須藤吉佐衛門が買取り昭和8年(1933)に須藤家から東京都に寄付され、昭和25年(1950)に東京都から文京区に移管され、寄付者の名を取って須藤公園として開園した。広い公園ではないが、傾斜地となっている地形を利用した変化に富んだ趣があり、緑が深く、中央の池をめぐって高低差のある散策路がある。池の中には弁財天が祭られており、池に注ぐ流れの上には「須藤の滝」があるなどバラエティに富んでいる。
5.観潮楼跡 〜鴎外記念館〜
文豪 森鴎外は明治25年(1892)に向ケ丘から転居してこの家に30年間住んだ。陸軍軍医を務める傍ら、作家活動を行い、この家で「雁」「阿部一族」「高瀬舟」などの傑作を執筆した。この家から東京湾が望めることから、自ら「観潮楼」と名付けた。旧宅は戦災で焼失したが、門の礎石や敷石は当時のまま残っている。庭には、「三人冗語の石」というものがある。鴎外が創刊した『めさまし草』という文芸雑誌には「三人冗語」という森鴎外、幸田露伴、齋藤緑雨が匿名で語った評論欄があり、その当時大きな人気を集めていた。鴎外が座っていたのが、その石である。「三人冗語の石」はその批評をこの庭の石に腰掛けて行ったことから名づけられた。鴎外が、樋口一葉の小説「たけくらべ」を絶賛したのも「三人冗語」で語ったものである。
6 光源寺 〜駒込大観音
光源寺は、浄土宗の寺院で、本尊は阿弥陀如来であるが、江戸期は高さ5mもある大観音があることから「駒込大観音」として信仰されていた。奈良の長谷観音を写して元禄年間に造られた十一面観音は東京大空襲で焼失しましたが、平成5年に御丈6m余の御像として再建されました。近所に住んだ夏目漱石も小説『三四郎』の中に、この大観音のことを書いています。観音堂は創建当初の土蔵を現代的に再現しており、内部の柱はインドの仏跡の意匠を取り入れている。観音堂に向かって右側の巨木は樹齢300年を越える梅の木で、駒込大観音再興を記念して献木され、この地の旧町名・蓬莱町にちなんで「蓬莱梅」と名付けられた。毎年、寒さが和らぐと同時に馥郁(ふくいく)たる香りを辺りに送り出す白梅である。墓域には、平安時代に近衛天皇から称えられた甲冑や鐔工芸の職人集団「明珍派」の墓がある。
7 高林寺
高林寺は、江戸時代初期、現在の御茶ノ水駅付近にあり、寺内から名水が湧き、お茶を立てて将軍に献上したことから将軍家から庇護を受け、1657年の明暦の大火で被災したのち、当地に移転してきた曹洞宗の寺院である。伽藍が整い、学寮もあり、土塀をめぐらした江戸時代の名刹である。幕末期の蘭学者であり、名医として名高い緒方洪庵の墓がある。緒方洪庵は、大阪で適々斎塾を開き日本全国から優秀な青年たちが彼の門を叩いた。医学を修めるための西洋医学研究所であったにも関わらず、兵学者の大村益次郎、慶応義塾の創始者、福沢諭吉をはじめとする多くの俊才を育成した。洪庵は備中の生まれで、17歳で大阪に来て蘭学を学び、20歳で江戸に出て坪井信道の弟子となったが、長崎に出て、直接オランダ人からオランダ語を学び、大阪に帰って開業。大阪で初めて種痘予防学で功績をあげ、後に江戸に出て将軍の奥醫師そして西洋醫學所頭取として弟子の手塚了仙等とともに、種痘事業を始め、予防医学・公衆衛生の面においても力を尽くした。江戸に10ケ月後の文久3年(1863)、突然大喀血して急逝した。(享年54)。洪庵が、江戸に来たことで、西洋醫學所(現、東京大学医学部の前身)が設立されたことを考えると蘭学者・医学者・教育者として偉大な功績を残したと言える。洪庵の子孫もやはり医者が多く、戦後も東大医学部内部で緒方内科はその名を轟かせていた。当墓域には、徳川家康の若年期の側近で「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」と簡潔短文の手紙で知られる本多作左衛門重次の墓もある。
8 駒込土物店跡
江戸時代、天英寺の前は、神田、千住と並び3大青果市場といわれた。発祥は元和年間(1615〜1624)といわれる。当初は近隣の農民が野菜を担いで江戸に出る途中、この地で休むのが毎朝の例となり、付近の住民が新鮮な野菜を求めたのが起こりである。この周辺にある富士神社の裏手は駒込ナスの生産地として有名であり、大根、にんじん、ごぼうなどの土のついたままの野菜が取り引きされたことから土物店と呼ばれるようになった。この地は中山道白山上から、間道を抜けて岩槻街道
に通じる交通の要所であったことから、江戸〜明治・大正に入っても青果市場として大いに賑わっていたが、昭和12年巣鴨に豊島中央卸売市場が出来て、輝きを失いだし、戦災によって被害を受けてから、市場としての面影は失われた。
9 白山神社
白山神社は、大化の改新後の全国神社整備による創建と伝わり、延長2年(928)の記録にも見られる由緒ある古社である。その20年後の記録には「加賀一宮白山が本郷元町に移転」と記され、江戸時代の5代将軍徳川綱吉のとき、現在地に定まった。綱吉の白山御殿(現在の小石川植物園)の屋敷神としても手厚く信仰され、将軍家の保護を受けてきた。民間では歯痛にご利益がある神様として白山信仰がもてはやされた。今日でも商売繁盛、航海安全信仰があり、営業マンの商談成立、海外渡航の安全祈願などで参詣者が多い。また、この神社は、中国国民党の指導者「孫文」が、日本へ亡命中、隠れ住んだ処とも知られ、孫文は、この境内で夜空に一筋のほうき星が流れるのを見て、「これで革命もきっと成功する」とつぶやいたと言われている。因みに、孫文が見たという年は明治43年(1910)、ハレー彗星が、地球に大接近した年で、孫文が白山神社に居た5月下旬は、この時期に符合することから、孫文が見たのはハレー彗星だったと思われる。


10 大圓寺
曹洞宗の寺で、開創は慶長2年(1597)という。山門正面に「炮烙地蔵尊」が安置されている。頭痛や悩み事があるとき、炮烙を供え祈願すると、願いごとがかなうといわれる。炮烙は俸祿にも通じ、最近はサラリーマンの姿も見受けられる。 八百屋お七の事件は、この寺からの出火が原因であった。地蔵尊は、お七の大罪を救うため、素焼きの像や土皿などを地蔵の頭部に乗せ、お七の身代わりとして、焼かれる苦しみに耐える地蔵として安置されたものである。墓域には幕末の砲術家、高島秋帆その他、森鴎外とともに樋口一葉を絶賛して高い評価をした斉藤緑雨の墓がある。
 高島秋帆は日本で唯一の海外と通じた長崎で生まれ育ち、若くして出島のオランダ人からオランダ語や洋式砲術を学び、私費で銃器等を揃えて、天保5年(1834)に高島流砲術を完成させた。清がアヘン戦争でイギリスに敗れたことを知ると、秋帆は幕府に火砲の近代化を訴える『天保上書』という意見書を提出して天保12年(1841)、武蔵国徳丸ヶ原(現在の板橋区高島平)で日本初となる洋式砲術と洋式銃陣の公開演習を行なった。この時の兵装束は筒袖上衣に裁着袴(たっつけばかま)、頭に黒塗円錐形の銃陣笠という斬新なものであった。この演習の結果、秋帆は幕府から砲術の専門家として重用された。そして、幕命により江川太郎左衛門英龍らに洋式砲術を伝授し、更にその門人へと高島流砲術は広まった。しかし、幕府から重用されることを妬んだ南町奉行鳥居甲斐守耀蔵に「密貿易をしている」という讒訴を受け、翌天保13年(1842)に長崎奉行に逮捕・投獄され、高島家は断絶となった。嘉永6年(1853)ペリーが来航すると、社会情勢の変化により、赦免されて出獄した。そして、老中阿部正弘に重用され、幕府の講武所支配及び師範となり、砲術訓練の指導に尽力した。
慶応2年(1866)、69歳で死去した。
11 真浄寺
宝暦11年(1761)神田から当地へ移転した浄土真宗大谷派の寺院。当寺の住職は歴代気骨があり、日清戦争前、日本の明治維新を模範として清朝からの独立、朝鮮の近代化を目指した朝鮮の親日政治家 金玉均が日本に亡命した際、匿っている。また二・二六事件で危うく難を逃れた、時の首相岡田啓介もこの寺で事件が鎮静するまで隠れていました。そして、この寺を有名にしたのは、コメディアン植木等が、中学から高校まで小僧として修行した寺でした。植木等の父徹誠は三重県伊勢市常念寺の住職で、正義感が強く、等が幼い頃、官憲に逆らって投獄されたことがある。等の将来を案じて、父と母は、縁のあった当寺院に、等の教育を委ねるため、小僧として入門させた。厳しい修行生活であったが、持ち前の明るい性格で住職にも、奥さんにも可愛がられ、東洋大学に入学したときは、住職から多額の祝い金をいただき、植木は感激したという。大学では、100mを11秒台で走る俊足から陸上部で活躍する傍ら、軽音楽に熱中して、虜になり、持ち前のひょうきんさで大衆を楽しませる能力が秀でていることから、芸能界への道へ進むことになった。真浄寺で修行した者は、大学教授、医者になった者を多く輩出しているが、芸能界に入ったのは植木等一人だという。得度せず、芸能界入りした時は、叱られて敷居が高くなったというが、住職の寺田康順とは小僧時代から真浄寺で共に生活した間柄で、住職が亡くなるまで毎年正月と盆はかかさず真浄寺へ挨拶に伺って、寺への恩は終生忘れなかったという。
12 猫の家跡
猫の家は、文豪夏目漱石が、人気小説「吾輩は猫である」をこの家で執筆したことから、こう呼ばれるようになった。この家は、森鴎外が観潮楼に転居する前に住んでいたところで、後に夏目漱石の大学時代の友人で歴史学者の齋藤阿具が所有し、彼がドイツ、オランダに留学している3年間を漱石が借りて住んだ。漱石は、坊ちゃんで知られる松山中学、熊本五高などの教員生活から、1900年にイギリスに留学した。帰国した後に、この家を住まいとして、第一高等学校や東京大学英文科の教鞭を取りながら執筆活動を行い、「坊ちゃん」「草枕」などの作品も発表した。この家は、現在岐阜県犬山市にある明治村で保存されている。
13 根津神社
根津神社は、由緒書きには日本武尊の創建と伝えられるほど旧い神社で、もと千駄木の台地上にありました。宝永2年、徳川五代将軍綱吉のとき、兄綱重の子家宣を継嗣に定めた記念として、その産土神であった当社を現在地に移転の上大規模な造営を行いました。 家宣は将軍になると、当社をことのほか保護し、正徳4年には江戸全町より山車を出させ、天下祭と称される壮大な祭を催しました。その祭は、現代においても権現祭として受け継がれています。この神社は権現造りの完成形とされるもので、昭和6年に国宝指定され、戦災にもあわず、今日に至るまで創建時の姿を伝えています。権現造りとは、日光東照宮を代表格として関東地方に多く見られるもので社殿を、拝殿、幣殿、本殿の順に、エの字型に一体的に配置した様式です。根津神社においては、社殿の周りを唐門と透塀が囲みさらにその前面に楼門を配するなど、この様式を高度に完成させました。
●植木等の性格は父親譲りという。植木等の父、徹誠は、若い頃はキリスト教徒であった。後に浄土真宗の一つである真宗大谷派常念寺の住職となる。たいへんな社会的正義感の持ち主で、被差別部落出身ではないが「自分は部落民ではないと言うこと自体、差別していることになるといい、等が小学生の頃には差別問題に関して、激しい闘志で被差別民衆を擁護して立ち向かい、官憲から睨まれて投獄されたこともあったという。
●植木等は映画やドラマで演じた役柄の性格とまったく異なり、自他共に認めるたいへん真面目な性格で、青島幸男作詞の「スーダラ節」の楽譜をはじめて渡された時には、「この曲を歌うと自分の人生が変わってしまうのでは」と真剣に悩んだ。父徹誠に相談すると「どんな歌なんだ?」というので植木は「スーダラ節」を歌ってみた。激しい正義感の持ち主の父の前で歌ったあまりにふざけた歌詞に激怒されると思いきや、父は「すばらしい!」と涙を流さんばかりに感動した。唖然とする等が理由を尋ねると、「この歌詞は我が浄土真宗の宗祖、親鸞上人の教えそのものだ。親鸞さまは90歳まで生きられて、あれをやっちゃいけない、これをやっちゃいけない、そういながら最後までみんなやっちゃった。人類が生きている限り、このわかっちゃいるけどやめられないという生活はなくならない。これこそ親鸞聖人の教えなのだ。そういうものを人類の真理というんだ。上出来だ。がんばってこい!」と激励され、植木は、不安が吹っ切れて、歌うことをついに決意した。このエピソードは、植木が歌手として生きていく上での生涯の支えになったという。
●仏教の教えでは彼岸があり、極楽浄土へ行くのだという教えがあり、病の床の父徹誠は佛に向かって手を合わせていた。
父 「お前、あの世なんてあると思うか」
等 「いやあ、どうなんでしょうね。オヤジさんはどう思いますか」
父 「そんなのあるわけねえよ、死んだらお終い、ただそれだけよ」