第22回 お江戸散策 大塚・池袋 界隈 解説
1独立行政法人 造幣局 東京支局
造幣局は、近代国家としての貨幣制度の確立を図るため、明治新政府によって大阪市北区に創設され、明治4年4月4日に創業した。
当時としては画期的な洋式設備によって貨幣の製造を開始しました。貨幣製造に必要な各種の機材の多くは自給自足で賄い、電信・電話などの設備並びに天秤、時計などの諸機械の製作をすべて局内で行っていました。事務面でも自製インクを使い、我が国はじめての複式簿記を採用し、さらに風俗面では断髪、廃刀、洋服の着用などを率先して実行しました。このように、造幣局は、明治初年における欧米文化移植の先駆者として、我が国の近代工業及び文化の興隆に重要な役割を果たしていました。その後、造幣局は、貨幣の製造のほか、時代の要請に応えて「勲章・褒章及び金属工芸品等の製造」、「地金・鉱物の分析及び試験」、「貴金属地金の精製」等の事業も行っています。昨年、文化勲章を受けた高倉健さんたちに贈られた勲章はこの工場で造られました。
2. 巣鴨プリズン跡
昭和53年(1978)に建設されたサンシャインシティおよび豊島区立東池袋中央公園一帯は、昭和12年に東京拘置所が造られ主に政治思想犯罪者が収容されていた。戦後は、GHQに接収され、巣鴨プリズンと呼ばれ、戦争犯罪者たちが収容されていた。東池袋中央公園の場所は、処刑場があったところで、ここでA級戦犯7名、BC級戦犯53名が絞首刑になりました。昭和55年6月『永久平和を願って』の碑が建てられ、碑文には「 第二次世界大戦後、東京市谷において極東国際軍事裁判所が課した刑及び他の連合国戦争犯罪法廷が課した一部の刑が、この地で執行された。戦争による悲劇を再びくりかえさないため、この地を前述の遺跡とし、この碑を建立する」とある。

3.本立寺
当寺は、大名を転封に追い込んだ吉原の花魁、高尾太夫が眠る寺として知られる。姫路榊原藩8代当主政岑は吉原で遊興を重ねるうち、芸能百般に精通し、教養もあり、飛び切りの美女であった三浦屋の遊女7代高尾太夫に惚れ込んでしまった。勢い余って1800両の大金をつぎ込んで身請けして側室にしてしまった。時は8代将軍・吉宗の倹約令の時代、このことが幕府の耳に入り、幕府は怒って、27歳の政岑に隠居を命じ、幼い政永に家督を継がせた。その後、榊原家は実収石高の少ない越後高田に懲罰的転封をさせられた。政岑も高尾太夫も一緒に高田に住むが、2年後政岑は急逝してしまった。高尾太夫は、しばらく高田に居たが、のちに江戸に戻り、正岑の菩提を弔い天明9年(1789)一生を終えた。墓は本堂裏の奥にある。また、当寺には幕末時、新政府軍に抵抗して戦った神木隊士の追悼碑がある。神木隊は榊原家の榊の字に因んで名付けられた高田藩抗戦派が組織した86名の脱藩部隊で戊辰戦争の際に新政府軍に抵抗し、彰義隊に合流して上野戦争や箱館での戦いにも参戦して、明治2年(1869年)に降伏した。

4.丸池と成蹊学園跡
当地は、池袋地名ゆかりの地、成蹊学園発祥の地と云われる。
この辺りはかって大小の池があり、とりわけ丸池と呼ばれる池は大きく、弦巻川の源流となり、近辺の田畑を潤していた。窪地で袋の形をしていたので池袋と呼ばれたと云う。大正時代にも池の水は涸れず成蹊学園の学生たちが泳いでいたという。成蹊学園は、明治45年に創設され、大正13年に吉祥寺に移転した。成蹊の名は、「桃李物言わざれど下自ずから小径を成す」の故事に因んでいる。
5.自由学園と明日館
閑静な住宅街にあり、広い芝生に優美な建物、明日館の立つここは自由学園があったところである。自由学園は婦人運動の先駆者羽仁もと子、吉一夫妻によって設立された女学校で、大正10年(1921)に開校した。もと子は明治女学校を卒業後、報知新聞に務め、女性記者第一号となる。雑誌「家庭の友」を創刊する傍ら、親として子供の教育に深い関心を持ち、キリスト教の精神を基にした個性的な自立した人間を育てることを目的に自由学園を起こした。映画監督 羽仁進は、もと子の孫である。明日館は旧帝国ホテルを設計した近代建築の巨匠フランクロイド・ライトとその弟子遠藤新によって設計された建物で、ライトの故郷ウィスコンシンの大草原から着想を得たものと云われ、重要文化財に指定されている。

6.上り屋敷公園
この辺りは、昭和の始め頃まで狐塚と呼ばれ、篠竹が密集していて、江戸時代には将軍の狩場だったと云う。小高い台地には休憩所が設けられ「上がり屋敷」と呼んだ。公園は、昭和56年に造られムクの大木があり、子供たちの歓声が響く。公園の西にある池島家は、元文藝春秋の名編集長池島信平の旧宅である。

7.目白庭園と赤い鳥社跡
目白庭園は豊島区の都市化、国際化が進む中で、より潤いのある街づくりの一環として建設された。庭園は池泉回遊式になっており、池の周囲をめぐることができます。庭園内には、雑誌「赤い鳥」を由来にした木造瓦葺平屋建ての数寄建築の「赤鳥庵」や、六角浮き見堂が配され、四季折々の様々な自然の表情を満喫できるよう草木が配植されています。近くの「千種画廊」の看板が掛かった家は旧赤い鳥社・鈴木三重吉の旧宅である。鈴木三重吉は、漱石門下の小説家で、ロマンチシズムな作品で活躍した。長女が誕生したとき、わが娘に読み与える童話がないことに愕然とし、自ら児童読み物の創刊を決意し、雑誌「赤い鳥」を発刊した。この雑誌には、友人の芥川龍之介、有島武郎をはじめ、菊池寛、島崎藤村、佐藤春夫たちの作品を掲載し、北原白秋、西条八十、三木露風たちの童話や挿絵なども採用した。それが山田耕筰、成田為三らの名曲を生み出した。昭和11年三重吉が死去すると雑誌「赤い鳥」も廃刊となったが、児童尊重の教育運動が高まっていた教育界に大きな反響を起こしていった。

8 徳川黎明会
徳川黎明会は、尾張徳川家 所蔵の美術品などの管理・一般への公開などを目的として昭和6年12月に設立されました。現在の会長は尾張 徳川家第22代当主の徳川義崇(よしたか)。主な事業としては、徳川美術館の運営事業と徳川林史の調査研究がある。徳川美術館は名古屋市東区にあり、御三家筆頭62万石尾張徳川家の歴代相伝の重宝、所謂大名道具を収め、しかもその後、徳川宗家や紀州徳川家、一橋徳川家、蜂須賀家などの大大名の売立重宝の一部を購入し、さまざまな篤志家の寄贈品をも収めてさらに充実し、戦中戦後の災難混乱を免れて現在に至っています。収蔵品は徳川家康の遺品を中心に、初代義直(家康九男)以下代々の遺愛品や、その家族が実際に使用した物など1万件余りにおよびます。世界的にも有名な国宝「源氏物語絵巻」をはじめ国宝9件、重要文化財59件、重要美術品46件を含み、徳川美術館ならではの豊富さ、質の高さ、そして保存状態の良さを誇っています。林史研究所では、これらの古文書を整理して公開するとともに、木曽の山々をはじめとする日本の林政や尾張藩、江戸幕府の歴史について研究しています。
9 立教大学・・・・モリス館と鈴懸の径
立教大学は、築地聖路加病院前の一角で、明治7年(1874)外国人居留地に英語と聖書を教える私塾が開校されたのがはじまりでした。大正7年(19818)学院総理のG・タッカーは、教育の理想の場所として、当時田舎であった池袋に目を付け移転を決めました。キャンパスは、ゴシックリバイバル様式を基調とした簡素ながら重厚な赤レンガ造りで統一させた。キャンパス正面は時計台のあるモリス館、左右にチャペル、図書館がコの字型に広がり、西側には灰田勝彦の「鈴懸の径碑」が建っている。
10 江戸川乱歩旧宅
江戸川乱歩。本名は平井 太郎は、明治27年(1894)三重県名張に生まれる。先祖は藤堂藩の武士の家柄。早稲田大学に入った頃から欧米の探偵小説に興味を持ち、大正12年(1923)2銭銅貨でデビューしてから、探偵小説黎明期を切り開いていった。名探偵 明智小五郎と小林少年が登場する「怪人二十面相」は大人気を博し、不動の地位を得た。
戦後は推理小説専門の評論家としても健筆を揮って活躍する傍ら、、江戸川乱歩賞を創設して後進の育成にも取り組んだ。筆名は敬愛するアメリカの文豪エドガー・アラン・ポーをもじったものである。
11 祥雲寺
瑞鳳山祥雲寺は後北条氏の重臣江戸城主遠山隼人正景久によって、永禄7年(1564)に江戸城和田倉門内に駒込吉祥寺の末寺として創建されたのが始まりである。天正18年(1590)後北条氏滅亡にともない遠山氏も退転したため、しばらく吉祥寺の隠居所となり、神田台や小石川へと移転した。寛永6年(1629)に信州松本藩戸田氏が檀越となり、数度の火災の復興に際しても多大な尽力をした。当地への移転は明治39年であり、重宝類は昭和9年の火災で焼失した。現在の本尊の薬師如来は胎内銘によれば、天正17年(1589)の造立になるという。墓地には戸田家代々の墓、7代首斬り山田浅右衛門吉利、漫画家石ノ森章太郎、台湾の総統李登輝と交流があり、日本に亡命して明治大学で教鞭を取った王育徳の墓があります