第23回 お江戸散策 市ヶ谷台・御茶ノ水 界隈 解説
1、防衛省 ― 旧陸軍省・参謀本部・教育総監部庁舎
元は、昭和12年6月に竣工した陸軍士官学校本部庁舎であり、上から見ると「日」の字を横に倒したような形をしていた。昭和16年以降は、向かって左側に陸軍省、右側に参謀本部が入った(3階の右側の一部は教育総監部)。中央に大講堂があり、戦後、「極東軍事裁判」の法廷として使われた。防衛庁移転前は「1号館」と呼ばれていて、東部方面総監部などが入っていた。昭和45年11月25日、三島由紀夫氏が籠城して自決したのもこの建物である。激動の歴史を見続けてきた1号館も、防衛庁の市ヶ谷移転時に取り壊され、玄関や講堂など建物の一部を組み合わせて移転・再建された。現在は「市ヶ谷記念館」として一般公開されている。なお、現在この記念館がある付近は、終戦時は第一総軍司令部があった場所で、総軍司令官杉山元帥と司令部附吉本大将が自決している。(市谷台資料
2. 明大刑事博物館
明治大学は、当時20代の青年法律家、岸本辰雄、宮城浩蔵、矢代操の3人が、フランス留学仲間の西園寺公望や渋沢栄一らを協力者に迎え、1881年1月に設立した明治法律学校をその母体とする。
 設立に際しては、旧鳥取藩主・池田輝知や旧島原藩主・松平忠和(徳川慶喜の実弟)らから支援を受け、有楽町数寄屋橋内の旧松平忠和邸「三楽舎」を校舎として開校した。司法省法学校出身者やフランス留学組などから多くの人材が参画し、当時最先端のフランス法学を教授した。1886年12月には現神田駿河台一丁目の新校舎に移転し、1903年に明治大学と改称された。明治大学博物館は、2004年に開設され、建学の精神である「権利自由」「独立自治」にもとづき刑事、商品そして考古学の分野における学術研究の成果を公開して、多くの人の学習に供することを目的として造られた。開館以来、約70万人の来館者を数えるに至り、私学では国内有数の大学博物館として高い評価を受けている。特に刑事部門では、江戸の捕者具、日本や諸外国の拷問・処刑具など人権抑圧の歴史を語り伝える、学術的に貴重な実物が展示されている
3.小栗上野介屋敷跡
小栗上野介忠順(1827-1868)は、徳川譜代の旗本として、当地にあった屋敷で生まれ、万延元年(1860)34歳の時、井伊大老の抜擢により日米修好通商条約批准の遣米使節(目付・監察)として、米艦ポウハタン号で渡米、さらに二隻の船を乗り継いで地球一周して帰国。その後の8年間幕政をささえ、この間、幕府の重責として、横須賀造船所の建設、横浜に日本最初のフランス語学校設立、フランス式陸軍制度の採用と訓練、中小坂鉄鉱山開発(群馬)、日本最初の株式会社組織「兵庫商社」の設立、ガス灯設置の提唱、金札発行などの金融経済の立て直し、郡県制度の提唱、新聞発行の提唱そして江戸ー横浜間の鉄道建設の提唱など、明治新政府が押し進めた日本近代化政策を実に、幕末期において行っていた。江戸城明け渡しの直前、慶応4年3月(1868)、幕府の役職を解かれたのち、帰農許可を得て領地である上州権田村に隠退しましたが、新政府軍に捕らえられて同年閏4月6日、明治新政府軍のため罪なくして水沼河原で家臣3名とともに斬首された。翌7日、養子又一も高崎城内で家臣3名とともに斬首されるという悲劇であった。
4ニコライ堂 
ニコライ堂は、正式名称を「日本ハリスト正教会復活大聖堂」といい、日本最大のビザンチン様式の大教会である。ロシア正教の聖ニコライは、日本への伝道を決意して、文久元年(1861)、函館に来た。彼は、その国の文化を否定せず、受け入れてキリスト教の信仰を土着させるという正教会の伝統にのっとり、その当初から日本人のための日本人による正教会を目指した。そのため日本の文化を学ぶため、日本語を習得し「古事記」や「日本書紀」などを読み、仏教を学び、日本の風俗習慣などをも深く研究した。彼は明治5年頃、東京に伝道の本拠地を移し、正教会の伝道を熱心に行いました。教勢はめざましく明治18年には信徒数はすでに12、000人を越えていました。明治24年(1891)、神田駿河台にビザンチン建築様式の「復活大聖堂」が建立され、ニコライの名に因んで「ニコライ堂」と呼ばれるようになりました。聖堂は、当時としては驚くべき大きさで荘厳なその姿は多くの人々の関心を引き寄せました。鐘楼の鐘の音色も評判となり、歌の歌詞にも謳われるようになりました。鐘は現在でも毎週日曜、10:00、12:30に鳴らされます。なお、布教と聖堂建設には、坂本竜馬の従兄弟で日本人司祭になった山本琢磨も大いに貢献している。
5.錦華小学校跡
この地は、江戸期、今治藩久松家の屋敷があったところで、明治7年(1874)、錦華小学校が建てられた。以来、100年以上の歴史をもち、明治11年夏目漱石が転校してきて学んだたことから、“夏目漱石ゆかりの小学校”として知られた。漱石は学年をジャンプして飛び級の優秀な成績であったと言われている。1993年に、錦華小学校・小川小学校・西神田小学校を併せて統合し、お茶の水小学校となる。

6.大田姫稲荷社
15世紀中頃、太田道灌が江戸城を築いて屋敷も出来た時、道灌の娘が疱瘡に罹って生死の境をさまよい、京都の一口稲荷神社(いもあらいいなり)が天然痘に霊験があると聞いた道灌が一口稲荷神社に娘の回復を祈願したところ、天然痘が治癒したという。道灌はこのことに感謝し、長禄元年(1457)に一口稲荷神社を勧請して旧江戸城内に稲荷神社を築いたとされる。徳川家康の江戸入府後、慶長11年(1606)に江戸城の改築により、城外鬼門にあたる神田川のほとりに遷座した。明治5年(1872)名を太田姫稲荷神社と改められ、大正12年(1923)の関東大震災で社殿が焼失したが、昭和3年(1928)に再建された
  7.玄武館
玄武館は、千葉周作によって開かれた北辰一刀流の剣術道場。
「力の斎藤」(斉藤弥九郎、神道無念流・練兵館―桂小五郎、高杉晋作、)、「位の桃井」(桃井春蔵、鏡新明智流・士学館―武市瑞山、岡田以蔵)と並び、「技の千葉」と称され、幕末江戸三大道場の一つに数えられた。中西派一刀流浅利義信の後継者となる予定だった千葉周作は、浅利と対立し、離縁した。そして、文政5年(1822)秋、日本橋品川町に玄武館を設立し、流派名を北辰一刀流と称した。その後、神田於玉ヶ池に移転した。於玉ヶ池周辺は学者町であったため、門人が学問に接する機会が多くなり、政治に関心を持つ者が増えて明治維新に影響を与えたともいわれる。また、斜め向かいには天神真楊流柔術の道場があり、北辰一刀流と天神真楊流を併習する者が多かった。周作以下の千葉一門は、道場を経営しつつ水戸藩にも仕官した。玄武館の門人で幕末の有名人は数多い。思いつくだけでも清河八郎、山岡鉄舟、新選組の山南敬助、藤堂平助がいる。また坂本龍馬も千葉周作の弟千葉定吉に北辰一刀流を学んだ。周作の子息たちは早世し、玄武館は衰退していったが、明治16年(1883)、周作の孫の千葉周之介(之胤)が、旧玄武館門弟山岡鉄舟の後見を受けて神田錦町に玄武館を再興した。北辰北辰一刀流の道場は、今日でも杉並区善福寺にあり、多くの門弟が修行している。
余談ながら、新撰組 近藤勇、沖田荘司の道場は試衛館、天然理心流である。
 (参考)
江戸の三大道場とは、千葉周作の開いた玄武館 北辰一刀流、斉藤弥九郎の練兵館、神道無念流、桃井春蔵の士学館、鏡新明智流を云う。周作は「技の千葉」と称され、弥九郎は、力の斉藤と呼ばれ、道場は、現在の靖国神社境内の場所にあった。門弟には、桂小五郎、高杉晋作、久坂玄瑞らがいた。桃井春蔵は、位の桃井と呼ばれ、道場は、中央区新富町にあった。門弟には、武市瑞山、岡田以蔵などがいた。余談ながら、新撰組 近藤勇、沖田荘司の道場は、試衛館、天然理心流で、鹿島神道流の流れを組み、内容は、剣術、居合術、柔術、棒術、気合術等を含む総合武術でした。道場は、牛込仲ノ町にあった。
8 柳森神社
新橋烏森神社、堀留町椙森神社とともに江戸三森社の一つに数えられる古社。長禄元年(1457)太田道灌が最初に造った社寺と云われ、土手稲荷、火防稲荷とも云う。祀られているのは、金亀山稲荷、福寿神、浅間神社、金比羅社など。福寿神は狸を祀り、江戸城内に創建。町家の出でありながら、5代将軍綱吉の時代に生母として出世した桂昌院に、あやかろうと柳森神社の福寿狸を所持することが大奥で流行し、それが開運狸として評判となり、一般にも広がった。境内には狸の石像が多い。狸が持っている笠、徳利、通帳、金袋などは世渡り上手の必需品とされ、柳森神社の「お狸さん」は、出世や商売繁盛の神様として庶民の信仰を集めた。
9 和泉橋と柳原土手
江戸時代、享保年間、8代将軍 徳川吉宗が、神田川沿いのこの
地に来て、殺風景な風情を惜しみ「ここに柳を植えよ」と命じた。その後、柳は大きくなり筋違(すじかい)見附から浅草橋に至る土手伝いは美しい柳の緑に覆われる景勝の地になった。この柳原土手は名所として「江戸名所図絵」にも描かれた。明治6年(1874)土手は撤去され、貯蔵が立ち並ぶようになり、柳森神社だけが残された。和泉橋の名前は、この付近に藤堂和泉守高虎の屋敷があったことに由来する。藤堂高虎は、豊臣の家臣であったが、秀吉が死んだ後、家康に急接近し、関ヶ原の戦いでは、家康に味方して、のちに伊勢・津32万石の大名に大出世する。外様大名ながら、家康の信頼を得た高虎は、幕府の要請に応じて天下普請なども受け入れていく。以降、代々、幕政を支えたことで、領国安堵の厚遇を受け、家は明治まで続いた。
10柳橋
天保13年(1842)、老中 水野忠邦による改革で深川などの岡場所(非公認の花街、遊廓)から逃れてきた芸妓たちが柳橋に移住し、花街が形成された。やがて洗練され江戸市中の商人や文化人の奥座敷となった。幸いにも交通便にも恵まれ隅田川沿いに位置していたため風光明媚の街として栄えてくるようになり、橋畔は舟宿で賑わった。明治期には新興の新橋と共に「柳新二橋」と称されるようになり、盛り場として栄えた。明治時代の客筋は、実業家、銀行家、政治家、軍人、俳優、力士、芸人など多岐に渡り、当時は柳橋芸者のほうが新橋より格上で、同席した場合は、新橋の者は柳橋より三寸下がって座り、柳橋の者が三味線を弾き始めないと弾けなかったという。代表的な料理屋は伊藤博文が贔屓にした「亀清楼」であった。亀清楼の創業は安政元年。森鴎外の「青年」や永井荷風の「牡丹の客」、舟橋聖一の「花の生涯」等にも登場する。国技館に近い場所柄もあって古くから横綱審議会が行われている。