第2回 横浜散歩 総持寺・生麦・神奈川宿界隈 解説
1. 清月―鶴と亀とのよねまんじゅう
民謡「お江戸日本橋」の「六郷渡れば川崎の万年屋、鶴と亀とのよねまんじゅう」と歌われているよねまんじゅうは、浅草で流行っていたが18世紀に入った頃から、よねまんじゅうといえば鶴見というように、東海道名物、大山詣名物として認知されるようになったようだ。何しろ、「初旅のまず鶴見から食いはじめ」(江戸時代の句集 武玉川(むたまがわ)」と東海道の名物1号とされたほどらしい。鶴見橋(現・鶴見川橋)の両岸にあった市場村と鶴見村で享和3年(1803)の市場村明細帳には、当時は饅頭屋が40軒あったことが記されている。また、文化5年(1808)に大田南畝が「饅頭屋は末吉屋・ゑびすや・津山・大黒や・かめや・鶴屋・布袋屋があって、ひとつ三文、籠代二文で売っていた」との記述を残している。
やがて鉄道の開通に伴い亀屋が明治末期に店を畳んだのを最後に、鶴見からよねまんじゅうを作る店は姿を消してしまった。現在、よねまんじゅうを再現して販売している店が明治年間創業の清月です。よねまんじゅうは、昭和57年(1982)に三代目の田村広次さんが菓子組合でほかの菓子屋と共に復活させたもので、当時は鶴見周辺の菓子屋の多くが販売していた。しかし、今では通年よねまんじゅうを製造販売しているのは清月のみである。
2. 総持寺
曹洞宗大本山諸嶽山総持寺は、現在の石川県輪島市門前町に元享元年(1321)に榮山禅師が開山したのが始まりと言われる。後醍醐天皇から「日域無双の禅苑、曹洞出世道場」の綸旨を賜り、勅願大寺となり、天皇家から庇護を受けた。江戸時代に入っても、幕府の祈願所として手厚く保護され、永平寺との紛争もあったが、家康の調停で、ともに大本山となり、曹洞宗の2大道場として、重きをなした。明治に入っても、石川素堂や十善戒運動を提唱した新井石禅などの名僧が出て隆盛していた。しかし、明治31年大火で、伽藍のほとんどが焼失した。明治44年(1911)石川素堂禅師は将来の隆盛を考慮して、移転を英断して鶴見に移転した。鶴見の総持寺としての歴史は浅いが境内の敷地50haに点在する大祖堂、山門、勅使門、仏殿、後醍醐天皇御霊殿、大僧殿など30あまりの伽藍は、末寺1500余寺を持つ、大本山としての威容を誇っている。寺宝も多く、絵画では前田利家夫人像、書では紹瑾筆観音堂縁起、
工芸では、刺繍獅子大法被などがある。
3. 生麦事件の現場
文久2年(1862)8月、幕府 大老井伊直弼の日米修好条約の違勅調印によって、日本国中に攘夷運動が高まるなかで発生した事件が、生麦事件である。薩摩藩主 島津忠義の父久光一行は、幕政改革の勅命を幕府に伝える朝廷の伝奏者大原重徳を警護して江戸に来た。その役目を終えて帰途に付き、8月21日高輪の下屋敷を出立して川崎宿で昼食取り、午後2時半頃、生麦村に差し掛かった。そこで、横浜居住区に住み、貿易に従事していたイギリス商人リチャードソン、クラーク、マーシャル、ボロディール夫人たち4人が乗馬したまま行列を横切ろうとした。薩摩藩士の、「のけ、のけ!」の声にも、言葉が理解できず、指示に従わなかったため、先頭にいたリチャードソンは、薩摩藩士の示現流使い手奈良原喜左衛門に切りつけられた。リチャードソンはしばらくして落命し、他の者も負傷しながらその場を去りアメリカ領事館になっていた本覚寺に逃げ込んだ。負傷者は医師ヘボンの治療を受けて、一命を取り止めた。この事件に対し、イギリスは、幕府に10万ポンド、薩摩藩に、25,000ポンドの賠償金と犯人の引渡しを求めた。幕府が要求に応じたが、薩摩は応ぜず、翌年7月薩英戦争に発展した。薩英戦争で、薩摩は、外国の威力を目の当たりにして、攘夷が不可能なことを悟り、開国に傾き、倒幕へと進んでいった。多くの外国人殺傷事件のなかで、この事件が歴史の中で注目されているのは、倒幕の引き金になったことに起因している。
4. 長延寺跡 ― 旧オランダ領事館跡
ここ神奈川通東公園は、寛永8年(1631)から、昭和40年まで、330年間浄土真宗長延寺が所在した場所である。長延寺は、開港当時、オランダ領事館に充てられた。当寺をしのぶ狂歌の一節に「沖の黒船歴史を変えて オランダ領事は長延寺」とある。昭和40年の国道拡幅工事に伴う区画整理によって緑区に移転し、跡地は公園となった。いまは旧オランダ領事館跡を示す石碑を残すのみである。
5. 良泉寺
良泉寺は海岸山と号し、浄土真宗大谷派に属する。本願寺第八世蓮如上人に帰依した蓮誉が、小机付近の旧街道沿いに草創した。慶安元年(1648)に入寂した第四世 良念の代に、徳川幕府より境内の施入を受け、現在地に移転した。開港当時、諸外国の領事館に充てられることを快しとしない、当時の住職は本堂の屋根をはがし、修理中であることを口実にして、幕府の命令を断ったと云う。

6. 笠のぎ稲荷神社
笠のぎ稲荷神社は社伝によると、天慶年間(938〜947)に稲荷山中腹に創祠され、元寇に当たっては北条時宗より神宝を奉納されている。元禄二年(1689)に、山麓に移られて霊験ますますあらたかとなり社前を通行する者の笠が自然に脱げ落ちることから笠脱稲荷大明神と称された。後に、笠のぎ稲荷神社
と改称され、明治二年現在地に遷座された。また、この神社に土団子を供えれば病が治るとの信仰もあり、お礼にひとき団子を供える習いもある。
7. 神明宮
神明宮の草創については、いくつかの伝説があるが定かではない。「新編武蔵風土記稿」は別当能満寺の草創と同じ正安元年(1299)の勧請としており、この神社と能満寺が草創当初より密接な関係にあったことを伺わせる。かって、上無川に牛頭天王の御神体が現れ、洲崎神社およびこの神社に牛頭天王を祀ったという伝承もある。また、境内にある梅の森稲荷には、わかい女旅人にまつわる哀しい話も伝わる。

8. 能満寺
能満寺は、海運山と号し、古義真言宗に属す。正安元年(1299)内海新四郎光善というこの地の漁師が
海中より霊像を拾い上げ、光善の娘に託していう霊像の言葉にしたがって建てたものがこの寺であるとの伝承がある。本尊は高さ5寸(15cm)木造坐像の虚空蔵菩薩で海中より出現したものと伝わる。かてては、神明宮の別当寺で同一境内地に同社もあったが神仏分離令で分かれ、今日に至っている。

9. 上無川
神奈川は鎌倉幕府の執権北条時宗の発した文書にも記載されている古い地名であるが、その由来については諸説ある。その一つとして「江戸名所図会」の上無川の項には「神奈川本宿に中の町と西の町の間を横切って流れる小溝で、水が少ししか流れておらず、水源が定かでないため上無川という。カミナシガワのミとシを略してカナガワと云うようになった」という説が記してある。上無川は現在の神奈川小学校東側にあったとされるが関東大震災の復興計画により埋め立てられ、今ではその姿をみることはできない。
10. 東光寺
東光寺は平尾山と号し、新義真言宗に属す。この寺の本尊はもと太田道灌の守護仏であったが、道灌の小机攻略後、平尾内膳がこの仏を賜り、この寺を草創したと云われる。また、道灌は内膳に本尊を与えるに際し、「海山をへだつ東のお国より 放つ光はここも変わらじ」との歌を読んだと云われ、この歌が東光寺の名称の由来とも伝わる。神奈川宿を対象とした地誌「金川砂子」には街道に面して山門を開く様子が描かれている。
 11. 金蔵院
金蔵院は神鏡山と号し、京都醍醐寺三宝院の開祖勝覚僧正により平安末期に創られた古刹である。その後、徳川家康から十石の朱印地を許された。「金川砂子」のこの図には江戸後期の様子が描かれている。参道は街道まで延び、金蔵院・熊野神社が境内に並び立っている。本堂前には徳川家康の「御手折梅」と称された梅の古木が描かれている。かって、毎年1月に当院の住職がこの梅の一枝をたずさえて登城するのが習わしであったと云う。
 12. 熊野神社
熊野神社は、平安末期に紀伊の熊野権現を祀り、「権現様」として、親しまれている。もと、権現山
にあったが、江戸中期に金蔵院境内に移り、神仏分離令により、金蔵院から分かれた。「金川砂子」では
当神社の「夜宮祭礼」の賑わいを描いている。社殿の脇舞台では神楽が演じられ、参道の東側には囃子屋台が並べられている。現社殿は戦後の再建だが、境内には樹齢400年の公孫樹の古木がある
 13. 高札場
高札場は、幕府の法度や掟などを庶民に徹底させるために設けられた施設です。宿場の施設としては重要なものでしたが、明治に入り情報伝達の手段が整うに連れ、その役割を終え、姿を消しました。かって、神奈川宿の高札場は、現在の神奈川警察署西側付近にありました。その規模は、間口5m、高さ3.5m、奥行1.5mという大きなものでした。この高札場は、資料を元に復元したものです。
 14. 成仏寺
成仏寺は鎌倉時代の創建と伝えられる浄土宗の寺である。徳川三代将軍家光の上洛に際し、宿所の神奈川御殿造営のため寺地が現在地に移された。安政6年(1859)開港当初はアメリカ人宣教師の宿舎に使われ、ヘボンは本堂に、ブラウンが庫裡に住んだと云う。ヘボンはヘボン式ローマ字で知られ、日本最初の和英辞典を完成した。また、ブラウンは聖書や賛美歌の邦訳に尽力した。
 15. 慶雲寺
慶雲寺は、室町時代に芝増上寺第三世音誉聖観によって開かれた。京の連歌師 谷宗牧は「東国紀行」の天文14年(1544)3月3日の条に「ほどなくかな川につきたり この処へも小机の城主へ言いつけられ旅宿慶運寺にかまへたり」と書いている。開港当時は、フランス領事館に使われた。また、浦島寺とも呼ばれている。浦島太郎が龍宮城から持ち帰ったという観音像など、浦島伝説に因む遺品が伝わっている。
 16. 浄瀧寺
浄瀧寺は妙湖山と号し、日蓮宗に属す。文応元年(1260)年妙湖尼は、当時の政治の中心であった鎌倉に向かう途中に、当地に立ち寄った日蓮上人と遇った。法尼は聖人の人格にうたれ、法華経の話を聞いてたちまち弟子となり、自分の庵を法華経の道場とした。聖人が「立正安国論」を著作し、鎌倉幕府に献策した年でもある。また、開港当寺はイギリス領事館に充てられた。
 17. 神奈川の大井戸
この井戸は江戸時代には東海道中の名井戸に数えられ、当寺は宗興寺を大井戸寺と呼ぶほどであったという。江戸初期には、神奈川御殿に宿泊する将軍のお茶の水に充てられたと云う。また、開港後には、滞在したアメリカ人宣教医シモンズやヘボンもこの井戸の水を使用している。また、この井戸の水量の増減によって翌日の天気を知ることができると云われ「お天気井戸」とも呼ばれた。
 18. 宗興寺 ジェームス・ヘボン博士診療所跡
1859年(安政6年)に米国からやってきた医者であり、プロテスタントの宣教師でした。来日時は成仏寺を宿舎にしていましたが、1862年(文久2年)に横浜のこの地に転居し、幕末から明治初期の日本文化の発展に大いに貢献しました。医学面では、西洋目薬の製法を伝授したり、脱疽(だっそ)の治療を行って義足(ぎそく)の普及にも貢献しています。彼は診療を通して、日本と日本人を知り、親しくなろうとしました。明治期に入りキリスト教の布教が許され、そのために日本語を勉強しながら作ったのが、日本で最初の和英辞書「和英語(わえいご)林(りん)集成(しゅうせい)」で、そして綴(つづ)るために作られたのがヘボン式ローマ字です。辞書は、日本語を学びたい外国人にも、英語を学びたい日本人にも広く使われました。博士はほかにも、日本人向けの英語塾を作り、その女子部を同僚の宣教師メアリーキダーが独立して作られた洋学塾がフェリス学院の母体です。1887年(明治20年)、ヘボンは私財を投じて港区白金に明治学院を創立し初代総理に就任。1892年帰国し、1905年日本政府から勲三等旭日章が贈られました。
 19. 権現山
現在、幸ケ谷公園になっているこの高台は、かって権現山と呼ばれ、古戦場であった。戦国時代関東管領上杉一門でありながら、北条早雲に内通して反旗を翻した上田蔵人の砦がこの山上にありました。管領方2万の大軍が、山上の上田方を包囲して十日に亘る戦いの後、上田方の砦が落ちたと云います。江戸名所図会の神奈川宿の絵図には、街道北側にひときわ高い山が描かれており、幕末の「神奈川権現外国人遊覧」にも、外国人の背後にこの山が描かれています。幕末から明治にかけて、この山は削り取られ、その土が台場や鉄道用地の埋め立てに使われた。
 20. 洲崎大神(すさきおおかみ)
洲崎大神は源頼朝が安房国の安房神社の神をこの地に勧請したのが始まりと云う。江戸期は幕府直轄の神社で、御神木のアハキがなまり青木町の町名になったと云われている。「江戸名所図会」に描かれた雰囲気は今も鳥居や地形に残っている。神社前の道を海側に進み、第一京浜に出た辺りが、船着場でした。かって6月の祭りには神輿を神社前の海に担ぎ入れ安房神社の神と対面させる「お浜下り」という神事が行われていました。近くに、幕末フランス公使館充てられた甚行寺、イギリス士官宿舎に充てられた普門寺がある。


21. 本覚寺
曹洞宗の寺院。山号は青木山。もとは臨済宗で、1226年に宗祖栄西により創建されたと伝わる。現在の高島台から幸ヶ谷公園(権現山)にかけて続いていた丘の上にあり、東海道と神奈川湊を見下ろす交通の要衝にあることから、戦国時代には隣接して権現山城・青木城が造られた。1510年、一帯が上杉氏と上田政盛との権現山合戦の戦場となったため荒廃したが、1532年に曹洞宗の寺として再興された。江戸時代になると周辺は神奈川宿として栄えた。幕末の横浜開港時には、横浜港が一望できることから、アメリカ領事館となった。当時山門はペンキで白く塗装されていた。この山門は後も震災・戦災を免れて現存して、傍らには岩瀬肥後守忠震の碑がある。
岩瀬は江戸時代後期の幕臣、外交官である。列強との折衝に 尽力し、水野忠徳、小栗忠順と共に「幕末三俊」と顕彰された。攘夷志士たちと外国人たちとの摩擦を避けるために、横浜居留地に外国人たちを集約させ、貿易折衝に関しても貿易関税率を20%にするなど、アメリカ公使ハリスと度々面談から、日米通商条約においては、国益を十分配慮した条約締結に腐心している。また、本覚寺には、生麦事件の時は負傷者ウッドソープ・クラークとウィリアム・マーシャルが逃げ込み、近くの宗興寺に居住していたヘボン博士が呼ばれて、治療が行われた。東側の権現山は神奈川台場の建設のため削られた。さらに明治時代の鉄道建設により寺の東側に切通しが作られ、この際に東海道も分断されたため、門前近くに青木橋が架けられた。さらに第二京浜国道建設の際にも寺域が削られた。
 22. 大綱金刀比羅神社
この神社は、社伝によると平安末期の創建で、もと飯綱社と云われ今の境内後方の山上にあった。その後、現在地に移り、さらに琴平社を合祀して、大綱金刀比羅神社となった。かって眼下に広がっていた神奈川湊に出入りする船乗り達から深く崇められ、大天狗の伝説でも知られている。また、江戸時代には、神社前の街道両脇に一里塚が置かれていた。この塚は日本橋より7ツ目に当たり土盛の上には榎が植えられていた。
 23. 坂本龍馬妻おりょう ゆかりの店 田中家
ここは神奈川宿から保土ヶ谷宿に至る坂道沿いは台町と呼ばれ多くの腰掛茶屋が立ち並んでいました。
安藤広重の「東海道五十三次」にも描かれたこの場所は、海を見渡せる景勝地でした。当時さくらやと呼ばれていた茶屋を晝馬弥平衛が買い取り、田中家としたのがはじまりです。坂本龍馬の妻おりょうさんは、龍馬亡き後、しばらく龍馬の家、高知に居ましたが、その後、この田中家で住み込みの仲居として勤めました。月琴を奏で、外国語も話せ、お酒も飲み、物おじしない性格は客の評判を呼び、贔屓客に人気があったという。その反面、気が強すぎて協調性に欠け、周囲と衝突することも、しばしばあったという。おりょうさんはその後横須賀に移住し、雑貨商西村松兵衛と再婚して、そこで66年の生涯を閉じました。
 24. 神奈川台関門跡
開港後外国人が何人も殺傷され、幕府はイギリス総領事オールコックを始めとする各国の領事たちから激しく非難を受けた。これに対し幕府は安政6年(1859)横浜周辺の主要地点に関門や番所を設け、幕府が関所を作って不審人物のチェックをして、警備体制を強化した。この時、神奈川宿の東西にも関門が作られた。そのうちの西側の関門が、神奈川台の関門である。明治4年(1871)に他の関門・番所とともに廃止された。
 25. 高島嘉右衛門屋敷跡
高島嘉右衛門(1832―1914)実業家、易断家。建築請負、材木商嘉兵衛の六男として江戸・三十間堀に生まれる。少年のころから商才を示し、材木商を開業、安政の大地震のとき巨利を占めたともいわれる。幕末の開港後、外国人を相手に、国内と国外の交換比率の違いを利用して金貨を売り、多めに銀貨を受け取って儲けていた。当時、これは禁制だったため投獄された。釈放後は横浜に定住し、横浜で貿易店や土木建築請負業を開き、アメリカ公使を介してイギリス公使のハリー・パークスから公使館建築を請け負った。これで得た信用から、多くの外国人の建築依頼を受けるようになった。その他各種事業を営むかたわら、人材教育に尽力し、洋式教育の高島学校(藍謝堂)を設立した。高島学校からは、後に総理大臣になり、2・26事件で凶弾に倒れた高橋是清、足尾鉱毒事件やシーメンス事件で、政府を追及した衆議院議員及びジャーナリストの島田三郎日本近代美術の父と言われた岡倉天心らを輩出している。その他、易学にも精通していて編著「高島易断書」は有名である。このように、横浜の発展に多大な功績を残したことで、伊勢佐木町、野毛周辺の新田開発をした吉田勘兵衛、保土ヶ谷宿の本陣、名主、問屋の三役を務めた苅部清兵衛らとともに横浜三名士と云われている。