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第2回 お江戸散策 両国・佃島 (解説版)

2016年12月29日(木)
第2回 お江戸散策 両国・佃島
1. 両国駅
 明治37年(1904 ) 総武鉄道のターミナル駅「両国橋駅」として開業。 元来、両国とは両国橋を挟んだ隅田川の両岸を指す地名であった。しかし、総武鉄道は当初隅田川の東岸までの開通に留まったため、両国橋の東、東両国に両国橋駅を開業し、昭和6年(1931)両国駅と改称した。駅名の影響に両国国技館の開設も加わり、現在では両国という地名はもっぱら両国橋の東の地域に対して用いられる。
 
2. 両国国技館
 大相撲の国技館は1906 年に作られ、当初本所回向院の境内にありました。戦後の1950 年1 月に蔵前国技館へ移り、1984年の9月秋場所まで行われていました。1985年1月場所より使用されている現在の新国技館は二代目。旧両国貨物駅跡地に建設された。新国技館は地上2階、地下1階。総工費150億円であったが、すべて自己資金で賄われた。1985年1月9日、盛大に落成式が催され、千代の富士と北の湖の両横綱による土俵入りが披露された。相撲の起源は非常に古く、古墳時代の埴輪・須恵器にもその様子が描写されている。人間としての力士同士の戦いで最古のものとして、垂仁天皇7年7 月7 日 ( 旧暦)にある野見宿禰と(当麻蹴速(すまひ)との戦いが記録されています。鎌倉時代には、源頼朝が相撲を奨励し、戦国時代には織田信長が相撲を奨励しました。また、信長は土俵の原型の考案者とも言われております。江戸時代から職業としての大相撲が始まり、今日の隆盛に至っています

3. 安田庭園
 旧安田庭園は、元禄4年(1691) 、下野足利藩主本庄氏の下屋敷として作られたのが始まりです本庄氏は小大名でしたが 将軍家より松平姓を賜り常陸笠間藩や丹後宮津藩の藩主を歴任しています庭園は安政年間に大規模な改修が施され 隅田川の水を引いた汐入回遊庭園として整備されました小規模ながら徳川時代における大名庭園の典型をなす名園です明治22年(1889)、安田財閥の所有に移り、大正11年(1922)東京市に寄贈されました

 
4. 震災慰霊堂
  東京都慰霊堂がある横網町公園は元陸軍被服廠があった場所でした。大正12 年(1923) 9 月1 日、関東大震災が起きると、この場所は多くの罹災者の避難場所になりました。多くの家財道具が持ち込まれ、立錐の余地もないほどであったが、周囲からの火災が家財道具に燃え移り、また火災旋風が起こったため、この地だけで東京市全体の死亡者の半数以上の3万8000人程度が死亡したとされる。震災後、死亡者を慰霊し、このような災害が二度と起こらないように祈念するための慰霊堂を建てることになり、官民協力のもと、広く浄財を求められました。東京震災記念事業協会によって1930年9月に「震災記念堂」として創建され、身元不明の遺骨が納骨されました。翌年には震災復興記念館が建立されました。その後、太平洋戦争における一連の空襲により、再び東京は焦土と化し、関東大震災を超える7万7000人あまりが死亡しました。1948年より、各地に仮埋葬された身元不明の遺骨を納骨堂に改葬し、戦災者整葬事業が完了した1951年に「東京都慰霊堂」と改称しました。

5. 吉良邸跡
 高家肝煎( 筆頭)吉良上野介義央は江戸城呉服橋門内に屋敷を与えられていたが、刃傷事件の数ヶ月後に隠居申請が受け入れられて、家督を子の(実孫)の義周に譲りました。義央が隠居すると幕府は吉良家に対して呉服橋門内の屋敷を召し上げとし、代わりに本所松坂町に屋敷替えとなりました。これは幕府が万一赤穂浪士たちが吉良を討ちにきた際に都心部で騒ぎを起こされないように、敢えて本所という当時としては新興住宅地を選んだと云われています。吉良側としても、既に隠居の身では幕府からの護衛の援助は期待できないので、実子が継いでいる米沢藩上杉家からの家臣団や浪人たちを雇って厳重な警備を行ないました。しかし寝込みを襲われた吉良側は突然の騒ぎにまともに対応できず、討入から約3時間後に物置小屋に隠れていた吉良上野介は発見されて首を討取られて、その首を洗ったという「首洗いの井戸」なども残されています。当時の本所はまだまだ淋しいところでした。この地は明暦3年(1657)の明暦の大火で江戸の3分の2が焦土と化してしまい、新たな土地を本所に見出して開発が行なわれました。大火後3年目から入居が始まり、吉良邸が移ってきたときはまだ開発後40年余の新興住宅地でした。隣近所も下町のように地縁的な親しさも無い状態で、当時の住民たちがいかに疎遠だったかは「秋深し隣りは何をする人ぞ」という松尾芭蕉の句からも読み取れます。当時本所の外れ深川に庵を結んでいた芭蕉が目の当たりに見た本所・深川の人々模様です。こんな風だから、47人もが徒党を組んで吉良邸に討ち入った大騒動でも「関わりを持ちたくない」という住民たちは知らぬ振りをしたといわれています。こうした土地柄も手伝って赤穂浪士の討入は無事に果たせたのでした。

 
6. 回向院
 回向院は、今からおよそ350年前の明暦3年(1657 ) に開かれた浄土宗の寺院です。この年、江戸には「振袖火事」の名で知られる明暦の大火があり、市街の6割以上が焼土と化し、10万人以上の尊い人命が奪われました。この災害により亡くなられた人々の多くは、身元や身寄りのわからない人々でした。当時の将軍家綱は、このような無縁の人々の亡骸を手厚く葬るようにと遵誉上人に命じてこの地で無縁仏の冥福に祈りをささげる大法要を執り行いました。このとき、お念仏を行じる御堂が建てられたのが回向院の歴史の始まりです。回向院は江戸庶民に尊崇されることとなり、様々な巡拝の札所となって江戸中期からは、全国の有名寺社の秘仏秘像の開帳される寺院として、境内は毎年のように参詣する人々で隆盛をきわめました。そして江戸後期になると勧進相撲の定場所が当院に定められ、明治末期までの76年間、いわゆる“回向院相撲”の時代を日本相撲史上に刻したのです。回向院の歴史はこのように見ると一見隆盛一途をたどったかのように受取られがちですが、当院自体も度重なる大火に被害をこうむり、明治の廃仏毀釈、大正の大震災、更には第二次大戦下の大空襲などによって、幾度か存亡の危機に立たされたのです。しかし、その時々の歴代住職は檀信徒の浄信にささえられ、由緒あるこの寺院の法灯の絶えぬよう骨を惜しまず身を砕き、その度ごとに一大危機を乗り切って来ました。その根本は、申すまでもなく、御仏の御加護、万霊のお力によるのであり、開祖法然上人、また開山上人に対する報恩の念のひとしお深くされる由縁です。
 
7. 芭蕉記念館
 松尾芭蕉は、俳句の歴史における最初の偉大な作家として知られています。芭蕉は、延宝8年(1680)それまでの宗匠生活を捨てて江戸日本橋から深川の草庵に移り住みました。そして、この庵を拠点に新しい俳諧活動を展開し、多くの名句や『おくのほそ道』などの紀行文を残しています。記念館は、このゆかりの地に、松尾芭蕉の業績を顕彰するため、昭和56年(1981)に造られました。

8.芭蕉稲荷神社
  俳聖芭蕉は、杉山杉風に草庵の提供を受け、深川芭蕉庵と称して延宝八年から元禄七年大阪で病没するまでここを本拠とし、「古池や蛙飛びこむ水の音」等の名吟の数々を残し、またここより全国の旅に出て有名な「奥の細道」等の紀行文を著した。ところが芭蕉没後、この深川芭蕉庵は武家屋敷となり幕末、明治にかけて滅失してしまった。たまたま大正6年(1917)津波襲来のあと芭蕉が愛好したといわれる石像の蛙が発見され、故飯田源次郎氏等地元の人々の尽力によりここに芭蕉稲荷を祀り、同10年旧跡に指定された。

9. 清澄庭園
 この地には元禄期の豪商・紀伊國屋文左衛門の屋敷があったと伝えられる。享保期には下総関宿藩主・久世家の下屋敷となり、ある程度の庭園が築かれたと推定されている。明治11年(1878)、荒廃していた邸地を三菱財閥創業者の岩崎弥太郎が買い取り、三菱社員の慰安と賓客接待を目的とした庭園の造成に着手。明治13年(1880)に竣工し、深川親睦園と命名された。三菱社長の座を継いだ岩崎弥之助は庭園の泉水に隅田川の水を引き込むなど大きく手を加え、回遊式築山林泉庭園としての完成を見た。後には庭園の西側にジョサイア・コンドル設計による洋館が建てられている。その後、大正12年(1923)に発生した関東大震災で庭園は大きな被害を受けて邸宅も焼失したが、図らずも近隣住民の避難場所となり多くの人命が救われた。それを受けて1924年、三菱3代目社長の岩崎久弥は当時の東京市に庭園の東半分を公園用地として寄贈。市は大正記念館の移築や深川図書館の新館舎建設など整備を進め、昭和7年(1932)に清澄庭園として開園した。

 
10. 霊厳寺
 「寛政の改革」で江戸の窮民救済に力を注いだ、改革の人  老中「松平定信公」の墓所があります。境内には江戸六地蔵の第五番があります。江戸六地蔵とは正徳2年( 1712 )よりおよそ十年がかりで、江戸中からの浄財により、旅人と江戸市民の安全を祈願して各街道口に建立されました。六道(地獄道、飢餓道、畜生道、修羅道、人間道、天上道)をさまよう人々を救う地蔵菩薩です。

11. 成等院
 司馬遼太郎は「本所深川散歩・神田界隈」の中で、紀ノ国屋文左衛門について書いています。「ともかくも、江戸第一期の繁栄期である元禄時代( 1688~1704 )には、深川木場は大いににぎわった。とくに江戸中期までは経済社会の密度も粗かったから、巨利を得る者が多く、ときににわか成金も出た。そういう者が、色町で財を散じた。色町では、大づかみで散財してくれる者を”お大尽″とよび、下にもおかぬもてなしをした。十七世紀の紀州人で、紀伊国屋文左衛門などは、その代表だったろう。略して”紀文”とよばれたこの人物は、材木商として巨利を博した。かれのあそびの豪儀さを讃美して、二朱判吉兵衛という者が、「大尽舞」という囃子舞をつくって大いに広めた。歌詞は、まことにばかばかしい。そもそもお客の始まりは、高麗もろこしは存ぜねど、今日本にかくれなき、紀ノ国文左でとどめたり」とある。

12. 深川不動尊
 成田山 東京別院 深川不動堂、東京都江東区深川にある成田山新勝寺の東京別院。通称は深川不動尊、深川不動堂。江戸時代、江戸市民のあいだでは歌舞伎の市川団十郎の人気などにより、成田山の不動明王を拝観したいという気運が強まっていた。そのため、元禄16年( 1703)に成田山の本尊の出張開帳が深川富岡八幡宮の別当・永代寺の境内でとりおこなわれ、大変な人気を博した。これが深川不動堂の始まりである。永代寺は明治維新後、神仏分離令により廃寺となり、旧境内は深川公園となった。しかし不動尊信仰は止むことがなく、明治3年(1870)に現在の場所に「深川不動堂」として存続することが認められた。明治15年(1882)に本堂が完成。その後本堂は関東大震災・東京大空襲と二度にわたって焼失したが、本尊は焼失を免れた。永代寺の名前は門前の吉祥院が明治29年( 1896)に受け継いだ。なお、門前仲町という地名は永代寺の門前の町という意味である。
 


13. 富岡八幡宮
 寛永4 年(1627) 、当時永代島と呼ばれていた現在地に創建された。周辺の砂州一帯を埋め立て、社地と氏子の居住地を開き、総じて60,508坪の社有地を得、源氏の氏神である八幡大神を尊崇した徳川将軍家の手厚い保護を受けた。また、町民層にも「深川の八幡様」と親しまれた。尚、富岡八幡宮というと、世間一般的にはこちらの事を指すほうが多いが、この富岡八幡宮は分社であり、本家は神奈川県横浜市金沢区にある。明治から終戦までの社格は、延喜式神名帳に記載がないため府社と決して高いものではなかったが、勅祭社(官幣大社のうち特に重視された神社及び別格官幣社の靖国神社)に準ずる准勅祭社に治定され、依然尊崇を受けた。昭和20年(1945) 3月10日の東京大空襲により焼失。その直後の3月18日、被災地を視察した昭和天皇が富岡八幡宮に立ち寄り、境内で被害状況の説明を受けた。その帰り、侍従長藤田尚徳に「今度の場合は、はるかに無残な感じだ。コンクリートの残骸などが残っているし、一段と胸が痛む。悲惨だね。侍従長!これで東京もとうとう焦土になったね」。昭和天皇は皇太子摂政時代にも関東大震災被災地を視察したので、こう感想を語ったという。境内には天皇陛下御野立所の碑と天皇陛下御製碑がある。また、敷地内には江戸時代の測量家である伊能忠敬の像がある。伊能忠敬は、当時深川界隈に住居を構え、測量の旅に出かける際は、安全祈願のために、富岡八幡宮に必ず参拝に来ていたことから、2001年に当八幡宮の境内に銅像が建立された。


15. 佃島
 佃煮のルーツで知られる東京都中央区佃は、隅田川の河口に位置し、いまだに江戸情緒を残すレトロな町として多くの観光客が訪れています。そもそも佃は、天正18年( 1590)徳川家康公が関東に下降の際、摂津国佃村から漁民33人呼び寄せ、鉄砲州向干潟を埋め立てさせ佃島と命名し住まわせたことに始まります。この佃を社地とする住吉神社は、正保3 年(1646)住吉大社の分神霊を奉遷祭祀し建立されました。以来、住吉神社の例大祭(佃祭り)は、江戸幕府に許可された由緒ある祭りとして今日に至っております。揃衣の若衆が獅子頭の鼻先めがけ殺到する獅子頭宮出しや隅田川を渡御する船渡御祭、江戸三大囃子のひとつである佃ばやしにのって、高さ20mにも及ぶ六基の大幟のもと八角神輿が繰り出す風情は、文化的にも希有なものと言えましょう。香りのもとは佃煮です。小魚などの海産物を醤油で煮た佃煮は、元々佃島の漁師達が、舟で食事をする時の保存食として考案されたものです。
写真下は、1837年創業の老舗佃煮屋「天安」。
 

16. 佃大橋
 隅田川最後の渡船場として320 余年続いていた「佃の渡し」の位置に架けられた橋であり、上流に平行している永代橋、下流の勝鬨橋の交通量の増加、および東京オリンピック開催に備えた関連道路の一部として、戦後初めて隅田川に架橋された橋である。右岸側では隅田川の手前100mほどの位置から高架が始まり、左岸では月島全幅にわたって高架のまま、朝潮運河に架かる朝潮大橋へと繋がっている。これは桁の下面から水面までの距離を勝鬨橋と合わせたためである。また他の隅田川にかかる橋は川に対してほぼ直角に交わっているが、佃大橋は中心線が岸に対して60度ほど斜めになっている。本橋は個性的なデザインの多い隅田川橋梁群の中で、一見無個性で無粋な橋といわれがちであるが、大ブロック工法など、当時の技術の粋を凝らし、オリンピックに間に合わせるために急ピッチで架橋され、むしろ戦後に急速な復興を遂げた高度成長期の日本を象徴した橋といえる。その構造形式は主桁 3径間連続鋼床鈑箱桁橋で、長さ40m、重量150 トンに及ぶブロック別に当時日本最大の海上クレーン船にて一括で組み上げるという、大ブロック工法の先駆けともなる画期的な橋でもあった。
橋長 476.3m 。

17. 佃の渡し
 現在の佃大橋付近にあった渡し。はじめは佃島の漁民たちの私的な渡しであった。佃島は漁村のほか、藤の花の名所でもあったため、江戸期には不定期に渡船が運行されていたが、日常的に運行されることはなかった。明治期に入り、佃島や石川島、月島に造船所などが生まれると従業員のための重要な交通機関として発展し、明治9年の運賃記録によると1人5厘の料金だったようである。明治16年(1883)には定期船の運行が開始、大正15年(1926)に運営が東京市に移管された。翌昭和2年3月には無料の曳船渡船となった。一日に70往復という賑わった渡しであったが、昭和39年(1964 )8月27日、佃大橋架橋に伴い廃された。佃大橋両岸に渡し跡の碑が残る。

18. 聖路加タワー&病院
 隅田川の橋梁、佃大橋と勝鬨橋の間にひと際目立つノッポなビル。聖路加ガーデン内にあるツインタービルのひとつ、「セントルークスタワー」です。1階~2階が商業施設で、3階~46階までがオフィス、そして47 階が展望室とレストランになっております。地上200メートルの高さから見渡すロケーションは、言うまでも無く文句無しの眺望です!聖路加病院名は、使徒パウロの協力者のルカの漢字表記からとられている。宮家、皇族の縁者、文化人、財界人などが利用する病院としても有名で、戦前の旧病棟の建設には皇室から多額の資金が下賜されている。初代理事長は渋沢栄一。生活困窮者や心身障害者などに対しては、社会資源の利用を調整したり患者の家族の悩みに応じるなどの役割を担った医療ソーシャルワーカーが常駐している。1933年竣工の旧病院棟はネオ・ゴシック様式の建物で、マサチューセッツ総合病院をイメージしてデザインされた。礼拝堂のステンドグラスは、抽象的な図像でキリスト教の殉教の歴史を象徴する画が配されており、鐘楼からは賛美歌の鐘が流れ、築地・佃一帯で聴く事が出来る。また、戦時や大規模災害時には「野戦病院」機能を遂行できるよう設計されている。具体的には、施設内のあらゆる壁面に酸素供給口が設けられており、大規模災害時などにチャペル・ロビー・ホール・廊下などの病院内の全ての空間が「野戦病院化」して当該時に激増する患者・被災者に対して院内のどこでも救急救命医療処置を施すことが可能になっている。これは当時の常務理事である日野原重明が提案して作られ、1995年の地下鉄サリン事件において劇的な形でいかんなく発揮されることになった。薬品・物品の搬送は専門の係員を雇い、看護師・薬剤師の業務を大きく軽減し、電子カルテを積極的に導入して、現在は完全にペーパーレス化を実現している。テレビ局などのドキュメンタリー取材もよく受け入れている。しかし杏林大学病院などのような、病院を舞台としたドラマや映画の撮影に施設を提供するという
    

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