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第3回 鎌倉ウォーキング 朝夷奈・名越切通ー解説版

2015年05月31日(日)
第3回 鎌倉ウォーキング 朝夷奈・名越切通  解説版

1. 朝夷奈切通
朝夷奈切通しは、執権北条泰時が仁治元年(1240)六浦と鎌倉を結ぶ道の改修を和田義盛の三男・朝夷奈三郎に任務させてできたという。名称も彼の名が付けられた。六浦港は、当時塩の産地であり、安房、上総、下総などの関東地方をはじめ海外(唐)からの物資集散の重要港でした。工事に際しては、泰時自らが監督して、自らの乗馬にも土石を運ばせて普請工事を急がせたと云う。この切通しができたことで、六浦に集積した各地の物資は速やかに鎌倉に入ることになり、政治的・経済的な価値は倍増しました。また、鎌倉防衛上に必要な防御施設を考慮した平場や切岸なども痕跡が残されている。この切通しは鎌倉七口のなかでも最も険阻な道です。公文書名「朝夷奈」が「朝比奈」と呼ばれるのは、江戸時代の歌舞伎で「曽我物語」の題目のなかで「朝比奈」が使われたことにより、現在では、地名は「朝比奈」と表記している。

2.梶原太刀洗い水
鎌倉五名水のひとつと云われるこの近くで事件があった。寿永2年(1183)12月、この地からほど近い明王院付近に住む頼朝の側近梶原景時は、同じくこの一帯に屋敷を構えていた上総介広常を訪れて、双六を遊興した。そのうち些細なことで口論となり、景時はやにわに太刀を抜いて広常に斬り掛った。これは双六に事寄せての謀殺で、頼朝の命を受けての仕業であったと云う。その背景は、日頃上総介広常が頼朝に対して、臣下の態度を取らず、謀反を起こす気配を感じていたからとも云う。広常を討った太刀の血塗りを洗ったのが、このしたたり水であったことから呼ばれるようになった。その後、広常の鎧から願文が見つかったが、そこには謀反を思わせる文章はなく、頼朝の武運を祈る文書であったので、頼朝は広常を殺したことを後悔し、即座に一族を赦免したという。
3.明王院
当院は正しくは「真言宗飯盛山寛喜寺明王院五大堂」と云う。鎌倉4代将軍源頼経が宇都宮辻子幕府の鬼門除け祈願所として、この地に嘉禎元年(1235)建立した寺院で五つの大きな御堂があり、それぞれの御堂に不動明王は祀られていたので五大堂とも呼ばれた。鎌倉時代から祈願所として重んじられ、元寇の際には、異国降伏祈祷が行われた。寛永年間(1624~44)の火災では4つの御堂を焼失し、一堂が焼失を免れ、不動明王が残され、現在に至っている。当院は、現在その面影はないが、将軍の御願寺として鶴岡八幡宮寺、永福寺、勝長寿院と並ぶ高い格式であった。頼経は五摂家の一つ九条家の出身で、頼朝の遠縁にあたり、わずか2歳で鎌倉に迎え入れられ尼将軍北条政子に養育された。嘉禄元年(1225)に元服し、翌年、13歳で鎌倉幕府の4代将軍となる。その年に2代将軍頼家の娘で15歳年上の竹御所を妻に迎える。2人の間に子供ができたが、死産と云う不運で、世継ぎを設けることができず、竹御所も数年後に病で死去したため頼朝の血筋は完全に消滅した。頼経が年齢を重ね官位を高めていくにつれ、反得宗家の北条朝時らが接近してきて、幕府内での権力基盤を徐々に強めてくるようになると、これを警戒する4代執権北条経時に将軍退位を迫られ、寛元4年(1246)、五代執権北条時頼によって鎌倉を追放されている。これを宮騒動と云う。
4.足利公方屋敷跡
鎌倉幕府が滅亡のとき、尊氏が朝廷側に寝返ったのを怒った北条高時は、この地にあった足利邸を焼き討ちした。その後、建武2年(1335)足利義詮が鎌倉公方になったとき再建された。義詮が2代将軍になり、京都に引き上げると義詮の弟基氏が鎌倉公方になり、以降氏満、満兼、持氏と代々引き継ぎここに住んだ。室町時代後期には廃墟になったが土地の人々は、いつか公方様が帰ると信じ、畑にもせず、芝野にしていたという。
 
5.青砥藤綱邸跡
第5代執権北条時頼の治世のとき、評定衆の1人であった青砥藤綱は,ある夜幕府に出向く途中,東勝寺橋の上で,袋に入れておいた10 文の銭を滑川に落としてしまった。藤綱は家来に50 文で松明を買ってこさせ,川床を照らして捜し出した。この話を聞いた同僚が「藤綱は勘定知らずだ。10 文捜すために50 文を使って損をしている」と笑った。すると藤綱は「常人の勘定はそうだろう。しかし,銭が川に沈んだままでは,永久に使われることはない。50 文で松明を買えば,それを作っている町民や,商っている商家も利益を得られる」と笑った人々を諭したと云う。実際、幕府内部の動きなどを記した「弘長記」のなかで、藤綱は「謹厳実直で富んで奢らず、威あって猛けからず、私利私欲なき賢者」と評されているという。因みに、評定衆とは執権の下にあり、立法・行政・司法の実務に携わる幕府の重要職務である。
 

6.浄妙寺
文治4年(1188)、源頼朝の重臣・足利義兼が高僧退耕行勇を招いて創建した。そのときは真言宗で、名は極楽寺であった。その後、建長寺を開山した蘭渓道隆の弟子月峯了然が住職になってから臨済宗に改宗し、寺名も浄妙寺に変えた。足利義満が五山の制度定めた至徳3年(1386)には、七堂伽藍が完備し、塔頭・支院23院を数えたが、火災などのため、次第に衰退し、現在は総門、本堂、客殿、庫裡などで伽藍を形成している。本堂には本尊の南北朝時代に作られた釈迦如来像や子宝と婦人病にご利益があるという淡島明神象が祀られている。国の重要文化財に指定されている退耕行勇坐像は開山堂に安置されている。本堂左手には茶室 喜泉庵があり枯山水庭園を眺めながら抹茶を楽しめる。

7.杉本寺
天台宗大蔵山杉本寺は、鎌倉最古の寺院で、開基は藤原不比等の娘で聖武天皇妃になった光明皇后、開山は日本で初の大僧正となった行基と伝わる。東国の旅をしていた行基は、天平3年(731)、大蔵山からみて「この地に観音さまを置こう」と決め、自ら彫刻した観音像を安置した。その後、天平6年(734)光明皇后が夢の中で受けた「財宝を寄付し、東国の治安を正し、人々を救いなさい」というお告げにより、本堂を建立したと伝えられている。 寺の前を馬に乗って通ると必ず落馬するというので「下馬観音」とも、また建長寺の蘭渓道隆(大覚大師)が袈裟で顔を覆ったので「覆面観音」とも云われる。坂東三十三所観音霊場の第一番札所として知られる。本尊の十一面観音像が三体安置され中央は鎌倉初期の作で、右手は鎌倉後期の作、左手は奈良時代で行基作と云われそれぞれ国の重要文化財である。内陣の前には頼朝が寄進した運慶作という十一面観音像が安置されている。本堂前には多くの五輪塔がある。
8.衣張ハイクコース
 大切岸を通ってお猿畠・名越切通に至るハイキングコースである。このコースは、5年前に集中豪雨で、釈迦堂谷切通しが通行止めになって以来、開発されたコースで、山頂からの見晴らしが良く、近年、人気が高まっている。「衣張山」という名称は、源頼朝が夏の暑い日に、この山を白い絹で覆わせて雪景色に見立てて涼を楽しんだことから付けられたといわれている。そんな関係から「絹張山」と書かれる場合もある。頼朝ではなく、北条政子が父の北条時政に頼んで白絹を覆わせたという説もあります。別名は「衣掛山」。一説には、ある尼層が松の木に衣を掛けてさらしたことから付けられた名だといわれている。
9.大切岸
800mにもおよぶ遺構 「大切岸」は、北条氏が三浦半島の雄「三浦氏」の攻撃に備えるために築いた防禦施設だといわれてきたが、近年の発掘調査では、石切場として使用され、その堀り残された姿が現在の「大切岸」だとされている。「大切岸」の下は「お猿畠」と呼ばれ、3匹の白猿が松葉ヶ谷法難の際に、日蓮をここまで連れてきたという伝説が残されている。

 
10.名越切通
 名越切通は、武家の都として経済的にも発展してきた鎌倉と三浦を結ぶ往還路として整備された古道。鎌倉七口の一つ。切り開かれた時期は不明だが、『吾妻鏡』天福元年(1233)8月18日条に「名越坂」の記述があることから、それ以前に開通していたものと考えられている。鎌倉七口の中でも当時の面影をよく残した切通で、北方の尾根にある「まんだら堂やぐら群」には、多くのやぐらや石塔が残されている。また、古くは、日本武尊が東夷征伐の際に通った古東海道筋だったとも考えられている。
11.まんだら堂
 鎌倉七口の一つ名越切通の北尾根の「まんだら堂やぐら群」には、約150穴の中世の「やぐら」が残されている。鎌倉市内でもこれだけの「やぐら群」の存在は珍しい。やぐら内に置かれている五輪塔は、後に動かされたものが多いらしいが、古い書籍やガイドブックの写真等によると、以前は、やぐらの前に並んでいたのかと思われる。かつて、この場所には、死者を供養するための「曼荼羅堂」があったというが、その「曼荼羅堂」がどのような建物で、いつの時代まで存在していたのかは不明。「名越切通」と「まんだら堂やぐら群」は、国の史跡に指定されている。
12.長勝寺
日蓮に帰依していた石井藤五郎長勝が、伊豆に流されていた日蓮が鎌倉に戻ったとき庵を寄進したのがはじまりという。室町期に入って日静上人が中興し、石井長勝に因んで、山号を石井山(せきせいさん)、寺号を長勝寺にした山門を入った左側高台にある祖師堂は禅宗様式の建築で県重文になっている。境内の正面には帝釈堂があり、帝釈天が祀られている。堂前に辻説法姿で聳えるように立つ日蓮上人像は名工高村)光雲の作で洗足池から移築したものである。上人像を守護するように立つ四天王像(持国天、増長天、多聞天 毘沙門天・・・東南西北)は圧巻である。千葉県にある法華経寺で荒行を終えた僧たちが毎年2月11日に冷水を頭から浴びる水行の儀式は、大国祷会(だいこくとうえ)成満祭と呼ばれ鎌倉の風物詩になっている。
13.安国論寺
開山は日蓮上人として創建。妙法寺と同じく松葉ヶ谷法難の跡と伝えられる。日蓮が鎌倉にきて初めて道場とした岩窟がこの寺がつくられるもととなり、「立正安国論」もこの岩窟で書かれたという。この場所に寺ができたのは日蓮の弟子日朗が岩窟のそばに建てた安国論窟寺が始まりで、のちに安国論寺とよばれるようになったといわれる。境内には、日蓮の直弟子日朗上人の御荼毘所がる。日朗は、「日蓮六老僧」の一人で、文永8年(1271)、日蓮が捕らえられて佐渡流罪となったときには、一緒に捕らえられ、光則寺にある土牢に幽閉された(龍ノ口法難)。幽閉から解放された後は、佐渡に流されている日蓮のもとに8度も訪れ、赦免された日蓮を迎えに出向いたのも日朗だったという。御荼毘所脇の石段を登ると日蓮が富士に向かって法華経を唱えたという富士見台がある。庭には日蓮の桜の杖が根付いたという妙法桜やサザンカ・カイドウの巨木があり、墓域には行政改革で「増税なき財政再建」「三公社(国鉄・専売公社・電電公社)民営化」などに貢献した「土光敏夫」の墓がある。
14.安養院
正式には祇園山安養院田代寺と云う。安養院とは北条政子の法名。昭和3年再建の本堂には本尊の阿弥陀如来像、その後ろに1,85mの千手観音像が安置されている。坂東三十三所観音霊場の第3番札所になっている。本堂裏の3.3mの宝篋印塔は開山の尊観上人の墓で重要文化財になっている。その左脇には北条政子の供養塔と云われる宝篋印塔が並んでいる。地蔵堂には日限地蔵と呼ばれる鎌倉期の石の地蔵尊があり、その脇の槇の大木は樹齢700年と云われている。寺院をつつむ石垣の上には躑躅が植樹されていてつつじ寺とも呼ばれている。
 
15.八雲神社
大町の鎮守さまと親しまれている古社で、厄除けにご利益があると云われている。永保年間(1081~1084)源義光(新羅三郎)は後三年の役で、安部貞任と戦っている兄、八幡太郎義家の助成に向かうため、この地に立ち寄った。その際、疫病に苦しむ人々の姿を見て、京都祇園社の祭神を勧請して、人々を救ったという。ご神木の下には新羅三郎手玉石という土地の人々が力比べをしたという力石がある。

 
16.妙本寺
比企大学三郎能本が日蓮のためと比企一族の霊を弔うため、日朗を開山として文応元年(1260)に創建のが始まりといわれる。妙本寺が開山される50年前、この一帯には比企能員の屋敷があった所であった。比企能員は頼朝が旗上げしたときからの側近で、妻は2代将軍頼家の乳母であった。このことから頼家が将軍になると比企一族を重用するようになり、比企の娘若狭の局が寵愛を受けて一幡を産んだ。その後、頼家は原因不明の病となり床に伏した。頼家が亡くなると一幡が将軍になり、比企がますます権勢を強めることに危機感を覚えた北条時政は、はかって比企能員を誅殺し、大軍を擁して比企の館に攻め入って若狭の局と頼家の子一幡をはじめ一族をことごとく滅ぼした。比企一族の墓と一幡の袖を埋めたと云う袖塚がある。また、祖師堂には日蓮の生前の姿をうつした三体の像の一つといわれる座像が安置されている。同寺は、花の寺としても知られており、本堂前のシダレサクラやカイドウは名高い。また、寺北面には若狭の局の霊を慰めるために建てた蛇苦止堂がある。

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