お江戸散策 第11回~第20回

第20回 根津・白山界隈

2014年03月22日(土) | コメント(0)
 第20回お江戸散策は、当初予定した日が大雪の影響を受けて、延期を余儀なくされ、2月22日に残雪が残る中でも、好天気に恵まれ実施することができた。今回の散策の見どころは、神楽坂界隈編で登場した太田南畝の足跡が、いくつか散見できること、東京10社のうち2社を参詣できること、そして植木等ゆかりの寺を訪れることがあげられる。 JR日暮里駅北口に集合し、駅からほど近いところにある本行寺から散策を開始した。
 本行寺は、江戸期には「月見寺」と呼ばれ、景勝優れた寺院として、文人墨客たちに親しまれたという。墓域には、太田南畝と交遊のあった書家の市河米庵や幕末期、幕府大目付として活躍した、永井尚志の墓がある。隣接する経王寺には、彰義隊戦争のとき、彰義隊士たちが隠れ込んだため、新政府軍から銃撃を受けたという。その時の傷痕が門扉にいくつも残っている。経王寺を出て、御殿坂を少し行くと下り階段の下に「谷中銀座」の看板が見える。ここが夕焼けだんだんと名付けられた人気の下町商店街だ。秋の夕刻は、ひときわ夕焼けが素晴らしいという。谷中銀座を抜けると、不忍通りに出て、左100mほどのところにローソンがあり、その脇路地を曲がると、正面に公園が見える。須藤公園である。実業家、須藤吉左衛門の私邸であったが、須藤が東京都に寄付して公園となった。傾斜地を利用して周囲の水を集めて池を作り、その畔に弁財天が置かれ、近隣の人たちの憩いの場所になっている。出版の大手、講談社はこの近くで発祥し、その地は同社の社員寮になっている。次に向かったのは、団子坂を上ったところにある森鴎外の旧宅「観潮楼」だ。鴎外はこの家に30年間住み、この家から東京湾の望む景観を気に入っていたという。現在、記念館として新築のビルに生まれ変わっている。館を出て、大観音通りを白山方面に進むと、右手に身の丈6mの駒込大観音で親しまれている光源寺がある。本堂前の蓬莱梅と庚申塔が象徴的である。光源寺の北側には、蓮光寺があり、樺太や国後、択捉等の千島列島の探検をして功績をあげた最上徳内の墓所がある。この蓮光寺の西側には、高林寺があり、大坂適塾という蘭学塾を興した緒方洪庵の墓がある。この高林寺や本郷通りの向かいにある天英寺の辺りは、江戸時代、駒込土物店と呼ばれ、周囲の農家で作られた野菜の市場があり、大いに賑わい、その繁栄は昭和初期まで続いたという。ここらで、そば処に入り昼食休憩とした。

 昼食後の散策は白山神社から始めた。大化の改新後の全国寺社整備当寺の創建と伝わる古社で、徳川将軍家にも篤く庇護されてきたという。この神社から近いところに江戸の狂歌師太田南畝(蜀山人)が眠る本念寺があるので立ち寄って墓参をした。太田蜀山人は、お江戸散策では、いたるところで登場してきた人物で、幸運にも墓参をすることができた。再た、白山神社方面に引き返し八百屋お七の墓がある円乗寺、そして、お七が放火をしたという大圓寺へ向かった。大圓寺には、幕末期講武所支配役として砲術師範をした高島秋帆の墓がある。当寺院から北に進んだところの榮松院には、常緑樹で天然記念物に指定されているシダジイがあるというので、この寺院にも立ち寄った。噂に違わず幹周8mに及ぶ巨木で周囲を圧倒していた。次に向かったのが真浄寺。この寺院は、植木等が小学校を卒業後、小僧として修行した寺院である。植木は、毎朝4時(冬季は5時)起きで、床の雑巾がけ、庭掃除、檀家周りなどをして、夕刻から近くの京華中学・高校に通ったという。そんな生活を6年間過ごしたそうである。この後、夏目漱石が「吾輩は猫である」「草枕」などの執筆活動をした住居「猫の家跡」を見て、東京十社の一つで権現作りの根津神社を参詣した。この神社はツツジの名所として知られ、今は時期ではないが、それでも多くの参詣者が来ていた。この根津神社をもって本日の散策は終了なのであるが、時間はまだ3時半。少々早く終わってしまった。
 日暮れまで、時間があることから、参加者の提案で、近くに弥生式土器発祥の地があるので、行こうということになり、歩みを進めると、途中、詩人サトーハチローの旧宅跡を知ることが出来た。弥生式土器の記念碑があるところは、江戸期、徳川御三家水戸藩の中屋敷があったところで、現在、東京大学弥生キャンパスの敷地にある。このキャンパスの中には、徳川斉昭の歌碑・「向岡記」碑があり周辺には弥生美術館、竹久夢路美術館などもあって楽しませてくれる。弥生門から東京大学の構内に入り、日本最高学府の雰囲気を楽しんだ。東大からは、上野方面に向かい、無縁坂を下って、不忍池中道を通って、弁天堂に向かい、清水観音堂、西郷隆盛像、そして太田蜀山人の碑を見学して本日の散策を終了とした。当初予定より大幅延長の散策で、22,000歩を越える歩行だったが、全員、元気に歩き通した。このあとは恒例の反省会となり、アメ横裏路地の居酒屋で“カンパイ!”と相成った。(報告者・石井義文)
   第19回お江戸散策は江戸四宿の一つ中山道板橋宿界隈を取り上げました。JR板橋駅東口の広場左手にある近藤勇、土方歳三の供養塔から散策を始めました。この供養塔は明治9年(1876)5月に隊士の一人であった永倉新八が発起人となって造立されました。高さ3.6m程ある細長い角柱で、正面には「近藤勇宣昌・土方歳三義豊之墓」と刻まれ、右側面と左側面には、井上源三郎を筆頭に合計130名の隊士たちの名前が刻まれていて新選組の聖地のようで朝からも何人かの見学者が来ていました。次に向かったのは旧中山道平尾宿を北に向かい17号線と交差した路地を渡ったところにある東光寺。ここには関ヶ原の戦いで西軍の将として奮戦した宇喜多秀家の供養塔がある。宇喜多は関ヶ原の戦い後、八丈島に流罪となるが、妻が加賀前田利家の娘豪姫で、前田家は永年宇喜多一族を支援し続けました。幕府が倒れ、明治の世になって、宇喜多家は赦免され、秀家の子孫たちは、加賀藩下屋敷の一帯に住まいするようになり、先祖供養のため当寺院に建立されたと云う。板橋宿はここ平尾宿の次に仲宿、上宿が続き、それぞれに名主が置かれていた。道幅は3間程で、当時もほぼ同様の道幅であったという。平尾宿と仲宿と境付近にあったのが観明寺で、明治初期の住職は、この界隈を繁栄させる為に露天商を集めて、縁日を開き、それがきっかけで通りは大いに繁盛したという。仲宿の商店街は今日でも賑やかで脇本陣跡本陣跡そして高野長英が逃亡中に匿われたという医院の界隈は活気に満ちていました。上宿に入る手前の石神井川に架かる橋が鎌倉期から知られている板橋で今日の区の地名になっている。ここの橋から見下ろす河畔には桜の大木の並木が連なっていて、桜のシーズンには多くの花見客がやってくるという。上宿の商店街が途切れそうになったところに、日頃病苦や結婚に悩んでいる人たちの信仰を深めているという縁切榎の社があります。小さな境内には、切実な悩みを書いた絵馬が沢山奉納されていました。我々が見学中にも、心を込めて祈る人に出会い、その姿に一瞬緊張された次第です。ここら辺で昼食時間となり、この社の前にある手頃な「そば処」に入り、ランチタイムとしました。
   昼食後は、上宿を引き返し交差点を左折したところ50mにある文殊院を訪れました。この寺には、板橋本陣の主、飯田家代々の墓や宿場の飯盛女たちの墓があり、吉原の浄閑寺、新宿の成覚寺などを思い出し、思わず合掌しました。ここからは旧加賀藩下屋敷だったという中を歩き、東板橋体育館脇の広場に辿りついた。そこには明治初期に黒色火薬を製造したという巨大な圧磨機圧輪の記念碑がある。一見わかりにくい石輪のモニュメントであるが、同行した西村氏が、この製造原理を分かっていたので解説していただき、当時の火薬作りを少し理解できた次第です。ここも加賀藩下屋敷の中であるが、当時の面影を少し留めている小高い丘に向かい加賀藩下屋敷の標柱の建っているところに向かうと、そこには前田家の祖利家とお松を祀っている尾山神社の神門のステンドガラスのレプリカが置かれていた。ここからは石神井川沿いを下り、俳句の道を経て、八幡神社を経由して、国宝級作品をいくつも作った名陶工尾形乾山が眠っている善養寺、四谷怪談で名高いお岩さんの墓がある妙行寺新門辰五郎の菩提寺盛雲寺、そして天才漫画家手塚治虫の墓所のある総禅寺など著名人の墓参りをしばし行い、江戸時代から有名な巣鴨の庚申塚に辿り着いた。ここでは漢字文化圏において、年・月・日・時間や方位、角度、の元になっている十干と十二支の組み合わせの「干支」について学んだ。このあと明治29年に作られ多くの優秀な女性を輩出したという明治女学校跡を訪れ当時の向上心溢れる女性の姿をしばし偲んだ。ここまで来ると巣鴨駅まではもう直ぐで、途中、とげぬき地蔵で有名な高岩寺江戸六地蔵の1つで知られる真性寺を参詣して今回の散策をお開きにしました。時刻はまた15:30で、日暮れまでは、まだあるが、喉を潤したくなり、全員で手軽な居酒屋を見つけて入り、本日を振り返りました。 (報告:石井義文)
  第18回お江戸散策は市ヶ谷、神楽坂界隈を選んだ。神楽坂界隈は、江戸時代後期の安政年間に牛込花街が開け、明治以降は山の手随一の花柳界として発展した。関東大震災後は、日本橋・銀座方面より商人が流入し、夜店が盛んになり、山の手銀座といわれ、一段とにぎわいを増した。コースには小説家尾崎紅葉泉鏡花、日本最初の歌う女優で知られた松井須磨子、文豪 夏目漱石の足跡もあり、先を楽しみにしながら出発した。最初の散策地は、市ヶ谷駅を出たところ石垣の遺構が残っている市ヶ谷見附跡、明治になってから取り壊されて面影はないが、残された石垣から、現存する大手門や桜田門と同様の門があったことが偲ばれる。ここから外堀の桜並木道を歩き、新見附橋を渡って、市ヶ谷佐土原町に入る。佐土の名は、江戸初期、家康の重臣本多佐渡守正信が住んでいたことに因んでいて、ここの一角に、浄瑠璃坂と云う所があり、江戸の初期に仇討ち事件があったという。次の散策地は、最高裁判所長官邸の近くにある箏曲家宮城道雄旧宅、現在記念館となっていて、友人だった佐藤春夫撰文による略伝碑が建っている。この付近は、江戸時代中期中御徒町と云い、多くの下級幕臣が住んでいて、幕臣で、狂歌師であった大田南畝、別号蜀山人も住んでいたという。ここから神楽坂方面に歩くと、右手に光照寺という浄土宗の寺院がある。この地は家康が江戸に入府する前は、大胡家という豪族が居城としていた牛込城があった所で、寺の南側は谷になっており要害の地であったことが窺える。境内には出羽酒井家歴代藩主の墓や旅先で亡くなった人の菩提を弔う諸国旅人の碑など見所がある。寺院を出た東の坂道を下ると神楽坂の繁華街の通りにでる。ここの繁栄の中核を担ったのが毘沙門天信仰で名高い善国寺で、幸いにも今日は寅の市が開かれていて賑わっている。本堂前には、狛犬ならぬ
毘沙門天に因み虎の像が二対居て迎えてくれる。境内には沢山の参詣者が居て、むかしの賑わいが浮かんでくる。神楽坂は多くの著名人たちが浮名を流した所でもあり、戦後政治の重鎮三木武吉や元首相 田中角栄ゆかりの料亭松ケ枝の跡や泉鏡花ゆかりの料亭うを徳、柳家金語楼、勝新太郎が住んでいた寺内地区、そして奥座敷の風情を残している兵庫横丁、芸者新道、かくれんぼ横丁など、夜の盛り場の趣があるところを逍遥したところでランチタイムとなった。今回の散策は8名の参加者だったので、都合よく、全員が入れる良いそば処があり、ゆっくりと腹ごしらえをすることにした。昼食後は、盛り場から離れたところにある築土八幡宮を参詣した。参道の階段途中にある石造鳥居は新宿区最古のものであるという。また、「金太郎」「一寸法師」を作曲した田宮虎造が境内傍に住み、当社と縁があったことから、彼の遺碑が残されている。次に向かったのが、赤城神社。上野国赤城山神社の霊をこの地に勧請して以来、牛込郷の総鎮守社として幕府に 庇護されてきたといい、大鳥居や社殿から格式と財力があるようにみえた。島村抱月が興した芸術倶楽部座は程近いところにあったが、いまはマンションになっていて、説明板だけだった。その先にある尾崎紅葉が居住していた家は、当時の家主、鳥居氏が現住している。弟子の泉鏡花も、この家の一角の部屋に寝泊りしていたという。この辺りは横寺町といい、ここから西に向かって南榎町へ進む。道の左に石柱が見えてきた。林氏墓所と書かれている。江戸幕府の儒講所を司った林羅山以後の当主たちが眠っている。墓所は施錠が掛けられていて入れないが、隙間から約50基あるという墓碑を見ることができた。ここから外苑東通りに出て、北に向かって200m程行った右手に浄輪寺の参道が見える。この寺院本殿の右奥に、日本が誇る江戸時代の数学者 関孝和の墓所があり、東京都指定史跡と書かれた解説板があり、「算聖」と称えられたことを記している。この寺院に隣接した真言宗多聞院には、島村抱月を愛して、彼が死んだ2ケ月後に後追い自殺した松井須磨子の墓がある。墓前で、彼女の大ヒット曲「カチューシャの歌」を皆で合唱して供養した。次の古刹宗参寺には、江戸期の儒学者山鹿素行の墓や乃木将軍手植えの梅木があり、これを拝観した。次に訪れたのは、夏目漱石が「三四郎」 「それから」、「門」などの傑作を執筆し、死去するまで住んだ漱石山房の跡地。この漱石山房は平成29年に復元されると云う。このあとは、足利氏ゆかりの月桂寺を経て、現在、防衛省がある旧尾張藩上屋敷跡を塀沿いに半周あまり歩いたが、長く続く塀に、大名屋敷の広大さを改めて認識する。ここで時計を見ると4時近くになって気温も下がってきた。足早に最後の散策地、市ヶ谷亀岡八幡宮に向かう。幕府の庇護を受け、隆盛したという同社は急な石段や鳥居からも往時を偲ぶことが出来る。偶然にも社殿で結婚式をしている場面に遭遇し、終わりめでたしで、本日の散策を閉じることができた。この後は、全員残留して懇親会に臨み、駅前の居酒屋で、本日を振返った。  (報告:石井義文)
  第17回お江戸散策は天候が懸念されるなかでしたが、参加希望者の熱意から実施することになりました。当日は朝から電車も 遅延するなどして、明大前駅への集合時間を10分ほど遅れて散策へ出発です。最初に訪れ たのは明治大学和泉キャンパス。  明大前駅の駅名は、以前「火薬庫前」という物騒な名前だったそうで、江戸時代は 幕府の火薬庫があった所という。昭和9年に明治大学がこの地の払い下げを受けて和泉校舎を建設した。以来79年間明治大学教養課程の学舎として今日に至っている。大きなビルの学舎がいくつも建ち、ティータイムも近づいたので、学生食堂でひと休みさせていただき、現在の学生たちの様子を感じ取ることができました。続いて、明大同様に払い下げを受けて、墓苑を建設した築地本願寺別院和田堀廟所に向かう。名刹の墓苑だけあり、多くの著名人が泉下でやすらかに眠っている。佐藤栄作古賀正男服部良一海音寺潮五郎水谷八重子 樋口一葉笠置シズ子、等々。泉下の笠置さんには敬意を表して”東京ブギウギ”をハーモニカ演奏で供養した。墓参をしている間に、昼食時間が近くなったので、甲州街道第一宿場であった 下高井戸へ足を進めた。駅前商店街の一角に中華レストランチェーン店で定食を取る。まづまづの味で十分腹ごしらえができた。次は東急世田谷線に乗って、山下駅に向かう。住宅地の中を走る電車は、江ノ電を彷彿させて、情緒があり、きれいな街並みを車窓から眺めても楽しめた。山下駅から数分のところにある成勝寺には、松尾芭蕉の弟子で、芭蕉を物心両面で支えたという杉山杉風の墓があり、墓碑に刻まれた辞世句を読みながら、この徳のある人物を偲んで合掌。この寺院から数分のところに足利将軍家の創建と伝わる曹洞宗寺院常徳寺がある。境内は欅や楠の大木が所々に立ち、静寂に包まれていた。この寺院の門前の道は、比較的狭い道幅の府中街道が走っていて、車が頻繁に往来する。この古道を東に数分いくと鬱蒼とした大木が茂っている古社世田谷八幡神社に出た。この古社では奉納相撲で豊作、凶作を占う慣習があって、今日でも東京農大相撲部によって奉納相撲が行われているという。神社をでると、宮坂駅がそばにあり、踏切を越えて100mほど行った所の左側に豪徳寺の巨大な石門が見える。江戸幕府筆頭譜代大名家の菩提寺という格式らしく、参道に植えられた樹齢の経った松並木が道を覆い隠すように並んで立ち、暑さを凌ぐように、涼風が靡いてくる。ここには桜田門外で暗殺された大老井伊直弼の墓があり、都の史跡になっている。直弼の墓の後部には、暗殺者から必死に主君を守ろうとして、討ち死にした家臣八名の墓もあり、墓石からも、その無念さが伝わってくる。当寺は、井伊家第2代藩主直孝が鷹狩りの折、この寺にいた猫が手招きするので立ち寄り、ここで休息した。すると、休息している間、にわかに悪天候になり、猫が手招きしてくれたので、その難を逃れたという。この事を喜んだ直孝は多額の寄進をして荒れていた寺院を立て直すとともに菩提寺にしたという。住職は猫が死んだあと境内に招猫堂を建て供養した。この招き猫は評判となり、福を求める参詣者の人気になったという。豪徳寺の門前を左折して、100m程の住宅地の一角に森に包まれた小高い丘がある。ここは中世この地方を支配していた吉良氏の居城、世田谷城の址である。子どもたちが駆けずり回っていて、ほどよい遊び場になっている。次に散策したのが、その吉良氏の菩提寺である勝光院。鬱蒼とした竹林に覆われ、静寂につつまれた参道から山門への空間はこころを和ませてくれる、よい雰囲気である。五輪塔や宝篋印塔が並ぶ吉良一族の墓をお参りして合掌。次に世田谷代官屋敷跡に向かう。世田谷代官屋敷は彦根井伊家の世田谷領20ヶ村の代官所でしたが、代官の陣屋として建てられたのではなく、この地の名主であり世襲で代官職を務めた大場家宅を役所とした邸宅兼用の代官所でした。現存する建物は代官所として治安維持や裁きを行う御白洲なども備わっているが、武家屋敷というよりも豪農の邸宅としての形態が伝わってきます。ここより松陰神社へ向かう。吉田松陰は、勅許を得ずして開国に踏み切った幕府を批判したため捕えられ、伝馬町の獄舎で斬首されましたが、松陰の教え子である高杉晋作や久坂玄瑞ら松下村塾の門下生らによってこの地に改葬された。現在でも松陰を尊敬する人達が墓参に訪れ、墓前には献花が絶えないという。墓域の一角には、松陰を尊敬していた桂太郎の墓もある。安政の大獄で斬首された吉田松陰の墓所が、弾圧した井伊直弼の菩提所から、600mほどしか離れていないところにあるのは皮肉な話である。神社を出て商店街を歩き世田谷線の松陰神社前駅から三軒茶屋駅へ向かった。駅から100mほどのところに、本日の最終散策地である江戸五色不動のひとつ教学院目青不動尊がある。。当寺は青山墓地そばにあったが関東大震災後、当地に移転してきたという。 訪れた時間が夕刻になってしまったため、残念ながら御不動様を拝観することができなかった。墓域には小田原藩大久保家歴代藩主の墓所があるが、施錠が掛けられていて、同様に墓参が叶いませんでした。 今日は、関西方面は35℃にもなる猛暑だったそうだが、東京は幸い25~26℃ほどで、蒸し暑さはあったが、快適な散策が出来ました。喉を潤したくなったので、恒例の反省会を駅周辺の魚の美味しそうな居酒屋に飛込んで行った。和気藹藹の歓談で大いに楽しき一時を過ごせたのであるが、うっかり失念して、楽しい雰囲気の写真を撮り損ねてしまいました。 

(報告:石井義文)
 

第16回 北千住.南千住

2013年06月18日(火) | コメント(0)
平成25年5月18日(土)、第16回お江戸散策は江戸四宿のひとつ千住界隈を取り上げた。、北千住に集合し、ここから散策をスタートした。駅から商店街を西に向かって、100メートルほど行くと日光街道と交差する。この北西の角地に掲げられている案内板によると、かって千住宿の本陣があったところらしい。この旧街道は昔と同様の道幅だったそうで、向かいあって店が軒を並べ、にぎやかな通りになっている。北に向かって歩くと右側にお休み処「千住街の駅」がある。ここのガイドさんに千住の見どころなどの解説をお願いした。ガイドさんによると、江戸期における千住は宿場町ばかりでなく農産物、材木などの生活物資 の商いが盛んで、大いににぎわっていて、日光街道沿いは羽振りの良い豪商が軒を並べ、旅人達に酒を振る舞い、時には飲み比べ大会のような催しをしていたという。
 千住の魅力をたっぷり聞いてから、街道沿いにある江戸中期から絵馬や行灯を描いて名高い吉田家を見学した。内部を見ることはできなかったが、江戸時代からの伝統を守りつづけ、貴重な民俗資料を保存している様子がガラス越しに見ることができた。その向かいには、江戸期、地漉き紙問屋として繁盛していたという横山家住宅跡ある。ここも中に入ることは叶わなかったが、江戸後期に建てられた家屋には、築後
150余年の豪商の風格を十分に備えた重厚さが感じられた。横山家の脇道は、かって、からたち寺と呼ばれた長円寺の参道だったところで正面に月松山の扁額を備えた長円寺がある。この寺院は豊前奥平家から寄進を受けるなど江戸期には多くの参詣者を集めていたという。 山門の左脇には、眼病に効くとして信仰された「めやみ地蔵尊」と呼ばれる祠があり、千住絵馬がぎっしり掛られていて、人々の厚い信仰心が感じられた。ここから、旧水戸街道を辿り、線路を潜り抜けていくと大きな幼稚園を併営している清亮寺に着いた。この寺院は、水戸黄門ゆかりの槍掛けの大松があったことで知られていたというが、現在、その松は枯れてなく、その松を撮影した写真とともに、槍掛けのエピソードが碑の銘板に語られていた。この寺院の裏手には荒川が流れている。この土手に上がってしばしの休息を取ることにした。川の河川敷は、大きなイベントが行われる「虹の広場」と呼ばれ、庶民の憩いの場となっている。この荒川は放水路と呼ばれる人工の河川である。度重なる洪水の対策として上流にある岩淵に水門を造って、分流させたのがこの放水路である。1913年から1930年(昭和5年)まで、17年間の歳月をかけて造られたもので、この川の完成以降、洪水はほとんどなくなったという。この土手に程近い所に、江戸時代から続く骨折治療の名医院と謳われた名倉医院がある。現在も開業していて、建物の外観からして、医院の格式を感じる。続いて、また旧日光街道の商店街に沿って、北千住駅の方へ足を向けた。駅脇の居酒屋などが立ち並ぶ細い路地を潜り抜けると、投げ込み寺と云われた金蔵寺の門前に出た。山門を入ると左手に供養塔が2つ並んでいる。一つは、天保年間における餓死者を供養した塔で、もう一つは千住宿で働いていた飯盛り女たちの霊を慰める供養塔である。塔の台座には彼女達の戒名が刻まれており、合掌しないではいられない気持ちになる。寺から50~60mほどのところに森鴎外の旧居跡がある。彼の父親が開業していた医院で、鴎外がドイツに留学するまでの4年間、彼も当院で働いていたという。次に向かったのは、将軍家からも庇護を受けていたという勝専寺。将軍が日光参詣の折には、ここで休息を取ったという。寺内には閻魔堂があり木造の閻魔大王坐像は、現在でも閻魔詣で多くの参詣者があるという。ここまで散策してくると、丁度ランチタイムになっていた。街道筋を南に向かいながら歩くと、適当なランチ店を見つけた。幸運なことに、11名が一緒に食事をすることができ、調度もシックな造りで、食事も大変美味しかった。




 空腹を満たしたところで、午後最初の散策地、源長寺に向かった。旧日光街道に面した源長寺では当時湿地帯であった千住の新田開発や掃部堤の建設に功績を遺した石出掃部亮吉胤を墓参した。その源長寺から千住大橋までの街道筋は、かって“やっちゃ場”と呼ばれ青果、川魚、米穀問屋などが軒を並べていたという。それぞれの屋号を書いた木札が立ち並び、大いに賑わい、繁昌していた当時の様子が偲ばれる。この通りには、千住プチテラスという千住観光のボランティアガイドが詰めていて、われわれに千住発展の歴史や千住固有の特色などを興味深く講義してくれる。この説明はなかなか圧巻であった。さらに南下して、千住大橋に至ると、ここには松尾芭蕉が奥の細道へ旅立った矢立ちの地の碑が建っている。”行く春や鳥啼く魚の目は泪”魚とは見送りに来た本業が魚問屋の弟子杉山杉風のことという。川の上流へ少し入ったところには江戸に荷物を運ぶ船頭たちの信仰を集めた橋戸稲荷社がある。ここの拝殿の扉には、江戸末期の名工伊豆の長八の鏝絵が治められているが、残念ながら本物を見ることは叶わずでした。千住大橋を渡り南千住に入る。橋を渡ったすぐの路地を少し入ると左手に材木問屋の信仰を集めた熊野神社がある。どういうわけか入口に施錠が掛けられていて、入ることができず拝観をしないで次に移る。
素戔嗚神社、この神社は創建が
1050年というから、約千年も経つ古社で、周辺61町村の総鎮守という格式らしく、社殿も鳥居も壮大な威容を放っている。神社から東に向かうと[荒川ふるさと文化館]があるが、時間の都合で割愛し、明治初期、富国強兵、殖産振興の政策から作られた千住製絨所跡を見る。そこは現在、スポーツセンターやショッピングセンターになっていて、面影はないが、製絨所を取り囲むようにできた煉瓦塀に当時の面影を見ることができた。次は、彰義隊ゆかりの円通寺。境内には、彰義隊士の墓、上野戦争において激戦のあった黒門口の黒門や榎本武揚新門辰五郎たちの追悼碑がある。続いて進んだのが吉原の投げ込み寺として名高い浄関寺。吉原遊女たちの悲しい運命に心から同情を示した永井荷風の詩碑に胸を打たれました。続いて訪れた永久寺は江戸五色不動の一つ目黄不動尊があるところだが、寺とは思えない狭い境内に拍子抜けだった。いよいよ本日の最終散策地である延命寺、回向院に向かう。延命寺は江戸期の刑場があったところに回向院から分離独立した寺で、巨大な延命地蔵が建っている。回向院には、安政の大獄で刑死した橋本左内吉田松陰その他桜田門外で井伊直弼を襲った水戸浪士たちの墓がある。また、ここは杉田玄白前野良沢たちが刑死者の腑分けに立ち会い、人体がオランダの医学解剖書「ターヘルアナトミア」に描かれているものと同様であることを確認し、解体新書を著したこと知られ、それを記念する「観臓記念碑」が院内入口の壁面に掲げられている。 これにて本日の散策は終了となり、例のごとく居酒屋で歓談に華が咲き、程よい酔いを以て楽しき一日が終わりました。(石井義文)
 【散策の後は・・・ビールでカンパイ!】 

第15回 田端・王子

2013年05月13日(月) | コメント(0)
  第15回お江戸散策は、当初の実施日を雨天により1週間延ばしたにも関わらず、愛好者13名が田端駅南口に集い、快適な天候にも恵まれ、爽快な気分で出発しました。坂を上り下りして、数分のところにある大江戸六阿弥陀第4番札所の真言宗与楽寺を最初に訪れました。六阿弥陀信仰は、江戸期において女人救済の阿弥陀様として、特に女性に人気があったそうである。
次に、田端に二つある八幡神社のうち、田端下八幡神社が近くにある。この神社に隣接した別当寺である東覚寺には赤紙を貼った仁王さまがいて、病と同じ個所に赤紙を貼ると治ると言い伝えられ、治ったときに草鞋をあげる慣わしがあり、今日でも信者が多く参詣にきている。ここまでで出発から約30分ほど経ち、10時開館という田端文士村会館へと向かうことにした。
 ここ田端は明治後期から昭和初期にかけて多くの芸術家、文筆家たちが集まり、陶芸、絵画の腕を磨き、文芸雑誌、童謡などの創作に情熱を注いだところである、会館には彼らの作品や活動が多数紹介されている。これらの解説を読むだけでも、半日は掛かりそうである。 ここで紹介を受けた芥川龍之介の旧宅跡が近くにあるというので、予定外であったが立ち寄ってみることにした。しかしそこには、旧宅跡の説明版があるだけで、マンションが建てられていました。
もう一つの八幡神社に隣接した寺院に大龍寺がある。ここの墓域の竹笹が生えている所には俳人正岡子規の墓があり、多くの子規ファンが墓参に来ている様子が偲ばれる。大龍寺から北に向かって、しばらく歩くと踏切があり、超えた所の右手に園勝寺がある。ここの墓域には石州流茶道開祖伊佐家代々の茶人達が眠っている。
 ここまで来るとランチタイムになり、旧古河庭園の中でお弁当を食べることにした。ここ古河庭園は、当時一流の建築家ジョサイアコンドルの設計による洋館、および洋式庭園、当代随一と言われた小川治兵衛が手掛けた和風庭園でできている。庭園内は、ソメイヨシノはすでに散っているが、八重桜、真紅の躑躅、チューリップなどが微香を放って咲いている。眺めて良し、歩いて気持ちが晴れやかにしてくれる、素晴らしい庭園である。それぞれが持参した昼食を、美しい庭園のベンチで食べるのは、なかなか一興である。
昼食後は、庭園内を散歩してから次の散策地六阿弥陀第三番の無量寺に向かう。木立や竹林に包まれて静寂な参道を備えたこの寺に魅力を感じながら山門に差し掛かったら、入口で「拝観お断り」と言われ、残念ながら拝観を断念し、写真だけ治めて次に向かった。
 江戸時代初期までの寺院と神社の関係は、その多く寺院は別当寺と呼ばれ神社を寺院が管理、運営していた。城官寺平塚神社の関係も同様で、城官寺が平塚神社を支配する関係であった。次に訪れたところは、東京ゲーテ記念館といい、1949年、ゲーテの生誕200周年を記念して、実業家・粉川忠がゲーテの精神的遺産を継承発展するための研究機関・資料館として建てたもので、あまり大きくない館内であるがゲーテの作品などの資料が15万点も所蔵しているという。当初予定していない散策館であったが、思いもかけぬ拾い物をした気分の見学であった。
ここから岩槻街道に出たところに、西ヶ原一里塚がある。江戸期、幕府は五街道や主要街道に、旅人の目印になるように一里ごとに塚を築き、遠くからも見えるように榎を植えさせたという。しかし東京の近代化とともに多くが撤去、消失していったが、この一里塚は住民の願いで保存されたそうだ。この塚から、200メートルほど街道に沿って行くと、右手の小高い丘に、実業家渋沢栄一の邸宅があった。現在、その跡地には、栄一ゆかりの青淵文庫と晩香櫨が建っている。庭には渋沢の実寸大の銅像が立っているが、現代人から見るとすごく小柄なのに驚かされる。 身の丈は小さくても、実業家としての手腕は驚異的で、銀行、造船、海運、鉄道、製紙など約500の会社の設立に関わり、近代日本資本主義産業の発展に多大な功績を残した人物である。歩んだ人生も見事で、彼は70歳になってからは、事業活動からは、いっさい手を引き、私財を投じて、もっぱら社会福祉、教育、文化活動に力を注いだという。この旧渋沢邸から北へ続く丘一帯は、飛鳥山公園で、八代将軍徳川吉宗が桜を植樹させて、庶民の行楽とした江戸時代からの桜の名所である。ここもソメイヨシノは散ってしまったが、未だ沢山の八重桜が開花していて、青空を背景に輝くように咲いていました。土曜日ということもあり、親子連れや多くの子どもたちが春の一日を楽しんでいました。 この公園には記念碑や桜賦の碑などがあり、その碑に刻まれた難解な文字の解読を楽しんでから、王子の名の謂われとなった王子権現神社に歩みを進めました。将軍家の祈願所であったというこの社は広大な社領を備えていて、200石の朱印を賜ったというにふさわしい、堂々たる風格を放っていました。ここから、数分歩んだところには関八州稲荷神社の総元締めという王子稲荷神社があり、毎年大晦日には狐のお面や装束を身に着けた行列が行われ、大いに賑わうという。ここまで来ると、さすがに歩き疲れてきたころである。歩行カウンターを見ると、何と25000歩を超えている。次の最後の散策地である名主の滝公園を訪れたころは、日も落ちかけてきて、喉を早く潤したい気分になってきた。そこで、早々に切り上げて公園を後にし王子駅前の居酒屋に直行し、和気藹藹に懇談して、本日の散策を振り返りました。

(報告:石井義文)
   平成25年(2013)2月23日(土)に、第14回 お江戸散策を実施しました。寒気きびしい折りながら絶好の晴天に恵まれ、東京駅を起点にして、京橋・銀座・日比谷の史跡めぐりを行いました。昨年、秋に建て替えられた東京駅には、日本建築の技巧や文化の数々が活かされていることを知り、改めて東京駅に対する愛着が深まりました。
鍛冶橋付近では、坂本龍馬が江戸に出て剣術修行をした道場跡を訪れて、しばし龍馬論を語りながら、京橋に辿り着きました。京橋には歌舞伎猿若座発祥の碑文が建てられており、昨年暮れに他界した名優18代目中村勘三郎の在りし日を偲び、しばしの語らいとなりました。銀座通りでは、翌日の東京マラソンを控え、大会関係者が、その準備をしている光景が見られました。昼からは、歩行者天国になり、世界の名店が並ぶこの通りを歩くと何かパッピーな感じになり、気分も爽快になりました。宝くじ売り場で有名な西銀座チャンスセンターの一角には、かって一世を風靡した名曲”銀座の恋の物語”の碑石が建っている。例のごとく、ハーモニカの伴奏で、この名曲を皆で歌う。古希が真近という面々であるが、気分はみな青年である。 昼食を銀座三越屋上にあるレストランで取り、そこに鎮座する出世地蔵尊にゴリヤクを祈願して次の散策地、建て替え工事完了直前の歌舞伎座を訪れる。 開業を待ち侘びているファンがきょうも多く集まってきていた。やはり、浅草と並ぶ東京の名所である。 ここ木挽町には江戸期幕府の奥絵師として画業の頂点を成していた狩野画塾や大河ドラマ”八重の桜”に登場した佐久間象山の塾があった所で、往時を偲ぶとその情景も浮かんでくるようだ。ここから昭和通りを横切って南に下ったところに三十三間堀跡の表札があり、その裏は高速道路になっている。この高速道路は、東京オリンピック前までは江戸時代にできた掘割があったところだ。”♪銀座九丁目は水の上 今宵は舟で過ごしましょう♪”と歌謡曲で歌われたが、銀座には9丁目はない。9丁目は舟が浮かぶ掘割だったのでしょう。銀座を取り巻く高速道路は、ほとんどが堀を埋め立ててできたものだ。銀座には、福沢諭吉ゆかりの交詢社、島崎藤村の卒業した小学校、啄木が勤務していた新聞社跡そして専修大学、明治大学はここで発祥している。日比谷側に入り、帝国ホテル南側のNBF ビル外塀に鹿鳴館跡のプレートが掘り込まれている。鹿鳴館は時の外務大臣井上馨の欧化政策の一環で造られた外国要人との社交場である。明治の歴史には必ず登場する所であるが、井上が失脚すると閉鎖され、その存在が消えてしまった。
日比谷公園には、有名なレストラン松本楼があり、中国建国の父 孫文とのゆかりや平成20年福田首相のとき中国胡錦濤主席を招いた時の写真などが飾られている。 また、日比谷公園の設計者本多静六が道路拡張で伐採されそうになった大イチョウを”首に掛けても移植してみせる”と豪語した首掛け大イチョウは印象的でした。
日比谷公園の大部分は江戸期、鍋島藩と長州藩の上屋敷があった所で、西側の道路隔てた所は、名奉行と言われた大岡越前守の屋敷もありました。つまりこの一帯は大名家の屋敷が並んでいたわけです。この日比谷公園をあとにして、江戸の三森神社の一つと言われた烏森神社で参拝し、新橋駅機関車広場を見下ろせる恰好の居酒屋で反省会を行い、今日の一日を振り返りました。 (文・石井義文)

  この散策で訪れたところは以下の通りです。
東京駅
 平成24年秋に建て替えられ、100年前に建設された姿に復元しました。

千葉道場跡
 坂本龍馬が始めて江戸に出てきて、剣術修行をして、道場の娘佐奈と恋仲になったと伝わる。

江戸歌舞伎発祥の地
 中村勘三郎の先祖が歌舞伎興業を開いた場所で、急逝した18代目を偲ぶ。

大根河岸青物市場跡
 ここはかって京橋川だったので河岸と名付けられたのが理解できる。

京橋親柱
 明治初期に建てられた親柱と大正期に建てられた親柱の対比が興味深い。

煉瓦銀座碑
 明治5年の大火で銀座は全焼した。その後、由利公正の提唱で銀座は煉瓦街に生まれ変わった。

銀座発祥の地碑
 銀座の名の謂われは、江戸期この地に銀貨の鋳造、取り締まりを行ったことに起因している。

関東大震災記念碑
 大正12年9月1日に関東一円を襲った関東大震災は死者10万人余の犠牲者を出した。

銀座出世地蔵尊
 銀座三越屋上に安置されている開運、出世、延命、商売繁昌の信仰を集めている地蔵様。

狩野画塾
 江戸期、幕府の奥絵師として画業の隆盛を誇っていた木挽町狩野家の塾跡。

象山塾跡
 幕末期松代藩の海防、砲術指導の大家であった佐久間象山の塾跡。松陰の密航事件に連座し閉鎖。

芝口御門跡
 六代将軍家宣の治世下、新井白石の提唱で、わが国の威光を顕示するために建設された。

銀座の柳碑
 昭和29年、銀座の街路樹として、約400本の柳が植えられた。これを契機に中央区の木となった。

金春屋敷跡
 江戸期幕府直属の抱え能役者金春家の屋敷があったことで、この一帯を今春と呼ぶようになった。

石川啄木碑
 啄木が勤務していた滝山町の新聞社跡。"京橋の滝山町の新聞社 灯ともる頃のいそがしさかな"

数寄屋橋
 江戸城外郭見附として架けられた橋。戦後、菊田一夫の名作”君の名は”で橋の名は全国に広まる。

泰明小学校
 島崎藤村、北村透谷が卒業した学校として知られ、現在でも、中央区立小学校として存在。

明治大学発祥地
 権利自由、独立自治の精神を提唱して出来た「明治法律学校」は、この地で誕生しました。

鹿鳴館跡
 明治中期、鹿鳴館外交と呼ばれた、外国人要人との交流の場は、元薩摩藩上屋敷の地にあった

日比谷公園
 この公園は、造園家、公園設計者である本多静六の傑作の一つ。松本楼の首掛けイチョウも有名。

大岡越前守屋敷跡
 江戸中期の名奉行大岡越前守忠相が住まいしていた屋敷跡。この一角には東京地裁が。

烏森神社:堀留町の椙森神社、秋葉原の柳森神社とともに江戸三森神社の一つとして有名。

                                                                                   (報告 石井義文)
 
 【散策の後は・・・お疲れさまでした!】 

第13回 新宿・四谷

2012年12月20日(木) | コメント(0)
 
    平成24年(2012)11月20日(火)に、第13回 お江戸散策を実施しました。当初、17日に行う予
 定でしたが、 強い  雨の  天気予報でしたので、この日に延期したところ、これが幸いして、絶好
 の秋日和に恵まれました。今回の散策地は、新宿から四谷に至る地域を選びました。江戸時代
 元禄年間に、甲州街道の江戸から、第一の宿場であった調布との間に、内藤新宿がつくられた
 ことにより、商業、文化、娯楽の町として繁栄した足跡を辿りました。そして、ここは多摩川上流
 から、江戸の市中へ上水を供給した玉川上水が引かれた所でもあり、江戸時代の高度な水道
 技術も学ぶことが出来ました。
  この散策で訪れたところは以下の通りです。
  〇 天龍寺: 徳川二代将軍秀忠の生母が拝領した寺院で、大きな葵の紋所が彫まれた正門と
    追出しの鐘で有名。
  〇 花園神社: 新宿の芸能・遊興文化と密接に結ばれている神社。当日は盛大な酉の市が開
    かれていた。
  〇 成覚寺: 通称、投げ込み寺と言われ、宿場で働く飯盛り女の悲劇が伝わってくる。
  〇 正受院: 亡者が冥土に行くとき渡る三途の川で渡し賃の六文銭を持たない者から脱衣婆
  〇 太宗寺: 江戸六地蔵の一つを安置している寺院で、高遠藩内藤家の菩提寺。
  〇 新宿御苑インフォメーションセンター: 御苑に隣接した施設で、写真、絵画、パネル等の展
     示が行われている。
  〇 新宿御苑: 明治39年に完成した都内有数の名園。和洋折衷の庭園は春夏秋冬、花が咲か
     ないときはない。
  〇 四谷大木戸: 甲州街道の江戸への出入り口の設けられた大木戸。玉川上水の水番所もこ
   こに設けられた。
  〇 長善寺(笹寺): 江戸時代初期から、将軍家に庇護された寺院で、寛永年間勧進相撲が行
   われていた。
  〇 於岩稲荷 田宮神社: 四谷怪談で有名なお岩の霊を祀っている。幽霊が出るという井戸は
   向いの陽運寺にある。
  〇 西應寺: 明治天皇上覧の面前で兜割りを成功させた幕末の剣豪榊原健吉の墓があること
   で知られる。
  〇 戒行寺: 鬼平犯科帳で有名な長谷川平蔵の菩提寺として知られる。
  〇 勝興寺: 人切り浅右衛門と恐れられた7代、8代の山田浅右衛門の墓がある。
  〇 須賀神社: 四谷十八ケ町の総鎮守として信仰された神社。戦災で焼失を免れた三十六歌
   仙絵がある。
  〇 愛染院: 真言宗の寺院で、内藤新宿を作った高松喜六、盲目の天才国学者 塙保己一の
   墓がある。
  〇 西念寺: 徳川家康に信頼された伊賀忍者の頭領 服部半蔵が開基した寺。半蔵の墓もこ
   ここにある。
  〇 迎賓館 赤坂離宮: かって紀州藩の中屋敷があった所で、明治42年、迎賓館として建設さ
   れ今日に至る。
  〇 四谷見附跡: 不審な者を監視する所を見附といい、江戸城に三十六あった見附の一つ。

       (地図)   (報告 石井義文)
 【散策の後は・・・お疲れさまでした!】 

第12回 旧品川宿

2012年08月11日(土) | コメント(0)
 
江戸時代、江戸の中心から2里ほどで、東海道第一の宿場町で旅人の送迎地であるとともに風光明媚な遊興の町として知られた旧品川宿界隈の散策を行いました。今回の散策においても、人々から尊敬され、心温まる遺訓を残した人、巧みな技を持った人の遺作、そしてこころ根のやさしい、正直者やそれに情けをかける江戸の人情のぬくもりを改めて感じる散策となりました。散策地は以下のところです。
開東閣 :三菱グループの倶楽部として知られ、ジュサイアコンドルが設計した明治期の洋式屋敷。
御殿山 :江戸期風光明媚な景勝地。幕末に山は削られ、面影は失ったが、現在高級マンションが聳えている。
問答河岸碑 : 徳川三代将軍 家光と東海寺住持沢庵との頓智に富んだ問答が交わされた所と伝わる。
土蔵相模跡 :桜田門外の変やイギリス公使館焼き討ちなどに関係している幕末期に栄えた妓楼。
利田神社 :江戸中期に江戸湾で獲れた鯨に、将軍が関心を持って大騒ぎになった。その鯨を供養した所。
御殿山砲台跡 :ペリー来航後、品川沖に砲台場を建設することになった。その時の遺構が残る。
品川本陣跡 :大名や公家が宿泊した本陣跡で、明治期に、明治天皇が東京へ入京する際に宿泊した所。
寄木神社 :幕末期の名鏝絵師 伊豆の長八の作品がある。
荏原神社 :奈良期からある古社で、かっぱ祭で知られています。南品川の鎮守神社。
品川神社 :鎌倉期に創建された北品川の鎮守神社で、富士講で知られた富士塚は江戸期から人気。
官営品川硝子製造所跡 :明治初期に日本で最初の硝子製造所が作られ、建物は明治村に保存。
東海禅寺 :三代将軍家光により招聘された名僧沢庵宗彭によって作られた四万坪もあった大寺院。
細川家墓域 :肥後熊本藩細川家の墓所。元首相細川護煕氏の父母も永眠している。 
清光院 :豊前中津藩奥平家の墓域がある。
願行寺 :境内地蔵堂のしばり地蔵は有名。
常行寺 :日本最初の大師である慈覚大師円仁ゆかりの寺。
天妙国寺 :将軍家に庇護されていた寺院で、江戸期には五重塔、書院、仁王門も備えていた。
品川寺 :真言宗別格本山の格式をもつ寺院で、境内にある地蔵菩薩は江戸六地蔵第1番に数えられている。
海雲寺 :曹洞宗の寺院で、心根のやさしい、正直者平蔵地蔵がある。
泊船寺 :松尾芭蕉ゆかりの寺。
海晏寺 :かっては紅葉の名所と謳われた寺院で、墓地には、岩倉具視、松平春嶽、由利公正の墓がある。
 報告・掲載: 石井義文  
 【散策の後は・・・】 

うまいビールに
新鮮なさかな!


お疲れさまでした!!

第11回 浅草・墨東

2012年05月07日(月) | コメント(0)
   第11回お江戸散策は、当初3月末日に行う予定でしたが、下谷神社
 ○ 浮世絵画家の巨匠葛飾北斎が眠っている寺として有名な誓教寺。
 ○ 大日本沿海輿地全図を作った伊能忠敬、幕府天文方で忠敬の師として、その大事業を支援した高橋至時景保父子、江戸の侠客 幡随院長兵衛、江戸後期の名画家 谷文晁 等の墓所のある源空寺。
 ○ 玉川上水を完成させた玉川兄弟の眠る聖徳寺。
 ○ かっぱ寺と呼ばれる曹源寺。
 ○ 江戸時代から民衆信仰の中心寺院 金龍山浅草寺
 ○ 墨堤にかかる、言問橋桜橋吾妻橋
 ○ 武島羽衣、滝廉太郎による名曲「花」の碑
 ○ 江戸の遊興地吉原に近く風光明媚で知られ、池波正太郎がふるさと語る待乳山本龍院(聖天)。
 ○ 招き猫と縁結びで有名な今戸神社
 ○ 中村勘三郎の悲願なった平成中村座
 ○ 墨堤桜の記念碑
 〇 団子で有名な長命寺
 ○ 明国風建築の黄檗宗寺院 弘福寺
 ○ 三井越後屋の守護神 三囲神社
 ○ 本所向島の総鎮守 牛島神社
 ○ 江戸期水戸藩下屋敷だった隅田公園
 ○ 現在、墨田区役所やアサヒビールの本社がある江戸時代佐竹藩の名園だった浩養園跡
 ○ 日本のシンボルの一つになる東京スカイツリー
   以上ように、今回も歴史上著名な人の業績を学び、春爛漫、満開の桜を満喫できた散策でした。
        (報告:石井義文)
 
  これより懇親会