鎌倉ウォーキング

  台風到来で実施が危ぶまれた10月7日(金)、運よく嵐は過ぎ去り曇天ながら恰好の散策日和となって、第7回鎌倉ウォーキングを実施しました。小田急線片瀬江の島駅に10:00集合し、弁天橋を渡ったところにある江の島観光案内所で、「eno-pass」を購入して散策開始。長さ389mの歩道橋「江の島弁天橋」を清々しい気分で歩き、江の島に着いて島内散策を開始しました。島には見処が沢山あり、今回は具に散策することにしました。最初に訪れたのは橋の袂にある「モース記念碑」。以下、下記の箇所を訪れました。
江の島 モース記念碑
1964年の東京五輪を記念して造られた噴水池 文政4年に建てられた青銅の大鳥居
創業350余年の老舗旅館恵比寿屋 江の島を支配する別当寺だった岩本楼
管針の考案者杉山検校の墓 杉山検校がつまずいた福石
田寸津比売命を祀る辺津宮 八臂弁財天と妙音弁財天が安置されている奉安殿
牛頭天王を祀る八坂神社 日露戦争の英雄、児玉源太郎を祀る児玉神社
市寸島比売命を祀る中津宮 サミュエル・コッキング苑
蝋燭型した展望台・江の島シーキャンドル 市指定重要有形民俗文化財の群猿奉賽像庚申塔
山田流筝曲の開祖・山田検校 多紀理比売命を祀った奥津宮
真言宗 最福寺の別院・江の島大師 恋人の丘・龍恋の鐘
稚児の淵 江の島岩屋
 見どころたくさんの江の島を後にして、江の島周辺の史跡めぐりに向かった。旧江の島道を東海道方面に少し歩くと、右手に杉山検校が寄進した道しるべの石標がある。検校は自らが目が見えないことで不自由したことから、旅人が道に迷わないように気遣って、16基の道標を寄進したという。興味深くを見たあと、しばらく進むと龍口寺輪番八ケ寺の1つ常立寺がある。この寺院は毎年モンゴル出身の大相撲力士たちが墓参することで知られている。ここでしばしの休息を取り、次に日蓮上人が、処刑されそうになった場所に建立された龍口寺を散策。正式には日蓮宗 霊跡本山 寂光山 龍口寺と称されることもあり、境内には、パゴダ型の白亜の塔や五重塔があり、堂々たる寺院であった。同寺を一通り見学し時計を見ると16時20分 。日も沈みかかり、辺りもうすら暗くなってきている。腰越の小動神社義経ゆかりの満福寺散策を断念し、ここでお開きとし、駅前の居酒屋に入って懇親会に進んだ。  (掲載:石井義文)
 
毎年モンゴル出身の相撲力士が墓参する常立寺 モンゴル使者の慰霊碑
日蓮上人が斬首を免れた地に立つ龍口寺 パゴダ型の白亜の塔
 鮮魚と冷えたビール
懇親会を行った江ノ電江の島駅前の魚料理店  おつかれさまでした! 乾杯!
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3月13日(日)第6回目の鎌倉ウォーキングを行った。コースは和田塚、和賀江島、披露山公園を経て逗子駅に至るコースで、鎌倉の歴史上由緒ある宮、大きな事件があった所、名庭園のある寺院、海の中に建てられた文学碑そして、富士を望める絶景など多くの見どころのあるコースです。鎌倉駅西口に9:30集合して、駅前広場にあるラングドン・ウォーナー博士の銅像に挨拶。アメリカ人で、日本の文化に親しみを持ち、鎌倉に住む。太平洋戦争時、鎌倉への攻撃を止めるようにルーズヴェルト大統領に進言したと云われている。真偽は不明であるが、結果として鎌倉は戦災に遭わず、街も文化財も守られたことから顕彰されている。次に今小路通りに入って、重厚な門を構える御成小学校の向かいにある問注所跡を散策する。ここは、鎌倉時代の裁判所が設けられところで、裁判の結果、無罪放免になった者が渡ったと云う裁許橋が近くに流れる佐助川に架かっている。反して、罰せられた者は、小路を海辺に向かって観音通りに面した所にあった処刑場で刑を受けたと云う。現在、そこには六体の地蔵が置かれていて六地蔵と呼ばれている。観音通りを横切って、江ノ電和田塚駅を海岸に向かって少し行った所に和田塚がある。ここは建暦3年に起こった和田合戦の戦場だった所で、和田一族の慰霊碑が建っている。この塚を掘り返したとき、多くの人骨が発見され、頭蓋骨には刀傷を受けものが多くあったと云う。また、観音通りに戻って、若宮大路と交差した所に出る。ここは下馬と呼ばれ、馬の乗り入れが許されず、馬を下りて八幡宮を礼拝した所である。また、幕末、攘夷浪士が2人のイギリス士官に斬り掛り斬殺した「鎌倉事件」があった所でもある。若宮大路を、由比ヶ浜方面に向かうと散策スポットの徳川将軍から寄進された第一石造大鳥居とその傍らに大きな宝篋印塔の
畠山重保の墓がある。しばし見学したのち、若宮大路に面した所にある名門 鎌倉女学館の脇を抜けて、材木座方面に向かった。病院前のバス停を左折して、100m程の所の左側の路地を入ると正面に、元鶴岡八幡宮がある。この神社は、「元八幡」と呼ばれ、頼朝の曽祖父頼義が石清水八幡宮から勧請して建立した神社である。また、この界隈は明治から大正にかけて何人かの小説家が住み、芥川龍之介、「丹下左膳」を書いた林不忘そして、日蓮宗妙長寺には泉鏡花が仮寓している。妙長寺から、道沿いに100m程行った所に九品寺がある。九品寺の場所は、義貞が鎌倉攻めをしたとき新田義貞が本陣を構えた所で、北条を倒したあと開山した。本堂の扁額は、義貞の筆跡と云う。材木座には、浄土宗関東大本山の名刹 光明寺がある。天皇家や徳川家に庇護され、巨大な三門や小堀遠州作と云われる記主庭園そして三尊五祖の石庭は見ごたえがある。

 
 光明寺から左に折れて、海岸に出ると満潮時には見えないが、干潮時には岸辺に無数の巨石が転がっている。ここが日本最初の築港と云われる和賀江島である。800年の歳月を経て港の形跡は偲べないが、
宋時代の中国陶器の破片などが今日も海岸で見つかると云う。これより逗子マリーナ方面に向かう。途中、鎌倉十井の一つ六角の井や三浦氏が築いた住吉城跡などを視察して、小坪漁港に出る。小坪漁港の歴史は古く、鎌倉時代より存在している本市唯一の地場産業である。正月には、1年の豊漁と海上での安全を願う「みかん投げ」行事が行われる。その祝いみかんを食べると厄除けになると言われ、多くの人が集まって来る賑やかな祭りである。小坪の魚料理店「魚佐次」で昼食を取ることにした。熱つアツのアジやカマスのフライは実に美味しかった。
 腹ごしらえをして、次の散策に向かう。漁民家集まる家々の細い路地を抜けて、丘を登って行く先に長い階段の参道があり、登った所に天照大神がある。地元の漁師たちに敬われているらしく社は清潔に保存されている。旅の安全を祈って参拝し、神社を出ると、やたらと豪壮な家々の並ぶ住宅地にでる。ここが披露山高級住宅地である。かっては、元ソニー会長 大賀典雄氏もここに居住していた。  住宅地の右寄り道路を
進むと大崎公園に行く表示板がある。大崎公園は海に突き出した岬の台地に作られ、見晴らし台からの展望は実に素晴らしい。遠く富士山、箱根、丹沢連峰、伊豆半島、大島、そして逗子海岸から葉山、秋谷など三浦半島もくっきり眺望できる。しばし、この公園でしばし休憩を取ることにした。休憩後、対岸に見える披露山公園に向かった。この公園も眺望はよく、昭和初期には政治家、文人たちが住み着き、憲政の神様と呼ばれた尾崎行雄もここに住まいを構えた。戦時中は、軍用地になり本土防衛の堡塁が造られ、その痕跡が現在も残され、展望台や猿舎などに転用されている。公園から海岸まで崖のような急斜面の細い道を下って行くと海岸線を走る国道134号線の手前に、浪切不動尊を安置した高養寺がある。この寺は徳富蘆花の小説「不如帰」の舞台となり、その主人公「片岡浪子」に因んで、「浪子不動尊」と呼ばれるようになった。後年、蘆花の実兄蘇峰が不如帰と揮毫した石柱が海中に建立されている。海岸を内陸に少し入った所に、名門 開成高校の兄弟校、「逗子開成高校」がある。明治43年のボート遭難で、17名の学生が亡くなり全国的に知れ渡った学校で、校門前に「真白き富士の嶺・・」の鎮魂碑が建っている。もうすぐ逗子駅である。駅近くにある古社 亀ヶ岡八幡宮を参詣して本日の散策をお開きとした。
 本日は、鎌倉の歴史に触れる散策で、古戦場跡や寺院石庭鑑賞もできました。そして、アップダウンの登降を繰り返し、ひざ関節に堪える歩行であったが、素晴らしい眺望に癒されたり、ビバリーヒルズを彷彿させるような邸宅を鑑賞できたり、思い出残るウォーキングでした。 (石井義文)

 
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第5回 鎌倉ウォーキング 円覚寺~大船界隈  (解説版)

1.  円覚寺
円覚寺は、鎌倉五山第二位に置かれる名刹で、臨済宗円覚寺派の大本山である。山号は瑞鹿山。寺院建立の開基は第8代執権北条時宗、開山は時宗に招かれて宋から来た無学祖元である。時宗は文永・弘安の2度に亘る役で死んだ兵の菩提を弔うために、弘安5年(1282)に、ここ山の内に建立した。寺域は約6万平方メートルある。寺名の由来は起工の際、地中から、仏教の経典の1つである「円覚経」を納めた石櫃が掘り出されたことから名付けられたという。創建当時の伽藍は「仏堂」「僧堂」「庫裡」があるだけであったが、鎌倉幕府の祈願所に定められてからは、土地や建物の寄進を受け、次第に大きな寺院へと発展していった。1333年鎌倉幕府が滅亡したのち瑞泉寺を開山した夢窓国師が住職になってからは、後醍醐天皇、足利尊氏らの援護を受け、寺は繁栄し、塔頭が42院を数えるに至った。山門、仏殿、方丈などが1直線に並ぶ宋の禅宗様式で建てられている。建物の多くは室町から江戸にかけて再建されている。山門には伏見上皇勅筆の「円覚興聖禅寺」の額が掛っている。鐘楼には正安3年(1301)9代執権北条貞時が寄進した洪鐘があり、建長寺、常楽寺の梵鐘とともに鎌倉3名鐘と云われ国宝になっている。鋳物師は物部国光。「皇帝万歳 重臣千秋 風調雨順 国泰民安」と刻まれた梵鐘文は無学祖元の弟子で住持であった西澗子曇が記している。蘭渓道隆、無学祖元、そそして西澗子曇らは、ともに南宋から来た中国人僧侶であるが、それぞれ5代時頼、8代時宗、9代貞時に信頼されていたと云う。また、昭和29年再建された仏殿の天井には白龍図が描かれているが、この絵は当寺、日本画家の大御所前田青邨が監修し、その弟子である守屋多々志が揮毫したものである。

正続院:
山号は万年山。9代執権北条貞時が弘安8年(1258)、仏舎利を治めるために建立した祥勝院という堂宇であった。境内には日本最古の唐様建築で国宝の舎利殿、開山堂、正法眼堂(禅道)がある。舎利殿はもともと尼五山第一位大平寺の本堂であったが、大平寺が廃寺されたとき、当院に移築されたものである
 

仏日庵:
弘安7年(1284)に没した北条時宗の廟所として創建され、嫡男の9代執権貞時、孫の14代執権高時も合葬されている。庵に保管されている「仏日庵公物目録」には諸祖頂相をはじめ13~14世紀に中国から将来された絵画・墨跡・工芸等が記されており、中国から日本への文化の流入を知る上で大変貴重なものである。境内のハクモクレンは「阿Q正伝」で知られる中国の作家魯迅から贈られたもので、作家大仏次郎の「帰郷」の中にも描かれている。茶室の烟足軒では、北条時宗の命日にあたる毎月4日には、「四日会」という茶会が開かれていて、この四日会は 川端康成の『千羽鶴』の舞台となった。

黄梅院:
山号は伝衣山。五山文学の隆盛に貢献した夢窓疎石(国師)の塔所で、疎石を師とする夢窓派の関東における拠点となった。門弟の方外宏遠(ほうがいこうえん)が文和3年(1252)に開創した。のち、足利義詮の遺骨が分骨され、足利氏の菩提寺の性格もおびた。



 
帰源院:
大慶寺や浄智寺などの住職を務めた三十八世傑翁是英の塔所。境内に夏目漱石の「仏性は桔梗にこそあらめ」の句碑がある。漱石は明治27年(1894)の年末から翌年にかけて塔所に止宿参禅している。漱石は「昔し、鎌倉の釈宗演和尚に参して父母未生以前本来の面目はなんだ」と聞かれ、がんと参った」と綴っている。この体験をもとに小説「門」を書いた。釈宗演とは、臨済宗の高僧で、円覚寺、建長寺そして東慶寺の住職を務め、シカゴの万国宗教大会で講演し、欧米に禅(ZEN)を紹介した人物である。講演を英訳したのは、宗演の弟子で東慶寺に眠る鈴木大拙である。帰源院では毎年4月29日漱石の命日に「漱石の会」を催している。帰源院には、作家島崎藤村もここに出入りし、そのときの様子を『春』に描いている。
2. 光照寺
光照寺は藤沢にある時宗大本山藤沢山清浄光寺(遊行寺)の末寺で、時宗の開祖一遍上人が、鎌倉入りの際に巨福呂坂を守る武士に鎌倉入りを止められてやむを得ず行く先を江ノ島にする途中、野宿した所が、現在の光照寺であると言い伝えられている。山門の欄干にキリスト教の十字紋と同じクルス紋が掲げられている珍しい寺院である。近世には周辺の小袋谷村に隠れキリシタンの集落が存在し、光照寺が庇護していたという伝承が残る。寺には江戸幕府からの「隠れキリシタン」に対する文書が残っているという。山門脇には子育地蔵尊その向かいには、年寄や子供の咳が止まるご利益があると云う咳の神様「おしゃぶき様」の石祠がある。
 
3. 常楽寺
  臨済宗建長寺派粟船山(ぞくせんさん)常楽寺は、三代執権北条泰時が、嘉禎3年(1237)、妻の母の供養のために建てた「粟船御堂」を前身としている。その供養には、源頼朝や北条政子が帰依した退耕行勇が導師を勤めた。執権となった泰時は、「連署」や「評定衆」の設置、武家の法典である「御成敗式目」(貞永式目)の制定を行い、北条執権体制の基礎を固めた。また、和賀江嶋の築港を許可し、巨福呂坂・朝夷奈切通の開削も行っている。仁治3年(1242)に亡くなった北条泰時はこの地に葬られた。法名は「常楽寺殿」。仏殿背後に三基並ぶ石塔の左が泰時の墓。中央は龍淵和尚、右が大応国師(南浦紹明)の墓。その後、五代執権北条時頼が、中国宋から来日し壽福寺に寓居していた蘭渓道隆を招き、禅の道場が開かれた。道隆は、建長寺を開山する以前に、この地で禅を広めていたので、常楽寺は「建長寺の根本」と称されている。仏殿の雲龍の図は、江戸時代中期で活躍した狩野雪信作と云われている。龍淵和尚は中興開基と伝えられ、大応国師は建長寺十三世を勤めた高僧である。常楽寺の文殊堂は、英勝寺より移築された建物で、秘仏の木造文殊菩薩坐像は「日本七文殊」の一つとされ、1月25日に行われる「文殊祭」に開帳される(県重要文化財)。この文殊菩薩の頭は、開山蘭渓道隆が宋より持参し、胴体は自らが作ったものであると伝えられている。常楽寺の仏殿の右には鐘楼があって銅鐘が吊されていた。宝治2年(1248)3月21日、北条時頼が祖父泰時の供養のために鋳造したもので、建長寺梵鐘、円覚寺梵鐘とともに鎌倉三名鐘の一つに数えられ、国の重要文化財に指定され、鎌倉三名鐘の中では一番古い鐘である。しかし、梵鐘は現在、同寺にはなく、鎌倉国宝館に保管されている。
 
木曽義高: 
常楽寺の裏山の粟船山には、木曽義高の墓と伝わる塚がある。もともとは、ここから離れた木曽免と呼ばれていた田の中にあって、五輪塔が建てられていたが、延宝8年(1680)、土地の所有者石井次左衛門が塚を掘ってみると青磁の骨壺が出てきた。「これは義高の骨だ」ということになり、常楽寺の裏山に葬ったと伝えられている。木曽義高(清水冠者)は、木曽義仲の長男。寿永2年(1183)に挙兵した木曽義仲は、源頼朝と対立したが、長男義高を人質として差し出すことで和睦した。義高は、名目上、大姫の婿ということで鎌倉に送られてきている。しかし、頼朝は義仲討伐の兵を京に派遣し、源義経らが義仲を討つと、鎌倉の義高をも誅殺した。義高が殺されたことで、許嫁の大姫は大変傷つき、水さえも口にしないほど衰弱した。母の北条政子は義高を討った堀親家の家臣  藤内光澄を引き出し、その首を斬ったという。頼朝の命令で義高を討ち取ったのに、妻政子に家臣を斬られた堀は釈然としないで抗議したが、頼朝は何も答えなかったと伝わる。常楽寺の裏山粟船山の中腹(木曽塚の下)には姫宮の祠がある。これは北条泰時の娘の墓とされてはいるが、一説には、源頼朝の長女大姫の墓であるともいわれている。
 
4. 玉縄首塚碑
大永6年(1526)、安房の里見実堯が鎌倉に攻め込んだ。玉縄城の北条氏時(北条氏綱の弟)がこれを迎え撃ち、戸部川(柏尾川)付近で激しい戦闘となったこの戦いで両軍ともに多くの戦死者を出した。氏時方では甘糟氏をはじめとする30数名が里見軍に首を取られた。合戦後、氏時は里見方に申し入れて、互いに討ち取った首を交換し、この地に葬ったのだと伝えられている。塚に聳える榎(エノキ)は、このときに植えられたものと伝えられ、「甘糟榎」と呼ばれていた。塚も「甘糟塚」と呼ばれていたが、現在は「玉縄首塚」と呼ばれている。
 
5. フラワーセンター大船植物園
当植物園は、神奈川県内の観賞植物の生産振興並びに県民への花卉園芸の普及と植物に親しむ場の提供を目的に、昭和37年に開園しました。この地は昭和34年まで県の農業試験場があったところで、既に大正時代から「大船」の名を冠した「しゃくやく」、「はなしょうぶ」などが改良・育成されてきました。かつて周辺は水田等の低地が広がり、建設当初は近接する柏尾川の氾濫や台風による塩害に悩まされるなど、苦難の末の開園でした。開園当時、フラワーセンターのような施設は全国的にも数少なく、花や緑の園芸品種を展示する植物園として評判を呼びました。当初は輸出を目的とした観賞植物の展示普及等が業務の中心でしたが、そうした役割も時代とともに変わっていき、今では、花や緑を親しみ花き園芸に対する関心を高める施設としての役割が中心となっています。この地で改良・育成された「しゃくやく」、「はなしょうぶ」や体系的に収集してきた「ばら」、「しゃくなげ」など、国の内外から収集した植物は現在約5千余種・品種となり、園内に四季折々の彩りを演出しています。また、観賞温室では、熱帯・亜熱帯の花の美しい植物約1300種・品種を通年楽しむこともできます。
6. 龍宝寺
 龍宝寺(曹洞宗)は、文亀3年(1503)、玉縄城主北条綱成が建立した瑞光院を起源とし、天正3年(1575)、北条氏勝が現在地に移し、「龍宝寺」と称するようになった。七堂伽藍を備えた寺院であったが、豊臣秀吉によって小田原北条氏が滅ぼされると寺も衰退した。歴代玉縄城主や源実朝の位牌が安置されている。龍宝寺は、玉縄北条氏三代の菩提寺で境内には北条綱成、氏繁、氏勝の墓が残されている。現在の本堂は、昭和35年(1960)に再建された。茅葺きの山門は、元禄年間(1688~1704)に建てられたものという。境内にある龍宝寺の新井白石の碑は、享保11年(1726)に建てられたもので、碑文は江戸時代中期の儒学者室鳩巣の撰文といわれるが、風化によって読めない。なぜ、ここに白石の碑があるかというとここ植木は新井白石の知行地であって、当寺には多くの寄進していたことに因る。白石は朝鮮使節がやって来たとき、使節を藤沢の宿まで出迎え、龍宝寺を宿舎として提供し、もてなしたと云う。境内にある古民家は、関谷で名主を務めた旧石井家の住居の住宅が移築されたもの。江戸時代中期のものと伝えられ、三間取り、四方下家造りの構造になっており、戸口や窓の少ない閉鎖的なもので、当時の相模・武蔵国の農家の特色を伝えており、国の重要文化財に指定されている。
 
7. 玉縄城址
 玉縄城は、永正9年(1512)、三浦氏攻略のために北条早雲によって築城された。大永6年(1526)の安房の里見実堯の攻撃も、永禄4年(1561)の上杉謙信の攻撃や永禄12年(1569)の武田信玄の攻撃にも耐え難攻不落と呼ばれた。初代城主は、北条早雲の二男氏時、その後天正18年(1590)第6代氏勝のとき、豊臣秀吉の小田原攻めの際に徳川家康に包囲され開城した。江戸時代に入り、家康の側近本多正信が城主となったが、正信の死後、元和5年(1619)一国一城令により廃城となった。しかし、外国船が頻繁に日本近海に出没する江戸時代後期、寛政の改革を行った松平定信は、玉縄が三浦半島の付け根にあたる要衝の地にあたり、外国からの攻撃に対する江戸防衛の最前線として適地であると考え、定信自ら、数百名の家臣を従えて現地視察を行った。その再築城の計画をしていたが、その3ケ月後に定信が失脚してしまい、築城は幻に消え失せてしまった。
8. 大船観音寺
大船駅前の無我相山の山頂。ここに立つ白衣の大船観音は、高さ約25m、鉄筋コンクリート造りの聖観音上半身像で、1960(昭和35)年に完成した。昭和4年(1929)この国を護ろうとする金子堅太郎、頭山満、清浦圭吾らが発起人となって「観音思想の普及を図り、以て世相浄化の一助となさん」という護国観音として築造が開始されたが、世界大恐慌や続く日中戦争、第二次世界大戦の影響で一時中断された。戦後、昭和29年(1954)、曹洞宗大本山総持寺管長高階瓏仙(黙仙寺二世)、五島慶太氏が発起人となって「財団法人大船観音協会」が設立され、昭和35年(1960)東京芸術大学教授で建築家の吉田五十八氏を中心に画家の和田三造氏、建築家の坂倉準三氏、彫刻家の山本豊市氏の設計と指導のもとにに完成した。お身体は白黄色で、白衣を身に著し、左手に蓮華の花を持ち、右手は五指を伸べて腰前に安じて、常に蓮華台にあって坐禅をされているお姿であるといわれていますが、大船観音はその胸像のお姿です。「財団法人大船観音協会」は昭和56年(1981)に解散し、現在は曹洞宗仏海山大船観音寺と改称され、総持寺の末寺の宗教法人となっている。た。大船観音寺には、原爆被災祈念碑、戦没者慰霊碑など第二次世界大戦の犠牲者を弔う碑が並んでいる。梵鐘は昭和39年4月、味の素株式会社の創業者の長男で3代目社長鈴木三郎助氏からの寄進によるものである
 好天に恵まれた11月21日(水)第5回鎌倉ウォーキングを実施した。9:30 参加希望者8名が北鎌倉に集合し、駅前にある鎌倉五山第2位に寺格をもつ円覚寺から散策をスタートした。小学生のころから、幾たびか訪ずれたことのある寺であるが、きょうも門前に小、中学校の生徒さんたちが集まり、見学をするところに出会った。聞けば栃木県小山から5時半に出てやって来たという。われわれもそういう時代があったなと懐かしく思った。
 まず、伏見上皇直筆という山門に掲げられた扁額を見上げ、その前で記念写真を収めた。円覚寺は見どころが多く、仏殿にある本尊宝冠釈迦如来像、天井画「白龍図」には感動を覚える。塔頭 正続院にある国宝舎利殿、北条時宗の墓所仏日庵、夢窓国師の塔所黄梅院、夏目漱石ゆかりの帰源院などそれぞれ趣があり、国宝の巨大な洪鐘を目の当たりにすると訪れ甲斐を感じる。円覚寺から鎌倉街道を北に向かって歩むと信号3つ目に「光照寺」とある。光照寺は藤沢にある時宗総本山遊行寺の末寺で、山門の欄間にはクルス紋が掲げてあり珍しい。同寺には江戸幕府から取り調べを受けたキリシタンに対する文書が残されているという。寺を出て、元来た道に戻り、横須賀線を横切る道に入ると多くの高校生が歩いてくる。県立大船高校の学生とのこと。何となく多摩高生の雰囲気を感じた。大船駅に向かう道を歩きながら時刻を確かめると11:35になっている。少々、早いが昼食を取ることにした。ランチを頼んだが想定以上に安く美味しかった。
 食後の最初は、建長寺を開山した蘭渓道隆が、鎌倉で最初に入山したという常楽寺を訪れた。この寺院の山号は粟船山といい、大船の名はここから生まれたという。常楽寺本堂裏には、第3代執権北条泰時の墓がある。鎌倉時代でもっとも安定した政権を造った権力者の墓とは思えない質素なものなのには驚いた。この裏山には、頼朝の長女大姫の許婿でありながら、頼朝に殺された木曽義仲の長男義高の墓と云われる小さな祠がある。義高は12歳であったという。この一件で、大姫は心を病み、体も衰弱して若死にしたと云う。これより大船駅方面に向かう。横須賀線、東海道線の踏切を越えて、柏尾川に架かる戸部橋を渡った正面に「玉縄首塚碑」がある。玉縄城を守る北条氏と安房から攻めてきた里見氏との間に激しい戦が行われ、この戦で亡くなった北条側兵士の墓である。このとき墓前に植えられたという榎が今日大木になって聳えている。ここから10分ほど南下したところに、県立フラワーセンター大船植物園がある。晩秋とは思えないほど色彩豊かな草花が咲いていて、こころを和ませてくれた。園内には様々な花壇があり、季節の花が一年中絶えることなく咲いていた。この植物園の自慢は「しゃくやく」で、現在、200品種、2千株と全国一の規模を誇っていると云う。植物園から西に向かいトンネルを抜けると、右手に玉縄北条氏の菩提寺龍宝寺がある。寺院の背後が峻険な山に囲まれている要塞のようで、正面の山門をくぐると堅城の中に入ったような雰囲気を感じる。広い境内には、重要文化財に指定されている江戸時代中期の名主石井家の住居が移築されている。龍宝寺の南西にある小高い丘が「玉縄城」があったところで、江戸時代初期、一国一城令で廃城となったが、この地は三浦半島の付け根にあたり、地政学上の要所で、幕末期、老中松平定信は、外国に攻められたときの防衛前線基地として重要な場所と判断し、数千人を配置する城を築くことを計画されたという。現在、城址は清泉女子学園の学舎、校庭になっている。事前に、学園に許可を取って敷地内に入らせてもらい、往時の城址を見学した。中世の山城の形態が残されていて大いに勉強になった。校門の外にバス停があり、ここからバスで大船駅まで帰還することにしたが、折しも下校時に重なりバス停は女学生で溢れていた。満員バスに立ちぱなしを覚悟したが、女学生たちが、われわれを最初にバスに乗せてくれ、座らせてくれた。これまで19,000歩余り歩いて来て、疲労していたのでこの温かい心使いには感謝、感激だ。ウォーキングの最後に、大船観音寺を訪れる予定であったが、駅前から望める高さ25mの大船観音を拝観させていただき、本日はお開きとした。このあとは、のどを潤すべく大船駅東口にある居酒屋に入り、本日を振り返りました。  (石井義文)
これより反省会
 8月10日(月)名刹覚園寺の黒地蔵縁日が行われる機会を捉えて、第4回鎌倉ウォーキングを猛暑日が続くなかに実施しました。最初に訪れたのが覚園寺。同寺の「黒地蔵」縁日は別名「火焚き地蔵」とも呼ばれ、地獄に落ちた罪人を苦しみから助けようと獄卒に代わって火を焚いたため黒くすすけたと言い伝えられている地蔵菩薩立像です。人々はこれを参拝することで自らの苦悩を和らげて貰えるとの信仰から、この縁日には多くの参拝客が訪れ、境内は参詣客で賑わっていました。同寺の茅葺薬師堂には、圧巻の木造薬師三尊像や十二神将像があり、この仏像を間近で拝観できただけでも訪れた甲斐がありました。次の散策地は鎌倉宮。同宮は明治時代に入り明治天皇の勅命で建立された神社で後醍醐天皇の皇子「大塔宮護良親王」が祀られている。続いて頼朝が建立したと伝わる「永福寺跡」を訪れました。小山に囲まれた平地に大伽藍の寺院が建っていたというが、いまは全くの小草原である。同所に建っている案内板に描かれた「寺院想像図」で往時を偲ぶのみである。ここから10分ほどで瑞泉寺に着く。云わずと知れた鎌倉の名刹で、山門脇に「吉田松陰の碑」がある。なぜ松陰かと問うてみたら、松陰の母親が、幕末期同寺の住職であったようだ。有名な枯山水の庭園をしばし鑑賞したのち墓所を拝見。ここには評論家「大宅壮一」や名優「志村喬」が眠っていた。合掌!。瑞泉寺をあとに、元来た道を戻り鎌倉宮にきて、その周辺にある”そば処”に入り、しばしの休息と腹ごしらへをすることにしました。
 昼食後は、荏柄天神社へ向かう。頼朝が鬼門の守護社として崇敬したと云われ鎌倉最古の神社建築や境内の樹齢900年と云う公孫樹は歴史の重みを感じさせてくれる。境内奥にある「絵筆塚」は鎌倉にゆかりの漫画家たちを思い起こしてくれて楽しい。その後、和歌を詠んで命を救われた者が恩返しに作ったという「歌の橋」、頼朝の父義朝の冥福を祈るために建立したという「勝長寿院跡」、頼朝のフィクサーを担っていた「文覚上人屋敷跡」、東京渋谷の名にゆかりの「土佐坊昌俊屋敷跡」を経て、執権北条得宗家の屋敷跡に建立されたという宝戒寺に向かう。萩の寺とも呼ばれ、徳川将軍家にも庇護されて、鎌倉地蔵尊第24番札所の第1番に置かれている天台宗の名刹である。北条家の末裔という高倉健もしばしば同寺を訪れ、お布施や進物を寄進していたそうです。この宝戒寺から、小町大路に出て、山側に折れると滑川に掛る東勝寺橋がある。この橋は幕府評定衆の青砥藤綱の逸話で有名なところである。橋を通り抜けて登って行くと山裾に宝戒寺が管理している「腹切やぐら」がある。北条氏が新田軍に攻められて敗退した時、北条一族870余名が自害したと伝わる所である。このやぐらには高倉健が近年、毎年訪れてお塔婆を奉じているという。今回、この腹切やぐらから「祇園山ハイキングコース」を辿る予定でしたが、気温がかなり上昇してきて、疲労も溜まってきたので、大事を取ってコース変更することにしました。山道登りを避けて、元来た道を戻り、また小町大路に出ました。小町大路を100mほど南に下ると右手に妙隆寺がある。この寺院は不老長寿の寿老人信仰でも有名であるが、足利義教に拷問を受けて焼鍋を頭に被せられたという日親上人の寺としても知られています。また、新劇の団十郎と云われた丸山定夫の顕彰碑があります。この通りをさらに下ると「日蓮上人辻説法跡」や、この地域の鎮守「蛭子神社」があり、当時も人通りの多い街路であったことが想像できる。このあと前回にも訪れた緑林に囲まれた静寂の古刹「妙本寺」でしばし休息を取りました。時もすでに午後4時になりましたので駅までの帰り道にある「本覚寺」で恵比寿様をお参りして、ハイキングをお開きとしました。本日は朝方に強い雨が降り、干天の慈雨とでも言いますか、地面を濡らしてくれたおかげで、時折心地よい、そよ風が靡いて、快適なハイキングを楽しむことができました。   感謝!! (報告:石井義文)
 
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  5期生 第3回鎌倉ウォーキングは、六浦道と鎌倉を結ぶ朝夷奈切通しと三浦、安房を結ぶ名越切通しめぐりを主目的にして、その周辺の寺社仏閣を散策することにした。当初予定の日が雨で延期となったため、5月27日に実施することになったのであるが幸い好天気に恵まれ新緑を目に注ぎながらのハイキングになった。金沢八景駅からバスで、朝比奈に向かい、下車してからほどなく、朝夷奈切通し に入った。この切通しは鎌倉七口のなかでも、当時の足跡が一番よく残されているとの前評判とおり、険しい道の所々に、敵の馬が走り抜けられないようにした置石や衛士が隠れていた切場などが見られ、往時の防衛上の要塞が見られ、岩場に彫り込まれた古い磨崖仏も趣きを感じさせてくれた。切通しの出口近くには、頼朝の側近の梶原景時が謀反の疑いのある武将を斬って、その太刀を洗った という伝説の場も興味を注がれた。切通しを抜けると鎌倉駅に向かう国道にでた。国道に沿ってしばらく進むとハイランド入口の交差点があり、右に折れて歩むと明王院五大堂がある。鎌倉幕府が鬼門除けとして建立した寺院で、かっては五つの御堂を構える大寺院であったが、今日はその面影はないが素朴な佇まいは安らぎを与えてくれる。この周辺は、室町時代に入ってからも、鎌倉(足利)公方の屋敷があり、有力御家人たちの屋敷もあったようで、10文の銭を探すのに、50文の松明を買ったと云う逸話の青砥藤綱の屋敷もこの周辺にあった。再び、国道に沿って歩むと浄明寺のバス停がある。この道を右に曲がると、浄妙寺への参道が続く。浄妙寺は鎌倉五山の第5位の名刹で、かっては七堂伽藍が完備していたという。境内には、お休みどころの喜撰庵や石窯ガーデンテラスがあり、人気がある。墓域には足利尊氏の父の墓がある。ここでは沖縄から修学旅行で来たという中学生たちとしばしの懇談を楽しんだ。続いて向かったのが鎌倉最古の杉本寺。昨年本堂の茅葺屋根を新装して真新しい本堂になっている。本尊の三体ある十一面観音像などが間近で拝むことができて、敬虔な気持ちにさせてくれる。この寺は、坂東観音寺三十三札所の第1番の格式を十分感じさせてくれた。
  昼食後に向かったのは、近年開発された衣張山ハイキングコースだ。僅か120m余りの山であるが、山頂までほとんどが昇り坂で、途中何度か息を入れながらの登坂である。杉林が立ち並ぶ道の傍らには夫婦地蔵やリスが現れて、気持ちを和ませてくれる。衣張山の山頂に着く。ここからの眺望は由比ヶ浜や視界が良ければ富士山が望める絶景スポットである。ここで一休み。ここから尾根道を下って15分程で大切岸に着く。かって石切り場であったというが、軟質な凝灰岩の岩肌はやぐらも多く造られたという。ここから数分で名越切通し の表札が見えてきた。これで鎌倉七切通しをすべて踏破したことになる。切通しを逗子方面に3分ほど行った所に まんだら堂やぐら群がある。フェンスで囲まれており、生憎、平日のため中に入れず隙間から覗いての観賞であった。遠くからの眺めであるが国指定の遺跡の迫力を感じた。鎌倉方面に続く尾根道を下り、横須賀線を横切って道なりに進み、国道を横切ると長勝寺がある。境内の高村光雲が制作した日蓮上人像とそれに従う四天王像は圧巻である。次に、同じく日蓮宗の安国論寺に入る。日蓮がここの岩窟で修業中、立正安国論を書いたと云われる寺院で、行政改革で知られた土光敏夫さんもここの墓域に眠っていた。次は北条政子が開基したという名刹安養院。つつじで有名であるが、5月も末になりザンネンながら花は枯れかかっていた。ここから5分ほどに、大町の鎮守として知られる源義光(新羅三郎)ゆかりの八雲神社がある。義光は秋田藩佐竹氏の祖であったことから佐竹藩からの寄進が多かったと云う。最後の散策地は妙本寺。鎌倉初期に、比企能員一族がこの谷戸に屋敷を構え、二代将軍頼家の子一幡君も住んでいたが、北条時政の謀略で殺戮され、屋敷も焼討ちされた。のちに能員の子が再建して、妙本寺を建立した。静寂につつまれた境内からは、かって陰惨な殺戮があったとは全く想像できない、こころ落ち着く寺院である。かくして、本日のハイキングをお開きにして、小町通りに繰り出して、のどの渇きを潤しながら反省会に移った。和気藹藹の、雑談に華が咲き笑いの続く飲み会でした。
 
 
 鎌倉はおもしろいと人々がいう。それは鎌倉の歴史を少しかじり、その予備知識を持って出かけ、史跡をめぐるだけでなく、そこで起きた歴史ドラマをイメージすることで楽しさが一層膨らむからなのでしょう。
 3月26日(木)、本日も晴天に恵まれ、気分爽快のなか、第2回鎌倉ウォーキングを実施した。鎌倉七切通しのうち2か所を歩くことに加え、150年間続いた鎌倉幕府が、3ケ所も移転して置かれた史跡、鎌倉の中心地、鶴岡八幡宮界隈、そして扇ケ谷から北鎌倉界隈の史跡の寺社仏閣25か所の散策を行った。
散策箇所は、下記のとおり。
大巧寺:頼朝の戦評定で武運があったことで知られ、安産の神「おんめ様」で知られる寺。
若宮大路と段葛:京の朱雀大路に模して造られた参道で、段葛は、政子の安産を祈念して造られた
宇津宮辻子幕府跡:北条氏が幕府の実権を握った機会に、大倉幕府を移転して造られた。
若宮大路幕府跡:宇都宮辻子幕府のあとに置かれ、幕府滅亡まで98年間置かれた。
源平池:源氏と平氏の繁栄、滅亡を祈念して造られた人工池。
大倉幕府跡:源氏三代と尼将軍北条政子が全国統治をしていた45年置かれた政治の中心地。
法華堂跡と源頼朝墓:源氏の重要御家人三浦一族は頼朝の墓のある法華堂に立て篭もり滅びた
大江広元・島津忠弘墓:675年の武家政権を終焉させた長州と薩摩の先祖はお隣に眠る。
白旗神社:小田原征伐後、豊臣秀吉は本殿にある頼朝像に向かって「天下友達」と言った。
若宮(外宮):材木座近くにあった八幡宮を遷座して造られた宮で、外宮とも言われる。
舞殿:静御前は死をも覚悟して、頼朝の面前で、義経を恋い慕う歌を凛として舞い歌った。
楼門:重層入母屋造りの楼門は、随身門とも呼ばれ、扁額の「八」の字は鳩2羽を向い合わせている。
鶴岡八幡宮本殿:第三代征夷大将軍源実朝が暗殺された歴史的大事件はここで起こった。
今宮神社:三人の天皇を祀っている神社。
二十五坊跡:将軍を暗殺した公暁は、二十五坊の別当であった。
道元来訪碑:権門に近づくことを避けた曹洞宗開祖は源実朝の供養法会のため鎌倉に下向した。
巨福呂坂切通:鎌倉七切通の一つ。時宗の開祖一遍上人と執権北条時宗がこの通りで行き合った。
  昼食を巨福呂坂付近の「そば処」で取って、午後からは、青梅聖天脇の間道を抜けて扇ケ谷に入り
 下記の史跡をめぐる。

青梅聖天社:夫婦和合と道中無事のご利益で知られる双身歓喜天を祀る御堂
浄光明寺:足利尊氏が後醍醐天皇に反逆する決断をした寺院。藤谷黄門の墓がある。
岩舟地蔵堂:頼朝の長女大姫と木曽義高の悲劇を伝える御堂
薬王寺:徳川家と縁が深く、3代将軍家光の実弟、駿河大納言の供養塔がある。
亀ヶ谷坂切通:鎌倉七切通の一つで、頼朝が初めて鎌倉入りしたときに通った。
長寿寺:足利尊氏ゆかりの寺院
浄智寺:鎌倉五山第四位の名刹で、阿弥陀・釈迦・弥勒の三世仏、愛嬌の布袋様で有名
東慶寺:執権時宗夫人が開山し、後醍醐天皇の皇女や豊臣秀頼の娘が住持をした女性を救う駆け
  込み寺。多くの著名人が眠ることで有名。
  今回の鎌倉ハイキングは、鎌倉ミステリーと云われる所を訪ねて、その隠された歴史の謎を解き明かし、推理する面白さを味わえたこと、そして道なき道を歩くスリリングな所のハイクもあり、大いに楽しめた一日でした。(石井義文).
 
 源頼朝が、鎌倉に幕府を開いた最大の理由は、鎌倉が一方は海に臨み、三方は山に囲まれて、敵の攻撃を守る城塞都市を築ける軍事的要害の地だったからである。こうした外敵の不法侵入を防ぐ役割を果たした切通しが7つあり、これを「鎌倉七口」とか「七切通し」と云う。この切通しを、3回のウォーキングで辿り、その周辺の寺社仏閣の散策を企画した。
 第1回は極楽寺坂、大仏坂、化粧坂の切通しを取り上げた。2月28日は快晴に恵まれ、稲村ガ崎からの江の島、富士山を望む景観を楽しむことから始めた。稲村ゲ崎と近くにある十一人塚の遺跡がある界隈は、朝廷方新田義貞が幕府方を攻略したときに激戦が行われたところであるが今日は静かな住宅地になっている。江の島電鉄沿いに鎌倉方面に歩む道は、鎌倉と藤沢方面を結ぶ古道で、極楽寺坂切通しはこの先にある。坂の途中には、日蓮上人が竜の口の刑場に連行されるときの休息の際、袈裟を松に掛けたとの碑がある。極楽寺駅の北側には真言律宗の高僧忍性が、幕府の庇護のもと建てられた極楽寺がある。壮大な伽藍が築かれていたと言うが度重なる火災で堂塔の多くが焼失し、今日ではその面影はない。忍性が貧者に対して施しを行ったという遺品の製薬鉢や茶臼にその幻影を見ることができる。
 極楽寺を出て、坂を下ると材木座海岸を望める眺望のよい所があり、その右手アジサイ寺として知られる成就院、少し下った所にある奈良時代の高僧行基が虚空蔵求聞持
法の修行をした虚空蔵堂と暗闇の夜の辺りを昼間のように輝かせたと伝わる星の井を見学した。次に向かう御霊神社の参道の角に、300年の歴史を誇る名店「力餅家」がある。この店の名物「権五郎餅」を食してしばしの休息を取る。
 御霊神社は、勇将鎌倉権五郎景政を祀る神社で参詣者も多い。この境内に江の電が走っているのも興味深い。ここからほど近い所に、巨大な木造観音で知られる名刹長谷寺がある。何度も訪れたことのある寺なので拝観を割愛し、昼になったので、人気そば処「以志橋」に入り、腹ごしらえとした。
  昼食後の最初は以志橋の裏手にある日蓮宗光則寺を散策した。境内には天然記念物のカイドウの古木が本堂前にあるが、ザンネンながら開花はまだ先なので美しい花を見ることが出来なかった。
次に鎌倉大仏で有名な高徳院に向かう。晴天に恵まれた青空を背景にした大仏は、歌人与謝野晶子が詠ったように、誠に“美男”であった。1495年の津波で仏殿が流されて以降520年間、露座のまま、慈悲深い姿を見せ続けて、人々の心に響くものを感じさせてくれている。ここから大仏坂トンネル方面に進み、トンネル手前を登ったところから大仏切通に入る。
  現在の、鎌倉七切通しの中でも、一番鎌倉時代の姿を彷彿できると云うだけあり、「切岸」「置石」「平場」などの遺構も見ることが出来大変興味深い。切通しを抜けた所は常盤という地で、八雲神社や7代執権北条政村の邸宅があったところを散策した。ここからは、笹をかき分けるような山道に入り源氏山公園へのハイキング道を歩む。源氏山公園には、後醍醐天皇の側近で、足利尊氏らと戦った日野俊基を祀る葛原岡神社や墓所があり、歴史の学習に訪れた地元の中、高校生たちが来ていて人が多かった。この源氏山は別名旗立山といい、遠く源氏の総帥八幡太郎義家が奥州遠征に行くとき、戦勝祈願をして、この山に源氏の白旗を立てたことに由来している。公園に建っている頼朝像は、頼朝がこの地から全国を統治し、睨みを利かしているようにも見える。ここから啼薬師で名高い海蔵寺への坂道が、化粧坂切通である。化粧の名は捕虜にした平氏の将の首を死に化粧して実検したことから呼ばれるようになったという。日野俊基もこの地で斬首されている。
  坂を下った所には、平景清が幽閉されたという土牢跡も見られる。海臧寺は本堂裏手にある庭園は見事であるが、花も咲いていないこの時期は拝観できず、啼薬師をお参りして退出した。鎌倉駅方面に向かう途中、江戸期水戸家によって建てられた英勝寺を 時間の都合で素通りし、隣接する寿福寺へ向かった。この寺院は、北条政子が主人源頼朝の菩提を弔うために臨済宗の開祖栄西を招いて建立した寺院である。当初は七堂伽藍を擁する大寺院で、鎌倉五山第3位の格式を持っている。この寺の奥にある墓地には、北条政子や3代将軍実朝の墓があり、墓参して、寿福寺を後にした。
  本日のハイキングは23,000歩を超え相当疲労したが、元気の余る有志とともに、小町通の居酒屋で今日を振り返えった。(石井義文)