2015年4月

平成27年4月19日(日)、天候も回復してワンダーフォーゲル部OB会奥多摩登山が開催されました。

御嶽神社までは大勢の観光客と一緒に参拝しました。立派な神社なのですが、ペット同伴が許されており犬を連れた客を沢山みかけました。参道を外れて大樽峠へと続く山道に入ると途端に静かになり、ほとんどすれ違う人もなくなりました。中間点の大樽峠にはコナラの大木(樹齢500年)があり、ここで昼食をとりました。(写真1:大樽峠で休憩)



 少し冷えてきたので、休憩もそこそこに歩き始めると、下り坂がきつくなり自然と早足になって体も温まりました。麓が近づくと気温もあがり汗が滲みます。イワナの養魚場を眺めてから、多摩川を渡ると奥多摩温泉もえぎの湯に到着です。アルカリ性のぬるっとした泉質で肌がすべすべになりました。最後は、奥多摩駅前の小料理屋「みやぎ」に場所を移して懇親会を開きました。安部同窓会長にも駆けつけていただき、9期~22期までのメンバーで大いに盛り上がりました。(写真2:奥多摩で懇親会)


 
はじめて顔をあわすメンバーもいたのですが、とても楽しい会になりました。次回は、さらに若い世代にも参加を呼び掛けて盛り上げていきたいと考えています。(文責 三上)

参加者:9期松本加代子、安部卓見、10期斉藤充、橋本哲夫、土岐和正、19期五嶋賢二、22期三上哲史
 4月の第一日曜日(4月5日)に、例年通り花見を兼ねた地学部のOB会総会が武蔵小杉の「わり館」にて開催されました。

 前日が皆既月食であったため観測優先の欠席者が出る懸念もあったものの、昨年と同様、雨の日の開催となり多くの懐かしい顔に会うことができました。全国的に雪の多い冬とな りましたが、関東地方での積雪は前年ほどでもなく、桜はほぼ例年通りの開花となって、南武線沿線の桜も散り始めの桜吹雪の中での開催となり、46 人のOB、OGと、その子供8人を加えて50名を超える大宴会となりました。
 建て替え中の母校の旧理科棟にあった地学室(部室として利用していま した)から発掘された古い写真や太陽観測の記録用紙、ガリ版印刷で発行された当時の部誌なども披露され、関係者に手渡されるなど、懐かしい思い出 とともに盛況のうちにお開きとなりました。

 また、我が地学部は、当時1年生だった10期生が創部してから、今年度で50周年の節目となります。OB会総会においては記念のイベントの開催が 提案され、プラネタリウム鑑賞会や天体観望会などの具体的アイデアも出てきているところです。悠々自適の諸先輩、そろそろ老眼鏡が手放せなくなっ た中年組、まだまだ若いつもりの青年組を巻き込んだイベントが開催できればと考えておりますので、来年またご報告させていただきます。(25期 城)

地学部OB会は毎年4月の第一日曜日に行っています。


平成27年度幹事会を開催いたします。
多摩高同窓生であれば、初めての方でも、幹事会のみ、懇親会のみの参加も可能です。お誘いあわせの上、ご参加ください。

前回の臨時幹事会の報告はこちら https://www.tamadou.jp/?p=464

*************** 幹事会の御案内 *****************

日時:2015年 5月24日(日)
   幹事会15 : 00~17 : 00
   懇親会17 : 20~19 : 20
       (会費:3千円、但し 53期~57期 1千円)
      
場所:幹事会 中原市民館 第3・第4会議室         
    (川崎市中原区新丸子東3-1100-12 
          パークシティ武蔵小杉ミッドスカイタワー1・2階)
       電話 044(433)7773   武蔵小杉駅 徒歩7分

       懇親会 串駒 (武蔵小杉駅近く、小杉町3-430)       
    電話  044(711)3929


1.議事 
  議題1.平成26年度事業報告について
 議題2.平成26年度決算報告、監査報告について
 議題3.平成27年度事業計画について 
  議題4.平成27年度予算案について 
 議題5.その他
2.同窓会に対するご意見希望についての意見交換
3.参加者の自己紹介

※誠に恐縮ですが、座席・資料等の準備の都合がありますので、
5/15(金)までに 下記ご記入の上
事務局:info@tamadou.jp宛にメール連絡くださいますようお願い致します。

※当日の連絡は、事務局090-8015-5692に御願いします。

参加連絡メールには、以下の情報を明記してください。
——————————————-
神奈川県立多摩高等学校同窓会懇親会に
〔 〕出席します
〔  〕欠席します

〔   期〕 
氏名:
——————————————-

写真は、26年度臨時幹事会の参加者(2015.02.01)

解 説


地図
1. 大巧寺
大行寺は、かつて真言宗の寺院として十二所にある梶原屋敷内にあったが、頼朝がある戦いのときこの寺で練った作戦で平家に大勝したため大巧寺と改め、1320(元応2年)に現在地に移された。若宮大路に面した朱塗りの門のところに「頼朝戦評定所」の碑が建っている。室町時代の終わり頃、日蓮宗の寺院に改宗している。本尊は安産の神様とされる産女霊神(うぶすめれいじん)。日棟上人が住職のとき難産のために死んで霊となり人々を苦しめていた女の霊を上人が鎮めたことから、安産の神として祀られ、以来、安産の神として「おんめ様」の通称で親しまれるようになり、現在でも妊婦の参詣者が多い。

 
2. 若宮大路と段葛
鎌倉の都市計画は平安京の模倣にあり、源氏の氏神である鶴岡八幡宮は大内裏(御所)、内裏への参道は京の朱雀大路を模して造られたのが若宮大路である。若宮大路は海岸近くの一ノ鳥居から鎌倉八幡宮入口の三ノ鳥居まで一直線に走っている。二ノ鳥居から三ノ鳥居の下馬橋まで大路中央に一段高くなった道が段葛である。段葛は寿永元年(1182)頼朝が妻・政子の安産の祈願のために自ら指図し、北条時政をはじめ有力御家人たちが土石を運び、鍬をふるって造ったと云う。かって、段葛は、一の鳥居から続いていたが、横須賀線の開通に伴い取り払われた。段葛は両側を桜並木と躑躅が植え込まれており、季節にはフラワーロードとして人気があり多くの人で賑わう。二ノ鳥居は江戸時代の寛文8年(1668)に徳川4代将軍家綱が寄進した石造の鳥居であったが、関東大震災で倒壊し、その後、建て直されたものである。

 
3. 宇津宮辻子幕府と若宮大路幕府
鎌倉幕府は最初、頼朝が居住していた大倉に開いた。源氏三代が政務を執ってから50年近くが経った。北条泰時が第三代執権となった代になると大倉幕府の建物も老朽化してきて、荒れが目立つようになってきた。泰時は状況を改善するには所替えが適切と考え、嘉禄元年(1225)、頼朝の妻北条政子が亡くなると、御家人宇都宮頼綱の屋敷跡に幕府の移転を行い宇都宮辻子幕府が置かれた。幕府内に御所が造られ、この御所には、京都から迎えられた9歳の第4代将軍藤原頼経が入った。しかし、実際の政治は、執権北条泰時が北条館で行っていた。したがって、この御所内では、頼経の遊興的な行事ばかり行われていた。さらに、御所内では、些細ないざこざから武士同士の刃傷沙汰事件が起きたり、白鷺や黒鳥が多数死ぬといった不吉な事件が起きた。宇津宮辻子幕府が設立されてから、わずか12年間であったが、泰時は、再度幕府の移転を決め、鶴岡八幡宮に近いところの若宮大路に移した。不吉な怪奇事件から避けるために移転されてできた若宮大路幕府では事件も治まり、北条氏による執権政治は98年間ここで行われ、新田義貞に攻め込まれて幕府が倒れるまで続いた。

 
4. 源平池
三の鳥居をくぐり、鶴岡八幡宮の境内に入ると二つの池がある。この地はかって水田があった所で北条政子が、頼朝の側近大庭景義に命じて2つの池を造らせた。これが源平池である。源氏の池には島が3つあり、三」「産」に通じるとして白蓮が植えられ、平家の池には4つ島があり「四」「死」に通じるとして平家滅亡を祈ったものと云う。この人造池は、来世の極楽浄土の世界を模したもので、宇治の平等院に見られる極楽思想に影響されたものと云う。池には旗上弁財社が祀られている。これは頼朝が挙兵したときに弁財天の霊験があったからと伝わる。
5. 大倉幕府跡
治承4年(1180)、鎌倉に入った源頼朝は、ここ大倉の地に居を構えた。ここを御所として敷地の中央に母屋である寝殿を建て政務を執り行った。頼朝が右(う)近衛(このえの)大将(たいしょう)や征夷大将軍になるとこの御所は「幕府」と称された。鎌倉幕府の統治機構のひとつ政所(前身は公文所)は、ここに置かれ、一般政務・財政を司っていた。頼朝がこの地を選んだのには、当時の主要な港であった六浦と鎌倉を結ぶ六浦道に沿っていたことと、陰陽道による地理的立地が四神の存在に相応しいすぐれた土地であったからと云う。大倉幕府は、たびたび火災にあったが、頼朝、頼家、実朝三代の将軍と尼将軍政子が統治した時までの45年間、嘉禄元年(1225)、宇津宮辻子幕府に移転するまで続き、武家政治の中枢機能を果たした。現在は石碑のみしかないが、この敷地の東西南北には門が設けられていて、東御門には比企宗員(むねかず)邸、西御門には三浦邸、南御門には畠山重忠等、頼朝が信頼する側近の家臣たちの邸宅が御所を囲むように建っていた。

 
6. 源頼朝墓と白旗神社(法華堂跡)
白旗神社は頼朝を祀っている神社。明治の始め神仏分離令が発布されたとき、この地にあった法華堂が取り壊され、祭神が頼朝である白幡神社が創建された。石段の上に頼朝の墓がある。近年の発掘調査の結果、法華堂があったのは白旗神社のある所ではなく、頼朝の墓のある位置に建立されていたという。法華堂は、はじめ頼朝の持仏堂で文治5年(1189)聖観音を本尊として建立された。頼朝が正治元年(1199)に相模川の橋梁の落成供養に参列した帰路に落馬して53歳の生涯を閉じるとこの持仏堂に葬られた。法華堂と呼ばれ始めたのは頼朝一周忌後のことである。宝治元年(1247)頼朝挙兵以来、代々幕府の重臣として重用されてきた三浦氏は泰村の代に、反逆の風説を立てられ、その挑発に乗って、北条時頼と争い、戦に敗れ追い詰められて、法華堂に立て籠もり応戦したが包囲され、泰村以下一族郎党500余名がこの法華堂で自刃したと伝わる。三浦氏が滅び、ここから北条の独裁が始まったのである。

 
7. 大江広元墓と島津忠久墓
 大江広元の実兄中原親能は頼朝に信頼された人物で、その代官として貴族との交渉で活躍した。頼朝が幕府を開くにあたり、弟の広元を鎌倉に下向させて頼朝を補佐させた。広元は公文所(のちの政所)の別当として主に朝廷との交渉にあたるばかりでなく、頼朝が守護・地頭を設置したのも広元の献策によるものであった。頼朝の死後も、幕府の地固めに貢献し、承久の変や和田合戦のときも北条義時と連携して幕府の安泰に貢献した。広元の墓所の入口の石柱には長州毛利家の家紋が施されている。これは毛利家が大江氏の末裔であるとして、先祖供養のために江戸期毛利家が大江広元の墓所を整備したことに因るものである。同じく、隣接して、島津忠久の墓がある。島津忠久は鎌倉の御家人で、九州豊後の地頭に任じられた。島津家では、忠久を頼朝の御落胤と称して格式を誇り、第25代島津家当主、島津重豪は先祖供養と称して鎌倉に来訪し、忠久の墓所の改装を行った。

 
8. 白旗神社
 祭神は源頼朝と実朝。北条政子と頼家が造立したと伝わる。天正18年(1590)7月17日、豊臣秀吉は後北条を降伏させ、意気揚々と鎌倉入りした。白旗神社では、扉を開かせて社殿に入り込んで、頼朝の木像に語りかけ「微小な身の育ちから天下に号令するまでになったのは、御身(頼朝)とわしのみだ」「だが、御身は先祖が関東で威を張り、挙兵すれば多くの兵が従い、天下をとるのも容易であったろうが、わしは名もない卑属から天下をとったのだから、わしの方が出世頭である」と云って笑ったそうである。しかし「御身と吾は天下友達である」といって像の背中を叩いたという逸話が残されている。

 
9. 若宮
 治承4年(1180)、鎌倉入りを果たした源頼朝は、材木座近くにある鶴岡若宮(元八幡)を現在地に遷座させた。当初の社殿はごく簡単な造りであったが、養和元年(1181)浅草から、有能な大工たちを集め本格的な若宮の造営に着手した。続いて、若宮参詣のための若宮大路と段葛の参道が整備され、源平池の造営も行われた。 文治2年(1186)4月8日に、有名な義経の愛妾静御前が舞を披露したのは、この若宮の回廊でした。また、同じ年の8月、奥州への東大寺勧進の旅の途中で鎌倉に立ち寄った西行法師と頼朝が出会ったのも若宮の前であったと云われている。現在の若宮は寛永元年(1624)徳川2代将軍秀忠によって造営され、様式は本殿に幣殿、拝殿をつなげた権現造りで屋根は銅板葺きになっている。八幡宮本宮を上宮と云うのに対し、若宮は下宮とも云われている

 
10. 舞殿
 舞殿は、源義経の愛妾で、京都で舞いの名手として知られる白拍子静御前が八幡宮の神前に舞いを奉納した所として知られるが、静が舞ったときには舞殿は出来ていなかった。舞ったのは若宮の回廊であったという。「吉野山峰の白雪ふみわけて 入りにしひとの跡ぞ恋しき」「しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな(倭(し)文(ず)の布を織る麻糸をまるく巻いた苧(お)だまきから、たえず糸が繰り出し、繰り返えされるように、どうか昔のあの時が今であったならば・・・)と頼朝や政子の前で、死を覚悟して、恋する義経を慕う歌を唄い、頼朝を激怒させるが、静の死を覚悟しての凛とした舞いの姿に感激した妻の北条政子は、若い頃、頼朝を慕って、父の反対を振り払って頼朝のもとへ飛び込んだ時のことが思い出され、あの時の自分の姿そのままの静を救いたいと思い、頼朝に嘆願して命を助けたという逸話が残っている。

 
11. 鶴岡八幡宮 楼門
 61段の石段を登った所に建つ重層入母屋造りの門で、随身門ともいう。随身とは貴人を護衛する武人のことで、本宮を背にして左の随身像(阿形)は刀を持って鎮座し、右の随身像(吽形)は矢を持って鎮座している。関東大震災で破損したが、その後修復され、今日に至っている。「八幡宮」の扁額は、江戸時代初期の寛永10年(1633)後陽成天皇の弟で書道、歌道に優れていた良恕親王による筆蹟で、「八」の文字は鳩二羽を向い合せて表現している。鳩は八幡大神の使者といわれ、八幡宮では白い鳩を飼育している。

 
12. 鶴岡八幡宮 本宮
 祭神は、応神天皇、神宮皇后である。流造りの本殿に幣殿、拝殿をエの字型に繋げた権現造り。現在の本宮は、11代将軍徳川家斉が文政11年(1828)に造営した。豪華な彫刻が施され、壁面には鳥獣草木が描かれている。建久3年(1192)頼朝への征夷大将軍宣下は当本宮で行われている。すなわち、675年間続いた武家政権は、この本宮から始まったのである。また、承久元年(1219)1月27日の夜、折からの大雪のとき、右大臣に任じられたことを神前に報告する拝賀の式を終えて、黒い束帯姿で石段を降りてきた第3代将軍実朝が、甥で八幡宮寺の別当(長官)であった公暁に襲われ、斬殺された惨劇事件もここで起こった。公暁は、斬り掛るとき「親の仇はかく討つぞ」と叫んだと云う。親の仇と叫ぶように、この事件には背後で三浦義村が公暁を唆したとも云われている。その推論は「三浦義村の妻は公暁の乳母で、公暁を乳飲み子の時から養育している。義村は、実朝とともに北条義時も公暁に誅殺させて、公暁を実朝の後の将軍にして、自らが幕府の実権を掌握しようとした。しかし、義時は拝賀の式の日、参列して太刀持ち役をするはずであったが、式の途中、白い犬の幻覚を見て気分が悪くなり、源仲彰に代わってもらい、参列しなかったため難を逃れた。義時が無事だったことを事件後知った三浦義村は、自らの身が危ないと思い、公暁を家臣長尾定景に成敗させ、公暁が持ち込んだ実朝の首は、同じく家臣 武常晴に秦野市にある金剛寺へ持ち込んで供養させた。このように三浦義村が「自らが黒幕であることを隠蔽するために公暁を亡き者にした」という推論である。征夷大将軍暗殺という歴史的大事件であるが実行犯死亡の為、事件は永遠の謎になったのである。

 
13. 今宮
 今宮は新宮ともいい、鶴岡八幡宮の境外末社で、本宮の北西の山麓に造られた。小さな祠であるがここには後鳥羽上皇、順徳天皇が祀られている。上皇、天皇を祀る社がなぜ斯様なところに造られたか?
 これは承久3年に起きた、承久の乱で隠岐に配流となった後鳥羽上皇の祟りを怖れたことから建てられたのである。明治に入ってからは、土佐に配流になった土御門天皇、佐渡に配流になった順徳天皇も祭神に加えられ、3人の天皇の御霊を慰めるための社になっている。

 
14. 二十五坊跡
 鎌倉時代、鶴岡八幡宮裏の雪の下御谷(おやつ)一帯には、鶴岡八幡宮寺の塔頭・子院の他、仁和寺、紀伊根来寺の末寺の宿坊が二十五院あり、「二十五坊」と呼ばれていた。そして八幡宮寺長官の宿舎である別当坊もここにあった。承久元年(1219)、時の別当は2代将軍頼家の子公暁(19)であった。公暁は叔父実朝を暗殺し、その首級を抱えて、この二十五坊で夕餉をとり、裏山を越えて三浦義村邸に向かったと云われている。また、足利時代中期、応永23年(1416)に鎌倉公方の足利持氏と関東管領上杉禅秀(氏憲)との間で関東管領の後継に関して対立が起こり、上杉禅秀が立て籠もり自刃したのがこの地である。昭和に入り、鎌倉には土地開発の波が押し寄せた。空地になっていた二十五坊御谷一帯を、宅地化する計画が持ち上がったが、大仏次郎はじめ鎌倉風致保存会が反対運動を起して、「歴史的風土特別保存地区」として許可なく現状を変更することが出来ないようになり現在に至っている。
15. 道元来訪碑
 曹洞宗の開祖道元禅師は、師天童如浄禅師の遺戒を守り、政治の権門に近づくことを極力避け、越前永平寺に隠遁して、もっぱら禅道に身を置いていた。しかし寛治元年(1247)道元48歳のとき、5代執権北条時頼の命を受けた越前の地頭 波多野義重の懇願により、鎌倉幕府3代将軍源実朝の供養法会のため、鎌倉に下向することになった。鎌倉では高僧道元の来訪を歓迎し、約半年間滞在する間、鎌倉の有力諸将の求めに応じて説法授戒を説き、仏法を広めたと云う。そのとき諸将に説いた言葉が碑に刻まれている「只管打坐」であった。
(注)▽禅宗の語。「只管」はひたすら、ただ一筋に一つのことに専念すること。「打坐」は座禅をすること。
16.  巨福呂坂切通し
 巨福呂坂切通しは鎌倉七口の切通しの一つで、鎌倉幕府三代執権・北条泰時が安東光成に命じて、延応2年(1240)に、防衛と人の通行、物資の輸送の便を図るために建設された。現在の巨福呂坂はトンネルを通り抜けるようになっているが、昔はトンネルの西側の山を越えていく道であった。弘安5年(1282)3月に時宗の開祖一遍上人一行が鎌倉に入ろうとした際に、北条時宗と行き合って、鎌倉入りを阻止されたのが、この巨福呂坂と云われ、その時の様子は「一遍上人絵図」に詳細に描かれている。また、鎌倉幕府最後の日、元弘3年5月、攻める新田義貞軍の勇将・堀口貞満と守る北条軍の猛将・長崎高重の両軍が昼夜3日間にわたる烈しい攻防戦が展開されたのが巨福呂坂の戦いであった。

 
17. 青梅聖天社
 青梅聖天社は水戸徳川家、光圀が彰考館員らに命じて編纂させた「新編鎌倉志」によれば、病気になった将軍実朝が季節はずれの「青梅を食べたい」というので、家臣がこの社で祈願すると梅の木に実がついた。それを食べた将軍は快癒し、以来、青梅聖天と呼ばれるようなったと記述されている。社の本尊には双身歓喜天という男神と女神が相抱き正立して顔を見つめ合う姿に造られた珍しい像で貴重な文化財になっている。一般には夫婦和合の利益があり、巨福呂坂頂上付近に祀られたのは、峠を往来する人々の安全を祈願するため云う。

 
18. 浄光明寺
 浄光明寺は、源頼朝が文覚上人に建てさせた堂がそのはじまりであるといわれている。建長3年(1251)、六代執権北条長時が真言宗泉涌寺派の真聖国師を招いて再興した。鎌倉幕府滅亡後は、浄土・華厳・真言・律の四つの勧学院が建てられ、四宗兼学の寺院となった。最盛期には10の支院があったという。建武2年(1335)、北条高時の遺児北条時行が鎌倉奪還のため起こした中先代の乱では、足利尊氏が後醍醐天皇の許しを得ずして、弟の足利直義の援軍のため鎌倉に下り、時行を打ち破った。しかし後醍醐天皇の無断で出兵した尊氏への怒りは収まらず、尊氏討伐の綸旨を発した。浄光明寺に蟄居していた尊氏は、応戦か、恭順か悩んだすえ、弟直義の説得もあり、当寺院の阿弥陀堂で後醍醐天皇に反旗を翻す歴史的決断をしたといわれる。浄光明寺には、安山岩製の宝篋印塔がある。正二位権中納言冷泉為相のものと伝えられている。冷泉為相は、「十六夜日記」で知られる阿仏尼の息子で、「新古今和歌集」の撰者として知られる藤原定家の孫にあたる。為相と異母兄の相続争いで、為相の正当性を訴えるために鎌倉を訪れていた母阿仏尼のあとを慕って鎌倉に下り、嘉暦3年(1328)この地で没したと伝わる。墓は阿弥陀堂背後の丘陵にある。山門前の石碑に「藤谷黄門遺跡」と刻まれているのは、為相が藤谷殿中納言(黄門)と呼ばれていたからである。また、境内に楊貴妃観音があるのは京都泉涌寺の楊貴妃堂から分霊したものである。

 
19.  岩舟地蔵堂
 元禄3年(1691)海臧寺によって建て替えられた岩舟地蔵堂には頼朝と政子の最初の娘、大姫の守り本尊という銘札を胎内に納めた木造地蔵菩薩堂が祀られている。大姫(当寺6歳)は木曽義仲の長男義高(当時11歳)に嫁ぐ予定であったが、木曽義仲が京で乱暴狼藉を働いたため、後白河法皇は義仲追討の院宣を頼朝に発した。頼朝はこれに応えて義仲を滅ぼした。しかし、困ったのは人質にしていた義高の処遇である。義高と大姫は傍から見ても仲むつまじい間柄であった。頼朝は将来の幕府の行く末を思うと、義高を成敗しなければならないと考えた。このことを察知した妻政子は、大姫の心情を思いやり、義高を女装させて鎌倉を脱出させるが、義高は追っ手に捕まり入間川付近で捕えられ斬られてしまった。このことを知った大姫は、深く嘆き悲しみ、飲み物さえ喉を通らないほど心を痛めた。心の傷跡はその後も癒されず、うつ病状態が長くつづき次第に衰弱していった。頼朝もほとほと困り果て、朝廷との縁組などの話も進めて、気分転換を図るが、大姫の心は快癒せず、建久8年(1197)20歳で生涯を閉じた。この地蔵堂は、義高・大姫の悲劇を語る御堂である。

 
20. 薬王寺
 薬王寺は、もとは真言宗の梅嶺山夜光寺といったが、永仁元年(1293)、日像上人と住職の宗教論議の末、日蓮宗に改宗されたという。江戸時代には、徳川家との縁が深く、寺紋にも「三葉葵」が使われたため、庶民の埋葬は許可されない格式の高い寺であった。寛永年間(1624~1645)、徳川忠長室松孝院の援助で日蓮宗不受不施派の僧日達が再建し、大乗山薬王寺と改称した。境内には、江戸幕府三代将軍徳川家光の弟で駿河大納言忠長の供養塔がある。本堂に安置されている日蓮像は天保5年(1834)将軍家斉の命によって造られた裸像で、本物の法衣袈裟をまとっている。

 

21.  亀ヶ谷坂切通し
 亀ヶ谷坂は鎌倉七口のひとつ。現在の鎌倉市山ノ内から扇ガ谷を結ぶ坂道。別名、亀返坂といい急坂のため亀も引き返した、ひっくり返ったと云われた。吾妻鏡によると、仁治元年(1240)に北条泰時が開削したと書かれており、江戸時代初期の「玉舟和尚鎌倉記」には「亀ヶ井坂」、水戸光圀が命じて編纂させた1685年の「新編鎌倉志」以降は「亀ヶ谷坂」と書かれている。頼朝が武蔵国から鎌倉入りしたとき通ったのがこの亀ヶ谷切通しであった。

 

22.  長寿寺
 長寿寺は、足利尊氏が邸内に建武3年(1336)創建し、諸山第1位の列に定めた。尊氏没後、父の菩提を弔うために、足利公方基氏によって七堂伽藍を備えた堂宇が建立された。尊氏の法名を京都では等持院、関東においては長寿院と称している。開山は古先印元禅師。正面本堂に足利尊氏坐像と古先印元禅師坐像が祀られている。右奥の観音堂は奈良の古刹円成寺の多宝塔を大正時代に移築して改造したものである。境内奥に尊氏の遺髪を埋葬した墓がある。
23.  浄智寺
 浄智寺は第8代執権時宗の実弟で、蒙古襲来に備えて時宗の名代として九州の守護に就くが、若くして病死した北条宗政の菩提を弔うため宗政夫人が弘安4年(1281)に建立したと伝わる。鎌倉五山第四位の禅寺で、山号は金宝山と云う。元亨3年(1323)頃には堂塔も整い、伽藍も大規模になっていて、塔頭も11院を数えていた。室町時代は鎌倉公方との関係が深く、足利持氏や子の古河公方成氏が在住していた時もある。しかし鎌倉公方滅亡後は次第に衰退した。江戸期に入って徳川の庇護で伽藍が復興されたが、関東大震災で堂塔の建物はほとんど崩壊した。現在は、総門、楼上に銅鐘を置く重層の三門、曇華殿と称する仏殿、方丈、客殿などの建物が伽藍を形作っている。仏殿の本尊は木造三世仏坐像で、向かって阿弥陀如来像、釈迦如来像、弥勒菩薩像で、過去、現在、未来を顕わしている。境内は樹木が豊かで起伏に富み、鎌倉江ノ島七福神の一である布袋の石像をまつる洞窟もある。境内入口にある湧き水は鎌倉十井のひとつ「甘露の井」である。

 


 
24.  東慶寺
 東慶寺は女性を護るかけ込み寺、縁切り寺として知られている。現在は僧寺だが明治35年(1902)までは尼寺であった。8代執権北条時宗の妻である覚山尼が開山、時宗の長子9代執権貞時が開基して、時宗が没した翌年、弘安8年(1285)に創建された。覚山尼は朝廷の許しを得て縁切りの法を定めたという。歴代の住持は名門の出で、特に5世 用堂尼は後醍醐天皇の皇女で、弟の護良親王の菩提を弔うために入寺し、このときから「松岡御所」と呼ばれるようになった。用堂尼以降は、足利氏の息女が代々住持になり、室町時代には鎌倉尼五山の第2位に位置した。20世の天秀尼は、豊臣秀頼の側室の娘である。元和元年(1615)大阪城落城後、8歳の時に家康の命で入寺した。命を取りとめたのは、家康の孫娘で秀頼に嫁いでいた千姫が天秀尼の養母であったための配慮と云う。天秀尼は千姫を通じて、「縁切寺法」の存続を幕府に願い出て、許可を得た。これにより、縁切寺法は徳川幕府の庇護のもと幕末まで続き、約600年間、不幸な女性たちを救い続けてきたのである。離婚を望む女性が寺に駆け込み、髪を切り、経を読み、和裁などをしながら3年間の修行生活を終えれば離婚は認められ、再婚も出来たと云う。同寺のご本尊は本堂に安置されている釈迦如来坐像であるが、他に重要文化財になっている木造聖観音立像がある。これは鎌倉尼五山第1位の大平寺本尊であったが、里見氏が鎌倉を侵攻した折、持ち去られた仏像で、のちに北条氏康の強硬な後押しをいただいて東慶寺の塔頭蔭凉軒の要山尼が里見氏との交渉をして取り返した因縁の仏像である

 



 
26年度 若手幹事会
 
3月21日、卒業したばかりの57期を中心とする若手幹事会を開催しました。
 開催通知のおくれにもかかわらず、蓋をあけると12名(57期幹事14名中)の参加があり、54期~56期までの参加者4名とあわせ、久々に応接室が満杯状態の盛況を呈しました(写真)。
 同窓会長(安部)副会長(中島)から同窓会の意義、今後の活動等を説明し、同窓会への理解を深めてもらいました。
意見交換のなかで話題は将来の就職先にもおよび、医療業務への就職を希望する新幹事に対しては、医師である副会長(中野)から医療業務に従事した場合の意義などについて説明がなされるなどなごやかな交流会となりました。
今回、新企画を取り入れ、ゲスト・スピーカーに商社マンとして20年以上欧州および中東で海外生活をした青木克己氏(9期)に「実用英語」の修得方法について講演していただきました。今後も、この企画を継続したいと考えています。

桜の花が風に舞い始め,花冷えが緩んだ早春の4月6日、第60回入学式が母校体育館で挙行されました。
吹奏楽部が奏でる演奏をバックに新入生が入場し着席。続いて数々の大会で好成績を残している合唱部のハレルヤ(ヘンデル)と吹奏楽部のHuntingdon Celleblation(フィリップ・スパーク)が演奏され、一段と新入生へのお祝いの雰囲気が高まるなか、14時入学式の開会が宣言されました。
 国家斉唱に続き新入生が1人1人、クラス担任に名前を読み上げられ元気よく起立し、かくして280人の入学が許可されました。
 4月赴任された福田学校長(前教育委員会高校教育企画課長)はあいさつで
 「新入生は昨今の激しい変化への対応力が必要で、新しい多摩高校の生活に果敢にチャレンジし3年間、切磋琢磨してほしい。美しいもの正しいものを見極め実行し課題を解決するため是非、行動してほしい。本校には1万9千人の卒業生の眼差しが新入生にむけられている。校訓である質実剛健・自重自恃を実現して欲しい」と述べられました。
 新入生を代表して福田くんは「新しい仲間と切磋琢磨し学園生活に全力をかたむけ、伝統を受け継ぎ責任をともなう行動をしていきたいと思います」と力強く誓いの言葉をのべました。かくして心に残るしかも凛とした入学式は滞りなく終了いたしました。
 

新入生への資料配布


部活動への勧誘


福田 敏人 新学校長

第4回 15期同期会 

早春の候、皆様におかれましては益々ご健勝のこととお喜び申し上げます。

さてこの度、前回より大変長く間が空きましたが、第4回目の同期会を開催することとなりました。

前回は私達が50歳になった年でしたから、10年前のこととなります。

平成17年1月22日実施された前回は、お世話になりました先生方を含め90名のご参加を頂きました。

今年は私達全員が還暦となり、人生の大きな節目を迎える年となりました。

私達のそして同期の皆さんの半生を振り返りながら、新たな人生のステップに上がるきっかけとなるような

楽しい語らいの場としたいと思いますので奮ってご参加ください。

お世話になりました先生の皆様にも、ぜひお会いできればとと思っております。

一度もご参加されていない方も全く遠慮することなく、是非ともご参加いただきますようご案内致します。
 

開催日時:2015年5月23日(土) 一次会15:00~17:00(二次会17:30~19:30)

場所:武蔵小杉 ホテル精養軒 1F 大広間

連絡先:15期幹事 伊藤正俊
TEL 042-678-0855
メール:ir7m-itu@asahi-net.or.jp

写真は、前回2005年に開催した15期会のものです。
https://www.tamadou.jp/?p=125




 鎌倉はおもしろいと人々がいう。それは鎌倉の歴史を少しかじり、その予備知識を持って出かけ、史跡をめぐるだけでなく、そこで起きた歴史ドラマをイメージすることで楽しさが一層膨らむからなのでしょう。
 3月26日(木)、本日も晴天に恵まれ、気分爽快のなか、第2回鎌倉ウォーキングを実施した。鎌倉七切通しのうち2か所を歩くことに加え、150年間続いた鎌倉幕府が、3ケ所も移転して置かれた史跡、鎌倉の中心地、鶴岡八幡宮界隈、そして扇ケ谷から北鎌倉界隈の史跡の寺社仏閣25か所の散策を行った。
散策箇所は、下記のとおり。
大巧寺:頼朝の戦評定で武運があったことで知られ、安産の神「おんめ様」で知られる寺。
若宮大路と段葛:京の朱雀大路に模して造られた参道で、段葛は、政子の安産を祈念して造られた
宇津宮辻子幕府跡:北条氏が幕府の実権を握った機会に、大倉幕府を移転して造られた。
若宮大路幕府跡:宇都宮辻子幕府のあとに置かれ、幕府滅亡まで98年間置かれた。
源平池:源氏と平氏の繁栄、滅亡を祈念して造られた人工池。
大倉幕府跡:源氏三代と尼将軍北条政子が全国統治をしていた45年置かれた政治の中心地。
法華堂跡と源頼朝墓:源氏の重要御家人三浦一族は頼朝の墓のある法華堂に立て篭もり滅びた
大江広元・島津忠弘墓:675年の武家政権を終焉させた長州と薩摩の先祖はお隣に眠る。
白旗神社:小田原征伐後、豊臣秀吉は本殿にある頼朝像に向かって「天下友達」と言った。
若宮(外宮):材木座近くにあった八幡宮を遷座して造られた宮で、外宮とも言われる。
舞殿:静御前は死をも覚悟して、頼朝の面前で、義経を恋い慕う歌を凛として舞い歌った。
楼門:重層入母屋造りの楼門は、随身門とも呼ばれ、扁額の「八」の字は鳩2羽を向い合わせている。
鶴岡八幡宮本殿:第三代征夷大将軍源実朝が暗殺された歴史的大事件はここで起こった。
今宮神社:三人の天皇を祀っている神社。
二十五坊跡:将軍を暗殺した公暁は、二十五坊の別当であった。
道元来訪碑:権門に近づくことを避けた曹洞宗開祖は源実朝の供養法会のため鎌倉に下向した。
巨福呂坂切通:鎌倉七切通の一つ。時宗の開祖一遍上人と執権北条時宗がこの通りで行き合った。
  昼食を巨福呂坂付近の「そば処」で取って、午後からは、青梅聖天脇の間道を抜けて扇ケ谷に入り
 下記の史跡をめぐる。

青梅聖天社:夫婦和合と道中無事のご利益で知られる双身歓喜天を祀る御堂
浄光明寺:足利尊氏が後醍醐天皇に反逆する決断をした寺院。藤谷黄門の墓がある。
岩舟地蔵堂:頼朝の長女大姫と木曽義高の悲劇を伝える御堂
薬王寺:徳川家と縁が深く、3代将軍家光の実弟、駿河大納言の供養塔がある。
亀ヶ谷坂切通:鎌倉七切通の一つで、頼朝が初めて鎌倉入りしたときに通った。
長寿寺:足利尊氏ゆかりの寺院
浄智寺:鎌倉五山第四位の名刹で、阿弥陀・釈迦・弥勒の三世仏、愛嬌の布袋様で有名
東慶寺:執権時宗夫人が開山し、後醍醐天皇の皇女や豊臣秀頼の娘が住持をした女性を救う駆け
  込み寺。多くの著名人が眠ることで有名。
  今回の鎌倉ハイキングは、鎌倉ミステリーと云われる所を訪ねて、その隠された歴史の謎を解き明かし、推理する面白さを味わえたこと、そして道なき道を歩くスリリングな所のハイクもあり、大いに楽しめた一日でした。(石井義文).