2015年10月

第5回 鎌倉ウォーキング 円覚寺~大船界隈  (解説版)

1.  円覚寺
円覚寺は、鎌倉五山第二位に置かれる名刹で、臨済宗円覚寺派の大本山である。山号は瑞鹿山。寺院建立の開基は第8代執権北条時宗、開山は時宗に招かれて宋から来た無学祖元である。時宗は文永・弘安の2度に亘る役で死んだ兵の菩提を弔うために、弘安5年(1282)に、ここ山の内に建立した。寺域は約6万平方メートルある。寺名の由来は起工の際、地中から、仏教の経典の1つである「円覚経」を納めた石櫃が掘り出されたことから名付けられたという。創建当時の伽藍は「仏堂」「僧堂」「庫裡」があるだけであったが、鎌倉幕府の祈願所に定められてからは、土地や建物の寄進を受け、次第に大きな寺院へと発展していった。1333年鎌倉幕府が滅亡したのち瑞泉寺を開山した夢窓国師が住職になってからは、後醍醐天皇、足利尊氏らの援護を受け、寺は繁栄し、塔頭が42院を数えるに至った。山門、仏殿、方丈などが1直線に並ぶ宋の禅宗様式で建てられている。建物の多くは室町から江戸にかけて再建されている。山門には伏見上皇勅筆の「円覚興聖禅寺」の額が掛っている。鐘楼には正安3年(1301)9代執権北条貞時が寄進した洪鐘があり、建長寺、常楽寺の梵鐘とともに鎌倉3名鐘と云われ国宝になっている。鋳物師は物部国光。「皇帝万歳 重臣千秋 風調雨順 国泰民安」と刻まれた梵鐘文は無学祖元の弟子で住持であった西澗子曇が記している。蘭渓道隆、無学祖元、そそして西澗子曇らは、ともに南宋から来た中国人僧侶であるが、それぞれ5代時頼、8代時宗、9代貞時に信頼されていたと云う。また、昭和29年再建された仏殿の天井には白龍図が描かれているが、この絵は当寺、日本画家の大御所前田青邨が監修し、その弟子である守屋多々志が揮毫したものである。

正続院:
山号は万年山。9代執権北条貞時が弘安8年(1258)、仏舎利を治めるために建立した祥勝院という堂宇であった。境内には日本最古の唐様建築で国宝の舎利殿、開山堂、正法眼堂(禅道)がある。舎利殿はもともと尼五山第一位大平寺の本堂であったが、大平寺が廃寺されたとき、当院に移築されたものである
 

仏日庵:
弘安7年(1284)に没した北条時宗の廟所として創建され、嫡男の9代執権貞時、孫の14代執権高時も合葬されている。庵に保管されている「仏日庵公物目録」には諸祖頂相をはじめ13~14世紀に中国から将来された絵画・墨跡・工芸等が記されており、中国から日本への文化の流入を知る上で大変貴重なものである。境内のハクモクレンは「阿Q正伝」で知られる中国の作家魯迅から贈られたもので、作家大仏次郎の「帰郷」の中にも描かれている。茶室の烟足軒では、北条時宗の命日にあたる毎月4日には、「四日会」という茶会が開かれていて、この四日会は 川端康成の『千羽鶴』の舞台となった。

黄梅院:
山号は伝衣山。五山文学の隆盛に貢献した夢窓疎石(国師)の塔所で、疎石を師とする夢窓派の関東における拠点となった。門弟の方外宏遠(ほうがいこうえん)が文和3年(1252)に開創した。のち、足利義詮の遺骨が分骨され、足利氏の菩提寺の性格もおびた。



 
帰源院:
大慶寺や浄智寺などの住職を務めた三十八世傑翁是英の塔所。境内に夏目漱石の「仏性は桔梗にこそあらめ」の句碑がある。漱石は明治27年(1894)の年末から翌年にかけて塔所に止宿参禅している。漱石は「昔し、鎌倉の釈宗演和尚に参して父母未生以前本来の面目はなんだ」と聞かれ、がんと参った」と綴っている。この体験をもとに小説「門」を書いた。釈宗演とは、臨済宗の高僧で、円覚寺、建長寺そして東慶寺の住職を務め、シカゴの万国宗教大会で講演し、欧米に禅(ZEN)を紹介した人物である。講演を英訳したのは、宗演の弟子で東慶寺に眠る鈴木大拙である。帰源院では毎年4月29日漱石の命日に「漱石の会」を催している。帰源院には、作家島崎藤村もここに出入りし、そのときの様子を『春』に描いている。
2. 光照寺
光照寺は藤沢にある時宗大本山藤沢山清浄光寺(遊行寺)の末寺で、時宗の開祖一遍上人が、鎌倉入りの際に巨福呂坂を守る武士に鎌倉入りを止められてやむを得ず行く先を江ノ島にする途中、野宿した所が、現在の光照寺であると言い伝えられている。山門の欄干にキリスト教の十字紋と同じクルス紋が掲げられている珍しい寺院である。近世には周辺の小袋谷村に隠れキリシタンの集落が存在し、光照寺が庇護していたという伝承が残る。寺には江戸幕府からの「隠れキリシタン」に対する文書が残っているという。山門脇には子育地蔵尊その向かいには、年寄や子供の咳が止まるご利益があると云う咳の神様「おしゃぶき様」の石祠がある。
 
3. 常楽寺
  臨済宗建長寺派粟船山(ぞくせんさん)常楽寺は、三代執権北条泰時が、嘉禎3年(1237)、妻の母の供養のために建てた「粟船御堂」を前身としている。その供養には、源頼朝や北条政子が帰依した退耕行勇が導師を勤めた。執権となった泰時は、「連署」や「評定衆」の設置、武家の法典である「御成敗式目」(貞永式目)の制定を行い、北条執権体制の基礎を固めた。また、和賀江嶋の築港を許可し、巨福呂坂・朝夷奈切通の開削も行っている。仁治3年(1242)に亡くなった北条泰時はこの地に葬られた。法名は「常楽寺殿」。仏殿背後に三基並ぶ石塔の左が泰時の墓。中央は龍淵和尚、右が大応国師(南浦紹明)の墓。その後、五代執権北条時頼が、中国宋から来日し壽福寺に寓居していた蘭渓道隆を招き、禅の道場が開かれた。道隆は、建長寺を開山する以前に、この地で禅を広めていたので、常楽寺は「建長寺の根本」と称されている。仏殿の雲龍の図は、江戸時代中期で活躍した狩野雪信作と云われている。龍淵和尚は中興開基と伝えられ、大応国師は建長寺十三世を勤めた高僧である。常楽寺の文殊堂は、英勝寺より移築された建物で、秘仏の木造文殊菩薩坐像は「日本七文殊」の一つとされ、1月25日に行われる「文殊祭」に開帳される(県重要文化財)。この文殊菩薩の頭は、開山蘭渓道隆が宋より持参し、胴体は自らが作ったものであると伝えられている。常楽寺の仏殿の右には鐘楼があって銅鐘が吊されていた。宝治2年(1248)3月21日、北条時頼が祖父泰時の供養のために鋳造したもので、建長寺梵鐘、円覚寺梵鐘とともに鎌倉三名鐘の一つに数えられ、国の重要文化財に指定され、鎌倉三名鐘の中では一番古い鐘である。しかし、梵鐘は現在、同寺にはなく、鎌倉国宝館に保管されている。
 
木曽義高: 
常楽寺の裏山の粟船山には、木曽義高の墓と伝わる塚がある。もともとは、ここから離れた木曽免と呼ばれていた田の中にあって、五輪塔が建てられていたが、延宝8年(1680)、土地の所有者石井次左衛門が塚を掘ってみると青磁の骨壺が出てきた。「これは義高の骨だ」ということになり、常楽寺の裏山に葬ったと伝えられている。木曽義高(清水冠者)は、木曽義仲の長男。寿永2年(1183)に挙兵した木曽義仲は、源頼朝と対立したが、長男義高を人質として差し出すことで和睦した。義高は、名目上、大姫の婿ということで鎌倉に送られてきている。しかし、頼朝は義仲討伐の兵を京に派遣し、源義経らが義仲を討つと、鎌倉の義高をも誅殺した。義高が殺されたことで、許嫁の大姫は大変傷つき、水さえも口にしないほど衰弱した。母の北条政子は義高を討った堀親家の家臣  藤内光澄を引き出し、その首を斬ったという。頼朝の命令で義高を討ち取ったのに、妻政子に家臣を斬られた堀は釈然としないで抗議したが、頼朝は何も答えなかったと伝わる。常楽寺の裏山粟船山の中腹(木曽塚の下)には姫宮の祠がある。これは北条泰時の娘の墓とされてはいるが、一説には、源頼朝の長女大姫の墓であるともいわれている。
 
4. 玉縄首塚碑
大永6年(1526)、安房の里見実堯が鎌倉に攻め込んだ。玉縄城の北条氏時(北条氏綱の弟)がこれを迎え撃ち、戸部川(柏尾川)付近で激しい戦闘となったこの戦いで両軍ともに多くの戦死者を出した。氏時方では甘糟氏をはじめとする30数名が里見軍に首を取られた。合戦後、氏時は里見方に申し入れて、互いに討ち取った首を交換し、この地に葬ったのだと伝えられている。塚に聳える榎(エノキ)は、このときに植えられたものと伝えられ、「甘糟榎」と呼ばれていた。塚も「甘糟塚」と呼ばれていたが、現在は「玉縄首塚」と呼ばれている。
 
5. フラワーセンター大船植物園
当植物園は、神奈川県内の観賞植物の生産振興並びに県民への花卉園芸の普及と植物に親しむ場の提供を目的に、昭和37年に開園しました。この地は昭和34年まで県の農業試験場があったところで、既に大正時代から「大船」の名を冠した「しゃくやく」、「はなしょうぶ」などが改良・育成されてきました。かつて周辺は水田等の低地が広がり、建設当初は近接する柏尾川の氾濫や台風による塩害に悩まされるなど、苦難の末の開園でした。開園当時、フラワーセンターのような施設は全国的にも数少なく、花や緑の園芸品種を展示する植物園として評判を呼びました。当初は輸出を目的とした観賞植物の展示普及等が業務の中心でしたが、そうした役割も時代とともに変わっていき、今では、花や緑を親しみ花き園芸に対する関心を高める施設としての役割が中心となっています。この地で改良・育成された「しゃくやく」、「はなしょうぶ」や体系的に収集してきた「ばら」、「しゃくなげ」など、国の内外から収集した植物は現在約5千余種・品種となり、園内に四季折々の彩りを演出しています。また、観賞温室では、熱帯・亜熱帯の花の美しい植物約1300種・品種を通年楽しむこともできます。
6. 龍宝寺
 龍宝寺(曹洞宗)は、文亀3年(1503)、玉縄城主北条綱成が建立した瑞光院を起源とし、天正3年(1575)、北条氏勝が現在地に移し、「龍宝寺」と称するようになった。七堂伽藍を備えた寺院であったが、豊臣秀吉によって小田原北条氏が滅ぼされると寺も衰退した。歴代玉縄城主や源実朝の位牌が安置されている。龍宝寺は、玉縄北条氏三代の菩提寺で境内には北条綱成、氏繁、氏勝の墓が残されている。現在の本堂は、昭和35年(1960)に再建された。茅葺きの山門は、元禄年間(1688~1704)に建てられたものという。境内にある龍宝寺の新井白石の碑は、享保11年(1726)に建てられたもので、碑文は江戸時代中期の儒学者室鳩巣の撰文といわれるが、風化によって読めない。なぜ、ここに白石の碑があるかというとここ植木は新井白石の知行地であって、当寺には多くの寄進していたことに因る。白石は朝鮮使節がやって来たとき、使節を藤沢の宿まで出迎え、龍宝寺を宿舎として提供し、もてなしたと云う。境内にある古民家は、関谷で名主を務めた旧石井家の住居の住宅が移築されたもの。江戸時代中期のものと伝えられ、三間取り、四方下家造りの構造になっており、戸口や窓の少ない閉鎖的なもので、当時の相模・武蔵国の農家の特色を伝えており、国の重要文化財に指定されている。
 
7. 玉縄城址
 玉縄城は、永正9年(1512)、三浦氏攻略のために北条早雲によって築城された。大永6年(1526)の安房の里見実堯の攻撃も、永禄4年(1561)の上杉謙信の攻撃や永禄12年(1569)の武田信玄の攻撃にも耐え難攻不落と呼ばれた。初代城主は、北条早雲の二男氏時、その後天正18年(1590)第6代氏勝のとき、豊臣秀吉の小田原攻めの際に徳川家康に包囲され開城した。江戸時代に入り、家康の側近本多正信が城主となったが、正信の死後、元和5年(1619)一国一城令により廃城となった。しかし、外国船が頻繁に日本近海に出没する江戸時代後期、寛政の改革を行った松平定信は、玉縄が三浦半島の付け根にあたる要衝の地にあたり、外国からの攻撃に対する江戸防衛の最前線として適地であると考え、定信自ら、数百名の家臣を従えて現地視察を行った。その再築城の計画をしていたが、その3ケ月後に定信が失脚してしまい、築城は幻に消え失せてしまった。
8. 大船観音寺
大船駅前の無我相山の山頂。ここに立つ白衣の大船観音は、高さ約25m、鉄筋コンクリート造りの聖観音上半身像で、1960(昭和35)年に完成した。昭和4年(1929)この国を護ろうとする金子堅太郎、頭山満、清浦圭吾らが発起人となって「観音思想の普及を図り、以て世相浄化の一助となさん」という護国観音として築造が開始されたが、世界大恐慌や続く日中戦争、第二次世界大戦の影響で一時中断された。戦後、昭和29年(1954)、曹洞宗大本山総持寺管長高階瓏仙(黙仙寺二世)、五島慶太氏が発起人となって「財団法人大船観音協会」が設立され、昭和35年(1960)東京芸術大学教授で建築家の吉田五十八氏を中心に画家の和田三造氏、建築家の坂倉準三氏、彫刻家の山本豊市氏の設計と指導のもとにに完成した。お身体は白黄色で、白衣を身に著し、左手に蓮華の花を持ち、右手は五指を伸べて腰前に安じて、常に蓮華台にあって坐禅をされているお姿であるといわれていますが、大船観音はその胸像のお姿です。「財団法人大船観音協会」は昭和56年(1981)に解散し、現在は曹洞宗仏海山大船観音寺と改称され、総持寺の末寺の宗教法人となっている。た。大船観音寺には、原爆被災祈念碑、戦没者慰霊碑など第二次世界大戦の犠牲者を弔う碑が並んでいる。梵鐘は昭和39年4月、味の素株式会社の創業者の長男で3代目社長鈴木三郎助氏からの寄進によるものである
 好天に恵まれた11月21日(水)第5回鎌倉ウォーキングを実施した。9:30 参加希望者8名が北鎌倉に集合し、駅前にある鎌倉五山第2位に寺格をもつ円覚寺から散策をスタートした。小学生のころから、幾たびか訪ずれたことのある寺であるが、きょうも門前に小、中学校の生徒さんたちが集まり、見学をするところに出会った。聞けば栃木県小山から5時半に出てやって来たという。われわれもそういう時代があったなと懐かしく思った。
 まず、伏見上皇直筆という山門に掲げられた扁額を見上げ、その前で記念写真を収めた。円覚寺は見どころが多く、仏殿にある本尊宝冠釈迦如来像、天井画「白龍図」には感動を覚える。塔頭 正続院にある国宝舎利殿、北条時宗の墓所仏日庵、夢窓国師の塔所黄梅院、夏目漱石ゆかりの帰源院などそれぞれ趣があり、国宝の巨大な洪鐘を目の当たりにすると訪れ甲斐を感じる。円覚寺から鎌倉街道を北に向かって歩むと信号3つ目に「光照寺」とある。光照寺は藤沢にある時宗総本山遊行寺の末寺で、山門の欄間にはクルス紋が掲げてあり珍しい。同寺には江戸幕府から取り調べを受けたキリシタンに対する文書が残されているという。寺を出て、元来た道に戻り、横須賀線を横切る道に入ると多くの高校生が歩いてくる。県立大船高校の学生とのこと。何となく多摩高生の雰囲気を感じた。大船駅に向かう道を歩きながら時刻を確かめると11:35になっている。少々、早いが昼食を取ることにした。ランチを頼んだが想定以上に安く美味しかった。
 食後の最初は、建長寺を開山した蘭渓道隆が、鎌倉で最初に入山したという常楽寺を訪れた。この寺院の山号は粟船山といい、大船の名はここから生まれたという。常楽寺本堂裏には、第3代執権北条泰時の墓がある。鎌倉時代でもっとも安定した政権を造った権力者の墓とは思えない質素なものなのには驚いた。この裏山には、頼朝の長女大姫の許婿でありながら、頼朝に殺された木曽義仲の長男義高の墓と云われる小さな祠がある。義高は12歳であったという。この一件で、大姫は心を病み、体も衰弱して若死にしたと云う。これより大船駅方面に向かう。横須賀線、東海道線の踏切を越えて、柏尾川に架かる戸部橋を渡った正面に「玉縄首塚碑」がある。玉縄城を守る北条氏と安房から攻めてきた里見氏との間に激しい戦が行われ、この戦で亡くなった北条側兵士の墓である。このとき墓前に植えられたという榎が今日大木になって聳えている。ここから10分ほど南下したところに、県立フラワーセンター大船植物園がある。晩秋とは思えないほど色彩豊かな草花が咲いていて、こころを和ませてくれた。園内には様々な花壇があり、季節の花が一年中絶えることなく咲いていた。この植物園の自慢は「しゃくやく」で、現在、200品種、2千株と全国一の規模を誇っていると云う。植物園から西に向かいトンネルを抜けると、右手に玉縄北条氏の菩提寺龍宝寺がある。寺院の背後が峻険な山に囲まれている要塞のようで、正面の山門をくぐると堅城の中に入ったような雰囲気を感じる。広い境内には、重要文化財に指定されている江戸時代中期の名主石井家の住居が移築されている。龍宝寺の南西にある小高い丘が「玉縄城」があったところで、江戸時代初期、一国一城令で廃城となったが、この地は三浦半島の付け根にあたり、地政学上の要所で、幕末期、老中松平定信は、外国に攻められたときの防衛前線基地として重要な場所と判断し、数千人を配置する城を築くことを計画されたという。現在、城址は清泉女子学園の学舎、校庭になっている。事前に、学園に許可を取って敷地内に入らせてもらい、往時の城址を見学した。中世の山城の形態が残されていて大いに勉強になった。校門の外にバス停があり、ここからバスで大船駅まで帰還することにしたが、折しも下校時に重なりバス停は女学生で溢れていた。満員バスに立ちぱなしを覚悟したが、女学生たちが、われわれを最初にバスに乗せてくれ、座らせてくれた。これまで19,000歩余り歩いて来て、疲労していたのでこの温かい心使いには感謝、感激だ。ウォーキングの最後に、大船観音寺を訪れる予定であったが、駅前から望める高さ25mの大船観音を拝観させていただき、本日はお開きとした。このあとは、のどを潤すべく大船駅東口にある居酒屋に入り、本日を振り返りました。  (石井義文)
これより反省会
各地の紅葉だよりや初雪情報も伝わってくる季節になりましたが、皆様にはお元気でお過ごしでしょうか?
 次回の10期生同期会の開催日時が決定しましたので、取りいそぎ連絡申し上げます。
過日第8回同期会幹事会を行い、種々議論白熱の結果 下記予定が決まりました。
 
開催日時:平成28年6月11日(土) 15:00-18:00
開催場所:武蔵小杉精養軒 新館大宴会場(平成28年1月新館開業予定です)
 
詳細については、28年の3月ころにご案内申し上げますのでお待ちください。
60代の半ばを超えつつある、皆様には公私ともまだまだご活躍かと存じますが、ぜひ今から貴方の予定表に同期会日時を記載して、万障お繰り合わせのうえご出席賜りますようお願い申し上げます。
 
次回同期会では、「修学旅行」をメインテーマで企画予定です。あの愉しかった日々を追体験出来ればと企画考察中です。
また、修旅での出来事情報やその他、同期会でのテーマやイベント・演出についてのご希望・アイデアがありましたら、下記の貧乏な雑用掛宛ご連絡下さると幸いです。(音楽演奏歌唱披露、お店やお仕事の宣伝などございましたらご一報下さい)
 
前回の返信はがきにメアドを記載して下さった方全員にBCC宛先で一斉送信させていただきました。同期の仲間で、受信されていない方などいらっしゃいましたら、転送いただくか下記雑用係までご連絡下さるようお願いします。

第8回(平成28年) 多摩高校10期生同期会 
事務局雑用係: 金持(実は貧乏が正当)敏雄(7組)

※写真は、平成24年の10期同期会の写真です。
第3回多摩高霞が関会(報告)

 第3回「多摩高霞が関会」が、通常国会終了後の全省庁一斉定時退庁日である平成
27年10月14日、恒例の四ツ谷「源源飯店」で開催されました。
3期:亀甲邦敏さん、9期:安部卓見さん、12期:篠原孝子さん、16期:殿川一郎さ
ん、大矢浩さん、19期:五嶋賢二さん、22期:石崎敦士さん、水谷知生さん、三上哲
史さん、28期:福島和幸さん、39期:中溝一貴さん、山田大輔さん、44期:島田智寛
さん、50期:片平拓也さんの14人でテーブルを囲みました。
 殿川会長の挨拶のあと参加者が順次、多摩高時代の想い出や近況などを語りまし
た。安部同窓会長からは、当日午前に厚労省山田大輔さんの尽力で多摩高PTA50人の
国会見学会が実施されたことが紹介され、省庁訪問の希望も出るなど多摩高との繋が
りが深まってきていることが感じられました。その後、本省勤務時の国会対応の苦労
話などでも大いに盛り上がり、3時間があっという間に過ぎました。一年ぶりの会合
でしたが、この間に新メンバーも加わり、名簿の整理も進むなど職域会としての体制
が整ってきました。
 現在、約40名で会を構成していますが、継続して会を開催しますので、まだ連絡を
いただいていない中央省庁勤務経験者(出向経験者含む)の皆様は同窓会事務局まで
是非ご連絡ください。 (世話役 三上哲史(22期))
去る2014年7月20日,第2回23期大同窓会を開催いたしました.雷鳴轟く夏の夜で
したが,3年前の第1回と同様沢山の同級生が集い,楽しく懐かしい時間を過ごすこ
とができました。
 
 今回も多摩高校教諭として在籍していた同期の岩田君の協力のもと、同窓会に先
立って新旧校舎の見学会を行いました。
 
川寄りの2列の学舎は解体目前で見納めということで,多くの人が写真に思い出を詰
め込んでいました。前回の見学会の時にはまだ建っていなかったグラウンド側の新校
舎と見比べると隔世の感がありましたが、すべてが真新しい校舎に建て変わってしま
うと、我々の記憶にある薄暗く,埃っぽい(失礼!)多摩高校が消え去り、何とも言
えない寂寥感にも包まれました。
 
その後,場所を武蔵溝ノ口駅前のレストラン「桂林」に移して,同窓会本会が開かれ
ました。多摩高校同窓会からは4名の役員の方々が参加して下さり,ご挨拶をいただ
きました。
 
 小野(旧姓)さんと谷くんの名司会で会が進められ,お楽しみコーナーでは山本啓
介くん・優美さんの同級生夫妻が息のあった進行で,参加者は時と歳を忘れて大いに
盛り上がっていました。ゲームの特等の景品はこれも同級生の柳田シェフの店「ル
ガール・コムン」のディナー招待券という大盤振る舞いでした.
 
 同じ場所でゆっくり懐かしい面々と会話を楽しむ企画の二次会では,新たに寄贈さ
れた当時の体育祭の写真のスライドショーも行われました.35年の年月で写真もセピ
ア色になり,自分達も身体を労らなければならない世代になったなと感じさせられた
一時でもありました.さらに近くの居酒屋で三次会に突入,仕事で本会に参加できな
かったメンバーも合流し、楽しく懐かしい宴は深夜まで続きました。 今回も全国か
ら約120名の同級生に参加していただきました.
 
また3年後に同窓会を開催する予定ですが、次回からは幹事団も一新し,幹事代表も
私、長尾から鍋島君へ引き継がれることになりました。同窓会を開く度に高校時代を
超えた友達の輪が広がっていくことを見聞きすると,幹事として頑張った甲斐があっ
たととても嬉しく思います.現幹事団の皆さん,足かけ5年の間,ご協力本当にあり
がとうございました.
 
 幹事団代表 長尾毅彦


※掲載が遅くなりましたこと、深くお詫び申し上げます。

 
<第7回  18期同期会報告>
 
2015年6月27日(土曜日)武蔵小杉のホテル精養軒にて112名の参加で行われました。
お忙しい中、同窓会より安部会長、木下副会長はじめ恩師の青木先生、岸先生、薩川先生、河原崎先生にお越しいただきました。
今回は「もっとおしゃべりしたいね」の希望を実現するために立食形式からクラス毎に丸テーブルへ着席とし、かつ1次会、2次会を同じ会場としました。
5時間の長丁場でしたが、2次会から駆けつけた同朋もいて、語りつくせぬほどの盛況でした。
特に当時の思い出の品々を紹介する<お宝>コーナーや音楽選択者のコーラス、当時在籍の部活紹介など大盛り上がりで驚いたり、感心したり、喜んだりと幹事の制限時間を叫ぶ声が飛びました。9月には次回幹事への引き継ぎも終えました。

皆様のご協力があったからこそと感謝もうしあげます。
 (3年7組幹事 宇野孝夫 記)
 

1組


2組


3組


4組


5組


6組


7組


8組




 

祝米寿 石原要一先生   2015年 要会 
 

 



2015年9月12日~13日    三浦半島油壷:ホテル観潮荘


毎年恒例の要会が開催されました。
今回は、いつもと一味違うより楽しい集いとなりました。
そうです、我らがおやじさん(石原要一先生のことですよ)が
めでたく米寿を迎えられましたので、祝賀会です。
 
 いつものように石垣会長(3期)森田幹事(9期)の呼びかけがあり、
おやじさん(石原要一先生)をはじめ22名の参加がありました。
いつものように、18:00開宴のところ15:00頃からぼちぼちと
集まりはじめ、それぞれ眺めの良い露天風呂でくつろいだあと、
幹事室で小宴会が始まっていました。
この間、おやじさんにお渡しする色紙にお祝のコメント、感謝のメッセージ
などを書き込みました。
そうこうしているうちに、おやじさんが到着され、別室でくつろいで
いただきました。今回は奥様もご一緒です。大歓迎です。
 
 定刻になり、いよいよおやじさんの米寿祝賀会の開宴です。
森田幹事の軽快な司会進行により、楽しい雰囲気で進められました。
祝賀セレモニーでは、まず石垣会長の挨拶とお祝いの言葉で始まり、
森繁昭さん(4期)より「記念品」をお渡ししました。
続いて、石田時雄さん(7期)から「米寿祝寄せ書き」の贈呈、鈴木一吉
さん(8期)からお祝い品「座布団」の贈呈がありました。
ここで、おやじさんから若々しい艶のある声で、れいの『きおつけ、れい』
のあと、今回の企画にたいする感謝のお言葉がありました。
 
 遠く八丈島より出席いただいた佐藤正幸さん(8期)のご発声で乾杯し、
祝宴が始まりました。
宴会では、三崎の海鮮、三浦の野菜、肉などをふんだんに使った料理と
お酒を美味しくいただきながら、おやじさんを囲んで長寿の秘密、それ
ぞれの近況、健康の話し、孫の話し、現役時代の懐かしい話しなどを楽し
く語り合いました。
宴の中ほどで、おやじさんの奥様より今回の祝賀会にたいしての感謝の
お言葉をいただきました。
 
 楽しい祝賀会もそろそろお開きの時間ですが、これでは終わりません。
再度、幹事室に集まり二次会の始まりです。
石田時雄さんの(実はお蕎麦屋さん)用意した日本蕎麦、幹事が用意した
酒類、つまみでこれまた楽しく駄弁り合いました。
ここでは、いつものように、気が付いたら布団の中という状態でした。
 
 翌日の朝はそれぞれ朝風呂、散歩と思い思いに行動し、全員揃って朝食
いただきました。しばらく休憩のあと石垣会長の車でご帰宅されるおやじ
さんをお見送りし、解散となりました。
 
 楽しい時間をありがとうおやじさん、いつまでもお元気で!
 
 尚、今回の祝賀会企画に関しご都合がつかずご欠席の次の方々から
ご賛同、ご芳志をいただきました。ありがとうございました。
 
   3期:積田和男様      4期:佐竹皓民様
   4期:菊池丈治様      4期:北原公子様(小山田)
   4期:柴田君代様(渡辺)  4期:高橋恵美子様(嘉山)
   4期:渡辺敦子様(田島)  8期:保田幸子様(橋本)
   10期:近江明様       10期;山中信秀様
 
 出席メンバー(敬称略) 22名
 
   恩師:石原要一先生、奥様、石原新治
   3期:石垣英樹(会長)
   4期:森繁昭、村上陽一、林三男
   5期:積田南海男
   7期:石田時雄、露木一郎、中谷孝一、安田和雄
   8期:遠藤晴信、北井修、佐藤正幸、鈴木一吉
   9期;菊池敏明、佐竹寛、森田博昭(幹事)
   10期;高橋義光
   11期:大野晶裕、樋口栄司
 
 この次も 元気で集う 要会


 

お祝品:座布団 米寿祝メッセージ:寄せ書き


 

 ※『要会』とは3期~11期中心のバレーボール部OB会です。恩師石原要一先生を囲み集まっています。