2016年6月

 例年、在校生と緑陽会(OB会)との稽古会、年2回おこなっていましたがより交流を深める目的で年3回とし、6月25日(土)に都立大森高校剣道部OB会との国内交流もかね、母校格技場で稽古が行われました。
 緑陽会会長・椎名八段はじめ高段者の指導をうけ、部員数の増加した在校生の今後ますますの活躍が期待されます。


在校生(右列)・OB(左列)

 梅雨時のうっとおしい日々が続いていますが、
皆様にはいかがお過ごしでしょうか?
 
 第11回開催幹事と第12回開催幹事の引継会が無事行われ、
下記の通り第12回多摩高4期同期会開催日程が決まりましたので、
とりあえずお知らせいたします。 
皆様のご予定に組み入れていただき、お誘い合わせの上、
多くの方々のご出席をお待ち申し上げております。
 
                記 
  •    日時  2016(H.28)年11月26日(土) 12:00
  •    会場  武蔵小杉 ホテル精養軒        
  •    会費  8,000
 尚、詳細は後日、往復葉書にてお知らせいたします。
 
 
2016.06.25

【第12回開催幹事(5組)
 西山忠宏  044-555-3739   
 堀内 直  044-755-7622  
 村上陽一  090-2659-1771  
 木原寿美子 044-829-3973 (持田) 
 赤塚光子  044-811-8835 (吉崎)
 清宮梅子  044-911-2768 (吉澤) 
 (他に数名が予定されています。)

4期同期会開催幹事幹事引継会:2016.2.1 (11回→12回)ホテル精養軒

千葉散歩  古社・古刹めぐりと名画鑑賞の旅
1. 白幡天神社
白幡天神社の創建は治承4年(1180)源頼朝が安房国に旗上げの際、この地に白旗を掲げたことで白幡と名付けられたと伝えられている。その後、太田道灌によって御社殿が造営され、正親町天皇の御代、天正12年(1584)にも改築をしたことが記録されている古社である。 御拝殿の社額は勝海舟に揮毫されたものである。明治12年の御社殿造営を記念する板絵は柴田是真作によるもので市の重要文化財に指定されている。柴田は、幕末から明治前半期の我が国を代表する画家・漆芸家で、明治期において内国勧業博覧会で洒脱なデザインの作品を残した。御祭神の武内宿禰は、第12代景行天皇から第16代仁徳天皇に仕えた長寿の功臣として、古事記や日本書紀に記されている人物である。学問の神・天神様として知られる菅原道真ものちに合祀され、廣く信仰を集めている。境内の黒松の巨木は樹齢およそ三百年といわれ、その雄姿は高さ25メートル、幹の太さは大人で二かかえ半という市内最古のもので見事な枝ぶりを誇り御神木として永く祭られてきている。

2.葛飾八幡宮
 葛飾八幡宮は、寛平年間(889-898)宇多天皇の勅願によっ
て勧請・創建された。源頼朝、太田道灌そして徳川家康など
武人の崇敬を集めてきた。治承4年(1180)源頼朝は安房から下総国府へ入ると、自ら参詣して源氏の武運を祈願し、建久年間(1190-1199)には千葉常胤に命じて社殿を修復させたという。また、文明11年(1479)太田道灌は臼井城の千葉孝胤を攻めるため、国府台に築城のさい、関東の安泰を祈って参拝し、社殿の修理を行った。更に天正19年(1591)には、徳川家康が社領として朱印52石を供御して崇敬している。 明治維新の神仏分離のときまでは、当宮境内には上野東叡山寛永寺の末寺が、別当寺として存在した。現存する鐘楼は往時を物語る貴重な建物である。また、山門には左右両大臣像が置かれ随身門と呼ばれている。この随身門は市指定文化財である。本殿の東側にそびえる「千本公孫樹」は、天然記念物として国の指定を受け、寛政5年(1793)に発掘された元亨元年(1321)在銘の梵鐘は県指定文化財であり、梵鐘の銘文からも当宮創建の古さがうかがえる。 当宮の祭礼は9月15日から6日間にわたって行われ、俗に「八幡のぼろ市」と呼ばれる農具市が立ち、関東一とまで言われほど賑わう。二月の初卯祭は湯立神楽、宮司舞などの祭事が行われる特殊神事の祭りである。



 
3.八幡の藪知らず
八幡の藪知らずは、古くから「禁足地」(入ってはならない場所)とされており、「足を踏み入れると二度と出てこられなくなる」という神隠しの伝承とともに有名である。古くは細竹・漆の樹・松・杉・柏・栗の樹などが生い茂っており、昭和の末頃までは樹齢を経た木々の鬱蒼とした様を見ることができたが、近年は孟宗竹に侵食され、樹木は僅かに残るのみである。また、藪の中央部が窪んでいるという地形的特徴がある。「藪」の範囲は、江戸時代の文献には既に現在と同程度の広さであったことが記されている。「この藪に足を踏み入れると二度と出てこられなくなる」という伝承は、由来には諸説あるが少なくとも江戸時代から当地で語り継がれており、藪の周りは柵で囲まれ人が入れないようになっている。街道に面して小さな社殿が設けられており、その横には「八幡不知森(やわたしらずのもり)」と記された安政4年(1857年)伊勢屋宇兵衛建立の石碑がある。この社殿は凹状となった藪囲いの外側にあり、社殿の敷地に立ち入って参拝をしたのち大抵の場合は無事に出て来ることができる。

 
4. 東山魁夷記念館
 東山魁夷記念館は、20世紀の日本を代表する日本画家である東山魁夷が生涯の大半を過ごしたゆかりの地である市川市に、2005年11月に開館した。 戦後まもない昭和20年(1945)から平成11年(1999)逝去するまでの50余年間、在住し、その輝かしい画業は市川市の誇りでした。画伯と呼ばれてもなお、つねに自分をみつめ、修行僧のように画業を積み重ねていったその生き方は、描いた静謐な絵の中に投影されています。 歩んできた人生、その人となりが東山魁夷の世界を形成しているといえるでしょう。 市川市東山魁夷記念館は、「人間・東山魁夷」をコンセプトに、人生と作品をはじめとする資料を展示公開し、偉大な業績を顕彰し、情報を発信しています。

5. 日蓮宗大本山正中山法華経寺
法華経寺は、鎌倉時代の高僧日蓮大聖人が最初に教えを説き、開いた霊跡寺院である。 中山の地は日蓮聖人の法難の際の安らぎの地であり、説法の地でもある。総門(黒門)は江戸初期の建立された高麗門という様式で左右の控柱の上にも屋根が見られる。中央の扁額は五行の漢文で、日蓮が初めて百日百座説法を行った根本道場の意が記されている。筆は太田道灌の末裔、掛川城主・太田資順(すけのぶ)による。つづく仁王門(赤門)の扁額「正中山」は本阿弥光悦の書で、総門と両扁額ともに市川市の指定文化財である。日蓮聖人御真刻の鬼子母神が安置されている鬼子母神堂は、江戸三大鬼子母神にも数えられ、信仰厚く、子育安産、病気平癒の祈祷、社運隆盛のための参詣者が多い。日蓮宗の祈祷根本道場で11月1日から2月10日まで結界の中で寒百日大荒行が行われる。1日7回の水行と読経全国の僧175人ほどが修行中で、荒行堂から壮絶な読経の声が響いてくる。2月10日の成満会には、未明から大勢の檀信徒が詰めかけ荒行僧を出迎える。境内は文化財の宝庫である。国指定重要文化財の祖師堂や法華堂、国宝である日蓮聖人の御真筆(立正安国論、観心本尊抄)、加賀藩主の前田利家公から寄進された五重塔が建ち並ぶ。近世以前の五重塔(江戸初期1622年建立)は千葉県唯一。朱色が冬の青空にひときわ映え、風景に彩りを添えている。千葉県で一番大きな「中山大仏」もある。「塔の中に地震計を設けて、昔の耐震構造を研究とのこと」建物の中でも異彩を放つのはインド様式の聖教殿。「立正安国論」や「観心本尊抄」をはじめ、日蓮聖人直筆の遺文などが多数保管されている。春秋の彼岸法、お千部、お会式、日蓮宗大荒行堂開設や聖教殿のお風入れ(11月3日)もある。春のお花見、節分会、そして初詣では、参拝客で広い境内も大いに賑わう。

 





 今回の散策は、はじめて江戸川を越えた。市川市にある本八幡に集合し、この地域の古社・古刹をめぐることとした。まづ、白幡天神社を訪れる。源頼朝が房総で旗上げをした際白旗を挙げ、戦勝祈願をしたことで白幡の名になったと云うが、ご祭神が武内宿祢、菅原道真であることからそれより遥か以前に建立されていたようである。本殿には勝海舟の社額も掲げられ、寄進者の灯篭なども多く立ち並び、相応の格式が感じられた。つづいて、江戸時代から千葉街道を下り、江戸川を越えてまで参詣者が多かったと云う葛飾八幡宮に向かう。現在、駅名がJRが本八幡、京成は京成八幡と言うが、この神社の名に起因する。この葛飾八幡宮は、下総国の総鎮守として祀られ、その格式通り第一鳥居から随身門までは長い参道が築かれ、そして本殿の傍らには、樹齢1200年を超えるという大公孫樹が聳えるように立っている。つづいて、千葉街道沿いにある「八幡の薮知らず」という孟宗竹と薮が鬱蒼と覆い茂っている一角を訪れた。ここは江戸時代には
「禁足地」とされ、一度足を踏み入れると出て来られなくなると伝承されてきた所である。今日は、その広さも狭まっていることから、その恐怖心は感じられないが、当時、人が寄り付かなかった所だったことは想像できる。次に駅周辺の盛り場を散歩して街の様子を見ることにした。その盛り場の一角に、「日本料理・うえだ」という雰囲気のよい高級割烹の店構えの前に来た。店頭のショーケースに看板料理がならび御代も乗っている。少し早いが「昼食はここでどうか!」と誰となく言い出し、皆が賛同して、店内に入った。まだ、客のいない奥の座敷で、寛ぎながら座を囲み、ランチをいただいた。美味い!満足! 近郷では人気のある店のようで、店を出るときは、店内は客で席が埋まっていた。
ランチタイム
 ところ移して、京成八幡から京成中山駅に向かう。駅を出ると、北に向かって緩やかな登り坂道があり、両脇に商店が並んでいる。典型的な門前町の形式で、間近に黒く塗られた正中山法華経寺の総門が建っている。ここを抜けて歩いていくと大きな山門と日蓮上人像が毅然と立っている。さすがに日蓮宗大本山と尊称されるに相応しくすごい迫力で迎えてくれる。境内は広く国宝や国指定重要文化財の宝庫である。これらを順に見学すると相応の時間がかかるので、境内から数分のところにある「東山魁夷記念館」へ先に訪ねることにした。東山魁夷は云わずと知れた日本画の大家で、ここ市川に50年住み、この地で自然をモチーフにした静謐な絵画を描き続けたという。当日は多くの人が鑑賞に訪れていて、画伯の人気の高さが伺えた。絵の実物は、国立美術館に所蔵されて入るものが多かったが、そのレプリカであっても十分感動を受ける絵画をゆっくり観賞できたのは幸運である。法華経寺境内に戻る。国指定重要文化財の祖師堂、五重塔、法華堂、四足門そして本院内にある鬼子母神堂、聖教殿をつぶさに見学。それから、当寺を全国的に知ら
しめている「寒百日大荒行」が行われる荒行堂など、想像以上に仏教信仰の深さと敬虔さを示してくれた。残念ながら、国宝の日蓮上人御真筆の立正安国論、歓心本尊抄は非公開で閲覧できなかったが、本院と同日に荒行が行われる遠寿院道場では、将軍家から寄進され、水荒行で使用されるていた御影石製の水盤を見ることができた。今回の千葉散策は、見学箇所は少なかったが、見どころは多く、記憶残る散歩でした。 (石井義文)
        スライドショー (千葉散歩)      
        スライドショー(鎌倉 長勝寺 大國祷会成満祭)

毎年発行している多摩高同窓会報誌のバックナンバーを公開しました。

今回は、1996年(平成8年)発行の創刊号 ~ 2012年(平成24年)発行第18号の一挙公開です。
https://www.tamadou.jp/?page_id=682

第9号には、小林至さん(28期生東大卒プロ野球選手)、第12号には、矢島悠子さん(43期テレビ朝日アナウンサー)ほか、数々の著名人にも寄稿していただいてます。
今後、同窓会報誌に寄稿してもらいたい同窓生(自薦他薦問わず)のご希望もお寄せください。

2013年版第19号以降も、順次公開予定です。2016年版は、7月初旬より同窓生の皆さまに配送予定です。
同窓会報誌が届いてない方は、こちらをご覧になっていただき、連絡先(配送先)を登録お願いします。

同窓会会報誌は届いてますか?(連絡先登録お願い)

https://www.tamadou.jp/?p=650

 

同窓会ホームページに機能追加しました!
https://www.tamadou.jp/

過去に掲載した記事を検索しやすいように、トップページの最下部に「アーカイブ」と「サイト内検索」をつけました。

トップページの最下部までスクロールしてみてください。

同窓会ホームページはアクセス数 約2,500ヒット/1日あたり、ユニーク数 約150人/1日あたり の人気コンテンツなんです。今後も2万人の卒業生にみていただけると幸いです。


 今回の散策は、2つの目的のために実施した。1つは川崎のアジサイ寺として知られている長尾山妙楽寺が源義経の実兄 全成にゆかりがあり、そして、同寺には同期生IT君が永眠しているので、彼の墓参を兼ねて訪れること。そして、もう一つは江戸時代、川崎を豊かな穀倉地にした偉業を成し遂げた二人の偉人の足跡をたずねる散策である。  5月28日(土)10:00、南武線宿河原駅に同期生13名が集合した。最初に訪れる妙楽寺に行く道すがら、江戸時代初期に偉人小泉次太夫に開削された二ケ領用水に沿って辿ることにした。用水は、多摩川の上河原と宿河原の二ケ所の堰を作って出来ている。二ケ領用水の沿道は、さくらの名所として名高いが、すでに鮮やかな緑葉となって、いまはつつじやサツキが彩り豊かに咲いている。憩いの場・緑化公園を過ぎてしばらく進むとより大きな川に出た。これが上河原堰から引かれたもう一つの用水である。その用水に架かる橋を渡って府中街道を横切るとアジサイ寺と書かれた標識がある。それに従って坂道をしばらく登って行くと右手に山門が見えた。長尾山妙楽寺である。本堂に至る参道の両脇にはアジサイが背丈を伸ばして、白、青そしてピンクの花を咲かせている。まだ、3分咲ほどであるが、満開になるともっと素晴らしい景観なのであろう。境内一面に植えられているアジサイを眺めながら薬師堂や鐘楼を拝観し、境内の外にあるIT君の墓に向かった。用意してきた花と線香を焚いて墓参し、元気だったありし日の友を偲んだ。妙楽寺を後にして、近くを走る東名高速道を横切り、県立東高根公園に入った。弥生時代に営まれた竪穴住居跡が発見されたという公園は懐かし風景があり、自然豊かで美しい。ゆっくり散歩したいところであるが、次の散策地に向かうべく足早に抜けて久地駅に向かった。
  矢向駅に着き、昼食を準備してくれている今回の幹事・石井昭一邸に向った。家に着いて、部屋に入ると、テーブルに全員がすぐに食べられるように据膳されている。奥様が1人で吸い物やお茶も準備してくれていたようだ。ありがたい。感謝の気持ちで昼食を取る。食事を終えてからは、昭一氏が、ファミリーヒストリーをプロジェクターを使って紹介してくれた。昭一氏の、祖父母、両親、兄弟そして子どもや孫たちが登場してきた。実に微笑ましい。高校時代のシーンでは今回参加した同期生の面々も登場し、若き頃の映像を見て一同、和やかな雰囲気に包まれました。奥様、ありがとうございました。
午後の最初の散策は、程近いところにある石井家の菩提寺曹洞宗静翁寺。墓所には、祖父が横浜に在住しているときに関東大震災で遭難した様子が大きな石碑に刻まれていた。つづいて、国道1号線を横切り、南河原公園に入る。休日のきょうは、近隣の親子連れが大勢やって来て園内は賑わっている。この公園には、55年前に幹事の呼びかけで、わたしも訪れた所との説明を受けたが、ほとんど記憶にない。しかし、そのような思い出の場所なので、その場で記念のスナップショットを納めた。
  公園を後にして、緑道を歩き、女體神社に向かった。元禄年間、多摩川が洪水したとき、氾濫を治めるために身を投じた女を祀っていると云う。次に訪れる所は、偉人田中丘隅(休愚とも書く)の菩提寺、妙光寺であるが、少し遠いのでバスで行くことにした。田中丘隅の墓は川崎宿の田中本陣の主人であったばかりでなく、幕府代官でもあったことから、格式を備えた立派なものであった。つづいて京急川崎方面に向かい旧東海道街道筋にある曹洞宗 宗三寺とその向かいにある川崎宿交流館に入った。交流館は2013年に開館したもので、東海道川崎宿の歴史、文化を学び、それを後世に伝え、地域の交流活動を推進するために作られたと云う。じっくり時間をかけて見学したい施設である。このあと、川崎の古社、稲毛神社を参詣してから、小泉次太夫の菩提寺妙遠寺に向かった。山門を入ると「偉人泉田二君功徳碑」と書かれた巨大な石碑が建っている。第2代総理大臣 黒田清隆が篆書して次太夫と丘隅の功績を称えている。本堂脇には次太夫が生前に建てたという逆修墓がある。今回の散策は同期の友の墓参と意外と知らなかった川崎の歴史を学べる収穫の多い散策であった。電車・バスでの移動あり、気分を爽快にしてくれる森林、緑道の遊歩ありで、この後の懇親会も楽しい酒宴の場となりました。 (文: 石井義文)