2017年1月

第6回多摩高弁理士の会 開催のお知らせ
 
知財関係の仕事をされている方であれば、弁理士でなくても参加可能です。
お問合せ及び申込みは同窓会事務局宛にメールでご連絡下さい。

日時:2017年2月4日 18:00~
場所:中国料理 煌蘭 川崎店
参加をご希望される方は同窓会事務局までご連絡下さい。(幹事 17期木下茂)
E-Mail info★tamadou.jp(★を@に変更してください)

※写真は前回、「第5回多摩高弁理士の会」開催時のものです。



        
実施日 2016(平成28)年11月26日(土)12:00~15:30
会場     武蔵小杉:ホテル精養軒(川崎市中原区) 
出席者 【来賓】恩師 古谷嘉邦先生   同窓会 安部卓見会長、清水秀紀副会長
  【同期生】42名 (計45名)
 
 第12回の4期同期会が武蔵小杉ホテル精養軒にて開催されましたので、報告します。櫻井義英先生は体調不良、三浦先生は別件と重なり共にご欠席との連絡がありました。会場の一角のホワイトボードに多摩高改築完成予想図の写真、多摩高近景写真、所在不明者&物故者リスト、訃報などが掲示され、情報交換の場となっていました。
 
 今回は5組の堀内直君、木原(持田)寿美子さん、村上陽一君、西山忠宏君の4名が開催幹事となり、5回の幹事会を重ね、企画立案実施の準備をしてきました。助っ人として4名の方々に加わっていただき、5組の赤塚(吉崎)光子さん、小池(熱田)禎子さん、山根(山岡)郁子さん、野田(原)恵美子さんには受付を、2組の吉原汪哲君には集合写真、スナップ写真撮影を、3組の林三男君にはADを担当いただき、会の運営に携わっていただきました。
 今回は、一次会をコース料理の食事会および懇親会、二次会をイベントタイムの二本立ての構成としました。テーブルの着席位置は今回もランダムにすることし、受付時抽選にて決定しました。一次会は村上陽一君のアドリブのきいた臨機応変な司会により進められました。幹事代表4組の堀内直君の開会挨拶、6組の高岡信雄君の乾杯の音頭で始まり、しばらくして、来賓のスピーチです。まず恩師の、古谷嘉邦先生(保健体育)から、赴任当時の思い出、健康などの近況をお話しいただきました。同窓会の安部卓見会長(9期)、清水秀紀副会長(3期)からは活躍する卒業生、多摩高の近況、建て替えの状況などのお話しをいただき、来賓の方々に会を盛り上げていただきました。
 美味しい料理と楽しいお喋りを続けている中、各テーブルより2名の方々(計12名)より日常の暮らし、多摩高の思い出、健康などの近況を話していただきました。そうこうしているうちに、2組の吉原汪哲プロカメラマン(実は写真屋)による記念写真撮影の時間となりました。出席者全員、3年時組別(1~7組)1年7組(不幸?にして入学時男子のみのクラス)の順で撮影がおこなわれました。思い出話など楽しい語り合いの最中でありますが、そろそろ一次会の終了時間が迫ってきました。ここであらかじめ配られていた歌詞カードをもとに、多摩高校歌を高らか歌い、3組の阿部芳雄君の締めで一次会が終了しました。
 
 続いて二次会ですが、お楽しみイベントとしてビンゴゲーム、クイズタイムが計画され、楽しいひと時となりました。ビンゴゲームでは、西山忠雄君の軽快な進行の中、5組の山田孝雄君、4組の角田(梅本)さん、5組の野田(原)恵美子さんにマシン操作および、アナウンスをお願いし、賑やかに進められました。始まってしばらくは静かでしたが、あちらこちらから「ビンゴ!」『ビンゴ!』のコールが湧き上がり、賑やかな雰囲気に包まれ、皆さんとても楽しく過ごしているようでした。ビンゴ達成者にはささやかな賞品が手渡されました。
 引き続き、木原寿美子さんによるクイズタイムの予定でしたが、終了時間の関係もあり、1問のみの実施となり、期待していましたので、本人はもとより、出席者たちも残念な気持ちでした。 用意された商品は参加者で分けあいました。
 ここで、次回幹事候補として、今回出席の6組の貝原紘一君、児玉伸一君、安藤裕子さんが紹介されました。それぞれより挨拶をいただきました。
 
 懐かしくも楽しい語らいの時間はアットいう間に過ぎてしまい、第12回4期同期会もおひらきの時間がきてしまいました。5組の斉藤(松井)さんの閉会挨拶と締めで終了しました。皆様のご支援、ご協力のもと無事に開催できましたことを感謝しています。次回は6組が開催幹事を担当されますが、皆様のご協力お願いいたします。

『いつまでも 元気で集う 同期会』   また会いましょう!
 
2017.01 吉日    堀内 直
第12回4期同期会開催幹事        西山 忠宏
  村上 陽一
  木原(持田) 寿美子






 末筆になりましたが、1組の郡山(五味)正子さん、6組の中川貞夫君のご逝去が確認されました。また、恩師である石原要一先生(保健体育;バレーボール部顧問、監督)ご逝去の一報が入っています。ご冥福をお祈りいたします。
 
3年1組 3年2組
3年3組 3年4組
3年5組 3年6組、7組
旧1年7組 校歌斉唱
 
 秋晴れの心地良い日よりの10月26日、第15回三期会が恩師の古谷嘉邦先生、安部卓見同窓会長および56名の同期生の出席の下、横浜崎陽軒において2時から3時間にわたって開催されました。三期生の内、130名ほどの方々に案内状を差し上げ、女性16名、男性40名のご参加を頂きました。案内状の返信欄にはご自身の病気や介護でやむに已まれぬ欠席の方々、ご出席頂いた中にも大きな病気を抱えていらっしゃる方々も居て、まさしく後期高齢期を迎えての同期会でありました。それでもそれぞれ級友たちとの賑やかな歓談や、全員に1~2分で自分の過去の活躍、現在取り組んでいること、健康等思い思いのことをお話頂きました。瞬く間に3時間も過ぎ、校歌斉唱の後、閉会挨拶の「See you again」の言葉で次回の再会を約して名残惜しくも散会いたしました。  (記:長谷川)
 
古谷先生、安部同窓会長 3年1組の皆さん
3年2組の皆さん 3年3組の皆さん
3年4組の皆さん 3年5組の皆さん
3年6組の皆さん 次回幹事の皆さん
お江戸散策 湯島・本郷 (解説版)
1 駿河台・御茶ノ水
 神田川の対岸を本郷台(湯島台)、手前を駿河台といいます。もとは神田山(神田台)と呼ばれた地続きの丘陵でした。1603年天下統一をした徳川家康は、江戸城の防衛と城下の町作りのため、神田山の南を切り崩し、それにより発生した土を用いて、遠浅の海や干潟であった現在の浜町から新橋地域までを埋立造成しました。駿河台の名称は、徳川家康の死後、江戸に帰ってきた駿河詰の旗本をこの台地に住まわせたことによります。旗本屋敷が多かったため、駿河台は学業、武芸の学校も多くなり、それが明治以降に継承されて、この界隈は学校などの教育、武芸館が多くなり、学生も増えて、その学生や教師を相手にした古本屋街が発展しました。また、御茶の水の由来は、2代将軍秀忠が鷹狩りの帰りに、いまの順天堂医院辺りから水道橋付近まで敷地があった高林寺の庭の湧水でお茶を飲んで美味かったので、将軍御用達の「御茶の水」になったことによります。その名水「御茶の水」は、二度目の拡張工事で、水中に没してしまいました。

2 聖橋
 関東大震災後の帝都復興事業の一環として、昭和2年(1927)に完成しました。橋の長さ92m,幅員22mのアーチ橋で、「聖橋」という橋の名前は、この橋が「湯島聖堂」と「日本ハリストス正教会復活大聖堂(ニコライ堂)」の両聖堂を結ぶので、それに因んで、公募で決定されました。下を流れる神田川は、当初、現在の水道橋付近から江戸城の方に流れていましたが、寛永2年(1625)江戸城の災害防止と軍事上の目的から、神田台を掘削して浜町方面の海に注ぐ運河工事が行われました。幕府の命でこの工事を担ったのが伊達藩(仙台)でした。このことから神田川の谷は、仙台堀、伊達堀などとも言われております。この工事による伊達藩の内紛を題材にしたのが山本周五郎の小説「樅(もみ)の木は残った」です。
     伊達藩の労苦集めて川下り
  咲きほこる伊達の紫陽花神田川
江戸時代、神田川の谷は美しく、「三国志」にも出て来る中国の名勝「赤壁」にならい「小赤壁」と呼ばれました。下流の昌平橋(室町時代 に架設)からは、この渓谷と富士山が一緒に見えたことが、北斎の絵に描かれています。
その後、神田川は江戸湾から船がさかのぼって来られるようになり、江戸の経済発展に多大な成果を上げることになりました。

3 湯島聖堂
 徳川五代将軍綱吉は儒学の振興を図るため、元禄3年(1690)湯島の地に学問の聖堂を創建しました。これが現在の湯島聖堂の始まりです。その後、寛政9年(1797)幕府直轄学校として、世に名高い「昌平坂学問所」を開設しました。
明治維新を迎えると聖堂・学問所は新政府の所管するところとなり、明治4年(1871)文部省が置かれることとなり、180年間幕府の儒学の中心であった講堂は、ここにその歴史を閉じました。ついでこの年わが国最初の博物館(現在の東京国立博物館)が置かれ、翌5年(1872)には東京師範学校、7年(1874)には東京女子師範学校が設置され、両校はそれぞれ明治19年(1886)、23年(1890)高等師範学校に昇格して、のちの筑波大学、お茶の水女子大学へと発展して行きました。このように、湯島聖堂は維新の一大変革に当たっても学問所としての伝統を受け継ぎ、近代教育発祥の地としての栄誉を担っています。関東大震災では、すべてを焼失しましたが、鉄筋コンクリート造りで再建を果たしました。

4 神田明神
 天平2年(730)、武蔵国豊島郡芝崎村に入植した出雲系の氏族が祖神として祀ったのに始まる。承平5年(935)に敗死した平将門(まさかど)の首が当社の近くに葬られたことで東国の平氏武将の崇敬を受けた。延慶2年(1309)に当社の殿神とされ、祈願すると勝負に勝つといわれるようになった。江戸時代、江戸城の鬼門除け、江戸総鎮守として尊崇され、神田祭の山車は将軍上覧のために江戸城中に入ったことから「天下祭」とも言われ、江戸三大祭りの一つと言われるようになりました。明治7年、明治天皇が行幸するにあたって、天皇が参拝する神社に逆臣である平将門が祀られているのはあるまじきこととされて、平将門は祭神から外され、境内摂社に遷されたが、昭和59年(1984)になって本社祭神に復帰しました。また、野村胡堂の銭形平次が当神田明神下の長屋に住んでいたという設定から、敷地内の本殿右手横に「銭形平次の碑」があります。

5 霊雲寺
 真言宗霊雲寺派総本山宝林山大悲心院霊雲寺である。幕府は五代目の綱吉の時代で、幕府の体制は堅固になっており、これを子々孫々まで武運長久を維持することを渇望していました。そこで江戸城の鬼門である丑寅の方角に幕府直轄の寺院を建立することになり、時の権力者柳沢吉保は、当代真言宗切っての学僧であると同時に民衆から尊崇され、かつ将軍綱吉の篤い信任を得た浄嚴和尚を招聘して、元禄四年(1691)霊雲寺を幕命により創建しました。時は元禄文化の最盛期、芭蕉が「奥の細道」のための深川の旅立ちをした頃です。霊雲寺は元禄期以降も国家の安寧の祈願所として役割を任じ、幕府の庇護の下、伽藍を整い、学寮も作られ、土塀をめぐらす名刹として大いに隆盛しました。

6 麟祥院
 臨済宗 妙心寺派 天沢山 麟祥院と言い、通称からたち寺として親しまれています。徳川三代将軍家光の乳母として知られている春日局は、功なり名をとげて幕府の恩恵に報いるために、本郷湯島に寺院を建立しようと思い立ちました。これを知った将軍家光は願いを叶えさせるために本郷湯島の土地に寺院を贈りました。寛永七年(1630)渭川という高僧を新しく住職として迎え、改めて春日局自身の菩提寺としました。寛永11年(1634)渭川和尚から受戒の時に師から授かる称号(戒名)「天沢山麟祥院」という法号を送られたことを家光は聞き、これを寺号とするように命じたため、同寺を斯く、号するようになりました。
春日局:名は福、父は明智光秀の重臣斉藤内蔵助利三、母は公家の女で、はじめ稲葉正成の妻となり、3人の男子をもうけましたが、慶長九年(1604)三代将軍家光公の乳母として召出され三千石を賜りました。家光公が将軍職に就くため献身的な活躍をし、大奥の制度の確立に尽くしたことは有名です。また家光公が25歳のおり、疱瘡にかかり、瀕死の床にあるときは斎戒沐浴(心を清め身を洗うこと)して、将軍の病の平癒祈願をしたと言われています。将軍の病は回復し、お福を益々大事にするようになりました。そして寛永六年、京都へ上がり御所へ参内し、春日局の号を賜り、後水尾天皇の天盃を受けました。以後「春日局」と呼ばれるようになり、大奥での権勢をふるいました。寛永二十年(1643)65歳で没し、当院墓地に葬られました。

7 切通坂
 湯島の高台から御徒町への道を通すために開かれた坂。昔は急な石ころ道だったが、1904年に上野広小路から本郷三丁目への電車が通されてから坂が緩やかになりました。衣笠貞之助監督の「婦系図 湯島の白梅」でも歌われた。その中には湯島天神が登場します。また、東京朝日新聞社の校正係だった石川啄木は、夜勤終わりにこの坂を登って本郷三丁目の家に帰っていった。そんな状況を短歌にしたのが下の一作です。
「二晩おきに夜の一時頃に切通しの 坂を上がりしも勤めなればかな」

8 湯島天満宮(通称:湯島天神)
 第21代雄略天皇(458年)の勅命により天之手力雄命を祀る神社として創建されたと伝えられている。南北朝時代の正平10年(1355)、住民の請願により菅原道真を勧請(神仏の来臨を乞うこと)して合祀した。徳川家康が江戸城に入ってから徳川家の崇敬を受けました。江戸時代には多くの学者・文人が訪れ崇敬を集める一方、享保期には富籤(とみくじ)の興行が盛んになり庶民に親しまれた。本殿の建築様式は権現造で、社殿は明治18年に改築されたものであったが、老朽化が進んだために平成7年(1995年)に再建された。平成12年(2000)「湯島神社」から「湯島天満宮」に改称しました。江戸・東京における代表的な天満宮であり、学問の神様として知られる菅原道真公を祀っているため受験シーズンには多数の受験生が合格祈願に訪れるが、普段からも学問成就や修学旅行の学生らで非常な賑わいを見せている。また境内の梅の花も有名で、この地の梅を歌った「湯島の白梅」(1942年)は戦中時の歌として大ヒットしました。

  9 旧岩崎邸庭園
 この庭園は、越後高田藩榊原家江戸屋敷から元舞鶴藩知事・牧野弼成(すけしげ)邸そして岩崎家本邸へと変遷し、往時には、1万5,000坪余りに20棟もの建物が並んでいました。第二次世界大戦後、国有財産となり、最高裁判所司法研修所等として利用されました。平成6年(1994)に文化庁の所管となり、平成13年(2001)東京都の管理となりました。和館大広間は洋館東脇にある柚塀とともに宅地、煉瓦塀を含めた屋敷全体と実測図が平成11年(1999)に重要文化財に指定されました。 このような経緯をもつ旧岩崎邸は、明治29年(1896)に三菱創始者・岩崎家本邸として建てられました。現存するのは洋館・撞球室・和館の3棟です。建築設計は、ジョサイア・コンドルで、彼は、大学で教鞭を執る傍ら、100を越える洋館を日本で建てました。旧岩崎邸は現存するコンドルの作品では最古の建物で、邸宅建築の中では傑作と言われています。大名庭園の形式を一部踏襲している岩崎邸の庭は、本邸建築時に池を埋めて芝を張り、庭石・灯籠・築山が設けられました。建築様式同様に和洋併置式とされ、「芝庭」をもつ近代庭園の初期の形を残し、その後の日本の邸宅建築に大きな影響を与えました。

10 講安寺と無縁坂
 浄土宗講安寺は慶長11年(1606)の創建と伝えられ開山は重達上人。元和2年(1616)湯島天神下からこの地に現在地に移転しました。本堂は宝永5年(1708)頃の建築と伝えられ、社寺建築ながら防火のための土蔵造となっています。寺院の客殿、庫裏は江戸期の形式で作られ、文化財として貴重なものといわれています。無縁坂は鴎外の雁で東大生岡田とお玉の悲哀な恋の舞台であり、茶色のマンションが「格子坂の家」の場所です。昭和50年さだまさしが作詞・作曲したTVドラマ「ひまわりの詩」の主題歌『無縁坂』で有名になりました。

11東京大学
 東京大学は貞享元年(1684)に江戸幕府が設立した天文方と、安政5年(1858)に江戸の医者の私財によって設立された神田お玉ヶ池種痘所、寛政9年(1797)に創設された昌平黌を起源とされています。天文方はその後、蕃書調所(ばんしょしらべどころ)、開成所と変遷し、種痘所は文久3年(1863)に医学所へと変遷して行きました。これらの江戸幕府直轄の教育機関は、明治時代になってから、いろいろな呼称に変遷しますが、明治7年(1874)にそれぞれ東京開成学校、東京医学校と改称され、明治10年(1877)4月12日に両校が合併して東京大学となりました。これが日本で初めての近代的な大学の設立です。4月12日は東京大学記念日となっていて、毎年この日に入学式が行われています。東大キャンパスのシンボルとなっている銀杏並木や校舎は、6代総長の濱尾新 (1849-1925)が整備したものです。彼は女子教育の奨励、講座制を導入して、大学教授会自治の基礎も築いています。東京大学には校歌は存在せず、応援歌『ただ一つ』と運動会歌『大空と』が「東京大学の歌」として公認され、各式典で採用されています。

12 ジョサイア・コンドル(1852 – 1920)
 ジョサイア・コンドルはイギリスのロンドン出身の建築家。お雇い外国人として来日し、辰野金吾(日本銀行旧館、東京駅)、曽根達蔵(慶応大学三田図書館、)、片山東熊(赤坂迎賓館、東京国立博物館)ら、創生期の日本人建築家を育成し、建築界の基礎を築きました。のち民間で建築設計事務所を開設し、財界関係者らの邸宅を数多く設計しました。鹿鳴館、ドイツ公使館、岩崎弥之助深川邸などは現存していないが、ニコライ堂、岩崎久弥茅町本邸、三菱開東閣、三井家倶楽部、清泉女子大学本館(島津邸)、旧古河庭園大谷美術館などが現存して輝きを放っています。また、彼は日本人の妻をめとり、日本文化に傾倒して、河鍋暁斎に師事して日本画を学び、日本に永住して、趣味に生きる生涯を送りました。
注):コンドル設計のニコライ堂は関東大震災で倒壊し、現存の堂は岡田信一郎氏の設計。

13 安田講堂
 安田財閥の創始者、安田善次郎の匿名を条件での寄付により建設されたが、大磯の別邸で右翼に暗殺された安田を偲び、一般に安田講堂と呼ぶようになりました。建築家でのち総長になった内田祥三が基本設計を行い、大正10年(1921)に起工、関東大震災による工事中断を経て大正14年(1925)7月6日に竣工しました。震災後に建てられた学内の各学舎の建築が茶色のスクラッチタイルで統一されているのに対し、本講堂が赤レンガなのはこのためです。昭和43年(1968)の東大紛争・東大闘争では、全学共闘会議によって占拠されとき以降、長期にわたり大講堂は荒廃状態のまま閉鎖されていたが、富士銀行をはじめとする旧安田財閥ゆかりの企業の寄付もあり平成6年(1944)に改修されました。1991年より卒業式が再び安田講堂で行われるようになっています。

14 三四郎池
 三四郎池の正式名称は、「育徳園心字池」といい、池の形が「心」という文字を象って名付けられました。山手台地を浸食した谷に湧出する泉であるこの池は、江戸時代は加賀藩邸の庭園の一部でしたが、明治に入って東京帝大に移管され、後に夏目漱石の小説『三四郎』にちなんで、「三四郎池」と呼ばれるようになりました。現在の赤門から池にかけての一帯の地は、大坂の役後に将軍家から賜ったもので、この屋敷は、明治維新後に大部分が新政府の官有地に転ぜられるまで存在していました。育徳園は、寛永十五年(1638)、豪奢で風雅を好んだという四代目藩主、前田利常の時に大築造され、五代目藩主綱紀が加賀藩の時にさらに補修され、当時は江戸諸藩邸の庭園中、第一の名園とうたわれた。園中に八景、八境の勝があって、その泉水・築山・小亭等は数奇を極めたものだと言われている。

15 赤門
 御主殿門のことをいう。江戸時代、大名家に嫁した将軍家の子女たちが居住する奥御殿を御守殿あるいは御住居と称し、その御殿の門を丹塗(にぬり)にしたところから俗に赤門とよばれました。東京大学の代名詞となった東京都文京区本郷の赤門は現存する唯一のものです。ここはもと加賀金沢前田家の上屋敷であり、明治10年(1877)東京大学に移管され、昭和36(1961)に解体修理が行われた。現在は国の重要文化財に指定されています。 加賀前田家の御守殿門は、文政10年(1827)11代将軍家斉の溶姫が13代藩主前田斉泰に嫁入りしたときに建てられました。赤門は、火災などで焼失してしまったら再建してはいけない慣習があり、この赤門は災害などを免れて現存している貴重なものです。建築様式的には、切妻作りの薬医門で左右に唐破風(とうはふ)の番所を置いています。赤門は、明治9年(1876)当時東京医学校(現東京大学医学部)が下谷和泉橋通りから本郷に移ってから明治17年(1884)に他の学部が本郷に移ってくるまでの間、医学部の門として使われていたこともあり、医学部には赤門をデザインした紋章があります。

16 法真寺 
 浄土宗の寺院で、樋口一葉(1872-1896)の作品「ゆく雲」で紹介されています。「上杉の隣家は何宗かの御梵刹(おんてら)さまにて、寺内広々と桜桃いろいろ植えわたしたれば、此方の二階より見下ろすに、雲はたなびく天上界に似て、腰ころもの観音さま濡れ仏にておわします。 御肩のあたり、膝のあたり、はらはらと花散りこぼれて・・・」
文中の御梵刹が法真寺で、濡れ仏が本堂横に安置されている観音菩薩で、こなたの二階とは、境内のすぐ隣にあった一葉の家のことです。一葉は明治29年11月23日23歳の輝かしい、短い生涯を閉じましたが、この地に住んだ4歳~9歳まで5年間は、樋口家の最も豊かで、安定していた時期でした。一葉は病床で書いた雑記の中で、この幼少期を過ごした家を「桜木の宿」懐かしんでいました。桜木の宿は法真寺に向かって左手にありました。

17 燕楽軒跡
 この地にあった西洋レストラン店で、宇野千代が20歳の時にアルバイトをしていた。このレストランには、路地向かいにあった中央公論社の編集長をしていた瀧田樗陰(ちょいん)が芥川龍之介、久米正雄、菊池寛、佐藤春夫らを連れて頻繁に食事に来ていた。宇野千代はその機縁から文学を志すようになった。作家で、後に平泉中尊寺住職になった今東光は、美貌の千代を目当てに頻繁に食事に来て、彼女を小石川の家まで送ったこともあるようだ。千代は結婚して、札幌に住むが、懸賞小説に当選してから、離婚して東京に住み、尾崎士郎、東郷青児、北原武夫ら多くの有名芸術家との波瀾な結婚遍歴をもち、1996年98歳の長寿を全うしました。

18 菊富士ホテル
 このホテルは、大正から昭和10年代にかけて、多くの文学者、学者、芸術家、思想家たちが滞在し、ここを舞台に数々のエピソードを残した所です。主な止宿者には、宇野千代、尾崎士郎、谷崎潤一郎、直木三十五、広津和郎、正宗白鳥、竹久夢二、大杉 栄、月形龍之介、高柳健次郎など当時のそうそうたる人達です。昭和20年3月10日の戦災に依り50年の歴史を閉じました。オルガノ敷地内に記念碑が建っています。

19 宮沢賢治旧居跡
 宮沢賢治は25歳の大正10年(1921)1月~8月までの間、当地、稲垣方の2階に間借りしていました。赤門前の文信社で謄写版刷りの筆耕や校正などで自活し、昼休みは街頭で日蓮宗の布教活動などをする傍ら、童話、詩歌の創作に専念していました。妹トシの危篤の知らせに伴い帰郷しました。賢治は盛岡高等農林学校卒業後、花巻農学校の教師として農村子弟の教育にあたり、多くの詩や童話の創作を続け、30歳の時に農学校を退職して独居生活に入りました。ここで農民講座を開設し、青年たちに農業を指導しました。質店を営む裕福な出自と郷土の農民の悲惨な境遇との対比が生んだ贖罪感や自己犠牲精神、良き理解者としてのトシの死が与えた喪失感は作品に特有の陰影を加えていきました。賢治の芸術の根底には、幼い頃から親しんだ仏教、特に後に帰依した法華経による献身的精神があります。また特異で旺盛な自然との交感力は作品に極めて個性的な魅力を与えています。賢治作品の持つ圧倒的魅力はこの天性から生み出されたもので、詩集『春と修羅』、童話集『注文の多い料理店』に、その感性が表れています。これら以外にも、童話『銀河鉄道の夜』、『風の又三郎』、『グスコーブドリの伝記』などにロマンに満ちた賢治の世界を見ることができます。有名な「アメニモマケズ カゼニモマケズ」の詩は、本人の遺稿の手帳に書かれていたものです。

20 炭団坂(たどんさか)と一葉旧宅跡
 本郷台地から菊坂へ下る急峻な坂で、名前の由来は「ここは炭団の商売をする人が多くいた」とか「切り立った急な坂で転び落ちた者がいた」と言う事から付けられたと言われています。 台地の北斜面の下り坂であるため、常にじめじめしていて、今日のように階段や手すりのない時代の雨上がりの日には、炭団のように転げ落ちて、泥だらけになったそうです。この坂下の一角に、樋口一葉は18~20歳の時に住んでいて、「たま欅」、「五月雨」、「うもれ木」などを執筆しています。しかし、収入は5~6円程度で、家族一緒でしたから、大変貧しい生活でした。因みに、同じ頃、崖上住んでいた正岡子規は松山藩の給費生でしたが、月額7円が給付されていました。

21 鐙坂(あぶみさか)
 本郷台地から菊坂の狭い谷に向かって下り、先端が右にゆるく曲がっている坂である。名前の由来は、「鐙の製作者の子孫が住んでいたから」とか、その形が「鐙に似ている」ということから名づけられたといわれている。この坂の上の西側一帯は上州高崎藩主大河内家松平右京亮の中屋敷で、その跡地が右京山地区です。民俗学者で、石川啄木の先輩の友人であった金田一京助氏は同地に住んでいて、長男の言語学者金田一春彦氏は、大正2年(1913)にこの地で生まれたそうです


22.坪内逍遥旧居・常盤会跡
 坪内逍遥は安政六年尾張藩士の家に生まれ幼くして読本・草双紙などの江戸文学や俳諧(はいかい)、和歌に親しみました。東京大学を卒業後、東京専門学校(現:早稲田大学)の講師となり、のちに早大教授となりました。26歳で評論『小説神髄』を発表し、江戸時代の勧善懲悪の物語を否定し、小説はまず人情を描くべきで世態風俗の描写がこれに次ぐものであると論じました。この心理的写実主義によって日本の近代文学の誕生に大きく貢献しました。また、その理論を実践すべく小説『当世書生気質』を著しました。しかし逍遙自身がそれまでの戯作文学の影響から脱しきれておらず、これらの近代文学観が不完全なものに終っていることが、後に二葉亭四迷の『小説総論』『浮雲』によって批判的に示されています。小説のほか戯曲も書き、演劇の近代化に果たした役割も大きく、明治39年(1906年)、島村抱月らと文芸協会を開設し、新劇運動の先駆けとなりました。早稲田大学の演劇博物館は、逍遙のシェイクスピア全訳の偉業を記念して建設されたものである。ここは逍遥が明治17年から3年間住んだところでのちに旧伊予藩主久松氏の育英事業として「常盤会」という宿舎になりました。この宿舎には正岡子規が同郷の後輩であり、門弟でもある河東碧梧桐と3年間住みました。また、この常盤会の舎監は、子規の10歳年上の先輩であり、門弟でもあった内藤鳴雪でした。
23. 啄木ゆかりの理髪店喜之床
 石川啄木は明治41年5月北海道の放浪生活を経て上京し、赤心館にいた同郷の先輩金田一京助を頼って同宿しました。朝日新聞の校正係として定職を得て、明治42年6月、新築間もない理髪店喜之床の2階2間を借りて家族と一緒に住みました。5人家族を支えるために生活苦とのたたかい、嫁姑とのいさかいに嘆き、疲れた心は望郷の歌をつづることで癒しとなりました。社会の変動にも目を開いていき、ここ喜之床での2年半の生活は石川啄木の才能を開花させた時でした。明治44年8月小石川の播磨坂(はりまさか)近くに引っ越しますが、その8カ月後、26歳の若さで、その生涯を閉じました。理髪店喜之床は、現在明治村に移築されて、往時の姿を留めています。

24. かねやす
 享保年間(1716~1736)に、現在の本郷3丁目の交差点角に、兼康祐悦という歯科医が「乳香散」という歯磨き粉を売り出しました。これが大当たりして店が繁盛していたといわれています。享保15年(1730)に大火があり、湯島や本郷一帯が燃えたため、再興に力を注いだ町奉行の大岡越前守は、ここを境に南側を耐火のために土蔵造りの塗屋にすることを命じました。一方で北側は従来どおりの板や茅ぶきの造りの町家が並んだため、「本郷もかねやすまでは江戸の内」といわれました。

 

恒例の多摩高野球部新年会を開催します。

野球部OBの 元プロ野球選手、小林至氏(28期)(オフィシャルブログ
昨年大活躍した東大野球部、三木氏(54期)(同窓会インタビュー記事)  も参加予定です。

野球部OB・OG以外の多摩高野球部を応援してくださる多摩高OB・OGの方もお誘いあわせ、ご参加下さい。参加連絡は24期・矢島までお願いいたします。

【多摩高野球部新年会】
◆日時:2017年2月4日(土)17:00~20:00
◆場所:磯料理 「元海」別館
http://r.gnavi.co.jp/g444400/map/
・登戸駅徒歩3分、044-922-2422
◆会費:男性:5,000円、シニア(60歳以上)・女性・学生:4,000円
24期・矢島
tyajima★world.co.jp (★を@に変えてメール送信してください)

※写真は、昨年の新年会〆の校歌大合唱です。
※前回の様子は、こちら



第5回 お江戸散策 目白・雑司ヶ谷・護国寺 (解説版)
1 学習院大学
 学習院は明治維新後の1876年に華族学校という校名から始まる。翌年明治天皇のもとで開校式が行われた際に学習院と改名された。学習院ではこの年を学校の創立年としている。もともとは皇室の設置する私塾という位置づけであったが1884年には宮内省が所轄する正式な官立学校となる。第二次世界大戦前の学習院は文部省ではなく宮内省の管轄下に置かれ、華族の子弟なら原則として無償で学習院に入ることができた。平民はごく限られた人数が入れたが、授業料は有償であった。華族を中心とした上流階級が通う学校として閉鎖性とエリート教育を維持されてきたが、第二次世界大戦後に華族制度が廃止され、私立の学校法人として再出発し、一般市民との差別待遇も無くなった。しかし現在でも皇族が通い、“御学友”が存在するなど、戦前の華族を中心とした教育機関の性格を少なからず残しているなかで、多彩な卒業生を排出している。主な卒業生には、麻生太郎、亀井久興、島村宣伸、徳川恒孝(つねなり)(徳川宗家第18代当主)近衛忠煇(細川護煕元首相の実弟) 島津久永(貴子妃の夫)、〔その他〕吉村昭、塩野七生(ななみ)、オノ・ヨーコ、都倉俊一、田宮二郎、児玉清、角野卓造、仲本工事などがいる。

2  目白不動尊
 真言宗 神霊山 金乗院 慈眼寺を通称目白不動尊と読んでいる。本尊は弘法大師作と伝えられている聖観世音菩薩。目白不動尊は、東豊山 浄滝院 新長谷寺と号し、早稲田方面を望む高台の関口にあったが昭和二十年五月の戦災により焼失したため、本尊の不動明王像を金乗院に移して合併したのである。弘法大師が唐より帰朝後、羽州湯殿山に参籠された時、大日如来が忽然と滝の下に出てきて、その姿は利剣を立てて、霊火包まれた不動明王の姿となっていた。大師はこの像を持ち帰り、自ら護持されたという。その後、武蔵国関口の住人松村氏に渡り、関口の地主渡辺石見守からこの地の寄進を受けて、この地に仏堂を建立して像を安置したことが濫觴と言われている。その後、不動明王は三代将軍家光公より目白の号を賜り江戸五街道守護の五色不動(青・黄・赤・白・黒)のひとつとして称することになった。元禄期には五代将軍綱吉公および同母桂昌院の篤い帰依を受け、たびたびの参詣があり、堂塔伽藍も荘麗を極め、大いに隆盛した。このことからメジロが木の枝にとまるとき、押し合うように沢山並んでとまることのメジロ押しを、「目白押し」としゃれた。

3  雑司が谷 鬼子母神
 鬼子母神は広く子授け、安産、子育ての鬼神として知られています。しかし、鬼子母神は当初、他人の子を取って食べる邪悪なものであったのを、仏によって教化され、仏の守護神になったとされています。普通「鬼子母神」と書きますが雑司が谷鬼子母神は「角(つの)」がないと伝えられ、正式には鬼の字にツノがありません。この雑司が谷鬼子母神堂の創建は寛文4年(1664)で、永禄4年(1561)、目白台付近の畑より鬼子母神が出土し、法明寺内の深森を切り開いて像を安置、鎮守としたのがはじまりで、1666年に安芸藩主浅野光晟の正室自昌院が宝殿(ほうでん)を建立しました。正面の壁面写真は明治末期の鬼子母神境内を画家昇雲が描いたものです。うっ蒼と茂る木々と掛茶屋がよく境内の雰囲気を出しています。鬼子母神堂は東京都の指定有形文化財となっていて、境内の大イチョウ、参道のケヤキ並木も都の指定天然記念物となっています。雑司が谷鬼子母神は宝殿が建立された江戸初期から多くの参詣人を集め、門前には茶屋や料亭が建ち並び繁昌しました。そして江戸町人が経済力を増し、商業が活発化した時期の享保(きょうほ)期(1716~36年)より文化・文政(1804~30年)ころには、物見遊山を兼ねた参詣が多くなり、それが一層、門前の料亭などを栄えさせることになりました。

4 雑司ヶ谷霊園
 雑司ヶ谷霊園は、東京都豊島区南池袋にある東京都立の霊園。面積は約115,400平方メートル(縦横340mに相当)。明治政府の自葬禁止、旧江戸城下内の埋葬禁止などの墓地令等の法令・布告にともない共葬墓地の必要が生じ、東京府が東京会議所に命じて雑司ヶ谷旭出町墓地を造営して、明治7年(1874)9月1日に開設した。その後、明治22年(1889)東京会議所から東京市の管轄となったのち、昭和10年(1935)「雑司ヶ谷霊園」に名称変更。現在は東京都公園協会が管理している。ジョン万次郎、小泉八雲、夏目漱石、島村抱月、竹久夢二、泉鏡花、東條英機、永井荷風、サトウハチロー、東郷青児、大川橋蔵など著名人の墓が多くあり、夏目漱石の小説『こゝろ』の舞台にもなっている。

5 雑司ヶ谷旧宣教師館
 雑司ヶ谷旧宣教師館は、明治40年にアメリカ人宣教師のマッケーレブが自らの居宅として建てたもので、豊島区内に現存する最古の近代木造洋風建築であり、東京都内でも数少ない明治期の宣教師館として大変貴重なものです。また当時の新興住宅地における布教活動と幼児教育の拠点としての意味を持っていたことを地域の人が記憶しており、昭和62年9月1日に、豊島区の登録有形文化財として登録し、その後、特に重要な文化財として保存、活用をさらに進めるため、平成4年11月10日に、指定文化財としました。この建物は木造総2階建て住宅で、全体のデザインはシングル様式であり、細部のデザインはカーペンターゴシック様式を用いており、19世紀後半のアメリカ郊外住宅の特色を写した質素な外国人住宅です

6 東京音楽大学
 東京音楽大学は明治39年(1907)に創設された東洋音楽学校が前身の私立音楽大学。略称は東京音大。創設者は鈴木米(よね)次郎。日本の私立音楽大学の中では音楽学校としての時代を含めると最も古い歴史を持ち、国内の私立音楽大学として唯一、創立から100年以上経過している。
 主な卒業生は、作曲家に池辺晋一郎、三枝成彰、服部克久、海沼實(みかんの花咲く丘)佐々木俊一(高原の駅よさようなら) 船村徹(王将、風雪ながれ旅、矢切の渡し)米山正夫(りんご追分)歌手には、淡谷のり子、春日八郎、菊池章子、霧島昇、奈良光枝、三浦洸一がいる。その他 黒柳徹子(タレント)、池田理代子(ベルサイユのバラ) 、石橋エータロー(ピアニスト)、大空真弓(俳優)、津島恵子(俳優)、藤原釜足(俳優)らも同校の卒業生である。

7 護国寺
 護国寺の創建は天和元年(1681)、五代将軍徳川綱吉公が、その生母、桂昌院の発願により、上野国碓氷八幡宮の別当、亮賢僧正を招いて開山し、殿堂を建立し、桂昌院念持仏の如意輪観世音菩薩像を本尊とし、号を神齢山悉地院護国寺と称し、寺領三百石を賜ったことに始まる。桂昌院は亮賢僧正の徳をしたい厚く帰依されていて、当山をしばしば訪れた。元禄七年十月には綱吉公と共に当寺に参詣し、その折、寺領を六百石に加増している。将軍家の庇護のもと護国寺境内は様々な建造物が甍をならべ、元禄十年(1697)には、元禄時代の建築工芸の粋を結集した大伽藍が完成した。その雄大さは江戸隋一のものとなり、護国寺界隈は隆盛を極めていった。その後、上野寛永寺と並び称せられた神田護持院が火災を受け、護国寺と合併することになり、寺領も両寺合わせて2700石に加増され、幕府祈願の大任を受けて、一層繁栄し、江戸の名所として発展していきました。明治の代になると一変し、護持院は廃寺となり、護国寺は何とか廃寺を免れたが、明治16年、大正15年の火災で堂宇の多くを失った。その中で観音堂(本堂)は元禄以来の姿を変えず、近江三井寺より移築された月光殿(重文)は桃山期の建築美を今に伝えている。また、元禄文化の粋を集めた書画・什器の他、国宝、重要文化財等の数多くが寺宝として現存している。同寺には、三条実美、大隈重信、山県有朋、田中光顕、益田孝、ジョサイア・コンドルが眠っている。

8 鳩山会館
 鳩山邸は1924年、鳩山一郎の私邸として建設された。設計者は友人の建築家、岡田信一郎である。1950年3月、自由党が発足したとき一郎が中心人物の一人として動いたことから、この私邸が会合の場として度々用いられた。一郎が首相に就任したのちにもソ連との国交回復に向けた打ち合わせがここで行われている。太平洋戦争中の空襲により屋根に損害を受けたが、長男、威一郎が書斎を増築するなどの大改造が行われた。竣工後70年に鳩山家の業績を伝える記念館として再生することになり、屋根が竣工当時の姿に復元され外壁の焦げ跡も修復されるなど往時の姿を取り戻した。1996年6月1日にオープン。

9 講談社
 創業者の野間清治により、1909年に「大日本雄弁会」として設立される。「講談社」の名称はその名の通り「講談」に由来するもので、「講談倶楽部」を創刊した1911年より、大日本雄辯會と併せて使用している。戦前の評論家の徳富蘇峰は、戦前の少年や青年たちに大きな影響を与えた講談社を私設文部省と評した。野間家が社長を継続し、1958年野間省一のときに「株式会社講談社」と改称して、今日に至っている。現在の社長は6代目野間佐和子氏が就任。「面白くて為になる」をモットーに、戦前から大衆雑誌『キング』、『少年倶楽部』などの様々な雑誌や書籍を世に出し、国内出版最大手として君臨して来た。一時は年間売上高が2,000億円を超えていたこともあったが近年は「出版不況」により売上が減少し、一時、小学館に業界最大手の座を譲るときがあったが、2007年度の決算で小学館を抜き返し、以後、業界最大手の座を奪還維持している。傘下に光文社、日刊現代などを持ち「音羽グループ」を形成している。

10 椿山荘
 武蔵野台地の東縁部にあたる関口台地に位置し神田川に面したこの地は、南北朝時代から椿が自生する景勝地だったことから「つばきやま」と呼ばれていた。明治の元勲である山縣有朋が明治11年(1878)に私財を投じてこれを購入し「椿山荘」と命名した。大正7年(1918)には大阪を本拠とする藤田財閥の二代目当主藤田平太郎男爵がこれを譲り受け、東京での別邸とした。戦災で一部が焼失したが、昭和23年(1948)に藤田興業の所有地となり、その後1万余の樹木が移植され、昭和27年(1952)より結婚式場として営業を開始した。昭和30年(1955)藤田興業の観光部門が独立して藤田観光(初代社長 小川栄一)が設立され、椿山荘の経営は藤田観光に移管された。そして平成18年(2006)には、藤田観光の本社が敷地内に移転して、事業展開しておりフォーシーズンズホテル椿山荘をはじめワシントンホテル、箱根小涌園などの経営の中枢となっている。余談ですが、準大手ゼネコンだったフジタ組は、藤田一郎・定市兄弟が広島市で創業して東京に進出したもので藤田観光とは関係ない。

11 野間記念館
 講談社野間記念館は、講談社創業90周年事業の一環として、閑静な目白の杜に囲まれた一角に、2000年4月設立されました。展示品は、主に3つに大別され、第1は、講談社の創業者・野間清治が、大正期から昭和初期にかけて収集した美術品を主体とする「野間コレクション」。第2は明治から平成にわたり蓄積されてきた貴重な文化遺産ともいえる「出版文化資料」。第3は、講談社とゆかりの深い画家、村上豊画伯の画業が見てとれる「村上豊作品群」です。これらユニークなコレクションから、珠玉の作品をご覧いただけます。
12 和敬塾
 (財)和敬塾は男子大学生・大学院生向けの学生寮。昭和30年(1955)、前川製作所の創業者である前川喜作によって創設された。東寮、西寮、南寮、北寮の4つの寮がある。塾生は約450名であり、学生が所属する大学は約50校ある。留学生もいる。和敬塾は、単なる「住居」としての学生寮ではなく、その設立趣旨は、男子大学生が「共同生活を通して、社会人として必要な徳性と社会性を身につけること」を基本理念とした「教育の場」です。2005年4月より、大学院生と留学生のための巽寮が加わり、2009年4月より、早稲田大学の学生向けの乾寮が加わった。年間を通じて様々な行事があり、なかでも各界著名人による講演会が数多く催されている。和敬塾本館は、1936年、細川護立(元首相細川護煕の祖父)が細川侯爵家の本邸として建てた西洋館であった。細川護煕も幼少時、和敬塾本館で過ごしている。現在は敷地が分割されているが、新江戸川公園、永青文庫の敷地まで細川邸であった。和敬塾内では、人に会ったら「こんにちは」と挨拶することになっている。新入生に対し厳しい行事があるが、乗り越えると和敬塾の一員としてみとめられる。隣接する公園は田中角栄元首相邸跡。

13 永青文庫
 永青文庫は、東京都文京区目白台にある、日本・東洋の古美術を中心とした美術館である。昭和25年(1950)旧熊本藩主細川家16代当主細川護立(1883 – 1970)によって設立された。伝来の美術品、収集品、歴史資料などを収蔵し、展示、研究を行っている。目白台の閑静な住宅街のなかにある。細川護立は旧侯爵、貴族院議員で、国宝保存会会長などを務め、戦前・戦後の日本の文化財保護行政に多大な貢献をしている。「美術の殿様」と言われ、美術品収集家としても著名であった。
文庫の所在地は細川家の屋敷跡であり、建物は昭和時代初期に細川家の事務所として建てられたものである。文庫名の「永青」は細川家の菩提寺である*建仁寺塔頭永源院の「永」と、細川幽斉の居城・青龍寺城の「青」から採られている。一般公開されるようになったのは、当主が第17代細川護貞になった昭和47年(1972)からである。正宗の名刀をはじめ8点の国宝や狩野元信、宮本武蔵、菱田春草らが描いた絵画など多数の重要文化財を所蔵している。所蔵品は芸術新潮編集部 編『細川家の700年 永青文庫の至宝』で詳しく紹介され、現在の第18代当主・理事長で元首相の細川護煕も執筆している。* 建仁寺:京都市東山。栄西が開山した臨済宗建仁寺派大本山の寺院。

14 新江戸川公園
 新江戸川公園は、東京都文京区目白台にある文京区立の公園である。当地一帯は江戸時代中頃まで幕臣の邸宅があったところであった。その後、幾度かの所有者の変遷を経て、幕末に細川家の下屋敷になり、明治時代には細川家の本邸となった。昭和35年(1960)に東京都が当地を購入し、翌年には公園として開園した。昭和50年(1975)文京区に移管されて現在にいたる。当地付近は目白台からの湧水(わきみず)が豊富な地点で、その湧水を生かした回遊式泉水庭園を主体とした公園となっており、江戸時代の大名屋敷の回遊式泉水庭園の雰囲気を現在でも楽しむことが出来る。

15 関口芭蕉庵
 松尾芭蕉が二度目に江戸に入った後に請け負った神田上水の改修工事の際に、延宝5年(1677)から延宝8年(1680)までの4年間、当地付近にあった「竜隠(りゅうげ)庵」と呼ばれた水番屋に住んだといわれているのが、関口芭蕉庵の始まりである。後の1726年(享保11年)の芭蕉の33回忌にあたる年に、「芭蕉堂」と呼ばれた松尾芭蕉やその弟子らの像などを祀った建物が敷地に作られた。その後、1750年(寛延3年)に芭蕉の供養のために、芭蕉の真筆の短冊を埋めて作られた「さみだれ塚」が建立された。また「竜隠庵」はいつしか人々から「関口芭蕉庵」と呼ばれるようになった。1926年(大正15年)には東京府の史跡に指定された。また芭蕉二百八十回忌の際に園内に芭蕉の句碑が建立された。芭蕉庵にある建物は戦災などで幾度となく焼失し、現在のものは戦後に復元されたものである。現在では講談社・光文社らが中心となって設立された「関口芭蕉庵保存会」によって維持管理されており、池や庭園などもかつての風情を留めた造りとなっている。

16 水神社
 創建の年代は不明。祭神は15代応神天皇。江戸中期の俳人、菊岡沾涼(せんりょう)が著した「江戸砂子」には「上水開けてより関口水門の守護神なり」とある。伝えによれば、水神が八幡宮社司の夢枕に立ち、「我水伯(水神)なり。我をこの地に祀らば堰の守護神となり、村民を始め江戸の町ことごとく安泰なり」と告げたのでここに水神を祭ったという。上水の恩恵にあずかった神田、日本橋方面の人々の参詣が多かったといわれる。江戸時代、このあたりは田園地帯で清らかな神田上水が流れ、前には早稲田田んぼが広がり、後ろには目白台の椿山を控え、西には富士の姿も美しく眺められた行楽の地だったという。

17 早稲田大学
 明治14年(1882)大隈重信が創立した東京専門学校が前身である。その後明治34年(1902)早稲田大学と改称、さらに大正9年(1920)大学令に基づく大学となった。
大正2年(1913)に制定された建学の精神には「学問の独立」「学問の活用」「模範国民の造就」を理念とし、以下の教旨が定められている。
1、早稲田大学は学問の独立を全うし、学問の活用を効し、
 模範国民を造就するを以て建学の本旨と為(な)す。
2、早稲田大学は学問の独立を本旨と為すを以て、之が自由
  討究を主とし、常に独創の研鑽に力め、以て世界の学問に
 裨補(ひほ)せん事を期す。
3、早稲田大学は学問の活用を本旨と為すを以て、学理を学
 理として研究すると共に、之を実際に応用するの道を講じ以
 て時世の進運に資せん事を期す。
4、早稲田大学は模範国民の造就を本旨と為すを以て、個性
 を尊重し、身家を発達し、国家社会を利済し、併せて広く世界
 に活動すべき人格を養成せん事を期す。
 校歌は、作詞相馬御風、作曲東儀鉄笛。同じ雅楽家であるが
 東儀秀樹とは家系が異る。