2017年3月

川崎のアジサイ寺と偉人 泉田二君をたずねて  
1. 妙楽寺
川崎のアジサイ寺として知られる天台宗妙楽寺は、鎌倉幕府の外郭の境界として、多摩川を眼下に見下ろす長尾丘陵の一角に建てられ、軍事的位置としても重視されていた威光寺の一塔頭が妙楽寺の前身と云われています。この寺院には、頼朝の異母弟であり、源義経の実兄であった阿野全成が住持として入山していた時があった。阿野全成の母は常盤御前。幼名は今若と言った。全成は、平治元年(1159)の平治の乱で父源義朝が平清盛に敗れると醍醐寺に預けられた。時を経て、治承4年(1180)、源頼朝が挙兵すると寺を抜け出し、兄弟のなかで真っ先に頼朝の下に駆けつけた。『吾妻鏡』によれば、平家追討の令旨が下されたことを京都で聞くと、寺を抜け出し修行僧を装って、頼朝の居る下総国へ下ってきた。これを聞いた頼朝は涙を流して喜んだという。幕府成立後、全成は頼朝に、武蔵国長尾山威光寺を与えられた。その後、北条時政の娘保子(阿波局・政子の実妹)を妻とし、駿河国阿野荘が与えられ「阿野」を名乗った。建久3年(1192))8月、頼朝の次男実朝が誕生すると阿波局が乳母となり、全成は乳母夫として養育係となっている。源頼朝の死後、嫡男頼家がその跡を継ぐと、北条時政が、弟の実朝を擁立しようと画策し、全成もそれに加わった。しかし、建仁3年(1203)5月、全成は頼家の命を受けた武田信光に捕らえられ、常陸国へ流された後、6月に誅殺された。全成の跡継ぎは僧門に入ったり、武家になった者は、のちに北条と対立して滅ぼされ絶えた。しかし、娘は藤原北家公佐の室となり、その子実直は阿野を名乗って数代続いた。のちに後醍醐天皇の寵愛を受けた阿野廉子はその末裔である。

 
2、県立東高根自然公園
 川崎市の北部、かつては豊かな森林が広がっていた多摩丘陵の東端近くに位置する。また、多摩川とその支流である平瀬川に囲まれた場所で、古くから森林の中に人々が生活する里山的環境が形成されていた。それを今に伝えるように、周辺では今でも新興住宅地や団地等の中に混じって昔ながらの民家が点在する。しかし、昭和以降の東京圏への人口集中の影響を受け、当公園の立地する多摩丘陵東部にも急速に開発の手が入り、たとえば東名高速道路が造られる際には当公園北部の山を切り通し、または宅地造成なども相次ぎ、その風景は大きく変貌した。そのような開発の過程で、当公園北部(現在の古代芝生広場付近)にて、弥生・古墳時代(推定3〜6世紀頃)の遺跡として、約60軒分の竪穴式住居跡や、ドングリなどの食糧貯蔵穴跡、貝塚などが発見された。また遺跡周囲にはシラカシ林が自然林に近い形で残っており、これが学術的にも非常に価値の高い植物群落であると判明した。それを受けて神奈川県では、これら遺跡とシラカシ自然林を文化財として保護するため、昭和46年(1971)に、史跡および天然記念物に指定。当時の人々が耕作を営んでいたと推測される周囲の谷(現在の湿生植物園)や、里山的環境の様相を色濃く残す雑木林などを含め一体として保全するため、当地は都市公園として整備されることになった。かつて、豊かな自然と多様な生態系を誇っていた多摩丘陵は、近年の急速な開発で様相が激変しているが、ここ東高根森林公園と緑ヶ丘霊園、向ヶ丘遊園跡、生田緑地は概ね東西方向に尾根続きになっており、この一帯で往時の貴重な自然環境を今に伝えるとともに、近隣住民に憩いの場を提供している。春のサクラと新緑、梅雨のアジサイ、秋の紅葉、冬のサザンカは、来園者の目に彩りと季節感を与えている。

 
3 女躰神社
「江戸時代の頃より南河原の「大女様」(おおめさま)として親しまれ、多摩川の鎮めの神様として崇敬されてきた。社伝によれば多摩川と鶴見川に挟まれたこの地は、たびたび大大水に見舞われてきたが、ある年これまでにも無いような大洪水に遇い、田畑も水没し、村人たちの窮状に胸を痛めた一人の女性が、水中に身を投じ、水神の怒りを静めたといわれる。その後は水害も収まったので、村人たちは感謝し、ほこらをまつり遺徳を偲んだのが始まりとされている。」このようなことから、女性の悩みを解決し、願いを叶えてくれる神様、安産の神様として親しまれている
4  妙光寺
日蓮宗妙光寺には、『民間省要』を著し、幕臣に取り立てられた人物として著名な田中休愚の墓があります。田中休愚は、寛文2年(1662)、武蔵国多摩郡平沢村(現・秋川市)の旧家窪島八郎左衛門の次男に生まれ、本名は喜古と言いました。農業の傍らに絹織物の行商なども行ない、やがて武州橘樹郡小向村の田中源左衛門家へも出入りするようになり、これが縁で川崎宿本陣田中兵庫の養子になりました。 宝永元年(1704)には、家督を継いで本陣の当主となり、まもなく問屋・名主も兼帯し、宝永6年には川崎宿財政の建て直しのために、六郷川渡舟権の取り扱いを関東郡代伊奈忠順に上申して許可され、川崎宿の復興と繁栄をもたらす基を築きました。しかし、休愚の活躍は、むしろこの後に本格化します。正徳元年(1711)問屋役などを子の休蔵に譲り、やがて江戸に遊学し、儒学者 荻生徂徠や成島道筑(両人ともに将軍の侍講・相談役)などに学び、享保5年(1720)には、西国行脚にも出ました。50歳を過ぎてからのことです。そして、休愚は同6年にみずからの経験に基づく民政上の意見書『民間省要』を完成させたのでした。同書は翌年、儒学者 成島道筑や町奉行大岡忠相によって将軍吉宗へ献上され、休愚が民政へ従事する契機になりました。享保8年には、早速、十人扶持が給され、その当時の普請関係の役人として天下に名の知られていた井沢弥惣兵衛(見沼代用水・運河を完成させた幕臣)の指揮のもと、荒川、多摩川、六郷用水・二ヶ領用水の普請に従事しました。さらに享保11年には、これらの事績が認められ、町奉行 大岡忠相の指揮下に入り、宝永の富士山噴火後、水災害に悩む酒匂川の治水工事を行うことを命じられます。この工事は難工事で関東郡代 伊奈忠順や小田原藩も手をこまねいていたものです。しかし、休愚は地元農民の力を巧みに引き出し、伊那の期待に応える成果を収めました。 幕府は、これを高く評価し、享保14年7月、休愚を、武州多摩川周辺3万石余を支配する勘定(かんじょう)支配(しはい)格(かく)(代官)に抜擢しました。しかし、惜しいことに5ヶ月後の12月22日には、江戸の役宅に没したのでした。享年68歳。妙光寺の休愚の墓の周辺には、彼の手代達なども発起人に加わり建立された灯籠や、彼の子で跡を継いで代官となった休蔵による休愚の碑文、そして、その休蔵の墓をはじめ、田中家代々の墓があります。

 
5  稲毛神社
稲毛神社は、明治以前は「川崎山王社」と称し、現在も氏子の間では「山王さん」の名で親しまれています。社伝では欽明天皇の時代(6世紀頃)に鎮座したといい、平安時代には近江坂本の日吉大社の御分霊を勧請し、河崎庄の鎮守社であったと云われている。江戸時代に編さんされた『新編武蔵風土記稿』では、源頼朝の頃、佐々木高綱が奉行となって社殿を造営したと伝えています。室町時代の応永11年(1404)に草稿された「長弁私案抄」には「武州河崎郷山王社」へ大般若経書写奉納の勧進を行ったと記されています。江戸時代に入ると、天正20年(1592)に代官頭伊奈忠次の検地によって、朱印地20石が安堵されています。江戸時代を通し、東海道川崎宿の総鎮守として人々の崇敬を集め、師走27日には境内に市が立って賑わいました。 安政5年(1858)夏、コレラ流行のさい、宿民が昼夜裸参りをして無事を祈願しています。夏の例祭は山王祭と呼ばれ、「東都歳時記」には町中に花出しや踊りが繰り出される賑わいを見せた大祭だったことが記されています。境内には享保14年(1729)、田中休愚の手代衆らによって奉納された手洗石や、寛保2年(1742)の洪水で破損した小土呂橋の一部が保存されています。
6  妙遠寺
妙遠寺境内には二ヶ領(稲毛・川崎)用水を完成させ、部落民の定着も図った小泉次大夫夫と川崎中興の祖といわれた田中休愚の、偉業を讃える「泉田二君功徳碑」・小泉次大夫夫婦の逆修塔があります。
小泉次大夫(天文 8年(1539)~ 元和 9年(1623)は、今川義元家臣・植松泰清の長男・吉次として、現在の静岡県富士宮市小泉付近で、出生しました。もともと植松家は樋(とい)という代官(用水奉行)を務めていて、徳川家康が、姓の植松と呼ばず、居住地の小泉と呼んでいたことから、小泉次太夫と名乗るようになりました。 天正18年(1590)、小泉次大夫は多摩川から農業用水を引く用水路敷設を進言して徳川家康により採用され、以降、稲毛・川崎領(現・川崎市)に居を移して住み、用水奉行の任に就いた。 そして、慶長 2年(1597)、二ヶ領用水、六郷用水(現・狛江市、世田谷区、大田区の農業用水)の建設に着手しました。二ヶ領用水は、多摩川に2箇所の堰(せき)を設けて一つは上河原堰、もうひとつは宿河原堰から取水しました。取水した水は、今日の川崎市全体に枝分かれし、その幹線水路の全長は約32kmに及んでいます。 慶長16年(1611)、二ヶ領用水、六郷用水は完成しました。この用水により、川崎領と稲毛領(二ヶ領)での米の栽培は盛んとなり、ここで作られた米は稲毛米と呼ばれ、味もよく、江戸近郊のお米として評判になりました。元和 5年(1619)、小泉次太夫は、川崎領砂子(現・川崎区砂子)の妙遠寺に隠居し、余生を送りました。
元和 9年(1623)没、享年85歳。

7 宗三寺
曹洞宗瑞龍山宗三寺は、13世紀 鎌倉時代に僧 領室玄統が開いた禅宗勝福寺を起源と伝わる。河崎庄の地頭だった近江源氏の名将佐々木高綱が砂子一帯を領したとき、菩提寺にしたと云われ、孫の泰綱のとき檀越となり、寺は頗る繁栄したと云います。16世紀に入り 天正年間には、小田原北条氏の家臣 間宮豊前守信盛がこの地を領した。信盛は、この地をよく治めたのち杉田(磯子区)に隠居し、瑞龍山雲谷宗三の法号を得た。この法号に因んで、勝福寺は宗三寺と呼ばれるようになったと云う。本堂左手の六地蔵の先の大公孫樹の下に信盛の供養塔があり、表面には「当寺開基雲谷宗三居士」、側面には「天和三年(一六八三)」と書かれている。この墓は江戸幕府の大番衆(治安職務)・間宮盛重父子が施主になって建てたものである。その他、墓地には大阪夏の陣で豊臣方の武将で、元和元年(1615)川崎に土着して、馬込屋という油商を営んだ波多野伝右衛門一族の墓や、川崎宿貸座敷組合が建立した飯盛女(遊女)の供養碑がある



16期還暦記念同期会


 2016年5月22日(日)、箱根湯本富士屋ホテルにて16期還暦記念同期会を開催しました。1991年の第1回から数えて3年毎、9回目の開催になります。今回は全ての16期生が還暦を迎えてからということで、本来であれば2015年の開催を1年延ばしました。
 還暦を迎えたといっても、まだまだ現役で仕事をされている方も多いため、午後4時からの開催とし6時半に終了。日帰りでも参加できるようにしました。宿泊、日帰り参加の同期生は合わせて79名、田山先生もご出席くださいました。大平代表の挨拶にはじまり、田山先生の挨拶、乾杯で宴が始まり、終始なごやかな雰囲気の中で、旧交を温め楽しいひと時を過ごしました。
 一次会終了後、ホテル内の別室に移動して二次会を開催。年齢?に配慮して円卓に着席で2時間、おしゃべりを楽しみました。露天風呂もある温泉があるホテルですので温泉に浸かってまたまたおしゃべり、部屋に戻ってまたおしゃべり……同期生の中には温泉街へでかけて三次会を楽しんだ方もいたようです。
 翌日は特にイベントは設けず、仲の良い友だちと登山や観光に出かけた方々も多かったようですが、朝5時に起きて仕事に出かけなければならない人もいました。
 同期生からは二次会への移動時間がない、時間を気にせずゆっくりできると好評をいただきました。3年が待てないとの女子からの声を受け、「女子会」の開催も企画する予定でおります。3年後、どんな同期会にするのか、同期からいろいろなアイデアが出てくることを期待しております。
(中島 多恵)
 
第27回 お江戸散策 原宿・千駄ヶ谷・青山  (解説)
01. 代々木公園
現在の代々木公園一帯は江戸時代、大名や旗本らの下屋敷などが点在していた。明治維新後、これらは民有地となり、一面の茶畑・桑畑となった。新政府の陸軍省はこの地の買収を進め、明治42年(1909)7月、陸軍練兵場と陸軍刑務所を設置した。この陸軍省用地は広く、南はNHK放送センターや宇田川町の渋谷区役所周辺一帯までに及んでいた。この代々木練兵場では、明治43年12月19日、陸軍大尉・徳川好敏が日本史上初めて航空機の飛行に成功している。また、陸軍刑務所は練兵場南端の現在の渋谷区役所付近に置かれていて昭和11年(1936)に起こった二・二六事件の主謀者15名の死刑(銃殺)がここで執行されている。練兵場は演習のないときには一般に開放され、草野球や凧揚げなども行われていたが、昭和10年代になると中止され、練兵場は太平洋戦争(大東亜戦争)末期、学徒の教練場としても使われた。戦後は、GHQ将校たちの宿舎が作られ「ワシントンハイツ」と呼ばれるアメリカンスタイルの住居が立ち並んでいたが、東京オリンピックを契機に彼らの宿舎は福生市の横田基地に移転され、ここはオリンピック選手村となり、その後、代々木公園として今日に至っている。

02. 1  代々木八幡宮
代々木八幡宮は鎌倉時代初期に創建された寺院である。
二代将軍・源頼家の家来であった荒井外記宗(げきむね)祐(ひろ)が、伊豆修善寺で頼家公が暗殺された後、この代々木野原にやってきて、隠遁し、主君の菩提を弔って、建暦2年(1212)、鶴岡八幡宮を勧請したのが創始とされている。祭神は、鶴岡八幡宮同様、朝廷や武家からの崇敬をあつめ、国家鎮護、破邪(はじゃ)顕正(けんせい)の神・応神天皇それに、応神天皇の母上である神功皇后が「安産」「子育て」「家内安全」の神として祀られている。

02.2  福泉寺(ふくせんじ)
福泉寺は、代々木八幡宮の別当寺である。
比叡山の僧・伝養律師が中興開山として入山して浄土宗から天台宗に改めた。江戸時代に入って、三世の長秀法師の代に社殿、植林などの整備を行い、社殿が整ったといわれている。これは長秀法師の叔母が紀州家大納言頼宣の側室・延寿院殿であったことから、彼女の支援を受け、社地6000坪を始めとする数々の寄進を受けたことで寺運は隆盛したと伝わる。幕末期になると地震・火災に被災に遭い、寺運は衰え始めた。明治に入ると廃仏毀釈の余波をも蒙り、その寺領も政府に没収され、寺宝も四散して、寺運は衰退した。第62世住持は本堂庫裡を改築し復興に努めたが、関東大震災に耐えた堂宇も昭和20年の戦災で全焼、その後昭和34年本堂再建し、その後、客殿の復興、擁壁の修復、庫裡の再建などを行い、戦後50年をかけてようやく寺風が整って今日にいたる。 当寺には、幕末の剣客 斎藤弥九郎の墓がある。

02.3 齋藤弥九郎
  斎藤弥九郎は、寛政10年(1798)に越中国(現在の氷見市)で農民の子供として生まれた。小さい頃、高岡で油屋の丁稚や薬屋の小僧をしていたが、一念発起して、16歳のとき、銀一位分をもって江戸に出て、旗本能勢家の家僕として働きながら、19歳の頃、神道無念流の岡田十(じゅう)松(まつ)に入門した。岡田十松は神田猿楽町で撃剣館という道場を開いていて、弟子には、伊豆の代官の江川英龍、水戸藩の藤田東湖、田原藩の渡辺崋山、新撰組局長の芹沢鴨ら有名人が大勢いた。弥九郎は剣の腕をあげ、28歳の時、師範代となり、十松の没後には、その岡田道場「撃剣館」の後継となった。撃剣館の経営を軌道に乗せた彼は文政9年(1826)、九段下に自分の道場「神道無念流・練兵館」を構えて独立した。独立に際しては、江川太郎左衛門が多大な援助をしたが、このような援助を得られたのも、江川太郎左衛門が幕府の命で江戸湾の測量、品川砲台の建設取り組んでいるとき、進んで参画し、何事にも一途に取り組む弥九郎の人間的な魅力を江川が見抜いたからと云われている。練兵館は現在の靖国神社の一角に移転し、門下生は長州の木戸孝允、高杉晋作を含む3000名いたと云われる。幕末当時、江戸には、北辰一刀流千葉周作の玄武館、鏡新明智流桃井春蔵の士学館などの有名道場があり隆盛を極めていた。この三道場は、後に江戸三大道場と呼ばれ、「力の斎藤」「技の千葉」、「位の桃井」と云われた。千葉道場には清河八郎、山岡鉄舟、桃井道場には武智瑞山・岡田以蔵がいた。斉藤は、明治4年10月没した。 注:(位というのは桃井が公儀与力で講武所教授方の役職であったことによる)














 
03. 明治神宮
 明治神宮は明治天皇と昭憲皇太后をお祀りする神社で、清らかで森厳な内苑を中心に、聖徳記念絵画館を始め数多くの優れたスポーツ施設を持つ外苑と、結婚式とセレモニー、パーティー会場の明治記念館とからなっている。鬱蒼と茂った緑したたる常緑の森は、神宮御鎮座にあたり、全国から献木されたおよそ10万本を植栽した人工林である。面積は70万平方メートル、豊かな森に成長し、国民の心のふるさと、憩いの場所として親しまれている。初詣は例年、日本一の300万人の参拝者数を集める神社としても知られている。そのほか、大相撲横綱土俵入りや、こどもの祭まで幅広い祭典と行事、厄祓い、祈願を執り行っている。加藤清正が掘ったと言われる清正井や明治天皇のおぼしめしにより昭憲皇太后のために植えられた、美しい花菖蒲など、多くの見どころがある。明治45年7月30日に明治天皇、大正3年4月11日には昭憲皇太后が崩御されたが、国民から御神霊をお祀りして、御聖徳を永遠に敬い、お慕いしたいとの熱い願いが全国で沸き上がり、大正9年(1920)11月1日に両御祭神と特にゆかりの深い、代々木の地に御鎮座されることになった。

04. 新井白石屋敷跡
 新井白石は、江戸時代中期の旗本・政治家・朱子学者。一介の無役の旗本でありながら六代将軍・徳川家宣の侍講として御側御用人・間部詮房とともに幕政を実質的に主導し、「正徳の治」と呼ばれる輝かしい一時代を実践した人物であった。しかし、その生涯は波乱に満ちた栄光と挫折の人生であった。新井白石は、明暦3年(1657)、新井白石は江戸で誕生した。幼児から学問の才があった。父は上総国久留里藩という小藩に仕えていたものの、白石が20歳の頃、藩の内紛に巻き込まれたすえ、追放され、浪人となった。数年後、佐倉藩堀田家に仕官できた。藩主政俊は、後に、幕府の大老になり、白石も前途洋々と思えたが、それも束の間、何と堀田正俊が間もなく暗殺されてしまい、堀田家は没落してしまうのである。その後も白石は堀田家に仕えていたが、主家が財政難のこともあり、三十代の半ばに堀田家を離れた。この波乱の中にあっても、白石は学問に精励し、浪人となっても儒学や歴史学を独学で習得することを怠らなかった。江戸に出て、五代将軍綱吉を教えたほどの高名な儒学者木下順庵に弟子入りした。木下順庵は彼の才能を高く評価し、仕官を世話した。仕官先は甲府藩。この藩主が徳川綱豊のちに6代将軍になる徳川家宣であった。家宣に信任されていた白石は幕府の侍講として将軍の側近になったのである。振り返れば、藩を追われ、主君を殺され、苦難の前半生を送った白石でしたが、ここに至り、ついに幕政の中枢に立ったのである。6代将軍・家宣は思慮深く英明で、綱吉時代の遺物である生類憐みの令を廃止し、浪費により逼迫しつつあった財政の改革も進めた。白石はその将軍の補佐役として献身的に仕えたが、その家宣は将軍位についてからわずか三年余りで病死してしまう。後継の七代将軍家継は幼かったため、結局、事実上、白石が幕府の最高責任者として新たな政策を打ち出してゆくこととなったのである。
新井白石が行った政策には、
① 生類憐みの令の廃止 
  5代将軍綱吉が遺言で、この法の存続を命じていたが、将
  軍就任1週間後に廃止された。
② 正徳の貨幣改鋳 
  当時、日本はインフレで庶民は苦しんでいたが、その原因
  は綱吉時代に、金銀の含有量を減らした貨幣改鋳にあるとし
  て、貨幣価値を戻す新貨幣・正徳小判を発行したが、インフレ
 は治まったが、かえってデフレ状態になり、景気は後退した。
③ 年貢の増加
  綱吉の時代に廃止されていた勘定吟味役という会計監査役
 を復活させ代官の不正を調べさせたり、幕府の役人を幕府の
 直下地に派遣して見張らせることで年貢を43万俵あまり増加
 させた。

④ 正徳新令
 1715年に、海外に流出する金の歯止めを掛けるために貿易
 額の制限を行った。この頃は、輸入ばかりで日本の保有する
 金の4分の1、銀では4分の3もが海外に流出していたため実施
 した。
⑤ 朝鮮通信使の接待儀礼の見直し
  将軍が代わると、朝鮮通信使が来るのが慣例になっていた
 が、一行は1,000人程の隊列を成して来ていて、その費用は
 100万両も掛っていたという。これを簡素化し、60万両くらいに
 削減している。また、それまで国書の中で日本の将軍のことを
 「日本国大君」としていたのを「日本国王」に改めた。「大君」と
 は、朝鮮では王子の嫡子の意味だったので朝鮮国王と将軍が
 対等となるように改めた。
⑥ 閑院宮家の創設
  皇室には、天皇家が途絶えたとき、代わりに天皇を輩出する
 宮家が伏見宮、有栖川宮、京極宮の三家 あったが、なおも用
 意周到にもう一家増やした。因みに、明治天皇以降の天皇は
 閑院宮家の血を引いていて今日に至っている。白石がリードし
 たこの改革時代は「正徳の治」と呼ばれ、高く評価されるが、
 活躍の期間はわずか6年半でした。その後、8代将軍になった
 吉宗からは罷免され、白石の行った改革はその多くが廃止さ
 れた。また、幕府に納めた著書や資料の類も破棄された。
 屋敷までも取り上げられてしまった。この失脚は、下層の身分
 から伸し上がった白石に対する幕閣の妬みや急激で堅苦しい
 改革に対する反発が背景にあり、新将軍吉宗は、能力を認め
 つつも、頑固で、周囲と和を作れない白石を罷免に繫がったと
 言われている。その後、白石は政治の世界に返り咲くことな
 く、享保10年(1725)月死去。享年68歳でした。白石は歴史学、
 言語学から随筆、漢詩まで多種多様な著書を残したが、有名
 なものに全国諸大名337家の由来と事績を集録し、系図をつ
 けた「藩翰譜」、思い出の記という意味の「折たく柴の記」など
 が挙げられる。折たく柴の記は、新古今和歌集にある“思ひ出
 づる折りたく柴の夕煙 むせぶもうれし忘れ形見に”の歌を引
 用したもので、「忘れ形見にうれしむせぶ」人は、6代将軍徳川
 家宣を差している。

05. 鳩森神社
  「江戸名所図会」によると大昔、此の地の林の中にはめでたいことが起こる前兆の瑞雲がたびたび現れ、ある日青空より白雲が降りてきたので不思議に思った村人が林の中に入っていくと、突然白鳩が数多、西に向かって飛び去った。この霊現に依り、神様が宿る小さな祠を営み鳩森『はとのもり』と名付けた。貞観2年(860)、慈覚大師(円仁)が関東巡錫の途中、鳩森のご神体を求める村民の強い願いにより、山城国石清水八幡宮に宇佐八幡宮を遷座し給うた故事にのっとり、神功皇后・応神天皇の御尊像を作り添えて、正八幡宮とし尊敬し奉ったと伝えられている。境内には、都の有形民俗文化財に指定されている「千駄ヶ谷の富士塚」がある。江戸時代において、江戸市中の著名な富士塚である「江戸八富士」の一つに挙げられている。山裾には浅間神社があり、また七合目の洞窟には身禄像、山頂には奥宮が安置されるなど富士山を再現している。大正12年(1923)の関東大震災の際には被災したが修復されている。都内に現存する富士塚の中では最古のものとなっている。六角形の御堂は将棋堂と呼ばれ、近隣の日本将棋連盟から奉納された大駒を納められている。

06. 榎稲荷
  榎稲荷は、通称「お万榎」と呼ばれ、仙寿院を創建した紀州徳川家初代徳川頼宣の生母・お万の方がこの榎の枝から作った楊枝で歯痛が治ったことから、この木を信仰して霊木としたことによる。この巨木は上部が二股に分かれており人間が逆立ちした形で、股の部分が空洞になっていたことから女陰に見られ、性的信仰・性器崇拝の対象となって内藤新宿周辺の遊女や女将などが多く拝みにきたという。女陰の形をしている榎なのであるが、決して猥褻な感じはなく、淫らな気持ちなどは少しも起こさせない。人々はこの榎の股の部分に白い布を巻き、この巨木を崇拝した。これはまじめな学術の研究資料に取り上げられ、加藤玄智博士の英文「日本人の性器崇拝」でロンドンに紹介され、学会では貴重な世界的名物として紹介された。しかし、残念ながら、この榎は戦災で焼失し、今日は見ることができない。

07. 瑞円寺
  瑞円寺は千駄ヶ谷の総鎮守である鳩森八幡神社の別当寺であった。よく整備された境内は広く、梅林があるほか、ツバキ、ツツジ、ハギなども植えられている。瑞円寺の梅園は早咲きで知られる。本堂右手の無縁塔(無縁仏)の最上段には六面に地蔵像を浮き彫りした笠付型の六面塔があるが、これは渋谷区内で唯一、六地蔵信仰をあらわすものである。また、無縁塔の左側には側面に稲穂をくわえた狐が彫られた庚申塔が2基設置されており、稲荷信仰を示している。庚申塔のひとつは享保5年(1720)に置かれたものである。

08. 仙寿院
仙寿院は正式には「日蓮宗法霊山仙寿院東漸寺」という。徳川家康の側室、養珠院(お万の方)ゆかりの寺社であり、養珠院が赤坂の紀州徳川家屋敷内に建立した草庵が始まりであるとされる。それが天保元年(1664)、養珠院の実子で紀州徳川家初代・徳川頼宣によって、現在地である千駄ヶ谷に移されたものである。仙寿院の境内、石段を上り詰めた本堂前の庭には、現在も養珠院の石碑が建っている。江戸時代、この地は谷中の日暮里に風景が似ていることから「新日暮里」とも称され、浮世絵や「江戸名所図会」にもしばしば紹介されている。また、桜の名所として知られ、桜の季節には遠方からも花見客が集まり、酒屋や団子・田楽の店などが並び、その中で竹の皮で包んだ古代餅の「お仲だんご」という団子屋が寺院前にあった。江戸名所図会や歌川広重の浮世絵にも描かれており、美人と評判の“お仲さん”が評判で仙寿院などを訪ねる人々などの間で人気を博していたと云う。

09. 龍巌寺
 龍巌寺は、勢揃坂の途中にあって古風な山門を持ち臨済宗の寺で山号を古碧山という。かつて龍厳寺には松の名木、「笠松(円座の松ともいう)」があった。この松は江戸時代には葛飾北斎の浮世絵や歌川広重に描かれ、「江戸名所図会」にも取り上げられた。龍巌時の山門を入って右手の奥には、八幡太郎義家が腰を掛けたと伝えられる石「腰掛石」が残っている。義家はこの寺の天満宮で出陣の連句をやって社前に奉納したことがあって、この天満宮は句寄の天神とも呼ばれた。また、龍巌寺の境内には松尾芭蕉の句碑「春もやや けしきととのふ 月と梅」もあるが、この句碑の上部は空襲によって破壊されたことから欠損している。本堂前の墓地には安芸広島藩主浅野家の墓所があり、浅野長勲など円墳型の墓が建っている。その他、江戸末期、尚歯会のメンバーで、渡辺崋山・高野長英と親交があり、蛮社の獄で長英が逮捕されたことを悲観して自害した蘭学者・小関三英の墓がある。
注)尚歯会: 江戸時代後期に蘭学者、儒学者など幅広い分野の学者・ 技術者・官僚などが集まって発足した会の名称。

10. 高徳寺
  ここが勝負事に御利益があると言われるのは河内山宗俊の碑がある故である。河内山宗俊は江戸の化政期に実在した人物らしく、坊主だが博徒を集めて賭場を仕切ったり武家を強請るなど、ヤクザの親分格のような存在であった。やがて女犯した出家僧を脅迫して金品を強請(ゆす)ったり、大名家の不正を掴んで恐喝するなどで、文政6年(1823年)捕縛され、程なく牢内で獄死した。後世になって権力と闘ったダークヒーロー的イメージを庶民が抱くようになった。明治期に入り劇作家・河竹黙阿弥がその物語を脚本化し歌舞伎として上演したところ人気を博しそのダークヒーロー像が定着した。河内山宗俊の勝負師的な親分性と、その歌舞伎や講談が大当たりしたことが開運の御利益があるといわれる由縁であろう。事実その碑の寄進者には歌舞伎役者や講談師の名がある。

11. 持法院
寛文12年(1672)四代将軍徳川家綱公の時代に創建された法華宗の寺院。井伏鱒二が眠っている。

〔井伏鱒二〕
明治31年(1898)広島県福山市生れ。本名、満寿二。中学時代は画家を志したが、長兄のすすめで志望を文学に変え、大正6年(1917)年早大予科に進む。昭和4年(1929)年「山椒魚」等で文壇に登場。昭和13年(1938)「ジョン万次郎漂流記」で直木賞を、1950年「本日休診」他により読売文学賞を、1966年には「黒い雨」で野間文芸賞を受けるなど受賞多数。1966年文化勲章受賞。
井伏は川端康成とともに将棋が強かった。井伏の周りにはいつの間にか将棋を指す文士が集まり、井伏は阿佐ヶ谷将棋会の中心になっていた。近所に住む大山康晴とも親しく交流していたと云う。平成5年死去。95歳。




 

12.  梅窓院
美濃郡上八幡藩青山家の菩提寺。青山家は幕府草創期からの徳川家の重臣大名で「青山」の地名は同家の拝領屋敷がこの地にあったことから呼ばれるようになった。二代藩主幸成を葬るため、屋敷内に寺を建立して幸成の法号「梅窓院殿香誉浄薫大禅定門」から寺名が名付けられた。‏以来、12代に亘る当主と一族が葬られている。

〔岩谷松平〕
他に、明治時代、薩摩・川内の郷士に生まれ、東京に出て、煙草会社を設立して巨万の財を成した岩谷松平の、大名家をしのぐような巨大な墓がある。岩谷は自ら作った煙草に「天狗煙草」と命名し、それを奇抜なアイデアで宣伝を行い、「店頭に驚くなかれ、税金たつた百萬円」、「慈善職工五萬人」などと大きく書いて、自分の会社が国益に貢献しており、「国益に貢献している」ことを強く大衆にアピールして信用を高めていった。その後、日清戦争における、軍への煙草納入権を取得して事業をさらに大きく発展させた。この煙草がのちの「恩賜煙草」になって行く。岩谷は煙草産業以外にも、運輸会社、繊維会社、物産会社、飲料会社、銀行などの創立も行い、大実業家になって行った。1900年代はじめの長者番付では、服部時計店創業者の服部金太郎と共に常に最上位となっている。私生活も驚きで代官山の私邸内に20数人の女を囲い、男女21人の子を作っている。その子孫には優秀なものが多く、外交官、出版社創業者、声楽家、女優など当時、話題にあがった人たちが居り、映画監督 山本嘉次郎、作家 安部譲二なども子孫の一人と云われている。しかし1904年3月、専売法制定によって営業権を政府に奪われて、1905年11月に廃業。その後は不遇となり、脳卒中のために半身不随となって晩年を過ごした。1920年死去。享年70歳。

 

 



 
 3月18日、卒業したばかりの59期生・同窓会幹事11名および50期2名・56期1名・役員4名による「若手幹事会」が母校・会議室で開催されました。
 同窓会長から同窓会活動の現状について資料をもとに「同窓会の目的は同期会はじめ様々なネットワークを活用し、同窓生の懇親を深めること」「将来に向かって羽ばたくための情報交換の場をつくること」との説明がありました。
 続いて11名の59期生が自己紹介をするとともに、多摩高ライフの思い出を語り今後の進路について話をしてくれました。多摩高の生活を十分満喫したとの想いが多く語られました。
 社会人および大学生の先輩3人からは多摩で学んだことがその後の活動の原動力になっていること、進路は異なっても原点は高校にあるとの想いが述べられました。
 同窓会は世代を超えた交流をモットーとしており、今後、59期生が積極的に同窓会活動に参加してくれることを期待したいと思います。
【参加者(敬称略・組順)】
 <59期生>猪俣(副代表幹事)・嵯峨・大川・安井・目時・中野・小林・山口(副代表幹事)・村田・吉田・船木(代表幹事) 
<50期生>岩渕・柴田・荒井
<役 員> 安部・高山(桂)・中島
<事務局> 金持
幹事の皆様方にはすでに5月28日(日)の幹事会について
ご案内申し上げたところです。
議事次第については次の通りです。
 
(1) 幹事会
1 開会の言葉
2 会長挨拶
3 議長選出
4 議事
議題1 平成28年度事業報告について                        
議題2 平成28年度決算報告・監査結果について     
議題3 平成29年度事業計画について  
議題4 平成29年度予算案について   
議題5 役員の選出について   
議題6 その他
 
(2) 総会
1 開会の言葉
2 会長挨拶
3 来賓のあいさつ
4 議長選出
5 議事
報告1 平成26年度~28年度事業報告の概要について
報告2 平成26年度~28年度決算の概要について
報告3 平成29年度事業計画について
報告4 平成29年度予算案について
報告5 選出された役員の報告について
その他
 
閉会の言葉     
 
(3)  懇親会
1 開会の言葉
2 乾杯   =歓談=
3 校歌斉唱
4 閉会の言葉


総会予定会場


 
 
前回(3年前)に続き、今回も楽しい催しが沢山。
新校舎と旧校舎の両方を見学できる最後のチャンスです。
また、学食も特別にオープン。 あの懐かしいメニューでランチはいかがでしょうか?
総会の後は、「登戸元海」で懇親会もありますので、お酒を片手に世代を超えた交流をしましょう。
(※未成年はソフトドリンクで。一人参加も大歓迎) 
来校してくれた卒業生の皆さんには、プレゼントあり♪
※お子様も一緒に新校舎見学にどうぞ
※車でのご来場はご遠慮下さい。
 
・開催日 平成29年5月28日(日)
・幹事会   10:00~11:20 (母校 会議室)
・新校舎見学 11:20~12:00 (ツアーで案内)
・昼食    11:20~13:00 学生食堂オープン。各自
・現役生によるアトラクション
       13:05~13:45 (新校舎視聴覚室)
・総会    13:45~14:30 (新校舎視聴覚室)
・懇親会   15:00~17:00 『登戸 元海』 お店の紹介ページはこちら
       *会費 3,000円 50期代は 2,000円


総会および、懇親会に参加希望の方は以下のフォームからご登録をお願いします。

お問い合わせに個々に回答できずに申し訳ありません。
学校見学、総会、懇親会ともに、ご家族同伴希望の方は是非どうぞ!お待ちしています。

 
~ 受付は終了しました ~
※尚、定期総会250名。懇親会120名。
定員になり次第締切とさせて頂きます。予めご了承下さいませ。
お早めのご参加登録よろしくお願い致します。
同窓会事務局 044(920)9811  info@tamadou.jp
※幹事の方は事務局宛に出欠のご連絡をお願いいたします。



案内チラシは以下のリンクから閲覧・ダウンロードできます。
総会案内チラシ


  ※前回の総会の様子はこちら※
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サッカー部OB会 会長 陣内 誠
 
 月日は歴史を刻み、それぞれが青春の日々を過ごし、多くの思い出と熱き心情を培った我が多摩高校サッカー部が60周年を迎えます。日頃からサッカー部への応援・援助を賜っている方、諸般の事情で疎遠になっている方などいろいろなOB・OG諸氏がいらっしゃいます。
 一つの区切りとして、サッカー部OB会としては、創部60周年の記念式典を行ない、久々に多くの皆様と一堂に会し、思い出話に花を咲かせ、あらためて母校サッカー部の支援と歴史が引き続いていくことを祈念し盛大にお祝いをする機会を設けました。多くのOB諸氏のご参加とご支援をお願い申し上げます。 

  • 日時   5月27日(土)13:00~16:00 (受付 12:30 開始)
  • 場所   溝の口KSPホテル 3F 宴会場 
     
 またこれを機に記念誌を制作致したいと考えており、寄付も受け付けております。趣旨をご理解いただきご協力をよろしくお願い致します。
 
  • 当日会費 ¥10000 + 寄付金1口¥2000(1口以上何口でも)
※ 会費・寄付金、併せて振り込んでいただいて構いません。
※ 1万円を超える分は寄付金として扱わせていただきます。
 
【郵便局の振替口座】
00260-3-56787「多摩高校サッカー部OB会 代表八巻哲男」
        ※ 郵便局備え付けの『振込取扱票』をご使用下さい。
        ※ 必ずお名前に卒業期も併記してください。
           〔記入例〕 12期 八巻哲男(やまき てつお)
 
【他金融機関から郵貯銀行への振込み】
〇二九(ぜろにいきゅう)当座番号 0056787「多摩高校サッカー部OB会代表八巻哲男」


実行委員会 後列左から25期五味 43期磯部 24期荒井 16期坂田 15期土屋 
前例左から12期八巻、陣内 6期笠井


 
 

第2回目の川崎区幸区支部懇親会が、川崎駅前のミューザ川崎市民交流室にて2016年11月2日に開催されました。

 

前回同様、在住・実家のある、勤めている方、いた方など 幸区・川崎区に縁のある多摩高校卒業生が集まりました。2期生から38期生と幅広い年代、公務員・サラリーマン・主婦・年金自適生活者とさまざまな職種の方が集まりました。(前回の大阪につづき、今回もわざわざ名古屋からご出席してくださった方がいらっしゃいました。)

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 寒さが和らぎ天候にも恵まれた3月3日、第59回卒業式が母校体育館で行われました。吹奏楽部の演奏と参列者の拍手に包まれ卒業生が入場し、合唱部及び2年音楽選択の生徒によるハレルヤ・コーラスの後、開式となりました。「国歌斉唱」に続いて59期生276名に「卒業証書」が授与され、福田敏人校長から、卒業生に向けて、多摩高校の卒業生が2万人を超え伝統校としての要件がまた1つ備わったというお話がありました。
 来賓として参列した「同窓会長」「PTA会長」の祝辞に続いて、59期生から母校に「記念品」が贈呈され、在校生からお世話になった先輩方への感謝と伝統を引き継いでいくという送辞が贈られました。次に、卒業生代表によって、母校での勉学や学校行事での経験を活かして卒業後の人生を切り拓いていくという答辞が披露されました。最後に「校歌斉唱」の歌声が体育館に響きわたり、厳粛に卒業式が終了しました。
 その後、卒業生を拍手で送りました。1組から順に生徒が起立して退場となりましたが、クラスごとに「先生、ありがとうございました!」というようにそろってお礼を言ってから退場していました。ここにクラスの工夫と雰囲気が見られ、多摩高の校訓である「質実剛健」、「自重自恃」という「自由な空気の中にも規律ある高校生活を」という精神がしっかり根付いているという感慨をもった次第です。
 多摩高校での3年間の経験を胸に抱き、卒業生はこの先の人生を切り拓き、活躍してくれることと思います。「2万人」の同窓生で同窓会を盛り上げていきたいと思います。