第5期生

第8回 赤坂・青山

2011年10月19日(水)
 残暑いまだ厳しい9月19日(H23)、「第8回 お江戸散策 赤坂・青山界隈」を行いました。最初の散策所は赤坂見附駅から北に向かい弁慶橋を渡って、清水谷公園に行きました。この付近は明治の元勲大久保利通が暗殺された所で、公園にはその当時最大の国家指導者を失い世の中が受けた衝撃と深い哀悼の心情が大きな碑の裏面に書かれていました。この公園を登って文芸春秋本社、城西大学、元赤坂プリンスホテルを眺めながら諏訪坂を下ると赤坂見附跡に出ました。見附とは江戸城の外郭に位置して、外敵の侵入を見付けるために設けられたもので、維新後多くは取り壊されたが、ここ赤坂見附跡地には当時の写真が説明板に載せてあり、その様子が偲べました。
 次は旧華族女学校跡地で、津田塾を設立した津田梅子が教鞭を執っていたところで、現在、参議院議長公邸になっています。ここから三べ坂を下り日比谷高校前の坂を登ったところが次の散策地、日枝神社です。江戸時代は山王権現として将軍家にも庇護されていて隆盛を誇り、明治以降も皇城鎮護の官幣大社という格式で、都内有数の人気神社だけあって結婚式やお宮参りの人たちで賑わっていました。
 ここからは浅野藩の中屋敷だった氷川公園に向かいました。ここで小休止後、近くにある2ケ所の勝海舟邸宅跡そして遺品を陳列している展示室を見学しました。邸宅の1つは咸臨丸に乗って渡米した時や坂本龍馬に世界情勢を説いて転機を与えた時に住んでいた所で、もう一つは明治に入ってから亡くなるまで住んでいた邸宅跡です。石碑や木標は立っているだけですが、江戸城無血開城で多くの人命と財産を救ったという歴史に燦然と輝く功績を残した勝海舟がここ赤坂を気に入っていたことがわかりました。
 次に向かったところは、氷川神社で、八代将軍吉宗に庇護されて、栄えた神社で前日まで大祭が行われていたらしく、境内は祭の後片付けで騒然としていました。境内には港区で2番目に大きいというイチョウの木があり、神社の護神木のように慄然と聳えていました。ここから六本木方面に向かい着いたところは三河台という台地の一角で、ここは志賀直哉の父の大邸宅があったところで、裕福な家庭に育った直哉の生活の一面を知りました。この邸宅跡地の前が江戸時代長州藩の中屋敷のあった所で、その跡地の北半分は港区檜町公園になっていて、北半分は東京ミッドタウンやサントリー美術館になっています。
 このミッドタウンで昼食を取り、涼を取って、消耗した体力を補いました。昼食後、向かったのは旧乃木邸で、乃木希典は日露戦争で作戦ミスから多くの犠牲者を出して非難を受けましたが、軍人としての行為は高潔で、敵将に対しても礼儀を尽くし、世界から称賛されていた一面がありました。次の散策地は青山霊園。ここには江戸から明治、大正、昭和に至る多くの著名人が眠っていて、限られた時間の中では見ることができないので大久保利通、関東大震災で復興院長として果敢で、大胆な推進を図った後藤新平、坂の上の雲の主人公、秋山好古広瀬武夫、破傷風菌を発見した北里柴三郎、難病脚気から人々を救った高木兼寛など、多大な功績を挙げながら世間から忘れかけられている人の墓をお参りして故人を偲びました。次に訪れた所は曹洞宗大本山永平寺の東京別院である長谷寺(ちょうこくじ)で、ここには楠で彫られた高さ10メートル余りもある十一面観音菩薩像を拝観できました。境内には喜劇王エノケンさん、歌手坂本九さんの墓があり線香を立てて冥福を祈り「上を向いて歩こう」をハーモニカの伴奏で合唱しました。
 この後は画家岡本太郎の旧宅でアトリエになっている岡本太郎記念館を訪れました。先にテレビドラマで紹介されたことで人気があり、多くの見学者が入っておりました。次の高野長英終焉の地に行くのは割愛し、解説だけにしましたが、その解説から長英が毎日恐怖心に襲われている苦難の逃亡生活が伝わってきました。最終散策地は、青山学院大学構内で、ここはかって伊予西条藩上屋敷だった所でした。ここでは同校の卒業生 平岡精二が作曲し、ペギー葉山が歌って大ヒットした「学生時代」の石碑前で、記念撮影をして、本日の散策を終了しました。この後、同校写真部OBによる写真展を見学させていただき、出展者から、撮影場所の様子やその撮影技術のノウハウをご教授いただきました。(石井義文)
青学OB写真展鑑賞
これより懇親会 
本日は、かなり厳しい暑さのなかにも関らず、2万歩を越える歩行をして、かなり疲労しているのですが、それをものともせず、皆さん元気で、よく食べ、よく飲みそして大いに今日の散策のあとを語り合いました。

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