第5期生

第19回 中山道板橋宿界隈

2013年12月30日(月)
   第19回お江戸散策は江戸四宿の一つ中山道板橋宿界隈を取り上げました。JR板橋駅東口の広場左手にある近藤勇、土方歳三の供養塔から散策を始めました。この供養塔は明治9年(1876)5月に隊士の一人であった永倉新八が発起人となって造立されました。高さ3.6m程ある細長い角柱で、正面には「近藤勇宣昌・土方歳三義豊之墓」と刻まれ、右側面と左側面には、井上源三郎を筆頭に合計130名の隊士たちの名前が刻まれていて新選組の聖地のようで朝からも何人かの見学者が来ていました。次に向かったのは旧中山道平尾宿を北に向かい17号線と交差した路地を渡ったところにある東光寺。ここには関ヶ原の戦いで西軍の将として奮戦した宇喜多秀家の供養塔がある。宇喜多は関ヶ原の戦い後、八丈島に流罪となるが、妻が加賀前田利家の娘豪姫で、前田家は永年宇喜多一族を支援し続けました。幕府が倒れ、明治の世になって、宇喜多家は赦免され、秀家の子孫たちは、加賀藩下屋敷の一帯に住まいするようになり、先祖供養のため当寺院に建立されたと云う。板橋宿はここ平尾宿の次に仲宿、上宿が続き、それぞれに名主が置かれていた。道幅は3間程で、当時もほぼ同様の道幅であったという。平尾宿と仲宿と境付近にあったのが観明寺で、明治初期の住職は、この界隈を繁栄させる為に露天商を集めて、縁日を開き、それがきっかけで通りは大いに繁盛したという。仲宿の商店街は今日でも賑やかで脇本陣跡本陣跡そして高野長英が逃亡中に匿われたという医院の界隈は活気に満ちていました。上宿に入る手前の石神井川に架かる橋が鎌倉期から知られている板橋で今日の区の地名になっている。ここの橋から見下ろす河畔には桜の大木の並木が連なっていて、桜のシーズンには多くの花見客がやってくるという。上宿の商店街が途切れそうになったところに、日頃病苦や結婚に悩んでいる人たちの信仰を深めているという縁切榎の社があります。小さな境内には、切実な悩みを書いた絵馬が沢山奉納されていました。我々が見学中にも、心を込めて祈る人に出会い、その姿に一瞬緊張された次第です。ここら辺で昼食時間となり、この社の前にある手頃な「そば処」に入り、ランチタイムとしました。
   昼食後は、上宿を引き返し交差点を左折したところ50mにある文殊院を訪れました。この寺には、板橋本陣の主、飯田家代々の墓や宿場の飯盛女たちの墓があり、吉原の浄閑寺、新宿の成覚寺などを思い出し、思わず合掌しました。ここからは旧加賀藩下屋敷だったという中を歩き、東板橋体育館脇の広場に辿りついた。そこには明治初期に黒色火薬を製造したという巨大な圧磨機圧輪の記念碑がある。一見わかりにくい石輪のモニュメントであるが、同行した西村氏が、この製造原理を分かっていたので解説していただき、当時の火薬作りを少し理解できた次第です。ここも加賀藩下屋敷の中であるが、当時の面影を少し留めている小高い丘に向かい加賀藩下屋敷の標柱の建っているところに向かうと、そこには前田家の祖利家とお松を祀っている尾山神社の神門のステンドガラスのレプリカが置かれていた。ここからは石神井川沿いを下り、俳句の道を経て、八幡神社を経由して、国宝級作品をいくつも作った名陶工尾形乾山が眠っている善養寺、四谷怪談で名高いお岩さんの墓がある妙行寺新門辰五郎の菩提寺盛雲寺、そして天才漫画家手塚治虫の墓所のある総禅寺など著名人の墓参りをしばし行い、江戸時代から有名な巣鴨の庚申塚に辿り着いた。ここでは漢字文化圏において、年・月・日・時間や方位、角度、の元になっている十干と十二支の組み合わせの「干支」について学んだ。このあと明治29年に作られ多くの優秀な女性を輩出したという明治女学校跡を訪れ当時の向上心溢れる女性の姿をしばし偲んだ。ここまで来ると巣鴨駅まではもう直ぐで、途中、とげぬき地蔵で有名な高岩寺江戸六地蔵の1つで知られる真性寺を参詣して今回の散策をお開きにしました。時刻はまた15:30で、日暮れまでは、まだあるが、喉を潤したくなり、全員で手軽な居酒屋を見つけて入り、本日を振り返りました。 (報告:石井義文)

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