第11回 お江戸散策 浅草・墨東界隈 解説
下谷神社

下谷神社は奈良時代(730)に建てられた東京で一番古い稲荷社です。寄席発祥の地として有名で発祥の頃は浅草通りに面していましたが、関東大震災後の区画整理により、現在地に移され昭和9年に社殿が造営されました。寄席の始まりは、馬喰町に住む京屋又五郎という櫛職人が山生亭花楽と名乗り「風流浮世おとし囃子」の看板を掲げて、この稲荷社の境内で木戸銭を取って落語を聞かせたのが始まりと言われています。これが評判となり、江戸の各地で寄席が行われ、文化・文政時代には百数十件に及びました。山生亭花楽の名前の由来は、「山椒は小粒でぴりりと辛い」から名付けられたそうで、この名はのちに三笑亭可楽と名前を変え、現在は九代目になっています。寄席発祥の記念碑が平成10年4月10日に、落語関係者200人参列のもと除幕式が行われました。当社の祭りは、浅草の三社祭に劣らぬ盛大な祭りで、毎年5月第2週の土、日に開催され江戸の夏の到来を告げる祭りとして知られています。また、赤い大鳥居の額の揮毫は東郷平八郎によるもので、拝殿の天井には横山大観画伯の「龍」の絵がはめ込まれています。
   誓教寺
世界一有名な日本画家と言われる浮世絵の巨匠・葛飾北斎が眠る寺として名高い。北斎は宝暦10年深川本所で生まれ、19歳のとき浮世絵師 勝川春章に弟子入りしたが、師に内緒で狩野派の画法や司馬江漢の洋画も学んだ。やがてこれが覚し春章から「他派の絵を真似るうつけ者!」と破門される。1814年(54歳)、民衆の様々な表情や動植物のスケッチを思いつくままに描いた『北斎漫画』を発表。軽妙で自由奔放な筆運びの北斎画は、西洋に輸出された日本陶器の包装紙に使われ、そのデッサンの秀逸さに驚嘆した仏人の版画家が画家仲間に教え、そこから空前のジャポニスム=日本ブームが広まったという。ゴッホはこの影響を受けている。北斎は人物画、風景画、歴史画、漫画、春画、妖怪画、百人一首、あらゆるジャンルに作品を残し、しかもそれぞれが北斎の情念のこもった一流の作品となった。北斎芸術の頂点は70歳を過ぎて刊行された『富嶽三十六景』。これは50代前半に初めて旅に出た際に、各地から眺めた霊峰・富士にいたく感動し、その後何年も構図を練りに練って、あらゆる角度から富士を描き切ったもの。画中のどこに富士を配置すべきか計算し尽くされ、荒れ狂う波や鳥居の奥、時には桶の中から富士が覗くこともあり、まるで富士を中心に宇宙が広がっているように描いている。また作中には富士の他にも庶民の生活が丁寧に描かれ、江戸っ子は富士と自分たちのツーショットに歓喜し、“北斎と言えば富士、富士と言えば北斎”と称賛した。このような偉大な絵師北斎ですが、その生活は貧乏と背中合わせで、晩年は妻や長女に先立たれ孤独な生活を送り嘉永2年(1849)90歳の長寿をもって生涯を閉じた。墓には「画狂老人卍墓」辞世句「ひと魂でゆく気散じゃ夏の原が刻まれている。
 



































源空寺

〔伊能忠敬〕 (1745―1818)
江戸中期の測量家。通称勘解由。上総国山辺郡小関村(千葉県九十九里町)に生まれる。18歳で下総国佐原の伊能家へ婿養子に入る。名家ではあったが負債で没落しかけていた酒造業を再興し、米の仲買いなどで産を築き、名主や村方後見として郷土のために尽くした。若いときから学問を好み、数学、地理、天文書に親しみ、50歳で隠居すると江戸に出て、19歳年下の高橋至時について天文学を学んだ。当時、正確な暦をつくるうえに必要な緯度1度の里程数が定まっておらず、天文学上の課題になっていた。この解決のために忠敬は長い南北距離の測量を企て、北辺防備の必要から幕府の許可を得やすい蝦夷地南東沿岸の測量を出願して官許を得た。1800年(寛政12)期待したとおりの成果を収めたが、その後全国の測量へと発展し、文化13年(1816)に終了するまでに、延べ旅行日数3736日、陸上測量距離4万3708キロメートル、方位測定回数15万回という大事業となった。道線法と交会法を併用する伝統的な方法はけっして新しくはないが、細心な注意と測定点を十分に多く設ける厳密性を図った根気と努力の勝利といえよう。忠敬の得た子午線1度の長さは28里2分(110.75キロメートル)で、現代の測定値と約1000分の1の誤差しかない。忠敬が作った『大日本沿海輿地全図』は文政4年(1821)に完成したが、忠敬はその3年前に死去し弟子たちの手でその偉業は果たされた。これは日本初の科学的実測図であり、当時の西欧の地図と比べても誇るに足る業績といえる。官製の地図とはいっても、忠敬の学問的探究心がその出発で、下からの熱望に支えられた事業だからこそ、この輝かしい成果を得たのである。この地図は江戸時代には一般に活用されることはなかったが、明治維新後、新政府によって発行された軍事、教育、行政用の地図に基本図として使われ、影響は明治末期にまで及んだ。シーボルトが高橋景保を介して得たこの測量図によって、外国製の地図にも日本の正しい形が描かれるようになった。

高橋至時〕  (1764―1804)
江戸中期の天文学者。寛政の改暦で主役を務めた。大坂に生まれ、通称作左衛門、号は東岡。聡明にして、数理に精密、推歩の技に長じ、家資窮迫の間にあって公務の余暇をもって研鑽し、その才を伸ばした。寛政7年(1795)改暦の業に召されて天文方となり、97年その大任を果たした。享和3(1803)『ラランデ天文書』のオランダ語訳書を入手すると病身を押してその訳解に努め、『暦書管見』を残して、41歳で没した。伊能忠敬の師であり、忠敬の日本全土測量の大事業を側面から大いに支えた。忠敬は年下である彼を尊敬し、死後、至時の隣に葬るよう遺言したという。

高橋景保〕 (1784−1828)
景保は、天明4年(1784)生まれ、父景時と同じ天文方に勤め、伊能忠敬の伊能忠敬の全国測量事業を監督し、全面的に援助する。また間宮林蔵の樺太探検も支援している。文政11年(1828)天文方奉行のとき、伊能忠敬の「日本地図」とシーボルトの「世界周航記」などとの交換をしたことの罪に問われ、厳しい詮議を受け、翌年獄中で死去する。

幡随院長兵衛〕  (1622?―?)
江戸初期の侠客。幡随長兵衛ともよばれる。肥前唐津の浪人の子で、本名を塚本伊太郎と称したという。人を殺して死罪になるところを幡随院の住職に救われ町人になったという説と、住職の親族だったという説がある。江戸・花川戸に住み、大名・旗本へ奉公人を斡旋(あっせん)する貸元業を始めたが、腕と度胸、強い統率力が役だち、侠気を売り物とする男伊達としても成功、当時の戦国の気風が残る豪放な世相を反映して、市中を闊歩していた唐犬権兵衛、放駒四郎兵衛らの町奴の首領格となった。その結果、水野十郎左衛門の率いる旗本奴との対立が高じ、水野邸の湯殿で殺された。1650年(慶安3)とも57年(明暦3)ともいう。その生涯は歌舞伎講釈をはじめ、明治以降は小説、映画などに数多く脚色された。今日では、明治期に実録本に沿って河竹黙阿弥が書いた『極付幡随長兵衛』(1881)がもっともよく上演される。
谷文晁〕   (1763-1840)
江戸後期の画家。詩人で父の谷麓谷とともに田安家に仕えた。狩野派を学び、26歳で田安家に奥詰見習として仕え、近習番頭取次席、奥詰絵師と出世した。30歳のとき 田安宗武の子で白河藩主松平定邦の養子となった松平定信に認められ、その近習となり定信が隠居する文化9年(1812年)まで定信付として仕えた。寛政5年(1793年)には定信の江戸湾巡航に随行し、『公余探勝図』を制作する。また定信の命を受け、古文化財を調査し図録集『集古十種』や『古画類聚』の編纂に従事し古書画や古宝物の写生を行うとともに「石山寺縁起絵巻」の補作を行っている。その画業は上方の円山応挙、狩野探幽とともに「徳川時代の三大家」に数えられている。蘭学者で画家としても名高い三州田原藩家老渡辺崋山は文晁の弟子である。
 

玉川兄弟
『玉川上水起元』(1803年)によれば、承応元年(1652年)11月、幕府により江戸の飲料水不足を解消するため多摩川からの上水開削が計画された。工事の総奉行に老中で川越藩主の松平信綱、水道奉行に伊奈忠治が就き、庄右衛門・清右衛門兄弟が工事を請負った。資金として公儀6000両が拠出された。1653年の正月,幕府から玉川兄弟に工事実施の命が下り2月10日着工した。工事は羽村から四谷までの標高差が約100メートルしかなかったことや浸透性の高い関東ローム層に水が吸い込まれたり大きな岩盤に当ったりして引水工事は困難を極めたが、約半年の苦闘の末、羽村・四谷大木戸間を開通し、承応2年(1653年)11月に玉川上水はついに完成した。翌承応3年(1654年)6月から江戸市中への通水が開始された。しかし、工費が嵩んだ結果、高井戸まで掘ったところでついに幕府から渡された資金が底をつき、兄弟は家を売って費用に充てたという。庄右衛門・清右衛門は、この功績により玉川姓を許され、玉川上水役のお役目を命じられた。玉川庄右衛門・清右衛門の兄弟は、江戸の町人と言われているがその出身は明らかではない。
  曹源寺(かっぱ寺)
河童大明神をまつるお寺。河童に助けられて掘り割り工事を完成させた合羽川太郎の墓がある。お堂の中には河童の手のミイラがおさめられ、天井には著名人が書いた河童の絵も納められている。今からざっと二百年前、東京がまだ江戸と呼ばれていた頃のこと。水はけの悪いこの土地は大雨のたびに洪水になり村人が困り果てていた。雨合羽の商いで財を築いた合羽屋喜八(通称・合羽川太郎)が私財をなげうって排水のための掘り割り工事に着手したところ、近隣に住む河童があらわれて工事を手伝った。それからというもの、この地で河童を見た人は不思議と商売がうまくいくようになったという。これがかっぱ橋・かっぱ寺に伝わる伝説です。河童の伝説がある土地と聞けば水辺のイメージがありますが、合羽川太郎が作った掘り割りは今はもうなく、昔ながらの道具屋街で有名な合羽橋商店街です。掘り割りにかかる橋のあった場所は今でも「かっぱ橋交差点」としてその名をとどめています。
 


浅草寺縁起(由来)
時は飛鳥時代、推古天皇36年(628)3月18日の早朝、檜前浜成・竹成の兄弟が江戸浦(隅田川)に漁撈中、はからずも一躰の観音さまのご尊像を感得した。郷司土師中知これを拝し、聖観世音菩薩さまであることを知り深く帰依し、その後出家し、自宅を改めて寺となし、礼拝供養に生涯を捧げた。大化元年(645)、勝海上人がこの地においでになり、観音堂を建立し、夢告によされている。広漠とした武蔵野の一画、東京湾の入江の一漁村にすぎなかった浅草は参拝の信徒が増すにつれ発展し、平安初期には、比叡山第三代天台座主 慈覚大師(円仁)(794〜864)が来山され、お前立のご本尊を謹刻された。鎌倉時代に将軍の篤い帰依を受けた浅草寺は、次第に外護者として歴史上有名な武将らの信仰をも集め、伽藍の荘厳はいよいよ増した。江戸時代の初め、徳川家康公によって幕府の祈願所と定められてからは、堂塔の威容さらに整い、いわゆる江戸文化の中心として、大きく繁栄したのである。かくして都内最古の寺院である浅草寺は、「浅草観音」の名称で全国的にあらゆる階層の人達に親しまれ、年間約3000万人もの参詣者が訪ずれる民衆信仰の中心地となっている。三社祭は鎌倉時代 正和元年(1312)に「我は是れ阿弥陀三尊なり。神輿をかざり奉り、 船遊の祭礼をいとなみ、天下の安寧を祈れ」とのご神託があり、祭礼が営まれるようになったと伝えられています。今年は700年祭にあたり、その舟祭りが、船渡御といい、3月18日に御神輿三基が「お堂下げ」にて本堂から降ろされ、隅田川に担ぎ出して、川を回遊し、漕ぎあげて、また浅草神社に担ぎ帰る神事が行われました。
   言問橋
「言問」という名称は在原業平の詠んだ、名にし負はば いざこと問はむ都鳥 わが思ふ人は ありやなしやとという歌に因む。関東大震災の震災復興事業として計画され、1928年(昭和3)に完成した橋。両国橋や大阪の天満橋と並んで三大ゲルバー橋と呼ばれた長大な橋である。川端康成は小説『浅草紅団』の中で、その直線的で力強いデザインを曲線的で優美な清洲橋と対比させ、「ゆるやかな弧線に膨らんでいるが、隅田川の新しい六大橋のうちで、清洲橋が曲線の美しさとすれば、言問橋は直線の美しさなのだ。清洲は女だ、言問は男だ。」と記している。1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲では、浅草方面の人が「川の向こうに行けば助かる」と思い言問橋を渡ろうとしたが、反対の向島の住民も同じ事を考えており、橋の上で合流してしまい、身動きが取れなくなったところへ橋の上にも火災旋風が容赦なく襲いかかり、耐えかねた人々は次々と欄干から身を躍らせ、死体で埋まった隅田川に落ちていった。空襲が終わったあと、隅田川は一面凍死体が浮き、言問橋の上には黒焦げの焼死体が、河川敷にも積み重なった累々たる死体の山が築かれていたと言う。この橋は筆舌に尽くしがたい悲しい記憶をもっている。
  花の碑
春のうららの隅田川 のぼり下りの舟人が・・・手漕ぎ舟の往き交う、往時の隅田川の情景が詠われている歌曲「花」は、作詞 武島羽衣 作曲 滝廉太郎によって作られました。本碑は羽衣自筆の歌詞を刻み、昭和31年11月3日、武島が84歳の時にその教え子たちで結成された「武島羽衣先生歌碑建設会」によって建立されました。武島羽衣(本名・又次郎)は明治5年日本橋の木綿問屋に生まれ、明治26年東京大学国文学科に入学し、詩や文学の創作活動をして赤門派の詩人・美文豪として知られるようになりました。明治33年東京音楽学校(現・東京芸大)の古典国文学の教授となり教鞭の傍ら、幼いころから親しんだ隅田川の情景を七五調で詩を作ります。音楽学校の教え子の生徒に滝廉太郎がいました。滝は明治33年8月、歌曲集「四季」を発表しますが、この春の部が名曲「花」なのです。この歌詞のなかの「櫂のしづくも花と散る」は源氏物語 胡蝶の巻にある和歌から本歌取りという古典の表現取り入れた技法で、取り入れたと言われています。古典に造詣の深い武島だからこそ生まれた歌詞でなのです。武島が描いた隅田川の情景はその後大きく変貌しますが、この歌は美しい隅田川をいつも思いださせてくれます。
   平成中村座
待乳山聖天の西方界隈は猿若町と呼ばれ、江戸時代後期に江戸三座と呼ばれる芝居小屋があり栄えていたところでした。天保12年(1841)日本橋の人形町界隈にあった芝居小屋は火事で焼失し、時の老中水野忠邦は、これを好機として、風紀を乱すとして芝居を全廃させることを画策した。しかし、庶民の娯楽を取り上げるのは如何なものかと町奉行遠山左衛門尉景元らが異論を唱え、江戸の中心から、離れたさびしいこの地に移せば自然に廃れるのではとの提案に水野は、府内から遠ざかることでしぶしぶ承諾したが、思惑ははずれ、遊興の里吉原と相まってますます盛んになりました。十八代目中村勘三郎は、初代が猿若勘三郎と言われ、その名を冠したこの地に中村座を復活させたいとの意向から、西暦2000年、この地に「平成中村座」興した。
 

 待乳山本龍院
浅草寺の子院のひとつで通称待乳山聖天という。当山の十一面観音菩薩像は人々が旱魃で苦しんでいるのを救ったとして崇拝を受け、本尊として祀られるようになったという。境内随所にある紋章の砂金入り巾着は金銀財宝で商売繁盛、二股大根は健康で一家和合を表わし、大根を供えると聖天様が身体の毒を洗い清めてくれると言われている。ここの小高い丘は江戸時代筑波山や富士山も望まれる風光明媚な景勝地として知られ、安藤広重も描いている。また、池波正太郎の生家は待乳山聖天公園の南側付近にありました。生まれた年の9月に関東大震災があり、生家は焼失してしまいましたが、その後も少年期、青年期を台東区で暮らしました。昭和35年「錯乱」で直木賞を受賞し、「鬼平犯科帳」「剣客商売」「仕掛人・藤枝梅安」などの人気シリーズをはじめ、時代小説の傑作をつぎつぎと生みだし、このあたりもたびたび舞台として描いています。「生家」は跡かたもないが、大川(隅田川)の水と待乳山聖天宮は私の心のふるさとのようなものだと記しています。
   今戸神社
この神社は源頼義が安部貞任を征伐するために京都石清水八幡宮を鎌倉鶴岡とここに勧請したという古い神社です。江戸時代末期、界隈に住んでいた老婆が貧しさゆえに愛猫を手放したが、夢枕にその猫が現れ、「自分の姿を人形にしたら福徳を授かる」と言ったので、その猫の姿の人形を今戸焼の焼き物にして売ったところ、たちまち評判になったという。これが招き猫発祥の地のひとつとしても知られるようになった。また幕末期、幕府奥医師の松本良順の私邸もあり、新撰組の沖田総司はここで結核の療養中亡くなったと言われている。
  桜橋
東京都の隅田川に架かる橋梁である。台東区と墨田区の姉妹提携事業として1985年に完成した隅田川唯一の歩行者専用橋で、両岸の隅田公園を結ぶ園路の役割を持つ。形状は平面のX字形の特異な形をしている。花見のシーズンには、両岸の桜を楽しむために多くの人がこの橋を渡る。総工費、28億3000万円は台東区、墨田区の折半である。美しい橋で周辺との景観との調和を考慮して色彩や素材に工夫が見られる。東岸(墨田区側)は背後に墨堤通りが走っている狭小地であり足場用地確保のためか、通り上面に覆道を置きこれが橋と一体化している。
  墨堤植桜の碑
墨堤の桜は四代将軍家綱の時代に始まり、享保年間八代将軍吉宗のときに本格的に植えられ、その後三囲神社から木母寺に至る墨堤に連なった。明治16年、荒廃していた墨堤の桜を復興させようと成島柳北、大倉喜八郎が提唱して1000本余の桜を補植して、墨堤の桜は復活しました。これに安田善次郎、榎本武揚らが協力して明治20年に記念碑が建立された。碑の篆額は榎本武揚。
  長命寺
天台宗延暦寺派の末寺で、慶長年間に孝海上人によって創立されたといわれている。長命寺の命名は三代将軍家光が鷹狩の途中急病になり、この寺に立ち寄り寺内の井戸水で薬を服用したら、たちまち快癒したので、宝寿山長命寺の号を授かったと伝えられる。「いささらば雪見にころぶところまで」という芭蕉の句碑をはじめ十辺舎一九、大田蜀山人らの狂歌碑がある。また、享保年間、長命寺で働く初代山本新六が、堤のさくらの葉を塩漬けにして餅を包んで売り出した「桜餅」は美味しいと評判となり、明治に入っても人気を博して今日に至っている。また、幕末開業の老舗で、在原業平の都鳥の歌に因んで命名され向かいの「言問団子」も東京の名物である。
  弘福寺
宇治市にある万福寺と同じ明国風の黄檗宗寺院。他の寺院とは異なる佇まいで隅田川七福神の一つで布袋尊が祀られています。延宝2年(1674)鉄牛禅師が開山し、開基は小田原城主 稲葉美濃守正則。関東大震災後の建築であるが山門、大雄宝殿も古色をおびた重厚なつくりです。黄檗宗の関係から因幡藩池田家、津和野藩亀井家ゆかりの寺院で、勝海舟は少年時、剣術の師匠島田虎之助の薦めで、この寺で参禅していました。また、森鴎外は父が津和野藩の侍医をしていた関係から少年時代この付近で過ごし、没後当寺院に葬られたが、関東大震災後の墓域整理があり、三鷹市の禅林寺へ改葬されました。
  三囲神社
元は田中稲荷と呼ばれていましたが、文和年間(1355)頃、近江三井寺の僧源慶が東国を遍歴した折、壊れかけていたこの社殿を見て改築を始めた。すると土中より白狐にまたがった老翁の像が見つかり、取り出すとにわかに白狐が現われて社殿を三回まわったところから「三囲」の名を付けたと言われている。安政時代の建てられた社殿は大震災、戦災を免れている。神社名にあやかって三井越後屋は守護神と崇めている。元禄6年(1693)夏、旱魃に悩む村民が集まって雨乞いの祈願をしているときに、たまたま参詣にきた俳人松尾芭蕉の弟子 榎本其角が「夕立ちや田をみめぐりの神ならば」と詠んだところ、翌日に雨が降ったと其角の書「五元集」に書き残している。また、社殿は清水建設創始者の大工棟梁の清水喜助が寄進したもので、隅田川七福神のうち恵比寿天、大黒天が祀られている。
牛島神社
本所の総鎮守で須佐之男命を祀り、墨田区内では最も古い神社。社伝によれば貞観2年(860)慈覚大師(円仁)が来社した折、老翁が「師、わがために一宇の神社を建立せよ、もし国土の悩乱あらば、首に牛頭を擁き悪魔降伏の形相を現わして天下安全の守護たらん」と託宣したところから牛午前と改称したと言われている。社殿右手にある青銅製の撫で牛は文政8年(1825)奉納で、病んでいるところを撫でれば快癒するとして人気がある。近隣で生まれ育った堀辰雄は「幼年時代」で「わたしは、そのどこかメランコリックな眼差しをした牛が大好きだった」を書いている。毎年9月15日に行われる牛嶋神社例大祭は墨田区でもっとも盛大な祭りで、5年に1度の本祭りは鳳輩牛車によるパレードもあり神輿を担ぎ手と観客の熱気で湧きあがります。
隅田公園
この公園は、元水戸藩下屋敷のあったところで、下屋敷は牛島神社を含む広大な領域を占めていて大きな庭園を備えた武家屋敷でした。徳川斉昭の腹心藤田東湖は斉昭が極端な廃仏政策をとって幕府から謹慎を命じられたとき、東湖はこの屋敷に蟄居幽閉されていました。関東大震災のあとの復興計画で墨堤が整備されると、荒廃していた屋敷は隅田公園として庶民の憩いの場になりました。その後の戦災でまた荒廃しましたが、高速道路建設を契機とした整備事業で墨田区民の誇る公園として利用されています。
浩養園跡
この地は江戸時代、常陸矢田部藩細川氏・駿河沼津藩水野氏・秋田藩佐竹氏の屋敷として移り代わり、とりわけその邸内の庭が名園として聞こえていました。文政五年(1822)藩主であり、時の老中であった水野忠成は池を中心に、石をふんだんに用いた林泉式回遊庭園を築造した。丘を築き浅草寺五重塔・隅田川吾妻橋を望むものでした。万延元年(1860)佐竹氏に移り、浩養園佐竹の庭として一層有名になり、明治23年からは一般公開され、多くの人々の憩いの場となっていました。その後、明治33年札幌麦酒東京工場がこの地に設置され、39年には大日本麦酒吾妻橋工場となり、煉瓦づくりの建物ができました。そして大正12年の関東大震災で、庭園としての面影は失われ、平成に入って墨田区役所、アサヒビール本社等が立ち現在に至っています。

吾妻橋
創架は安永3年(1774)で、それまでは「竹町の渡し」と呼ばれた渡し舟があった場所であった。江戸時代に隅田川に架橋された5つの橋(永代橋、新大橋、両国橋、吾妻橋、千住橋)のうち最後に架けられた橋であり、明和6年(1769)に浅草花川戸の町人たちの嘆願が幕府によって許可され、着工後5年で完成したものである。長さ八十四間(約150m)、幅三間半(約6.5m)の橋で、武士以外の全ての通行者から2文ずつ通行料を取ったと記録に残っています。天明6年(1836)に永代橋、新大橋がことごとく流され、両国橋も大きな被害を受ける中で無傷で残り、架橋した大工や奉行らが褒章を賜ったという。橋名ははじめ「大川橋」と呼ばれたが、江戸の東にあるために町民たちには「東橋」と呼ばれており、後に転じて「吾妻」となったと言われている。その後幾度かの架け替えが行われ、最後の木橋は、明治18年(1885)の大洪水で流出した上流の千住大橋の橋桁が吾妻橋に激突し流失してしまった。その後、鉄骨で再建されたが、関東大震災で損傷し、補修の後1931年(昭和6年)に現在の橋に架け替えられました。
   東京スカイツリー
都心部では超高層建築物が林立し、電波が届きにくくなる問題とワンセグやマルチメディア放送といった携帯機器向けの放送を快適に視聴できるようにすることを目的として建設された。総事業費は約650億円。施工は大林組、設計は日建設計である。2012年5月22日に展望台として開業し、2013年4月以降本放送を実施する。東京タワーの建造時に比べて鋼材の品質や溶接技術、各種構造計算(シミュレーション)などの設計技術、基礎部の特殊な工法が大きく進歩したことにより東京タワーの建築面積を大きく下回る面積でのこの高さの自立式鉄塔の建設が可能となった。全体の主要接合部は溶接により建設されていて、鋼管同士を直接溶接接合する分岐継手を採用し、軽量化と耐震性を増している。主要鋼材はH鋼ではなく鋼管が使用され、各部材の精度も一般建築物とは桁違いのレベルである。溶接作業の一部には人間の手作業による職人技が寄与しているところも多分にある。高さ350mの第1展望台が「天望デッキ」、450mの第2展望台が「天望回廊」と命名される。