第12回 お江戸散策 旧品川宿界隈 解説
開東閣
開東閣は岩崎久弥が伊藤博文邸のあった土地を購入して建てた岩崎家の別邸で、設計者は鹿鳴館やニコライ堂を設計したJ.コンドル。コンドルは現存している上野の岩崎邸や清泉女子大学本館も設計しています。明治22年に建てられましたが、第二次世界大戦で一部消失しその後GHQに接収され、改築されましたが、昭和39年に内装は復元されました。その後、岩崎家から三菱に寄付され、現在は三菱グループの倶楽部として使われています。周りに鬱蒼と木々を茂らせ、外部からは建物自体が視認出来ないようにしてあります。

  御殿山
御殿山は歌川広重が江戸名所百景の中で「品川御殿山」として描いた風光明媚な景勝地でした。徳川家康が豊臣秀吉の側室淀君を人質にとっておく目的で御殿を建てたことからこの山の名前になったと言われています。8代将軍吉宗がここに桜を植えさせてから、ここは桜の名所になりました。1853年にペリーが黒船で来航し、幕府は黒船を防ぐために、御殿山を削った土で、品川沖に御台場を築きました。そのため山の形が変わってしまい、広重が描いた絵とは全く違った景観になりました。幕末期、2度も襲撃にあった東禅寺から、そこに置かれた英国公使館をこの地に移すことになりました。建設工事が順調に進み、西洋風の洋館がほぼ完成した、文久3年1月31日(1863)事件が起きました。品川宿の妓楼土蔵相模に集結した長州藩士達による焼き討ちです。隊長が高杉晋作、副将が久坂玄瑞、火付け役が伊藤俊輔、井上聞多らで実行されました。焼き討ちは成功し、そのために英国公使館の建設は中止されました。御殿山は、その後、お台場建設で削られ、鉄道が敷設されることになるとさらに削られ幕末時の面影もなくなりました。御殿山ガーデンは御殿山ヒルズ内に広がる6800m2の日本庭園で、御殿山ヒルズは高層オフィス・高級賃貸住宅・ホテルラフォーレ東京から成る複合エリアです。
3 問答河岸碑
三代将軍家光は、沢庵禅師を尊敬していて、しばしば東海寺を訪れたといわれる。将軍は江戸城から浜御殿に入り、そこから船でこの海岸辺りに上陸しました。その時、出迎えた沢庵禅師に将軍が頓智問答を投げかけた。「海近くしてとう(遠)海寺とはこれいかに」と問うたところ、沢庵和尚は笑顔を浮かべ、即座に「大軍のみを率いてもしょう(小)軍というがごとし」と答えたという。沢庵禅師は、かって京都大徳寺の住持でしたが、大徳寺の僧として有名な、一休禅師をほうふつさせるやり取りで微笑ましい。ここはその場所として有名です。
4 土蔵相模跡
江戸時代、ここは旧東海道、品川宿「相模屋」という旅籠屋がありました。建物が土蔵造りであったことから「土蔵相模」と呼ばれていました。幕末には、英国公使館焼き討ち事件の高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、井上馨らが謀議のためにこの旅籠を利用したことが、広く知られていますが、その数年前の安政7年3月(1860)桜田門外での井伊大老襲撃事件の首謀者達がここで謀議をしたところでもあります。また、フランキー堺主演の日活映画「幕末太陽伝」で、この旅籠「相模屋」を舞台にしたところとしても有名です。現在は、コンビニストアになっていて、その面影はありません。
  5 利(かが)田神社
寛永三年(1626)に、沢庵和尚が東海寺の鬼門除けとして、弁財天を勧請したのが始まりとされ、かつては弁天堂でした。洲崎の弁天と呼ばれ、広重の浮世絵にも描かれています。ここは明治に入ってから、東京湾に郵便船が航行するようになると、品川沖からの格好の目印になっていたことが、拝殿右手の水盤に銘文が記されています。境内には、鯨塚があり、寛政十年(1798)5月1日、長さ九間一尺(約17メートル)の大きな鯨が、品川沖に現れた。鯨は、地元の漁師たちにより刺し殺されましたが、このニュースは江戸市中はもちろん、近郊の村々にまで広まり、多くの見物客が繰り出すほどの大騒ぎとなりました。時の11代将軍、家斉もこの噂を聞きつけ、芝の御浜御殿の沖まで鯨を曳いて行き、将軍に供覧したといわれています。鯨は後にこの場所に埋められ、鯨塚として石碑が建てられました。
6 御殿山砲台跡
嘉永6年(1853)、アメリカ合衆国のペリーが4隻の軍艦(黒船)を率い、日本に開国を求めるため浦賀に来航しました。鎖国をしていた当時の日本は大騒動になり、徳川幕府は江戸の町を守るため、急いで品川沖から深川洲崎にかけて11カ所の台場を造ることにしました。伊豆韮山の代官・江川太郎左衛門英龍がオランダの書物をもとに砲台造りの指導にあたり、第一、第三、第五・第六台場は完成させたが、残りの第四・第七は中途で工事を中止し、第八以下は着工にも至らなかったのです。その代りとして、陸続きで五角形の砲台を造ることになりました。これが御殿山下台場(砲台)です。明治になると埋め立てられて姿を消しましたが、幸いなことに台場の輪郭は道として残り、今でもその位置と形を知ることが出来ます。跡地に建つ台場小学校の敷地はこの台場の半分程の面積を占めています。台場跡からは石垣が発見され、小学校にはその石垣を使った記念碑が建てられました。石垣の上に立つ灯台は、明治3年(1870)日本で3番目の洋式灯台として第二台場に造られた品川灯台を模したものです。品川灯台は、現在国の重要文化財として愛知県犬山市の博物館明治村に移設されています。

7 品川本陣跡
現在、聖蹟公園となっている場所が品川本陣跡です。本陣は大名や公家、大身の旗本の宿泊のために主駅に設けられた施設で他の旅籠より高い格式を持っていました。本陣の主人には宿場を代表する名主が任命され、身分は町人でも、苗字帯刀が許されて、代々世襲していました。宿賃は公定料金が決められていて、かなり安く設定されていました。明治元年(1868)、明治天皇が東京に行幸の際この本陣に宿泊し、それが聖蹟公園の名の由来になっています。
8 寄木神社
 寄木神社は、かつて漁師町であったこの界隈の鎮守で祭神は日本武尊。本殿は房総石の石蔵造りで防火建築の面影を見ることができます。扉の内側には、伊豆長八の作である漆喰鏝絵の扉絵があります。伊豆の長八は、文化12年(1815)伊豆国松崎村の貧しい農家の長男に生まれました。生来の手先きの器用さに将来は腕をもって身をたてようと志し、青雲の志を抱いて江戸へ出て、絵を狩野派の喜多武清に学びました。かたわら彫塑の技を修めてこれを左官の業に応用し、漆喰を以て絵を画き、或は彫塑して華麗な色彩を施し、新機軸をひらいてついに長八独特の芸術を完成させました。高村光雲は「伊豆の長八は江戸の左官として前後に比類ない名人であった。浅草の展覧会で長八の魚づくし図のついたての作っているところを覚えているが、その図取りといい、こて先の働きなどは比類なき巧みなもので、私は、ここでまさしく長八が名人であることを知った」と語っています。長八の漆喰鏝絵は西洋のフレスコに優るとも劣らない壁画技術として、芸術界でも高く評価されています。浅草観音堂、目黒祐天寺、成田不動尊など各地に名作を残し、「鏝は伊豆長が日本一」と全国にその名が知れ亘りました。
9 荏原神社
荏原神社は元明天皇の御代、和銅2年(709年)奈良の元官幣大社・丹生川上神社より龍神を勧請し、宝治元年(1247年)に京都八坂神社より牛頭天王を勧請し、古より品川の龍神さまとして、源氏、徳川、上杉等、多くの武家から篤い信仰を受けて現在に至っています。明治元年には、准勅祭社として定められました。現在の社殿は弘化元年(1844年)のもので、平成20年で164年を迎えました。往古より貴布禰大明神と称していましたが、明治8年、旧荏原郡(品川、大田、目黒、世田谷)の中で最も由緒のある神社であったことから、荏原郡の名を冠した荏原神社と改称しました。古より当社に祈願すれば叶わぬことは無いといわれ、勝運、学問、商売繁盛、交通安全、病気平癒、家内安全等に特別の御神徳があるとかで人気を得ています。天王祭は宝治元年、京都八坂神社より牛頭天王が当社に勧請されたことに始まります。江戸時代には大江戸夏祭りの花形として盛大を極めました。現在でも都内で唯一、御神面を神輿につけての海中渡御が行われており、荏原天王祭〜かっぱ祭りとして、全国に知られています。
10 品川神社   北品川の鎮守で北の天王様として人々に親しまれ、江戸時代には北品川稲荷社、品川大明神、天王社などと呼ばれていました。鎌倉時代の初め、文治3年(1187)に、源頼朝が安房国州崎大明神を勧請したものと伝えられています。室町時代以降も土地の豪族や豪商の庇護を受け、天正19年(1591)には、徳川家康から5石の社料の朱印を受けています。寛永14年(1637)の東海禅寺の建立に際し、境内の一部がその敷地となったため、代替地を賜った。また、神社の位置が東海禅寺の鬼門に当ることから、同寺の鎮守として江戸幕府の庇護を受けるようになりました。現在の社殿は昭和39年(1964)に。新築されたもので、境内には阿那稲荷社上社・下社、御嶽神社、浅間神社、道祖神社等の末社があります。富士塚は富士山を信仰する富士講という団体の人々が、富士山を遥拝する場所として造られた人造の山で、品川神社富士塚は、明治2年(1869)に、北品川の丸嘉講の約300人によって造られ、その後大正11年(1922)に、第一京浜国道の建設のため西に数十メートル移動して、現在の場所に再建されたものです。丸嘉講では現在も毎年7月1日に「山開き行事」を行っています。また、板垣退助墓が境内にある。
11 官営品川硝子製造所跡
 明治6年(1837)に、太政大臣・三条実美が硝子工場を東海寺の境内に作りました。明治9年(1876)に官営の品川硝子製作所となり、明治期における国内のガラス工業は日用ガラス器生産が殆どでした。建築材料として必要な板ガラスは、幾度かの試みにもかかわらずこの工場では成功せず、国産化が実現したのは、明治42年になってからでした。その後に工場は民間に払い下げらましたが、経営不振により明治25年(1892)に解散しました。敷地の多くと設備は 製薬会社三共(現・第一三共)に引き継がれ, また 技術者の多くは品川白煉瓦、日本光学(ニコン)、東京芝浦電気(東芝)などに転進して行きました。官営時代の建物の一部が、愛知県犬山市の明治村に移築、保存されています。
12 東海禅寺
万松山東海寺は寛永16年(1639年) 徳川家光が沢庵宗彭を招聘して創建された臨済宗大徳寺派の寺院。沢庵は、但馬国出石に生まれ、10歳で出石の唱念寺で出家しました。その後、37歳で大徳寺の第154世住職に出世しましたが、名利を求めない沢庵は3日で大徳寺を去り在野に下りました。2代将軍秀忠のときに、朝廷が下した紫衣(しえ)を幕府が否定して没収した紫衣事件で、幕府の意向に逆らった罪で出羽国上山に流罪となりました。「心さえ潔白であれば身の苦しみなど何ともない」と言って、周囲の人の感銘をさそいました。晩年は、天海和尚や老中 堀直寄、 将軍家指南役柳生宗矩の強い勧めがあり、徳川家光に使えました。家光は沢庵を気に入り、品川の東海禅寺(4万坪)を創建し、その住職に沢庵を任命しました。このため、幕閣の大名家の塔頭も多く作られ、幕府中枢と密接な関係が築かれて行きました。これを沢庵は自分を権力者にこびる「つなぎ猿」と自分を自分で軽蔑しあざ笑う晩年を過ごしたと言われています。正保2年(1646)品川の東海禅寺で没しました。享年73歳。遺言で「自分の葬式はするな。香典は一切もらうな。死骸は夜密かに担ぎ出し、後山に埋めて二度と参るな。墓をつくるな。朝廷から禅師号を受けるな。位牌をつくるな。法事をするな。年譜を誌すな」と残したとも言われています。「たくあん漬け」は和尚が作ったことで知られていますが、大山墓地にある墓石がたくあん漬けに使う石に似ていることから彼が考案者のように言われていますが、定かではありません。墓地には、加茂真淵、井上勝の墓もあります。
13 細川家墓域
ここは肥後熊本藩54万石細川家の墓所です。2代藩主光尚が東海寺に塔頭「妙解院」を建立し、ここを菩提所としました。墓域は800坪に及び、6代宣紀から16代護立、17代護貞(元首相細川護熙の父)までの藩主・当主とその夫人たち宗家一族の役70基が並んでいます。東海寺は維新後、徳川将軍家という強大な庇護者を失ったため、衰退し、その塔頭の妙解院も廃寺となり、墓域だけがここに残されました。
14 清光院
臨済宗の禅寺。東海寺の塔頭の一つでしたが、維新後独立して、寺院となりました。境内奥の墓域には瓦を重ねて造った塀に囲まれた豊前中津藩奥平家の大名墓地があります。目黒川沿いの散歩道からも見えるほど大きな墓石群で、整然と並んでおります。奥平家は徳川譜代の大名で10万石を領し、福沢諭吉は同藩の下級武士でした。また、隣接して摂津高槻藩永井家の大名墓地もあり、これだけの規模の大名墓地は都内でも珍しく、品川百景の史跡として指定されています。
15 願行寺
鎌倉光明寺の八世観誉祐崇によって開創された浄土宗の寺院で、山号は既成山。寛正3年(1462)に品川の海辺に念仏聖が結ぶ庵があって、それを文明年間に観誉がこの地に移したとされます。江戸時代の願行寺は境内に地蔵堂・弁天堂・鐘楼があり、塔頭も5つを有する寺院として、隆盛していました。願行寺の地蔵堂には承応元年(1652)に開眼した「しばり地蔵」と呼ばれる石の地蔵があり、病に苦しむ人が来て荒縄で縛れば、ご利益があると信じられています。現在の像は天保12年(1841)に再建されたもので、地蔵の首が外せるようになっていて、願をかける人は首を持ち帰って祈願し、病気が治ると首を二つにして奉納するようになっています。
  16 常行寺
慈覚大師円仁様が建立した寺である。 大師が比叡山延暦寺に横川中堂を建立された後、 母の病重きを知り、 平坦な東海道を急ぎ故郷の下野へ向かう途中、 品川大井村で母の死去を知らせる使者に出会い、 その地にて堂を建て、常行三昧を修して母の冥福を祈るとともに 村人達にも彼等の両親の菩提を弔うよう説きました。 これが常行寺の開基と言われていて、嘉祥元年(848)10月16日を開山の日としている。その後、 次第に衰え鎌倉時代になると若干の寺領のみになったが、日本最初の大師が建立した寺院としての格式は残っています。
  17 天妙国寺
弘安8年(1285年),日蓮の直弟子の天目上人の創建と伝えられる古刹です。天正18年徳川家康が関東に入府したときに宿泊しており、三大将軍家光には篤く庇護されて、五重塔、書院、仁王門などの寄進を受けています。また寄木造りの堂々たる本堂は元禄期に建立されたものです。歌舞伎「与話情浮名横櫛」の主人公「斬られ与三郎とお富」の墓があることでも知られ、与三郎のモデルは長唄の名人4代目芳村伊三郎、お富は伊三郎の愛人お政のことで、2人の間の娘の名前が「お富」である。ほかにも明治時代浪曲界の巨匠 当時一世を風靡した桃中軒雲右衛門,梵鐘型の墓で知られる鳶頭のお祭り佐七,剣豪伊藤一刀斎などの墓があります。
18 品川寺
品川寺は真言宗醍醐派の別格本山の格式を持つ寺院で大同年間(806〜810)に開基と伝えられる古刹です。門前にある銅製の地蔵菩薩は江戸六地蔵の第1番に数えられ、高さは4.5mあります。この地蔵の作者は江戸の名鋳物師大田駿河守正義で、彼は六地蔵すべてを手がけたと言われています。本尊は大田道灌が崇拝したといわれる聖観音ですが、他の秘仏に水月観音があります。この観音様は、戦国時代に武田信玄がこの地を支配して、この観音様を甲州に持ち帰ったところ、これを運んだ武士が相次いで発狂したために、信玄の命であわてて元に戻したと言われています。また、鐘楼には「洋行帰りの鐘」と呼ばれている京都の名鋳物師 藤原村長が作った梵鐘があります。この鐘は慶応3年(1867)開催されたパリ万国博覧会に出品されましたが、帰国の途中で行方不明になっていました。 昭和に入ってからスイス ジュネーブのアリソナ博物館に保管されていることがわかり、交渉の結果、昭和5年に返還されて、約60年振りに寺に戻ってきたという数奇な運命の物語を持っています。山号は海照山。
19 海雲寺
この寺は、「千躰三宝荒神」を祀る寺として知られる曹洞宗の寺院。山号は龍吟山。建長3年(1251)当初臨済宗の寺院として建立されたが、1596年(慶長元年)曹洞宗に改められている。古くから荒神様はお台所で一番大切な火と水をお守りする神様として祀られ、荒神様をお祀りすれば一切の災難を除き衣食住に不自由しないとされてきました。品川の千躰荒神は江戸時代から竈の神様、台所の守護神として多くの人々から信仰されてきました。肥前佐賀藩 鍋島家は当寺の尊像を守護して、長い間篤い信心にもとにお祀りしてきました。それからはあらゆる階層の人々の参詣も多くなり、後年、江戸年中行事の一つにもなりました。この尊像を信仰する人々の受けました霊験利生は数えきれないものがあると言う。 また、当寺には平蔵地蔵尊がある。その由来は、江戸の末期、1860年頃、鈴ヶ森の刑場の番人をしながら交代で町に出て施しを受けて暮らしていた3人連れの乞食がいました。その一人平蔵は、ある日多額の金を拾ったが落とし主を探して、当然のこととして金を返し、お礼の小判を断った。そのことを知らされた仲間は金を山分けすれば三人とも乞食を止めて暮らせたではないかと腹を立てて正直者の平蔵を自分たちの小屋から追い出し、凍死させてしまった。これを聞いた金の落とし主である仙台屋敷に住む若い侍は平蔵の遺体を引き取り、青物横丁の松並木の所に手厚く葬り、石の地蔵尊も建ててねんごろに供養したという。いつの世も人は利害得失を先とし、他人の迷惑を考えず、金銭のために大切な人の命さえ取る者がいる。誠心で清く正しい平蔵の心に感銘し、その死後、報恩感謝の誠を敬虔な態度で示した若い侍の行動から導かれるものがあると海雲寺住職が賛仰して建てたのが、この平蔵地蔵尊である。
20 泊船寺
室町前期に創建された臨済宗の寺。徳川五代将軍綱吉の時代の住職が、松尾芭蕉と親交があり、境内に牛耕庵を建てて芭蕉を招いたと伝えられていて、現在も、芭蕉の弟子である服部嵐雪や宝井其角の座像が安置されている。文化年間(1804〜1818)俳人でもある白牛禅師が住んだとき、この寺は俳句が盛んになり、毎年3月、10月には牛耕庵の前で句会が開催されている。境内には、芭蕉の「旅人とわが名呼ばれん初しぐれ」「いかめしき音のあられや檜笠」や白牛禅師の「いさりびに鵜の飛びゆく霜夜かな」などの碑が置かれている
21 海晏寺(かいあんじ)
建長3年(1251)品川沖に大きな鮫の死体が上がった。これを解体したところ中から木造の聖観音が出てきました。この話が鎌倉幕府 執権北条時頼の耳にはいり、時頼の命で、この地に伽藍が建立され、聖観音が安置されました。これが海晏寺の始まりと言われて、鮫洲の地名はこの故事から来たといわれています。海晏寺)は江戸時代には広大な寺域を有し、紅葉の名所として知られました。この寺への紅葉狩りを口実に品川宿の遊郭に行く不心得者も多かったらしく、「海晏寺真赤な嘘のつきどころ」「品川も負けずに近所に海晏寺」などの川柳が歌われています。(吉原には正灯寺という紅葉の名所がある)墓地には、幕末の賢君 松平春嶽、明治の元勲 岩倉具視、明治政府の金融財政を支えた由利公正、大審院(現在の最高裁長官)児島惟謙らの墓がありますが、一般の見学は許されていません。