第13回 お江戸散策 新宿・四谷界隈 解説
1 新宿
江戸五街道の一つ、甲州街道は第一の宿場が調布で、江戸から4里2丁(16km)もあったので、その中間に宿場を求める声が高かった。元禄十一年(1698)名主の高松喜六らの願いにより、四谷大木戸から新宿3丁目(伊勢丹)交差点付近まで、新たな宿場を造ることが許された。この界隈は高遠藩内藤家の中屋敷前であったことから、新しい宿場の意を込めて内藤新宿と呼ばれるようになった。内藤新宿は新宿追分とも呼ばれ、青梅街道への分岐でもあったことから、江戸への物資輸送の要衝となり、商業、文化、娯楽の町として大いに栄え、開設以来300年間、繁栄をつづけ今日に至っている。
  2 天龍寺
徳川二代将軍秀忠の生母西郷局が拝領した寺院。山号は護本山。初めは牛込納戸町にあったが火災で焼失後、この地に移転して、約12,000坪の寺地を拝領した。常陸笠間藩 牧野家の菩提寺でもあり、明和4年(1767)に牧野備後守貞永が寄進した時の鐘がある。江戸九鐘のひとつで登城の武士が遅れないように、刻限より早くついたと言う。これは新宿で遊興していた人々を追出す鐘とともなっていたため、「追出しの鐘」ともいわれ遊興人からは嫌がれたといいます。また、この寺にはかって池があり、恩田(渋谷)川の濫觴の一つでした。恩田川は新宿御苑内を経て、渋谷方面に流れ目黒川に注いでいる。
3 花園神社
元禄年間にできた内藤新宿は宿場町として賑わうとともに、岡場所(官許の遊里以外で私娼のいた場所)としても知られるようになります。花園神社は宿場町としての新宿が栄えるとともに、総鎮守として多くの人々の信仰を集めるようになりました。安永9年(1780)と文化8年(1811)には、大火で焼失した社殿を再建するため境内に劇場を設けて、見世物や演劇、踊りなどを興行したことが評判になり、近郷から多くの人々が集まるようになりました。花園神社と芸能の縁は、この頃から始まったものです。昭和42年劇作家・演出家の唐十郎(からじゅうろう)劇団のテント芝居が行われたのが、当神社境内で、芝居の内容が公序良俗に反すると神社や地元商店街から反対運動が起こり、神社を去った。この劇団(状況劇場)からは、のちに小林薫、佐野史郎、渡辺いっけいらの名優を配するなど、芸能文化を育む役割も担ってきた。芸能の起源が神事であるように、今日でも、花園神社と新宿の遊興文化は密接に結ばれている。
4 成覚寺
通称、投げ込み寺と言われ、新宿の遊女が死ぬと、さらし綿や米俵に包まれてこの寺に放り込まれたという。門前の旭地蔵は、道ならぬ恋に絶望し、身投げした遊女と客の心中者を供養した地蔵で、情死した男女18人の戒名が刻んである。「子供合埋碑(ごうまいひ)」は旅籠屋の飯盛女(遊女)たちが病気などで死んだ霊を供養したもので、宿主が遊女のことを「子供」と呼んでいたことから、この名が付けられた。「白糸塚」は遊女白糸と鈴木主水の悲恋物語に因んでいて、歌舞伎市村座で上演されて、大当たりし、白糸役の2代目坂東秀佳が嘉永5年(1852)に奉献したものである。「すえの世も結ぶえにしや糸柳」と刻まれている。また同寺には、明治初期、太陽暦の導入に献身した塚本明毅の墓がある。
  5 正受院 願光寺
文禄3年(1594年)に創建された浄土宗の寺院。山号は明了山。正受院は奪衣婆像(だつえば)で知られている。奪衣婆とは、三途川の渡し賃である六文銭を持たずにやってきた亡者の衣服を剥ぎ取る老婆を言い、奪衣婆が剥ぎ取った衣類は衣領樹(えりょうじゅ)という木にかけられ、亡者の衣の重さにはその者の生前の業が現れ、その重さによって死後の処遇を決めるとされる俗説があった。
 当寺の奪衣婆は咳止めや子どもの虫封じに霊験ありとされ、お礼参りには綿を奉納する習慣があった。幕末には、奪衣婆が「正受院に押し入った泥棒を霊力で捕らえた」「綿に燃え移った火を自ら消し止めた」といった噂が広まり嘉永元年(1848年)の年末から翌年にかけては参詣客が正受院へ押し寄せる騒ぎとなった。歌川国芳などにより、綿をかぶった姿の奪衣婆を描いた錦絵が多数発行され、現存している。また、境内には戦争中に供出され、17年振りにアメリカから返還された梵鐘がある。
6 太宗寺
高遠藩内藤家ゆかりの寺で、内藤家は後に継嗣問題で改易となるが、五代正勝のときに、安房勝山藩2万石を拝領する。正勝死去のとき葬儀を太宗寺で行い、以降内藤家の菩提寺となる。正勝死後、後継ぎが幼少のため減封され、五千石の旗本になっている。境内には露座の銅製地蔵菩薩像が安置されていて、江戸六地蔵の一つとして知られている。夏目漱石は、幼少のとき養父塩原昌之助の屋敷が寺の裏手にあったことから、よくここで遊び、自伝小説”道草”に中で、この地蔵によじ登って遊んだことを書いている。因みに江戸六地蔵は、第一番品川寺(ほんせんじ)(東海道)、第二番太宗寺(甲州街道)、第三番真性寺(中山道)第四番東善寺(奥州街道)、第五番霊厳寺(水戸街道)、第六番永代寺(千葉街道ー現在、廃寺)をいう。閻魔堂の高さ5.5mの閻魔大王は商売繁盛の神として、宿場の商人たちの信仰を集め、現在に至っています。
7 新宿御苑
 新宿御苑の敷地は、天正18年(1590)に徳川家康が江戸城に入城した際、譜代の家臣であった内藤清成に授けた江戸中屋敷の一部で、周囲3.5km、面積58.3h(約18万坪)に及ぶ広大な公園です。明治5年内藤家から上納された土地に農事試験場が作られ、果樹園、野菜園、水田があった。その後宮内省「新宿植物御苑」になり、皇室のパレスガーデンになった。明治34年、当代一流の農学者、造園家、園芸家の福羽逸人(ふくばはやと)の指導のもと、5年の歳月をかけて、「新宿御苑」として明治39年(1906)5月に完成した。イギリス式風景庭園は中央が広々とした芝生で、ユリノキの大木を特徴としている。フランス式整形庭園にはプラタナスの並木を両側に4列づつ、左右対称に配列し、その美しさは人々を魅了しています。園内は、3月、4月梅、ハクモクレン、桜、5月つつじ、フジ、10月バラ、11月菊など花が絶えることなく、大温室では熱帯、亜熱帯の多彩な植物の花が咲き乱れている。
 玉藻池を中心とする日本庭園は安永元年(1772)に玉川上水の余水を利用して完成した内藤家の庭園『玉川園』の一部です。昭和24年に一般公開され、大都会のオアシスとして親しまれている
8 四谷大木戸
元和2年(1616年)、江戸幕府により四谷の地に、甲州街道における江戸への出入り口として大木戸が設けられた。地面には石畳を敷き、木戸の両側には石垣を設けていた。初めは夜になると木戸を閉めていたが、寛政4年(1792年)以降は木戸が撤去されている。文政12年(1829年)に描かれた「江戸名所図会」には、木戸撤去後の人馬や籠などの行き交う様子が描かれている。大木戸近くには承応2年(1653年)に完成した玉川上水の四谷水番所が設けられ、ここから地中にめぐらされた石樋や木樋で江戸市中へ配水されていた。また、元禄12年(1699年)には大木戸の西に甲州街道最初の宿場となる内藤新宿が開設されている。明治維新後、石畳や石垣は交通の障害となったため、明治9年(1876年)に撤去された。新宿御苑の出入り口のひとつである大木戸門の名前は、四谷大木戸に因むものである。
9 長善寺(笹寺)
長善寺(笹寺)は、天正三年(1575)甲斐国武田信玄の家臣高坂弾正昌信の縁者に当たる文叟燐学(ぶんそうりんがく)和尚が開山したと伝えられ,徳川2代将軍秀忠が鷹狩りの途中で立ち寄り,生い茂っている熊笹を見て笹寺と名づけたといわれる。境内には寛永元年(1624)に横綱 明石志賀之助がここで相撲興行を行ったのを記念する「四谷勧進角力始祖」と刻まれた石碑がある。勧進相撲というのは、神社仏閣の建立や修復を名目に相撲興業を行い広く浄財を集めることである。相撲は歌舞伎・吉原と並ぶ江戸三大娯楽の一つと言われていたが、笹寺は「江戸勧進相撲」の発祥の地なのである。また、有形文化財に指定されている寺宝「めのう観音像」は、赤めのうで彫られた珍しい観世音菩薩像で、徳川2代将軍秀忠夫人(江)の念持仏と伝えられる。
10 於岩稲荷田宮神社
於岩稲荷田宮神社は、東海道四谷怪として有名なお岩の霊を祀っている。東海道四谷怪談にでてくるお岩は、婿養子の夫伊右衛門の浮気に嫉妬し狂乱して夫に毒殺されるという話だが、実際のお岩は夫を助け、健気な一生を送った女性だという。お岩は、徳川家の御家人の田宮又左衛門の娘で、夫の伊右衛門とは人も羨むとても仲の良い夫婦で、 代々、家に伝わる稲荷を厚く信仰し、蓄えを増やし田宮家を再興させた。このことがたちまち江戸の評判になり、人々はお岩の幸運にあやかろうとして、屋敷社を「お岩稲荷」と呼んで参拝し、信仰するようになったという。
怪談でお馴染みの井戸は、向かいにある陽運寺の境内にある。
  11  西應寺(さいおうじ)
西應寺は、寛永十二年(1635)麹町から、この地に移転。幕末から明治にかけて活躍した、「最後の剣客」といわれた榊原鍵吉の墓がある。鍵吉は、幕府講武所 剣術師範役 直(じき)心影流の男谷信友の門下となり、免許皆伝を受ける。文久二年(1862)師範に昇進、元治元年(1864)下谷車坂に道場を開く、上野戦争、明治維新では徳川に従い静岡に移ったが上京、撃剣会を発足、衰退した剣術の再興普及に努めた。明治20年天覧の席で「兜割り」を成功させ、最後の剣客として称賛された。
12 戒行寺
戒行寺は池波正太郎の小説「鬼平犯科帳」の「鬼平」こと長谷川平蔵宣似(のぶため)の菩提寺でとして有名。長谷川平蔵は、400石の旗本の嫡男として生まれ、安永3年(1774年)、田沼意次の治世下、31歳で江戸城西の丸御書院番士(ごしょいんばんし)に任ぜられて以降順調に出世して、天明7年(1787年)42歳の時、火付盗賊改役に任ぜられた。寛政の改革で人足寄場(犯罪者の更生施設)の建設を立案し、石川島人足寄場の設立などで功績を挙げた。しかし、この時上司である老中首座・松平定信に予算の増額を訴え出たが受け入れられず、やむなく宣以は幕府から預かった資金を銭相場に投じるという方法で資金を得た。辣腕とも言えなくは無いが、道徳的には認められるものではなく、またこのような手法はかつての田沼意次を思い起こさせるようなものがあり、このため意次を毛嫌いしていた定信とは折り合いが悪かった。定信は、平蔵の功績は認めたものの「山師などと言われ兎角の評判のある人物だ」と述べたほどである。寛政元年(1789年)、関八州を荒らしまわっていた大盗賊 真刀徳次郎一味を一網打尽にして、その勇名を天下に響き渡らせる。
寛政3年には江戸市中で強盗及び婦女暴行を繰り返していた凶悪盗賊団の首領・葵小僧を逮捕したが、裁きの場で取り調べると、被害者が悲しい思いをすると考え、逮捕後わずか10日という異例の速さで処刑している。非常に有能だが幕閣や同僚からはあまり信頼されていなかったようで出世はままならなかったが、的確で人情味溢れる仕事振りに庶民からは「本所の平蔵さま」「今大岡」と呼ばれ、非常に人気があった。寛政7年(1795年)、8年間勤め上げた火付盗賊改役の御役御免を申し出て、認められた3ヵ月後に死去した。死の直前、11代将軍家斉から懇ろな労いの言葉を受け、高貴薬「瓊玉膏(けいぎょくこう)」を下賜されている。
* 書院番とは、江戸幕府の徳川将軍直属の親衛隊。
13 勝興寺
 曹洞宗の寺院で、“首切り浅右衛門”の墓があることで知られている。江戸時代の処刑史を語る上での重要人物である山田浅右衛門は江戸時代に刀剣の試し斬り役を務めるとともに、死刑執行人も兼ねた山田家の当主が代々名乗った名称である。浅右衛門家の斬首刑の執行は正確には「副業」であり、本業は「公儀御試御用(おためしごよう)」といって、将軍家に納められる刀剣の切れ味を実際に「試し斬り」をして確かめるという仕事をしていました。一太刀の下に人体を断つという稼業故、その剣の腕は目を見張るものがあります。「首の皮一枚」という言葉がありますが、これは本来斬首の際の作法で、首の皮一枚を残して刀を振り下ろし、首が落ちて傷付かないようにするという、恐ろしく難度の高い技術でした。また、刀剣の鑑定にも秀でており「遠山の金さん」で有名な遠山景元、新撰組の土方歳三、勝海舟、黒田清隆といった面々が刀の鑑定を依頼しています。同寺には、六代目吉昌が寄進した天水樋があり、七代目吉年(よしとし)、八代目吉亮(よしふさ)が眠っています。吉年は、安政の大獄で捕えられた、橋本左内、吉田松陰を、吉亮は、大久保利通の暗殺犯 島田一郎や明治の毒婦と言われた高橋お伝を斬首しています。明治13年に死刑方法が変更され、斬首刑から絞首刑になり、山田家は以降、廃業している。
14 須賀(すが)神社
須賀神社は、俗称四谷天王社といい、四谷18ヶ町の総鎮守として信仰された。境内には大鳥神社があり、ここの酉の市は花園神社よりも賑わい、浅草に次ぐ東京第二の繁昌と言われていた。社殿内に掲げられている三十六歌仙絵は、平安時代中期の公卿藤原公任が、過去および同時代の優れた歌人三十六人を選定したもので、万葉歌人から柿本人麿・山部赤人・大伴家持の3人が、平安時代前期の「古今集」「後撰集」頃の歌人から紀貫之・在原業平・小野小町など33人が選ばれている。画家として高名だった旗本大岡雲峰の絵と、和歌や書画で人気を博した公卿千種(ちぐさ)有功の書により天保七年(1836)に完成、奉納されたものである。

15 愛染院(あいぜんいん)
真言宗の寺院。内藤新宿生みの親である高松喜六と塙保己一の墓があることで知られている。高松は内藤新宿を開発してから、本陣を経営して莫大な利益を上げたと言われる。また、塙保己一は江戸時代中期の盲目の国学者で和学講談所を設立して、日本史、国文学における重要な資料集である「群書類従(ぐんしょるいじゅう)」の編纂をしたことで名高い。群書類従とは、江戸時代における神祇、官職、律令、装束、文筆、和歌、日記、紀行、遊戯などを40年近い年月をかけて分類し、530巻に編集した画期的な文献です。奇跡の人 ヘレンケラーは彼を尊敬し、「彼はわたしの人生の目標である」と語っている。
  16 西念寺(さいねんじ)
西念寺は、文禄二年(1593)に服部半蔵(石見守正成)が創建した浄土宗の寺院。半蔵は、徳川家康の三河時代からの旧臣で天正七年(1579)、家康の長男信康が、織田信長のために切腹を命ぜられたとき、介錯役を命じられたが信康の非業の最期を見るに忍びず、金縛りになり、号泣して介錯できなかったという。後年、信康を供養するため、この西念寺を創建したと言われています。1582年(天正10)6月2日、本能寺の変が起きたとき、家康は僅かな家臣たちとともに堺に滞在していたが、すでに明智光秀から討手が差し向けられて、居城三河岡崎に帰還することは不可能に近い窮地にあった。絶望的な境地にあった家康に、半蔵は帰還路を伊賀の御斉峠(おとぎとうげ)越えすることを進言した。この伊賀越えは、賞金目当ての土豪や山賊たちが潜んでいる危険な道中であったが、半蔵は伊賀忍者を味方に付けて、3日間の苦難の逃避行の末、家康を無事、本国に帰すことに成功した。家康はこの半蔵の働きを褒め称え、伊賀の忍者を同心として多く召し抱えた。そして半蔵を伊賀同心の頭領として任命し、軍事的重要地である甲州街道の守衛役に命じた。その禄高は、大名格の八千石もあったという。家康が半蔵を信頼する証として、江戸城に「半蔵門」として、服部半蔵の名が付けられている。半蔵は槍の名手としても知られ、半蔵愛用の槍は当寺に保管されている。
  17 迎賓館 赤坂離宮
赤坂離宮は、かつて紀州徳川家の江戸中屋敷があった広大な敷地の一部に、明治42年(1909)に東宮御所(後に赤坂離宮となる。)として建設されたもので、建築家片山東熊の総指揮のもとに、当時一流の日本美術工芸家が総力を挙げて建設した日本における唯一のネオ・バロック様式の洋風建築物です。戦後、わが国が国際社会へ復帰し、国際関係が緊密化してゆくなかで外国の賓客を迎えることが多くなったため、「旧赤坂離宮」を改修して迎賓館とすることになりました。 昭和49年(1974)の開館以来、世界各国の国王、大統領、首相などの国賓、公賓がこの迎賓館に宿泊し、政財学界要人との会談やレセプション、天皇皇后両陛下によるご訪問など華々しい外交活動の舞台となっております。また、過去3回の先進国首脳会議(サミット)や日本・東南アジア諸国連合特別首脳会議などの重要な国際会議の会場としても使用されています。
18 四谷見附跡
見附とは不審なものが侵入しないよう見張る監視所のことで江戸城には三十六あったと言われる。ここ四谷見附門は、幕府の命により、寛永16年(1639)長州藩毛利秀就(ひでなり)(輝元の長男)によって造られた。城内から甲州街道に至る場所に据えられており幕府の万一の際の退却路である甲州街道に至場所であることから幕府の最重要な城門であった。形式は、外桜田門同様の枡形門で、道筋が直線で抜けられない様になっていた。城門には常時警備の武士がいて、暮れ六ツ(午後6時)に門の扉は閉められ、夜間は通行出来なかった。明治5年に撤去され、道路は直線で甲州街道に歩めるようになった。一部残っている石垣が往時の姿を留めている。