第15回 お江戸散策 田端・王子界隈 解説

1与楽寺
真言宗豊山派寺院の与楽寺は、宝珠山地蔵院と号し、寺伝によると、弘法大師が寺院をこの地に建立したのが始まりです。慶安元年(164820石の朱印を賜り、仁和寺の関東末寺の取締役寺を務めていました。江戸六阿弥陀の四番札所です。六阿弥陀とは、奈良時代の高僧行基が、一夜の内に一本の木から六体の阿弥陀仏を刻み上げ江戸の六寺に安置したと伝えられています。その六寺とは豊島西福寺・足立恵明寺・西ヶ原無量寺・田端与楽寺・下谷常楽院・亀戸常光寺です。本尊は秘仏の地蔵菩薩像です。この地蔵菩薩像は、弘法大師作といわれ、昔この寺に、ある夜賊が押し入ったが、多くの僧が出て来て追い払った。翌朝、本尊の足が汚れていたことから賊除地蔵と呼ばれています。

2 東覚寺と田端八幡神社
田端には、二つの八幡神社があり、ここの八幡神社は、下八幡と呼ばれている。文治5年(1189)源頼朝が創建したと伝えられ、江戸期には、富士講信仰で栄え、当時を偲(しの)ぶ富士塚がある。東覚寺は、谷中七福神の一つで、福禄寿が祀られている。七福神とは、仏法の教典の一つにある「七難即滅、七福即生」のことで、仏法を篤く信仰すれば、七つの大難もたちまち消え、七つの福が生ずるという教えのことである。また、当寺は八幡神社の別当寺でもあり、神社の管理運営を司ってきた。門前には赤紙仁王が鎮座していて、病と同じ個所に赤紙を貼ると病が治ると言い伝えられ、治ったときに草鞋をあげる習わしがある。本堂前には、太田蜀山人の狂歌碑があり、「むらすずめ さわくち声も もも声も つるの林の鶴の一声」と彫られている。太田蜀山人とは、田沼時代の頃活躍した狂歌師であるが、本名は太田直次郎(南畝)といい、御勘定所取調御用を勤めるれっきとした幕臣でした。田沼意次失脚後、松平定信の時代になってから、風刺の作をたびたび出し、御上から睨まれるようになってから自粛するようになった。「世の中に蚊ほどうるさきものはなし ぶんぶといひて夜もねられず」は彼の作と言われている。

3 田端文士村
田端は、維新後寛永寺境内に美術学校が開校し、東京帝国大学も近いことから、芸術家や、文筆家たちが多く移り住んで、交友を結んだ。陶芸家板谷波山、小説家芥川龍之介、室生犀星、詩人萩原朔太郎、サトーハチロー、評論家平塚雷鳥らの足跡を、この田端文士村記念館で見ることができる

4 大久寺
大久寺は、北区田端にある法華宗陣門流寺院です。文禄元年(1592)大久保相模守忠世が大久保一族の菩提を弔うため、 小田原に創建(宝珠山大久寺)しました。忠世の長子忠隣は、二代将軍秀忠の老中となったが本多正信と対立し、讒訴(ざんそ)によって改易となり、伊勢亀山藩石川氏に養子となっていた忠隣の二男忠総の石川家と、大久保家との両家の菩提寺となりました。寛永7(1630)の江戸下谷車坂への移転の後、明治36年に当地に移転しました。

5 大龍寺
真言宗雲寺派の大龍寺は、古くは不動院浄仙寺し慶長年間(1610)に創建されましたが、天明年間(1785)頃に大龍寺と改称しました。別名子規寺とも呼ばれ、俳人正岡子規の墓が竹林を背にしてあり、ファンが頻繁に墓参に来ています。板谷波山夫妻も当墓域に眠っています。豊島八十八ヶ所霊場21番札所です。

6 円勝寺
円勝寺は、弘安9年(1286)に開山した古刹で、慶長年間に寺領5石の朱印状を賜った御朱印寺でした。当寺の墓域には石州流茶道の流れをくむ伊佐家代々の墓があります。伊佐家は江戸時代の茶人の家柄で、石州流茶道を学んで石州流伊佐派の開祖となり数寄屋頭を務めました。数寄屋頭とは茶道頭とも称した江戸幕府の職制で、若年寄の支配下にあり、その職務は数寄屋坊主を指揮して、御三家や大名などの茶事を取り扱うことでした。伊佐家は数寄屋頭として幕府の茶道を支配していた事から、武家茶道界では大きな勢力を持っていました。特に三代の門下からは、茶人としても著名な松江藩主の松平不昧 (治郷)などが輩出しました

7 旧古河庭園
旧古河庭園は幕末期、長崎奉行や勘定奉行を務めるかたわら能書家としても知られた戸川播磨守安清の下屋敷があった所である。この屋敷は明治に入り、外務大臣陸奥宗光の邸宅になった。ここが古河家に所有が移ったのは、宗光の次男・潤吉が古河財閥創業者である古河市兵衛の養子となったためである。その後、大正 6年(1917)に古河財閥 3代目当主の古河虎之助 (市兵衛の実子)によって西洋館と庭園が造られ現在の形となった。この洋館と洋風庭園の設計は、明治期多くの洋風建築を手掛けたジョサイア・コンドルが行い、日本庭園は近代日本庭園の先駆者として数多くの庭園を手掛けた小川治兵衛(植治)により作庭された。大正15年(1926)に虎之助夫妻が牛込市谷船河原町に転居した後は、古河家の迎賓館として使用された。終戦後は連合軍に接収され、イギリス大使館付駐日武官の宿舎などに利用された。財産税の物納で国有財産になった後は東京都に無償で貸し出され、1956年(昭和31年)430日に都立公園として一般に公開された。

8 無量寺
無量寺は佛寶山西光院と号し、真言宗豊山派に属する寺院です。慶安元年(1648)には幕府から年貢・課役を免除され元禄14(1701)4月に五代将軍綱吉の生母桂昌院が参詣したことが記録されています。
本堂の正面には、平安時代後期に造られたといわれる阿弥陀如来坐像が安置されています。江戸時代には、江戸六阿弥陀第三番目の阿弥陀として親しまれました。人々は春と秋の彼岸に極楽往生を願い、花見や紅葉狩りを楽みながら各所の阿弥陀如来を巡拝していたようです。阿弥陀如来坐像の右手には、本尊である不動明王像が安置されています。言い伝えによれば、ある晩、忍び込んだ盗賊が不動明王像の前で急に動けなくなり、翌朝捕まったことから「足止め不動」として信仰されるようになりました。また、大師堂の中には恵心作の聖観音像が安置されており、「雷除けの本尊」としても知られています。

9 城官寺
真言宗豊山派寺院の平塚山城官寺は、江戸時代には平塚神社の別当寺でした。三代将軍徳川家光が鷹狩りに来た折に、神社内に普請が立派な寺があるのを見て、「誰がこれを建てたのか?」問うたところ、名主が「山川城官貞久と言う者が、家光公が病にあったとき、病気平癒を祈念して社殿を造り直したのです」と答えた。これを聞いた家光は、これを喜び、城官に知行地200石与えて、寺号を平塚山城官寺安楽院と称するよう命じました。信頼を得た山川城官貞久はこの寺に入り、平塚神社ともども再興したと伝えられています。徳川家の侍医・多紀桂山(たきけいざん)一族の墓があり、東京都指定史跡となっています。

10 平塚神社
平塚神社の創立は平安後期といわれています。八幡太郎源義家公が奥州征伐の凱旋途中にこの地を訪れ領主の豊島太郎近義に鎧一領を下賜されました。近義は拝領した鎧を清浄な地に埋め塚を築き自分の城の鎮守としました。塚は甲冑塚とよばれ、高さがないために平塚ともよばれました。さらに近義は社殿を建てて義家・義綱・義光の三兄弟を平塚三所大明神として祀り一族の繁栄を願いました。徳川の時代に、平塚郷出身の検校山川城官が将軍徳川家光の近習となり立身出世を果たして、将軍家の信頼を得るようになりました。山川城官が当神社を庇護するとともに、家光も五十石の朱印地を平塚明神に寄進し、自らも、鷹狩りの途中たびたび参詣に訪れることもあり、寺社は大いに栄えました。

11 東京ゲーテ記念館
1949年、ゲーテの生誕200周年を記念して、実業家・粉川忠が「ゲーテの精神的遺産を継承発展するため」の研究機関・資料館として北区王子に、財団法人 東京ゲーテ協会を設立。
1988年、現在地に移転して新館を落成し、名称を財団法人 東京ゲーテ記念館と改めた。当館は非営利の資料館で、ドイツの詩人ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテについての資料や情報を提供している。基本原典のほか、初訳本、研究書、雑誌、新聞切抜きなど既整理総資料数15万点を収蔵しています。資料の一部を展示・紹介するとともに、文献は、すべて詳細な文献カードで整理されていて、あらゆる角度から検索できるようになっています。

12 西ヶ原一里塚
江戸幕府が参勤交代制度を確立させたことで、五街道は整備され、発展してきた。
五街道の他にも、青梅街道、川越街道、中原街道、そして将軍が日光東照宮へ社参するために作られたここ岩槻街道も幹線としての役割が深まっていった。江戸期以前から一里塚という目印はあったが、幕府は日本橋を起点とした道路網を全国に整備されるのに伴って、一里を36町と定め、一里ごとに旅人の目印として道路の左右に塚を築き、遠くからも見えるように榎を植えさせた。この一里塚は近代化とともに多くが撤去され、消失していったが、西ヶ原一里塚は、渋沢栄一や地元市民の強い願いから保存され、中山道の志村一里塚とともに都内に残る貴重な文化財である

13 渋沢記念館(青淵文庫、晩香櫨)

ここは、渋沢栄一の邸宅があった所で、約3万坪あった面積は、3分の1になっている。記念館は実業家 渋沢栄一の思想や業績が展示してあり、その足跡を辿れば日本の近代経済史がよくわかる。庭園内には鉄筋洋館の青淵文庫と洋風茶屋の晩香櫨がある。青淵とは栄一の実家の渕上小屋に因んだもので、晩香とは、栄一が好きな菊の花が晩節に香りを放つことから、その想いを込めて名付けられたという。

渋沢栄一は天保11年(1840)に埼玉県深谷に生まれ、家業の畑作、藍玉の製造・販売を手伝う一方、幼い頃から父に学問を学び、縁あって、一橋家に仕えることになり、27歳の時、15代将軍となった徳川慶喜の実弟・後の水戸藩主、徳川昭武に随行しパリの万国博覧会を見学するほか欧州諸国の実情を見聞して、株式会社組織を学んだ。維新後、明治政府に招かれ大蔵省に入り、新しい国づくりに深く関わるが自らの才能と知識を実業界で役立てることを決意し、大蔵省を辞した後、民間経済人として活動し、富岡製糸工場や王子製紙の設立に貢献する。そして第一国立銀行の頭取となって、日本資本主義草創期の造船、紡績、海運、鉄道、ホテル、ビール、保険など、約500の会社の成立、育成に関わり、近代産業発展に大きな役割を果たした。現役、引退後は、社会福祉と教育事業に尽力し、多くの人々に惜しまれながら、昭和61931)年、91歳の生涯を閉じました。

14 飛鳥山公園
桜の名所、飛鳥山は、享保8年(1723)八代将軍吉宗が、大量の桜を植えさせ、江戸庶民の憩いの場としたのが、始まりで、明治6年(1873)の太政官布達によって、浅草寺、増上寺、寛永寺、富岡八幡宮とともに東京市の公園に定められた。公園内の飛鳥山之碑は、将軍吉宗自らが花見をしたのを記念して、時の儒者成島道筑が撰文したもので、文章が難解なことから、当時の川柳に“この花を折る名なだろうと石碑見る”と謳われている。幕末期、幕府の外国奉行、会計副総裁など歴任し、明治に入ってからも朝野新聞社を起こして文論活動をした成島柳北は、道筑の玄孫(孫の孫)である。また、桜賦の碑は、佐久間象山の勤王の精神を桜に託して詠んだ詩を明治に入ってから、弟子たちが碑にしたものである。

15 王子神社
王子神社は、南北朝時代の後醍醐天皇統治期、当地を治めていた豊島氏が紀州熊野権現の若一王子宮を勧請したことに始まりました。徳川時代に入ると家康は天正19年(1591)朱印地二百石を寄進し、将軍家祈願所と定めました。二百石は当時としては広大な社領で、それより代々将軍の崇敬篤く、「王子権現」の名称で江戸名所の1つとなります。とくに紀州出身の徳川八代将軍吉宗は、元文2年(1737年)に飛鳥山を寄進、桜を多く植えて江戸庶民遊楽の地としました。これが今に残る「花の飛鳥山」の基となったもので、現在も桜の季節には多くの花見客で賑わっています。また、境内には、全国でも珍しい「髪の祖神」が祀られており、床山業界の方々に篤く信仰されています。御祭神は百人一首で有名な蝉丸公で、姉「逆髪姫」のために鬘を作ったと言い伝えられています。

16 王子稲荷神社
王子稲荷神社は関八州稲荷神社の総元締社で、農業神だが、商売繁盛にも願い事が叶うとして、近在から多くの参詣者を集めている。狐にまつわる言い伝えが多くあり、落語「王子の狐」の舞台としても知られ、狐の石像が多数あります。毎年2月初午の日には火難除けの凧市が立ち、境内に凧屋が店を出し、神社から授与される「火防けの凧守」を求める人々で賑わいます。大晦日には関八州から装束を改めた狐の行列があるという伝説に因んで、装束稲荷神社より、狐のお面や装束を身につけた人々が行列して王子稲荷神社へ正月の参拝をする狐の行列が行われ、江戸時代から現代まで多くの参拝者で賑わっています。

17 名主の滝公園
名主の滝公園は、江戸時代に王子村の名主畑野孫八が屋敷内に自費を投じて、滝を開き、茶を栽培して一般に開放したのが始まりで、名前の「名主」はそこに由来する。明治中期には貿易商垣内徳三郎の所有となり、栃木の塩原の風景を模して庭石を入れ、ヤマモミジなどを植栽、渓流をつくり一般に開放した。入口は重厚な薬医門が建てられ、大きな池を囲んだ庭園になっている。男滝、女滝、独鈷の滝など個性的な滝があり、区民の憩いの場所として親しまれている。

【メモ】 

@ 別当寺とは、神仏習合が許されていた江戸時代以前に、神社を管理するために置かれた寺をいう。
A 薬医門とは、江戸期、医者の家の門に多く使用されたことに因んで名付けられた門で、表面に内開き
    板扉を立て、2本の本柱の背後だけに控え柱を立て、切妻屋根をかけているのが特徴。

B 谷中七福神
  (七福神は、仏法の教典の一つにある「七難即滅、七福即生」のことで、仏法を篤く信仰すれば、七つ
  の大難もたちまち消え、七つの福が生ずるという教えのことである。新春の行楽として人気がある)
  1東覚寺(とうがくじ) 2青雲寺 3修性院 4天王寺 5長安寺 6護国院 7弁天堂 

C 大江戸六阿弥陀
 (奈良時代の高僧行基が彫った阿弥陀如来像が六寺に安置)
 1西福寺(さいふくじ) 2延命寺 3無量寺 4与楽寺 5常楽院 6常光寺

D 大江戸六地蔵
 (地蔵菩薩は地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六道のどこに居ても、現れて
  人々を救済するという仏で、六つの街道に当てはめて、それぞれの街道に安置)
 1 品川寺 2 太宗寺 3 真性寺 4 東禅寺 5 霊厳寺 6永代寺(廃寺)

E 大江戸五色不動 
 (天海僧正の発案により、風水思想から江戸の鎮護を目的)
 1目黒不動(龍泉寺) 2目白不動(金乗院) 3目赤不動(南谷寺) 4目青不動(最勝寺教学院)
 5目黄不動(江戸川区最勝寺・三ノ輪永久寺)