第16回 お江戸散策 北千住・南千住界隈 解説

1 北千住
千住は中世期頃から奥州、常陸に通じる要衝であったことから物々交換など商業の中心地でした。文禄3年(1594)徳川家康が江戸に入府して千住大橋を造らせて、かつ日光街道の初宿場となってからは、青果、穀物、川魚、材木などの商いが盛んになり、享保年間には江戸の三大市場として、大いに繁栄した。町を南北に走る旧日光街道は、当時とほぼ同様の道幅で残されており、沿道の商店からも、当時の繁栄の様子を垣間見ることができます。そして現在の北千住駅は、1日の乗降客数が全国17位の60万人を超える大きな町になっています。

2 長円寺
当寺は、新義真言宗月松山照光院長円寺といい、九代将軍家重の時代、延享年間に開山され栄えた。本尊は木造の薬師如来小立像であり、定朝風の名作である。扁額「月松山」は、明治2年(1869)に当地の寺子屋「群雀堂」を開いた三代目の校主、正木健順の筆である。当時の参道は、横山家の脇に沿ってあり、両側にカラタチの生垣が続いていたことから「からたち寺」の通称で親しまれてきた。山門左手の子育延命地蔵尊はめやみ地蔵と呼ばれ、千住絵馬ぎっしり掛けられていて、子育てと眼病平癒の効験があるとして厚い信仰を受けている。魚籃観音堂の寺宝「乳泉石」はこの石を削って飲むと乳の出が良くなると伝えられ、豊前中津藩奥平家からは毎年5両の寄進があったという。

3 清亮寺
この寺院は日蓮宗久榮山清亮寺といい元和5年(1619)身延山久遠寺の末寺として創建された。本尊は宗祖日蓮説法像を中心に、四菩薩、四天王など十五体の木造で構成されている。本堂は天保四年(1833)建造の総欅造りで、随所に江戸期の建築様式を残している。山門に掲げる扁額「久榮山」は書道の大家、中村不折が書いたものです。同寺は、水戸光圀ゆかりの槍掛け松のある寺として知られていましたが、現在、松は枯れてなくなっています。また、小菅集治監が近くにあったことから、明治初期、医学者たちが死刑になった囚人をこの寺で解剖して埋葬している。その墓碑には執刀者の名が刻まれ、日本外科医学のあけぼのを物語っています

4 名倉医院
名倉医院は江戸時代以来、骨つぎと言えば名倉、名倉と言えば骨つぎの代名詞になるほど、関東一円に知られた医療機関でした。下妻街道に面し、旧日光街道中や水戸、佐倉追分分岐点を間近にして便が良かったので、駕籠や車で運ばれて来る骨折患者でひしめいていたという。門前の広場は、これらの駕籠や大八車などのたまり場でした。名倉家は秩父庄司畠山氏の出で、享保年間(1716-36)頃、千住に移り、明和年間(1768頃)に「骨つぎ名倉」を開業したと伝わる。江戸時代から昭和中期まで盛業時の医院の建物は足立区の史跡に登録され保存されている。かって、名倉医院の周辺には、患者が宿泊して加療できる金町屋、万屋などの下宿屋があって、その主人が名倉医院で治療にあたる医師および接骨師を兼ねていた。

5 横山家住宅
宿場町の名残として伝真屋敷の面影を今に伝えている商家である。伝馬屋敷とは送用の馬を置いている家のことで、街道に面していて間口が広く、奥行は深く、戸口は一段下げて造ってあり、客が入りやすいように気配りしているのが特徴である。敷地は間口13間、奥行56間ありウナギの寝床のように長い。横山家は「松屋」の屋号で知られた代々の紙卸問屋でした。地元の農家から地漉紙という、今日で言えばリサイクル紙を仕入れて日本橋方面に卸していたが、近年になって機械漉きによる紙が大量に生産されるようになり廃業した。現存する家屋の母屋は万延元年(1860)に建てられ、昭和11年に改修されている。間口は9間、奥行15間あり、往時を彷彿させる重厚な瓦葺き二階建て造りになっている。広い土間、商家の書院造りと言われる帳場二階の格子窓などに、一種独特の風格を感じさせる。上野の戦いで敗退する彰義隊兵士が切りつけた玄関柱の傷痕や戦時中に焼夷弾が貫いた屋根など、風雪に耐えてきた百数十年の歴史を語る住居である。また、「地漉紙問屋」の木製看板の書は山岡鉄舟が書いたものである。

6 絵馬屋・吉田家
吉田家は江戸中期より、代々絵馬をはじめ地口行灯や凧などを描いてきた際物問屋である。際物とは入用の季節の間際に売り出す品物や一時的な流行を当て込んで売り出す品物のことで、その時を逸すると無用、無価値になる代物のことである。手書きで書く絵馬屋は都内には見かけなくなり希少な存在となった。当代の絵馬師は八代目で、先代から独特の絵柄とその手法を踏襲し、江戸時代からの伝統を守り続けている。縁取りした経木に胡粉と美しい彩りの泥絵具で描く小絵馬である。絵柄は安産子育て、病気平癒、願掛成就、商売繁盛など祈願する神仏によって構図が決まっており、30数種ある。これらの代表的絵馬が現在、吉田家に一括保存されている。時代ごとの庶民の祈願を知る上で貴重な民俗資料である。戸口は一段下げて客が入りやすくしてあり、商家としての気配りが感じられる。掲げられている木製の看板は山岡鉄舟が書いたと言われる。母屋の裏には、天保年間に建てられた蔵もある。

7 金蔵寺当寺は、建武2年に創建された真言宗豊山派で氷川山地蔵院金蔵寺といいます。門を入った左側にある無縁塔は、天保8年(1837)に起こった大飢饉の餓死者供養塔で、千住の名主永野長右衛門が世話人となり、天保9年に建てたものである。碑文によれば「・・・飢えて下民に食なし・・・この地に死せるもの828人・・370人を金蔵寺に葬る」とある。並んで、横にあるもう一つの供養塔は、千住宿の遊女の供養塔で、この地で死んだ遊女の戒名が刻まれている。」千住宿には、本陣・脇本陣の他に55軒の旅籠屋があり、食売旅籠(遊女屋)が36軒あった。江戸後期には宿場以外に江戸近郊の遊里として発達した。そのかげで病死した遊女は無縁仏同様に葬られた。その霊を慰めるための供養塔である。

8 森鴎外住居跡 
森鴎外の父静男は、元津和野藩主亀井家の典医であったが明治維新後上京し、明治11年(1871)南足立郡設置とともに東京府から郡医を委嘱されて千住に住んだ。同14年郡医を辞して、橘井堂森医院をこの地に開業した。鴎外は、19歳で東京大学医学部を卒業後、陸軍軍医部に任官し、千住の家から人力車で陸軍病院に通った。こうして明治17年ドイツ留学までの4年間千住で過ごした。その後、静男は明治25年本郷団子坂に居を移した。

9 勝専寺
文応元年(1260)に創建された浄土宗京都知恩院を本山とする寺院で、「赤門寺」という通称で親しまれている。江戸時代に日光道中が整備されると、ここに徳川家の御殿が造営され、将軍徳川家忠・家光・家綱が休息した記録がある。また日光門主等の本陣御用を勤めた記録も見られ、千住宿の拠点の一つであったことが知られる。加えて当寺は、千住の歴史や文化に深くかかわる多くの登録文化財を今に伝えている。木造千手観音立像は千住の地名起源の一つとされ開基新井政勝の父正次が荒川から引き上げたという伝承を持つ。 ほかに1月と7月の1516日の閻魔詣で知られる寛政元年(1789)の木像閻魔大王坐像、幕末の書家巻菱潭(まきりょうたん)の筆による明治12年(1879)の扁額「三宮神山」を山門に掲げるほか、千住の商人高橋繁右衛門の冑付具足を伝来している。いずれも足立区登録文化財となっている。

10 源長寺
この寺院は稲荷山勝林院源長寺といいます。浄土宗の寺院で慶長15(1610)の創建で千住仲町を開発した石出掃部亮吉胤の草創で、開基は伊奈備前守忠次とされています。本尊は阿弥陀如来です。創建400年記念事業によって山門、本堂を始めとして境内全体が修景されました。戦災後に建てられたほとんどの建物が直されたので真新しい風情が漂っています。山門手前の地蔵堂は戦災の前まで千住の名物といわれた地蔵縁日で知られ縁日には近在からも多くの人が集まり非常に華やいだものです。江戸時代には13代将軍徳川家定の鷹狩の時、御膳所として使用されたり、日光門跡の日光社参の時、脇本陣御用を勤めたり勅使下向の際(1850)の脇本陣として使われた格式の高い寺院です。院号の勝林院は開基の関東総代官だった伊奈忠次の法名勝林院殿から採り寺号の源長寺もそれに続く戒名の一部から採ったものです。伊奈忠次の墓所は当然伊奈家の菩提寺鴻巣市の勝願寺にありますがここには草創の石出家の墓所が本堂裏手にあり足立区の文化財に指定されています。

10 千住大橋
最初に千住大橋が架橋されたのは、徳川家康が江戸に入府して間もない文禄3年(1594年)11月のことで、隅田川最初の橋である。架橋を行ったのは土木工事の大家で関東を中心に各地で検地、新田開発、河川改修を行った徳川譜代の臣、関東代官頭の伊奈忠次であったが伊奈忠次でも橋長66間(120m)、幅4間(7m)の大橋造りは難工事だった。それまで奥州街道、水戸街道へ行くには、現在の白鬚橋付近にあった橋場の渡しが使われたが、この大橋の完成で街道がこちらに移った。幕府は江戸の防備上、隅田川にはこの橋以外を認めなかったが、後に明暦の大火等もあり交通上、安全上のため両国橋が作られた。千住大橋は何度も改架、改修が行われ、明和4年(1767)の架け替えの際に、ほぼ現在の位置に架け替えられた。明治18年(1885)7月1日の台風による洪水まで、流出が一度も無く江戸300年を生き抜いた名橋と言われた。関東大震災後の震災復興事業の一環として、昭和2年(1927年)に現在の鉄橋が架橋された。

11 芭蕉矢立ちの地
"行春や鳥啼魚の目は泪"
この俳句は、元禄2年に松尾芭蕉が紀行文「奥の細道」で最初に読んだ句で矢立ちの初句として知られています。住んでいた深川から舟で隅田川をさかのぼり千住大橋で見送ってくれた弟子の杉山杉風たちとの別れに万感の気持ちを句にしたものです。杉山杉風とは、本名を鯉屋市兵衛と言い、家業は幕府に魚を納める魚問屋で財力があり、芭蕉に師事し、物心両面から芭蕉を援助した人です。つまり、魚とは杉風のことを指しています。昔の旅は今と違って死を覚悟し、二度と会えないかもしれないという思いがこの句にこめられています。また、芭蕉は旅に河合曾良を同行させていますが、本名を岩波庄右衛門といい伊勢長島藩の武士で大名の国元を観察・調査する幕府の巡見使を担っていました。芭蕉自身も、徳川家康の信任厚い藤堂家の家臣として、神田上水の水樋(上水道管)の清掃、保存管理等をしていたことがあります。このことから、この奥の細道紀行は表向きの話で、実は外様大名の動向を把握する隠密道中だったと言われているのです。
余談ながら、芭蕉は出羽の国立石寺を訪ねた折、
「しずかさや岩にしみいる蝉の声」という名句を残しています。この句の中の蝉とは、芭蕉が23歳のとき、京都に住む藤堂家の一族で2歳年上の藤堂良忠の世話役として奉公していました。
芭蕉はこの良忠に俳句の手ほどきを受け、彼の影響で俳諧に心酔していくのです。その良忠は俳号を蝉吟と名乗っていました。良忠は3年後に病で死んでしまいます。
その後、江戸に出て、生活のため治水工事などの仕事につく傍ら、俳諧で名声を上げていきました。この句蝉の声には、師匠の蝉吟を懐かしむ心情が込められているのです

12 橋戸稲荷社
橋戸稲荷社は、延長4年(926)に創建された。千住では歴史の古い神社である。初めは千住の渡し場のほとりの小高い丘に小さな社が造られ、土地の開拓民や、荒川の上流から江戸に荷物を運ぶ船頭達の信仰を集めた。本殿は延徳2年(1490)に建立された。文久3年(1863)に造られた拝殿は土蔵造りで扉を開くと左右に当時鏝絵の名工として名高かった伊豆長八作の雌雄2匹の狐と稲穂の漆喰の彫刻が見られる。伊豆長八の作品として、数少ない貴重な遺作である

13 熊野神社
永承5年(1050)八幡太郎義家が奥州征討する折にこの川辺に紀州熊野神社の御霊を勧請したのが始めといわれる古社である。徳川家康が江戸に入府後、代官伊那忠次は大橋の架橋を命じられ、熊野神社に成就祈願して、完成した翌年、残材で社殿の修理を行った。以後、大橋を修理するごとに祈願と修理が慣習となった。江戸中期に入ると、秩父や川越から材木、農産物が水運を利用して運ばれ、神社の門前は材木や雑穀問屋が立ち並ぶ熊野河岸と呼ばれ、明治・大正期に入るまで大いに賑わった。

14 素戔嗚神社
縁起によると創建が延暦14年(795)と云われ、今年で1218年になる古社である。地元では天王様と呼ばれ、南千住、三ノ輪、三河島、町屋など61町にも及ぶ区域の総鎮守で、古くから疫病除けで知られ、安政5年(1858年)江戸にコレラが流行した際は疫除守を求めて参詣者が群れ集まったといわれる。夏に流行する疫病を祓う「天王祭」は、都内でも珍しい二天棒の神輿で神輿振りをする事で知られている。境内には松尾芭蕉の「奥の細道」矢立初めの句碑「行く春や鳥啼き魚の目は泪」の記念碑がある。

 

15 千住製絨(せいじゅう)所跡
ここは、富国強兵、殖産振興によって近代化を目指していた明治政府が、内務卿大久保利通の建議により、陸海軍・警視庁で使われる制服の生地を国内で生産するために明治12年に作られた官営の製絨所があった所です。製絨所とは、毛織物を作るところのことです。工場の建物はフランス人建築家による赤レンガ造りの近代的な建物で、敷地は8千坪もありました。工場長には、長州出身のドイツで毛織物の技術を学んだ井上省三が就任しました。この工場は、戦後陸軍省から民間に払い下げられ、毛織物工場として稼働していたが15年ほどで廃業、建物も壊されて、この跡地に大映の永田雅一が、プロ野球大毎オリオンズのホームグランド「東京スタジアム」を造った。下町のスタジアムとして親しまれたが、大映が経営破綻した影響で、1972年(昭和47年)限りで閉鎖となり、施設は撤去されました。その後荒川区が運営し、スポーツセンターやグランドになりました。

16 円通寺
円通寺791年(延暦10年)坂上田村麻呂によって開かれたと伝えられる古寺である。明治維新の折、1868年(慶応4年)に行われた上野戦争で、亡くなった彰義隊の隊士たちは、新政府の命で上野の丘に放置されていたが、円通寺の住職や侠商三河屋幸三郎が願い出て遺体266体を現在上野公園の西郷隆盛像があるあたりで火葬にし、当寺に埋葬した。彰義隊士を埋葬した縁で、明治40年、激戦のあった寛永寺黒門口の黒門が移築された。その他、当寺には、明治に入ってからは度々慰霊に訪れた榎本武揚、幕府軍に体を張って協力した町火消新門辰五郎等の追悼碑がある。また、19633月に発生し、19657月に解決した吉展ちゃん誘拐殺人事件の被害者の遺体発見現場となったことでも知られ、敷地内に被害者の慰霊地蔵がある。


17 浄閑寺
浄土宗の寺院で、明暦元年(1655)の開創で寛保2年(1742)に山門等が建立されました。新吉原の遊女らの供養を行ってきた寺として知られています。安政2年(1855)の大地震で犠牲となった新吉原の遊女たちの遺体が投げ込み同様に葬られたことから、通称「投込寺」とも呼ばれています。「新吉原総霊塔」が慰霊のために建てられました。そこには、「生まれては苦界、死しては浄閑寺」と刻まれた花又花酔の句がはめ込まれています。寺の話によると「塔の下に無数の白い骨壺が納められていて、一壺に数十〜数百人分の骨が入っており全部で2万人にのぼる」という。この衝撃的な話を聞いた作家 永井荷風は故郷に帰ることが出来なかった彼女達の悲しみを思い言葉を失った。そして、悲しい運命を背負った遊女達の暗く悲しい生涯に心から同情を示したびたびこの寺を訪問しています。荷風の筆塚と詩碑はその縁で建てられました。毎年、430日に荷風忌が行われます。 

18 永久寺 
目黄不動
目黄不動は江戸五色不動のひとつとして知られている。寛永年間の中頃(1630年ころ)、三代将軍家光が天海僧正の具申により、江戸府内の名のある不動を指定したと伝えられる。不動明王は、密教では、その中心とされる大日如来が悪を断じ、衆生を教化するため、外には憤怒の形相、内には大慈悲心を有する民衆救済の具現者として現れたとされている。また、雨中のすべての現象は、地、水、火、風、空の五つから成るとする宇宙観があり、これらを色彩で表現したものが五色と云われる。不動尊信仰は、密教が盛んになった平安時代初期のころから広まり、不動尊を身体ないしは目の色で描き分けることは平安時代初期にすでに行われていたという。

19 延命寺
江戸時代、この周辺には、小塚原刑場があり、品川の鈴ヶ森刑場と並ぶ江戸の刑場で、明治時代始めに廃止されるまで、磔(はりつけ)・斬首などが執行されていました。刑場の入口にあった「首切地蔵」は、4メートル近くもあります。刑死者の菩提を弔うために、寛保元年(1741)に建てられました。この地蔵は、無縁となった人々の霊を静かに見守っています。近くにある回向院も同じ小塚原のなかでしたが、鉄道敷設で分断されたため、刑場の場にできたのが浄土宗の延命寺というわけです。

20 回向院
回向院は寛文七年(1667)本所回向院の住職弟誉義観が行き倒れ病死者や刑死者の供養のために開いた寺院で、当時は常行堂と称していた。回向院には、安政の大獄で獄死した吉田松陰、小浜藩儒学者梅田雲浜、越前福井藩藩士橋本左内そして桜田門外の変で獄死した志士たちの墓所があります。また、若狭小浜藩蘭学医杉田玄白や豊前中津藩蘭学医前野良沢らがここで刑死者の腑分けに立会い、それをきっかけに「解体新書」を翻訳したと言われています。これを記念して、本堂入口右手に「観臓記念碑」が建てられています