第17回 お江戸散策 和田堀・豪徳寺界隈 解説

1 明治大学和泉キャンパス
明大前の駅名の前は、「火薬庫前」という物騒な駅名でした。明治大学がこの地に和泉キャンパスを設立する以前は、隣接する築地本願寺や寺町の一帯は、江戸末期、塩硝蔵という江戸幕府の鉄砲弾薬の貯蔵庫がありました。正式には和泉新田御焔硝蔵と呼ばれ千駄ヶ谷御焔硝蔵とともに幕府の二大火薬庫があった所です。幕府の鉄砲同心3人が年番で、警備や雑用に交代居住し、付近16ケ村に昼夜交代で課役を賦していたという。維新後、新政府に接収され、上野彰義隊戦争、会津戦争などで使用されている。その後、兵部省、陸軍省の管轄となり、大正13年に廃止となったあと、昭和9年(1934)明治大学はこの地の払い下げを受けて、和泉校舎を建設、以来79年、和泉キャンパスと呼称を変え、今日に至っている。

   2 築地本願寺 和田堀廟所
正式名称は本願寺築地別院和田堀廟所という。築地本願寺の分院で、本尊は阿弥陀如来。大正12年(1923)関東大震災で築地本願寺は全焼した。本殿は移転せずそのまま築地の地に、昭和10年インド様式の大本堂が復興・完成したが、墓地は移転することになり、陸軍省火薬庫跡であったこの地に昭和5年から近代的な墓地が建設され、現在、富士が望める閑静な近代的公園墓地に約3,300基が建てられている。墓地には佐藤栄作・三島海雲・樋口一葉・水谷八重子・古賀政男・笠置しず子、服部良一等、著名人が多数眠っております。墓域中央部に、佃島の漁民由来碑がある。これは佃島の漁民の多くは、熱心な浄土宗信者で、振袖火事で築地本願寺が全焼したとき、その再建において、埋め立てや地盤工事を献身的に行い、檀家の取り纏めや浄財の管理などを進んで行って、本願寺を援助しています。その本願寺と佃島衆との350年の不離の歴史を語っている証の碑である。

3 下高井戸宿
慶長5年(1601)徳川幕府により高井戸の南側に甲府から江戸に通じる甲州街道が開設され、その後高井戸に宿場がおかれた。高井戸宿は月の一日から15日までを下高井戸村、16日から月末までを上高井戸村の名主が勤め馬25頭、人足25人が常置されていた。江戸から最初の宿場であったため24軒の旅籠屋を始め酒屋などが軒を連ね賑わっていましたが、のち新宿に宿場がおかれたため、その面影は次第に薄れていった。

4 成勝寺
保延5年(1139)第75代崇徳天皇の御願寺として創建 京都の東郊白河の地に創建された。元和7年(1621)、寺基を京都から江戸日本橋浜町に移す。京でも江戸でも度重なる火災に遭いながらも再興を重ねたが、大正年12(1923)関東大震災で焼失したため、昭和3年1928)寺基を世田谷の現在地に移し法灯を絶やさず今日に至っている。
墓地には、松尾芭蕉を物心両面から援助した日本橋魚問屋の鯉屋市兵衛こと杉山杉風が眠っている。墓には辞世の句「痩せ顔にうちわをかざし絶えしいき」と刻まれている。

5 常徳院
このお寺は、曹洞宗)観谷山常徳院といいます
文明12年(1484)室町幕府第九代将軍・足利義尚の創建と伝わり、木造の本堂に足利氏の家紋である二引両がある。
ご本尊は、十一面観音菩薩像で、日本で最初の大師号を得た高僧慈覚大師円仁による作と伝えられている。毎年8月20日の御開帳には、午前3時に本堂を開くため、「明けの観音」と呼ばれている。
本堂裏手に地蔵4体と享保16年(1731)の庚申塔がある。また、山門前の街道は、府中街道と呼ばれた古道でした。

6 世田谷八幡神社 
寛治5年(1091年)後三年の役(1083?87)の帰途、源義家がこの宮の坂の地で豪雨に会い、天候回復を待つため、滞在することとなり今度の戦勝は日頃氏神としている八幡大神の加護によるものと思い、豊前国の宇佐八幡宮の分霊をこの地に勧請し祀った。後に世田谷城主七代目の吉良頼康が天文15年(1546)社殿を再興させて発展させた。かつては奉納相撲の勝敗によって来年の豊作・凶作を占ったり、その年の豊作を祝ったりしたため、境内には土俵や力石がある。今でも毎年秋の例祭(9月15日)には東京農業大学相撲部による奉納相撲が行われている。

7 豪徳寺
曹洞宗大??山洞春院豪徳寺という。豪徳の名は、直孝の戒名「久昌院豪徳天英院大居士」に因んでいる。黄檗宗の建築様式が見られる仏殿は井伊直孝の妻(春光院)と娘(掃雲院)が3代藩主真澄の菩提を弔うために延宝五年(1677)に建てられたものです。社務所の造りは、佐倉藩主堀田家の玄関を移築したものである。仏殿左にある招福堂脇には沢山の猫が置かれている。これは、二代藩主 井伊直孝が狩りにきて、当寺の前に来たら、子猫が手招きして呼び寄せる仕草をした。そこで直孝は、この寺で休息すると、急に空模様がおかしくなり、豪雨になった。ここで休息できたことで、事なきを得た直孝は、感心し、この寺を、井伊家の菩提寺と定めたという。このことが縁で、この寺の名物が、招き猫になった。
7_2 1858年幕府が日米通商条約を結んだことから、破約攘夷を主張する尊攘派の藩主、藩士、公家たちによる幕政批判が高まってきた。これに対し、時の大老井伊直弼は強権を以て弾圧した(安政の大獄)ことで、彼らの恨みをかい、安政7年3月3日(1860年3月24日)に桜田門外において水戸、薩摩の浪士たちの襲撃を受け、暗殺された。直弼の首は、薩摩藩士 有村次左エ衛門が布に包んで、その場を逃走したが、途中背後から追手に切られ、遠藤但馬守の屋敷門前で力尽きて自刃した。彦根藩は、遠藤家に、主人の首を返して欲しいとは言えず、闘死した家来の者として引き取ったと言われている。直弼の墓の後部にある桜田八士の墓は、この事件の時に、直弼とともに死亡した藩士の墓である。

8世田谷城址
世田谷城は吉良治家が1365〜1366年ごろに築城したといわれています。全盛期の七代目頼康の時には南関東の産業・交通の主要な場所となり、城の北、西、南の三方は烏山川を使った堀で囲まれ、豪徳寺へ続く丘陵は二重の深い堀のある堅固な城郭でした。その後1590年に秀吉が小田原北条氏を滅ぼすと、親戚関係にあった吉良氏も運命を共にし、8代、240年続いた歴史を閉じました。

9 勝光院
世田谷吉良氏の祖、治家が建武2年(1335)に創建したと伝わり、当初は、臨済宗の寺院であったが、吉良氏朝が天正元年(1573)に中興し、曹洞宗興善山勝光院と改称する。天正19年(1591)に徳川家康から寺領30石の朱印状を与えられ、元文2年(1737)には、山号を延命山に変え、現在に至っている。境内は、静寂に包まれた竹林に覆われ、この寺がいざというときに、世田谷城の援護砦の役割の担っていたことが窺い知れる。梵鐘は、名鋳工と云われた加藤吉高の作で、戦時中、供出され、行方が分からなくなっていたが、葛飾区の金連寺に保管されていて、戻されたという喜ばしいエピソードがある。墓地には五輪塔や宝篋印塔など吉良家一族の墓が整然と並んでいる。

10 世田谷代官屋敷
近江彦根藩世田谷領の代官であった大場氏の屋敷。寛永10年(1633)彦根藩主井伊直孝に関東で2万石が加増され、うち2306石余が世田谷領であり、世田谷村20ヵ村といわれた。大場氏はもと吉良氏の有力な家臣で、天正18年(1590)主家が没落した後は世田谷に土着。寛永10年彦根藩世田谷領が成立すると、市之丞吉隆が代官役に起用され、合力米70俵が与えられていた。明治4年(1871)の廃藩置県まで代官職を世襲した。10代弥十郎景運は天明飢饉の影響などで荒廃していた村々の復興に
大きな功績をあげ、文政13年(1830)士分に取り立てられている。大場氏は居宅を役宅として代官の執務を行なった。現在の建物は当時世田谷村名主で世田谷宿の問屋役であった盛政が元文2年(1737)に建築、宝暦3年(1753)に表門の建築など代官屋敷として大規模な改修を加えたものと推測されている

11松陰神社
鎮座地にはかつて長州藩主の別邸があった。松陰が安政の大獄で刑死した4年後の文久3年(1863年)、高杉晋作など松陰の門人によって小塚原の回向院にあった松陰の墓が当地に改葬された。明治15年(1882年)11月21日、門下の人々によって墓の側に松陰を祀る神社が創建された。現在の社殿は昭和2年から3年にかけて造営されたものである。松陰の50年祭に際して寄進された26基の燈籠には伊藤博文、木戸孝允、山縣有朋、桂太郎、乃木希典、井上馨、青木周蔵などの名前が刻まれている。
松下村塾を模造した建物や松陰と並んで頼三樹三郎、広沢真臣らの墓もある。松陰らが眠る墓域は幕末時代、徳川勢により一度破壊されたが、慶応4年(明治元年)、木戸孝允がこれを修復整備した。墓域には現在も、木戸が寄進した鳥居が残っている。 敷地に隣接する形で本人の遺言により、この地に埋葬された第11代、13代、15代の三度総理大臣を務めた桂太郎の墓がある。日英同盟、日露戦争は彼の首相在任中でした。
12教学院
教学院は竹薗山最勝寺と号する天台宗の寺院。当初は江戸城内紅葉山にあったが、赤坂、青山と移転し、明治42年に、現在地に移された。境内の不動堂には、江戸五色不動の一つ、目青不動明王像が安置され、両脇に閻魔大王と奪衣婆がいるので、閻魔堂とも呼ばれている。墓域には、入口脇に下野烏山藩大久保家歴代藩主の墓があり、奥の木立の石柵に囲まれた中には、小田原藩大久保家歴代の墓がある。中でも7代藩主大久保忠真は江戸後期に、松平定信の推挙で老中職を約20年務め、川路聖膜(日露和親条約で活躍)、矢部定謙(江戸南町奉行)、間宮林蔵(蝦夷地や樺太の探検)など下級幕吏を登用・保護し、二宮尊徳を分家の下野国桜町の農村復興役に登用するなど人材発掘に手腕を発揮した名君として知られている。

佐藤栄作(19011975
政治家。山口県田布施町の酒造業の3男として生まれる。岸信介の実弟。東大卒業後、1924年に鉄道省に入り、鉄道総局長官、運輸次官を経て、1948年退官して吉田茂の自由党に入党する。遠縁に当たる吉田茂とは早くから親交があり、池田勇人と共に「吉田学校」の代表格となり、第2次吉田内閣では官房長官になった。1949年、総選挙に当選してキャリアを重ねるも、自由党幹事長時代に造船疑獄が発覚して逮捕寸前になった際に、法務大臣・犬養健に検察指揮権の発動をさせ、逮捕を免れた。池田隼人の後を受けて、昭和3911月内閣総理大臣に就任し、以降3期務めた。総理大臣在任期間は歴代総理中第2位で、連続在任期間は歴代総理中最長の78ヶ月(2798日)。(1位は桂太郎2886日)ノーベル平和賞を受賞し、衆議院議員永年在職表彰を受彰している。位階は従一位。勲等は大勲位。

 

古賀正男(19041978
作曲家。水の都柳川に隣接した福岡県大川市出身。明治大学卒。昭和3年「影を慕いて」でデビューし、以後「酒は泪か溜息か」「丘を越えて」「二人は若い」「東京ラプソディー」「誰か故郷を想わざる」「人生劇場」「柔」「東京五輪音頭」「悲しい酒」など、約4000曲を作曲。古賀メロディで、昭和の歌謡曲作曲家の第一人者の位置を占めた。1978年国民栄誉賞を死後追贈される。



 

服部良一(19071993
作曲家。大阪府服部良一は大阪市天王寺区玉造で人形師の家に生まれた。芸事好きの家族の影響で郷土の民謡である河内音頭を子守唄代わりに育つ。小学生のころから音楽の才能を発揮したが、学校を卒業後は商人になるためと、昼は働き、夜は商業学校に通うという日々を送った。昭和2年に大阪フィルハー・オーケストラに入団し、サックスとフルートで活躍しながら、作曲を手掛け、昭和11年にコロムビアの専属作曲家となった。入社第一回作品が淡谷のり子の歌う「おしゃれ娘」だった。続いて、やがて、淡谷のり子が歌う「別れのブルース」で一流の作曲家の仲間入りをはたす。戦後は、東京ブギウギ、銀座のカンカン娘、青い山脈などの大ヒットを飛ばし、作曲家の頂点に上り詰める。死後、古賀正男に次いで2人目の作曲家として国民栄誉賞を受ける。

 

水谷八重子(19051979
女優。本名、松野八重子。東京生まれ。双葉高校卒業。大正3年(1914)、島村抱月に招かれ、端役で出演すると、すぐに小山内薫に認められ、その後映画に出演。のち第二次芸術座を興して主演女優となり滝沢修や森雅之らとともに活躍。さらに新派に加入して花柳章太郎とともに舞台を支え、すぐれた容姿と名演技で大衆の称賛を受け、舞台女優の第一人者となった。



 

樋口一葉 (18721896
明治期の小説家。本名、奈津。東京生まれ。中島歌子の(はぎ)()(じゅく)で和歌、古典を学び、小説は半井(なからい)(とう)(すい)の教えを受けた。生活苦に耐えながら作家を志し、文芸雑誌「都の花」「文学界」などに寄稿する。明治26年(1894)「大つごもり」を発表し好評を得て、翌年にも「にごりえ」「十三夜」「たけくらべ」などを書いた。森鴎外、幸田露伴ら文壇から高い評価を得て、激賞され、今後大いに期待されたが、肺結核に侵され、わずか24歳で死去した。

 

海音寺潮五郎
海音寺 潮五郎(1901- 1977) 小説家・作家。本名は末富(すえとみ)東作(とうさく)。鹿児島県伊佐市生まれ。國學院大學を卒業後、中学教師を務めながら、創作を行い1934年歴史作家としてデビュー。國學院大學教授で戦国史の大家であった桑田忠親と交友が深かった。西郷を敬愛する作家として知られ「武道伝来記」「日の出」で第3回直木三十五賞を受賞。その後直木賞の選考委員になり、選考評価では司馬遼太郎を絶賛し高く評価している。一方、池波正太郎に対しては酷評といっていいほどの低評価を繰り返し下しており、池波が受賞者となった第43回では、「こんな作品が候補作品となったのすら、僕には意外だ」とまで極言し、結局、直木賞選考委員を辞退するまでに至っている。
史伝『西郷隆盛』がライフワークで、絶筆・未完作となった。

 

笠置シズ子(19141985
笠置シヅ子。本名:亀井静子。は、日本の歌手、女優。戦後、「ブギの女王」として一世を風靡した。香川市出身。生後まもなく大阪市福島区の米屋の養女となる。昭和2年(1927)、小学校卒業後、松竹楽劇部生徒養成所に入る。三笠静子の芸名で「日本八景おどり」で初舞台を踏む。その後、昭和8年「秋のおどり」の演技でスターの仲間入りを果たす。昭和10年、(たか)(ひと)親王が三笠宮を名乗ったのを機に、三笠を名乗るのは恐れ多いと笠置シズ子と改名した。昭和13年「帝国劇場」で旗揚げした「松竹樂劇団」に参加。服部良一と出会う。のち服部と組んでジャズ歌手として売り出すが、派手な身振りが警視庁ににらまれ、昭和14年、丸の内劇場への出演を禁じられる。服部良一によってコロムビア専属に迎えられ、「ラッパと娘」などで人気を博すが、激しく踊り歌う笠置のステージは警察当局の目に留まるところとなり、マイクの周辺の1メートル前後の範囲内で歌うことを強要されるなどの辛酸をなめた。戦時中には彼女の専用楽団を率いて巡業や兵隊や軍需工場の慰問に出かけている。服部は自伝の中で笠置との出会いについて、大阪で一番人気のあるステージ歌手と聞いて「どんな素晴らしいプリマドンナかと期待に胸をふくらませた」だが来たのは、髪を無造作に束ね薬瓶を手に目をしょぼつかせ、コテコテの大阪弁をしゃべる貧相な女の子であった。だがいったん舞台に立つと「…全くの別人だった。三センチもある長いまつ毛の目はバッチリ輝き、ボクが棒を振るオーケストラにぴったり乗って「オドウレ。踊ウれ」の掛け声を入れながら、激しく歌い踊る。その動きの派手さとスイング感は、他の少女歌劇出身の女性たちとは別格の感で、なるほど、これが世間で騒いでいた歌手かと納得した」とある。昭和22年の日劇のショーで、服部良一作曲の「東京ブギウギ」が大ヒットした。以後「大阪ブギウギ」や「買物ブギ」などもヒットさせ、「ブギの女王」と呼ばれるようになった。彼女の歌は今日でもカヴァーされ日本のポップスに多大な影響を与え続けている。