第19回 お江戸散策 中山道板橋宿 界隈 解説



1 近藤と新選組隊士供養塔
 近藤勇は徳川家の直轄領であった武州多摩郡の豪農宮川家に生
 まれ、幼名
を勝五郎と言った。立身出世を夢見て上京し、天然
 理心流剣術道場・試衛館
に入門する。道場主の近藤周助に認め
 られ、養子となり近藤勇を名乗った。
文久3年(1863)上京す
 る将軍を護衛する目的で幕府が清川八郎に結成させ
た浪士隊に
 同郷、同門の土方歳三、沖田荘司らと加わり京へ上った。
 
上京直後、清河八郎が尊王攘夷へと方針を大転換したため、
 幕府への忠誠心
の強い近藤たちは清川に組みせず、芹沢鴨らと
 京に留まり会津藩を頼って、
京都守護職御預として「新撰組」
 を結成した。その後、芹沢たちと隊の規律
をめぐって対立し、
 芹沢らを粛清して、新選組を近藤勇が局長、土方歳三を副長と
 する強力な組織力
を持つ警備隊に作り上げた。内には新撰組局
 中法度を定め、隊士の規律を整え、外には尊皇攘夷を名
乗る不
 逞浪人たちを厳しく取り締まり、勤王の志士たちを震え上がら
 せた。特に池田屋騒動では、僅
かな手勢で倍以上の敵が集まる
 中に突入して殺傷、捕縛の手柄を上げ、一躍勇名を轟かせた。
 新撰組は京の街で5年間活動し、近藤勇の夢はかない、その活
 躍により幕臣に取り立てられるまでに
なった。
 だが、時流は近藤勇に味方せず、その後鳥羽伏見の戦いに敗れ
 江戸に戻ってから甲陽鎮
撫隊として甲州に出陣するが、圧倒的
 な官軍の勢力に敗れ、再び江戸に戻る。幕府の命で下総流山に
 対陣するが官軍に包囲され投降した。そのとき大久保大和と変
 名していたが、見破られ、板橋に引き
立てられて、慶応四年
1868425日この地で、武士としての切腹も許されぬ斬罪さ
 れ、その首
は京都三条河原に梟首される過酷な刑を受けた。
 近藤勇は最後まで徳川将軍を主君と仰ぎ、幕臣とし
て殉ずる
 ことを潔よしとしたのであった。


2 東光寺  宇喜多秀家墓所
 浄土宗の寺院。当寺院には板橋区の有形文化財「庚申塔」「石
 造地蔵菩薩像」が知られるが、豊臣秀吉が天下を治めていた時
 の、五大老の一人である宇喜多秀家の墓があることで注目され
 る。なぜ、
この地にあるのかと云うと、それは加賀百万石前田
 家と深い関わりがある。宇喜多秀家は備前・美作を領有してい
 た父直家が病で死去するとき、信頼していた羽柴秀吉に「宇喜
 多の城も兵も、ことごとく羽柴殿の思うがままにされよ。その
 代わり、嫡男の八郎を、秀吉の一字を頂き、のちのちよろしく
 頼みます」と秀吉に後見を託した。そのとき八郎は
11歳、名は
 秀家になった。成人になってからは立ち居振る舞いも上品で、
 容貌も端整。武芸、遊芸を一通りこなし、
詩歌の道でも玄人の
 域に達するほど上手になり、服装感覚も見事で、戦国のベスト
 ドレッサーになっていった。
下賤の身から興した秀吉は、大い
 に気に入り、
猶子(準養子)にして盟友前田家から養女とし
 てもらった
と結婚させた。秀家と豪姫は相思相愛の仲で幸
 福なときが流れた。秀家は一番年若い
五大老の一人として豊臣
 政権を支えたが、秀吉が死に、関ヶ原の戦いが起こると、西軍
 側に付き奮戦したが敗れ、薩摩に落ち延びた。勝利した徳川家
 康は島津家に身柄引渡しを求め、死罪にするつもりであったが
 加賀前田家、そして島津家も延命を強く望んだことから、秀家
 を八丈島に配流とすることで落着した。秀家は
13名の近臣たち
 と苦しい島暮らしを耐えるが、妻豪姫が強く願いでて幕府に許
 可を得て、慶長
19(1614)から、毎年白米、金、衣類、医薬
 品などを八丈島の秀家に仕送りし続け、豪姫や秀家が亡くなっ
 た後も続きました。明治に入って宇喜多一族は
赦免され、子孫
 たちは加賀前田家下屋敷の周辺に移住してきました秀家の墓
 は八丈島にあるが、この寺院の墓は子孫が供養のために建立し
 たものです。秀家は
34
歳で流罪になり、島で50年生き続け
  84
歳の長寿を全うしました。 
3 観明寺
 真言宗豊山派の寺院で山号は如意山。御本尊は正観世音菩薩。
 創建年代は
暦応元年(1338
)と伝えられる。「新編武蔵風土
 記」には、
延宝5年(1677入寂した中興開山とあ
 江戸時代、板橋宿の寺として、多くの人々の信仰を集めまし
 た。
明治6年、当時の住職照秀和尚は、さびれた宿場町の繁栄
 と活気を取り戻すために、千葉の成田山新勝寺から不動尊の分
 身を勧請し、露天商を集めて月
4日の縁日を開いたという。
 その甲斐あってこの界隈は城北随一の繁栄ぶりだったという。
 不動通りの名称はこの御不動様に由来している。境内に鎮座す
 る稲荷神社は、もと加賀藩下屋敷内に祀られていた三稲荷の内
 の一社で、明治になって陸軍造兵廠が建設された際に、当寺へ
 遷座された。
また参道入口にある庚申塔は、貫文元年(1661
 
8月に造立されたもので、青面金剛像が彫られたものとしては
 都内最古のもので、昭和
58年度に板橋区の指定有形文化財に
 なった。
4 平尾宿脇本陣と新藤楼
 この一角には江戸期、地元の旧家豊田家が名主と脇本陣を営む
 屋敷があった。脇本陣とは朝廷の勅使や公家、大名、公用で旅
 をする幕府の役人などが宿泊するための施設といい、本陣だけ
 に宿泊できないときに、予備にあてた宿舎が脇本陣です。豊田
 家は、代々市右衛門を世襲し、御三家紀州徳川家が休息所にす
 るほど格式が高く、建坪も
109坪(360u)ある豪壮な構えで
 あった。近藤勇が処刑までの間、この脇本陣に監禁されていま
 した。江戸時代に見世物になった、ペルシャ産のラクダが逗留
 したこともありました。旧街道に出た左側の
11階建てマンショ
 ンの辺りには、板橋遊郭で最大規模を誇った妓楼「新藤楼」が
 あった。明治
30年頃には30人以上の遊女を抱え、昭和18年ま
 で営業していた。
 
5 高野長英ゆかりの水村玄洞旧居跡
 ここはかって高野長英が逃亡中、一時潜んでいた水村玄洞邸の
 あった所です。幕府の対外政策を批判し永牢の身となった蘭学
 者
高野長英(180450)は、弘化元年6月晦日小伝馬町の火災に
 よる切り離しのとき脱獄して逃亡した。出牢後の1ケ月は幕府
 の厳しい探索にも拘わらず消息不明であったが、
7月下旬のあ
 る夜、彼の門下生である医師水村玄洞宅を訪れた。玄洞は身の
 危険を知りながら、1両日長英を奥座敷に匿い、
7月晦日の深
 夜に現在の浦和に住む同じく長英の門人であった実兄の医師

 高野隆仙宅へ逃れさせた。長英はその後、郷里水沢に老母を
 尋ね、更に江戸、近畿、四国宇和島、長崎などを転々とし、
 自らの顔を火傷して変相するなどして逃亡を続けるが、江戸
 青山で沢三伯の名で町医者をしていたところを発見され、捕縛
 の抵抗をしたが力尽き自害して果てた。
 
6 板橋宿本陣跡
 宿場の本陣は、参勤交代の大名や公家などが休息や宿泊施設と
 した所で、地元で裕福な旧家が名主を兼務して務めた。名主と
 は関西では庄屋と呼ばれ、一村の代表者を云う。天保年間の記
 録によると、
板橋宿の本陣は広さが97坪で、上段の間、玄関、
 門構えを持つ豪壮な平屋建てであった。板橋宿は
飯田家が新左
 衛門を名乗り世襲してきた。飯田家は元大阪冬の陣で、豊臣方
 の武将として戦死した飯田左馬介の子孫が板橋に根付いて名主
 になったと云う。参勤交代で中山道を往来する大名の数は、加
 賀藩前田家をはじめ約
30家におよび、文久元年には14代将軍
 徳川家茂に降下した皇女和宮もここに宿泊した。本陣の建物は
 明治
23年の失火で消失した。 
7 文殊院
 真言宗豊山派、幡場山大聖寺文殊院と号する。本尊はヒノキ寄
 木作りの文殊菩薩。江戸初期、本陣飯田家の菩提寺として古く
 から信仰を集めていた延命地蔵尊の境内を広げて建立された。
 開山は寛永
2年(1625)に入寂した権大僧都慶恵と伝わる。
 天保
6年に全焼し、安政以降、正住職を置かず、赴任する仮住
 職も短期間で他の寺に転住し、出世寺とも呼ばれた。山門脇に
 延命地蔵堂、境内には
閻魔を祀る閻魔堂が安置されている他、
 朝日観音と呼ばれる棒状の石が納められている。山門の右
側に
 は、足腰の護り神の「子の権現」がある。墓地には板橋の名主
 飯田家の墓や旅籠で働いていた
飯盛女たちの墓がある。


8 板橋
 この橋は板橋と称し、板橋の地名に由来しています。板橋の名
 称は、すでに鎌倉から室町時代に書かれた古書に見えるが、江
 戸時代になると宿場の名前になり、明治
22年に市町村制が施行
 されると
町名になり、昭和7年東京市が拡大して区が誕生した
 時も板橋の名称が採用されました。板橋宿は南の滝野川村境か
 ら北の前野村まで、
20町9間(2.2km)の長さがあり、この橋
 から京寄りを上宿、江戸寄りを平尾宿と称し、江戸寄りを中宿
 平尾宿と称し、三宿を称して板橋宿と呼びました。板橋宿の中
 心は本陣や問屋場、旅籠が軒を並べる中宿でしたが、江戸時代
 の地誌「江戸名所図会」の挿絵からこの橋の周辺も大変賑やか
 だったことが伺えます。江戸時代の板橋は、太鼓状の木橋で、
 長さは9間(
16.2m)幅3間(5.4m)ありました。少なくとも
 寛政
10年(1798)と天保年間の2度、修復が行われたことが
 分っている。近代に入ると、大正9年に新しい橋に架け替えら
 れたが、自動車の普及に対処するために、昭和7年にコンクリ
 ート橋になった。現在の橋は昭和
47年に架橋されたものです。
9 縁切榎
 江戸時代、この場所の道をはさんだ向かいに旗本近藤登之助の
 抱え屋敷がありました。その垣根の際
には榎と槻の古木があり
「縁のツキ」と云う様になり、そのうちの榎がいつ頃からか縁切
 榎と呼ばれ
るようになった。そして嫁入りの際には縁が短くな
 ることをおそれ、その下を通らなかったと云
う。女性から離縁
 の話は切り出せなかった江戸時代、この榎の樹皮を削って茶や
 酒に入れて夫に
飲ませると願いが叶うという俗信が生まれるよ
 うになった。実際、
10代将軍家治に嫁いだ五十宮や12代将軍
 家慶に嫁いだ楽宮の行列はここを避けて、迂回路を通ったと云
 う。皇女和宮が
14代家茂に嫁いだ時も同様で、このときは榎を
 梢から根元まで菰で覆ったと云われている。


10 圧磨機圧輪記念碑
 圧磨機圧輪とは黒色火薬を製造する機械である。幕臣の沢太郎
 左衛門が、幕命を受けて砲術、火薬製造などを研究するためベ
 ルギーに行き、帰国の際、そこで購入して持ち帰ったものです
 これは黒色火薬を製造する際の硫黄や木炭、硝石などを、水力
 を動力にして磨り潰すために用いるもので、実際に加賀藩下屋
 敷内に作られ、日本で最初の西洋式火薬製造工場で石神井川の
 水力を利用して明治
9年から明治36年まで使用されていた。
 圧磨機による火薬製造工程は、水を注ぎながら圧輪を回し硫黄
 ・硝石・木炭を細砕、混和し、ふるいにかけて粒子を揃え、乾
 燥させたのち製品化するというものでした。明治
27年に無煙火
 薬の製造が開始され、施設や設備も拡充していくにつれ、取り
 扱いが難しく、爆発事故も起きる黒色火薬の製造は、明治
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 製造中止となり圧磨機圧輪もその役目を終えることになった。
11 加賀藩下屋敷跡
 加賀藩下屋敷は平尾邸と呼ばれ、その敷地は28,000坪に及び、
 尾張・紀伊・水戸の徳川御三家を含めて江戸に所在する大名屋
 敷で最大の広さを持つ屋敷でした。邸内には石神井川が流れ、
 その水流と千川用水の配水を利用した大池が設けられ築山や立
 石・滝などが随所に配された池泉回遊式庭園が展開していた。
 その規模も大きく、金沢の兼六園の約七倍の広さがあった。
 平尾邸は中山道板橋宿に隣接していることから、参勤交代のと
 き、藩主が休息を取り、江戸に出入りする際の装束替えの場と
 しても利用された。邸内には与力を筆頭に
50人ほどの詰人が居
 り、その大半は定番足軽と呼ばれ、この屋敷を管理していた。
 近郷の娘と婚姻を結ぶ者もあり、中には寺子屋の師匠として地
 域の教育に当たる者もいた。幕末には石神井川の水流を利用し
 て、銃撃の訓練や大砲の製造などを行い、明治に入ってからは
 板橋火薬製造所として黒鉛火薬の製造が行われた。
 


12 善養寺
 善養寺は、天長年間(824-833)に開基である慈覚大師が上野
 山内に創立したと伝えられる天台宗の
寺院で東叡山寛永寺の末
 寺です。本尊は薬師如来像。江戸初期に上野山からに下谷に移
 転したが、明
治に入り、境内地が鉄道用地の拡張にかかること
 になり、現在地へ移転した。本堂には高さ約
3m木造閻魔王
 坐像があり、杉並の華徳院、新宿の太宗寺とともに、江戸三大
 閻魔寺の一つとして親しま
れてきた。境内には、寛永6
1629) 造立の石燈籠をはじめ、延宝8年(1788)の宝篋印塔
 
そして江戸時代中期に陶工・絵師として活躍した尾形乾山の墓
 がある。
尾形乾山は寛文3年(1663)京都の呉服商尾形宗謙の
 三男として生まれました。実兄は雅で優美な
有名な大和絵師の
 大家尾形光琳。
野々村仁清に陶芸を学んだ乾山は、元禄12
(1699)
37歳のとき京都市の鳴滝の泉谷に開窯しました。享保
 
6
年(1731)、69歳の頃に、王寺宮寛法親王(こうかん
 ほうしんのう)
って江戸に
り入谷にを築いて陶器や
 絵画の制作に手腕を発揮し、晩年をりました国立博物館所
 蔵の「
銹絵
鴎図(さびえかんおうずかくざら」根津美術
 館所蔵の「
染付土器皿(さびえそめつけきんし
 えかわりどきさら)
」は国宝に指定されている。81
歳で没。

13 妙行寺
 日蓮宗長徳山妙行寺は、新宿区四谷にあった。明治40年区画整
 理のため当地へ移
転した。境内には、四谷怪談のお岩さんの墓
 所、浅野内匠頭正妻阿久里(遥泉院)宝筐印塔の墓、
うなぎ供
 養塔、魚がし供養塔がある。
「四谷怪談」に登場する田宮伊右
 衛門とお岩さんは、江戸に幕府が開かれた
1600年ごろに実在し
 
た人物で、夫の伊右衛門は幕府に仕える武士でとても仲の良い
 夫婦でしたが、夫の身分が低く、生活
が貧しかった為、お岩さ
 んは夫の元を離れてある金持ちの屋敷に奉公に出ます。
奉公中
 お岩さん
は一生懸命働き、近所にある稲荷神社に「一日も早く
 夫婦そろって暮らせますように」とお参りを
続けました。そし
 てその働きぶりが屋敷の主人の目に止まり、夫の伊右衛門が、
 出世出来る様に取り計
らって貰い、晴れて二人は元通り二人で
 暮らせる事になり、生活も豊かになりました。
お岩さんはこれ
 もお稲荷さまのおかげ、と自宅の庭にお稲荷さんの社を立てて
 生涯、感謝し続けた
そうです。これが田宮家に伝わるお岩さん
 の伝承です。

14 盛運寺
 盛運寺は明治に入り、下谷から移転してきた浄土宗の寺院で、
 新門辰五郎の墓があることで知られている。
新門辰五郎は江戸
 の町火消の大親分。辰五郎の義父、浅草十番組に所属する町火
 消の頭領であった町
田仁右衛門が東叡山輪王寺宮の衛士であっ
 たため、輪王寺宮が浅草・浅草寺の別院「伝法院」に隠棲
する
 際、新しい通用門を新設し、その門を辰五郎が守ることになっ
 た。それで新門辰五郎と呼ばれる
様になった。幕府の高級官僚
 だった勝海舟とも交流があったと言われ、その書『氷川清話』
 の中で
も触れられている。その一方で、上野大慈院別当・覚王
 院義観の仲介で徳川慶喜と知り
合ったと伝えられ、娘の芳は慶
 喜の妾となっている。元治元年(
1864)に禁裏御守衛総督に任
 じられ
た慶喜が京都へ上洛すると慶喜に呼ばれ、子分を率いて
 上洛して二条城の警備などを行う。慶応
31867)の大政奉
 還で江戸幕府が消滅し、鳥羽・伏見の戦いの後に慶喜が大坂か
 ら江戸へ逃れた際に
は、大坂城に残されたままになっていた家
 康以来の金扇の大馬印を取り戻し東海道を下って、無事送り

 け、慶喜の謹慎している上野寛永寺の寺内の警護にも当たって
 いる。上野戦争での伽藍の防火や江戸
城開城後、慶喜が水戸、
 静岡と移り謹慎するとそれぞれ同行して警護を務めている。
 慶喜とともに静
岡に住み、侠客、清水次郎長とも知縁となり、
 次郎長が関わっていた遠江国磐田郡での製塩事業にも
協力して
 いる。明治に入ってから東京浅草に移り、明治8年(1875)に
 没。享年75歳。新門辰五郎は現在七代目になり、浅草寺三社祭
 の総代を務めている。


15 総禅寺
 曹洞宗総禅寺は寛永元年の草創以来、徳川家とも由緒が深く、
 天和
3年(1683)当時の将軍徳川綱吉公の命により、当山五世
 吉州元和尚の代にとくに赤門を賜りました。以後人々に「赤門
 寺」として親しまれ今日に至っています。また、天才漫画家

 手塚治虫の墓があることで知られている。
手塚治虫は、1928
 
113日大阪府豊中市出身。兵庫県宝塚市で育つ。結構裕福
 な家庭だったと云う。背も小さくて運動オンチしかも天然パー
 マだったため「ガチャボーイ」のあだ名で天才的に絵も巧かっ
 たので、誰からも好かれていた。また漫画や絵を描くことの他
 に夢中になった事に「昆虫採集」が挙げられる。その入れ混み
 様は半端ではなく、所謂、オタクというレベルだったという。
 
学業の成績も優秀で大学は大阪大学の医学部。この時すでに
 漫画家としても活躍し、2足のわらじを履きつつしっかり大学
 も卒業して医学博士の免許も持った。漫画家になるか医者にな
 るか悩んでいたとき、母親が「あなたの本当にやりたい道に進
 みなさい」の一言でふっ切れたらしい。漫画家として世間に認
 められるきっかけとなったのは「新宝島」そして「ロストワー
 ルド、メトロポリス、来るべき世界」のSF3部作を発表し、
 いきなり第一線に踊りでる。その後、「ジャングル大帝」で
 全国区の人気を得て東京に進出。住まいは‘漫画界のバウハウ
 ス’と呼ばれた「トキワ荘」へ入る。たったの4畳半でトイレ
 は共同。しかし手塚治虫に憧れた人々が集い活気に満ちていた
 。手塚が1番始めの入居者だったが一番盛り上がる時期に後輩
 の藤子不二雄の2人が入居し敷金礼金もなしで貸したそうだ。
 
31歳の時に悦子さんと結婚。新居も構え、翌年‘虫プロダク
 ション’を設立し、連載アニメ「鉄腕アトム」が放映され全国
 で大人気を博した。それ以降も「ブラックジャック」「三つ目
 がとおる」「火の鳥」などの名作を執筆。第2の頂点を迎える
 そして「アドルフに告ぐ」「陽だまりの樹」などを描いていた
 頃、胃癌が浸透して
88年に入院。入院中も連載していた作品を
 ベッドの上で描くが
8929日東京の半蔵門病院で死去した。
 手塚治虫が世に残した漫画は手塚治虫全集で約
700巻。作品数
 としては約
1,000にも及ぶ。 
16 明治女学校跡
 明治女学校は明治18年(1888)木村熊二によって麹町に設立さ
 れた。
明治29年(1896)明治女学校は巣鴨村に移転。明治41
 年(
1908年)には閉校になった。その後明治女学校跡地は、
 帝国大学運動場をへて現在は西巣鴨児童館・特別養護老人ホー
 ム・東大豊島学寮となっている。明治女学校は島崎藤村・北村
 透谷・星野天知などそうそうたる講師陣を有した。そしてフェ
 リス教会のキリスト教精神による自由な思考と独創的な発想を
 重んじる教育をめざした。この明治女学校からは“明治女学校
 の三羽烏”といわれた羽仁もと子・相馬黒光・野上弥生子が輩
 出した。
○羽仁もと子は女性初のジャなリスト。雑誌「家庭の友」を創刊
  し、のちに私立自由学園を開校。
○相馬黒光は新宿中村屋を夫と共に設立。「黒光」の号は恩師
  から与えられたペンネームで「
溢れる才気を少し黒で隠しな
  さい」という意味でつけられたものと言われている。
○野上弥生子は夏目漱石の門下生であった夫野上豊一郎を通して
 漱石の教えを受け小説を書き始めた。以後、昭和
60年に99
  で亡くなるまで「秀吉と利休」「真知子」「迷路」など多数
  の作品を発表した。
17 巣鴨庚申塚
庚申塚とは中国より伝来した道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた石塔のこと。道教では、
人間の体内には三尸(さんし)という3種類の悪い虫が棲み、人の睡眠中にその人の悪事をすべて天帝に報告し寿命を縮めると俗信があった。そのため、三尸が活動するとされる庚申の日(60日に一度)の夜は、眠ってはならないとされ、庚申の日の夜は人々が集まって、徹夜で過ごすという風習が生まれた。この庚申講を318回続けると塚が建立されるようになった。江戸名所図会や安藤広重の浮世絵にも描かれている巣鴨庚申塚は明暦31657)年に建立。庚申の本尊は青面金剛とされるため、青面金剛が彫られることが多いが、巣鴨庚申塚は日本神話に登場する神、猿田彦大神を合祀しています。天孫降臨の際に道案内をしたということから、道の神、旅人の神とされるようになり道祖神と同一視されました。