第21回 お江戸散策 五反田・目黒 界隈 解説
1.旧島津公爵邸
現在、清泉女子大学のキャンパスは、かって、仙台藩伊達家の下屋敷があった所で、維新後は、旧薩摩藩島津公爵の邸宅となり、小高いこの地は「島津山」と呼ばれていた。広大な敷地には、躑躅や楓が植えられ、ツツジやもみじの名所となった。楓の巨木は「高尾もみじ」とも言われ、伊達騒動のときの吉原の太夫「高尾太夫」に因むものと云われている。キャンパスの本館は、大正6年、島津邸時代に建築された洋館で、鹿鳴館、ニコライ堂、旧岩崎邸そして三菱開東閣等を設計した、ジョサイア・コンドルが手掛けたもので、ステンドガラスやマントルピースなど、当時の内装を現在も残している。昭和恐慌のとき、敷地の3分の2が売却され、残りも、戦後になってから、日銀の手にわたり、昭和37年に清泉女子大学が横須賀から移転してきて今日に至っている。
  2. 本立寺
慶長2年(1597)に創建された日蓮宗の寺院で、当初上目黒にあったが貞享4年に、現在地に移転してきた。本立寺は摂津能勢の領主だった能勢氏の菩提寺で、同氏の守護神だった妙見菩薩が祀られている妙見菩薩は、北極星を神格化した菩薩で天災から人を守り、福寿を授けると云う。墓域には落語家柳家金語楼や実弟の昔昔亭桃太郎の墓がある。
3.袖が崎神社
平安後期の保延3年(1137)に、京都の稲荷大明神を勧請したのが始まりされる古社である。江戸時代この辺りには、仙台藩伊達家をはじめとした大名家の下屋敷や旗本の屋敷が多くあったことから、武士階級の人たちかた崇敬されたと云う。延享2年(1745)の火災で社殿を消失したときは、伊達家が新社殿、細川家が金箔塗の神狐一対を奉納している。嘉永2年(1849)建立された土蔵造りの社殿には、左官の名工 伊豆の長八の鏝絵が描かれていたが、残念ながら戦災で焼失した。
4.畠山記念館
ここは、明治期に元老院議官、枢密院副議長、枢密顧問官などを務めた寺島宗則の邸宅であった。寺島宗則は、薩摩藩士で、若くして江戸に赴き医師伊東玄朴より蘭学を学び、安政3年(1856)蕃書調所教授手伝となった。1862年、幕府の文久遣欧使節に通訳兼医師として加わり、翌年帰朝して鹿児島に戻った。文久3年(1863)7月、生麦事件によって発生した薩英戦争では、3隻の藩船ごと五代友厚と共にイギリス海軍の捕虜となり、横浜で釈放されたが、国元ではイギリスの捕虜となったことが悪評となったため薩摩に帰国できず、しばらく潜伏生活をしたのち上司の取り成しによって帰国を許された。慶応元年(1865年)、藩命により寺島宗則・森有礼らとともに英国留学に出発、欧州各地を巡歴した。維新後、遣欧使節での経験を生かして外交官となる。1868年神奈川県知事となり、後に参議兼外務卿として活躍した。邸宅は、後年、荏原製作所の創設者 畠山一清が所有した。畠山の死後、彼が蒐集した茶道具を中心に、書画、陶磁、漆芸、能装束など、日本、中国、朝鮮の古美術品を展示公開する私立美術館が創られた。収蔵品は、国宝6件、重要文化財32件を含む約1300件を所蔵している。
5.池田山公園
寛文10年(1670)ここに、備前岡山藩 池田家の下屋敷が置かれたことで、この辺りの高台を「池田山」と呼ばれた。維新後も池田公爵の邸宅があった。この一帯は、大正末期から昭和初期にかけて宅地化が進み、都内有数の高級住宅地になった。旧池田邸は、荏原青果の社長邸として使用され、豪邸が立ち並ぶ池田山のなかでも、シンボル的な存在であった。現在、池田山公園になっている場所は、旧池田邸の奥庭だったところで、樹林や池、滝などは残された。所有者が転々としたのち、品川区が購入し、昭和60年に公園としての整備を行い開園して今日に至っている。
6.常光寺
元和元年(1615)年に芝金杉に創建され、明治43年にこの地に移転してきた。境内には、「福澤諭吉永眠の碑」がある、福澤諭吉は、当初、同寺に葬られたが、昭和52年に福澤家の菩提寺、麻布の善福寺に改葬された。


7. 国立自然教育園
自然教育園は、大都市「東京」の中心部にあって今なお豊かな自然が残る、都会の中のオアシスともいえる貴重な森林緑地です。江戸時代、増上寺の管理下に入りましたが、寛文4年(1664)、徳川光圀の兄にあたる高松藩主 松平讃岐守頼重の下屋敷となり、園内にある松などの老木は、当時の庭園の名残と云われております。明治時代には火薬庫となり、海軍省・陸軍省の管理となり、大正6年(1917)宮内省帝室林野局の所管となり、白金御料地と呼ばれました。昭和8年、朝香宮鳩彦王(やすひこ)の屋敷となり、幾何学図形をモチーフにした表現が特長のアールデコ様式建築の邸宅は、現在美術館になっている。昭和24年文部省の所管となり、「天然記念物及び史跡」に指定され、国立自然教育園として広く一般に公開され、昭和37年国立科学博物館附属自然教育園として現在に至っています。園内にはコナラ・ケヤキ・ミズキなどの落葉樹、スダジイ・カシ類・マツ類などの常緑樹が広がり、ススキやヨシの草はら、池や小川などがあります。このような自然を活かした植物園が整備されており、四季にわたって様々な草花や、昆虫などの生きものを身近に観察できます。
8.久米美術館
日本の近代洋画の確立に尽力した久米桂一郎の作品や遺品、書簡などを見ることができる美術館。久米桂一郎は、黒田清輝とともにフランスへ渡り、巨匠ラファエル・コランに師事した。父親の久米邦武は、維新後の明治四年、岩倉具視を団長とする遣外使節団に参加した歴史学者で、天皇が神とされていた明治時代に神道を「祭天の古俗」と主張して、国粋主義者から排斥を受けた人物。
美術館は、桂一郎の娘・晴によって設立されたもので、ラファエル・コラン、黒田清輝の作品の他、邦武の「米欧回覧実記」なども展示されている。

9.権之助坂
権之助坂の名は、元禄時代この地で名主をしていた菅沼権之助の名に因んでいる。権之助は、急勾配の行人坂に代わる輸送路として、北側のゆるい斜面を開いて新坂を作ったが、幕府に無許可で土木工事を行ったことが罪に問われ、死罪となった。村人たちは権之助の遺徳を偲び、以降、新坂を「権之助坂」と呼ぶようになったと云う。





10.行人坂
江戸時代、目黒不動尊への参詣で賑わった坂道。寛永年間(1624〜1644)この坂の途中に出羽湯殿山行人派の寺があり、修験者によって大日如来が建立されたことからこの名が付いたと云われる。また、明和9年(1772)の「行人坂の大火」はここが火元と云われる。坂の途中には「江戸名所図会」にも紹介された「富士見茶屋」があった。ここからは、かなたに雪をいただいた富士山を眺望できた。目黒不動への参詣客を相手に、名物の甘酒や筍めし、栗めしなどを売る店が並んでいたという。

11.大円寺
湯殿山の修験者であった大海法印が大日如来を祭って祈願道場を開いたのが始まりと伝わる。明和9年の「行人坂の大火」は、この寺の本堂が火元だったと云われ、江戸の町の三分の一以上を焼き尽くす大火事で、死者は、14,700人にのぼったとされる。このため長い間、再建を許されなかったが、嘉永元年(1848)になってようやく薩摩藩主 島津侯の働きかけで再興された。本尊の木造清凉寺式釈迦如来立像は、建久4年(1193)に造立されたもので、国の重要文化財に指定されている。境内左手には、大火で犠牲になった死者を供養するために造られた五百羅漢石像が置かれている。境内右手には、西運ゆかりの阿弥陀三尊がある。西運とは、駒込円林寺の小姓で、もとは吉三と名乗っていた八百屋お七が恋こがれた人だった。お七が処刑されてから、吉三は僧となり、大円寺の坂下にあった明王院に入って西運と称していた。西運は、お七の菩提を弔うため、目黒不動と浅草観音に「隔夜日参一万日」願を立てて、54年をかけて行を成し遂げたと云う。

12.大鳥神社
旧目黒の総鎮守で、目黒区内では、最古の神社とされている。かっては、目黒不動尊と金比羅権現とともに「目黒の三さま」云われていた。毎年11月に開かれる酉の市は、沢山の人出でで、今日も賑わっている。また、9月9日の例大祭では、古くから伝わる「大々神楽」が行われ、剣の舞が奉納される。境内には延宝年間の庚申塔がある。
13.海福寺
同寺は万治元年(1658)隠元禅師が深川に創建した黄檗宗の寺院。明治43年、同所に移転してきた。現在の本堂は、日比谷にあった中山大納言の屋敷を移築したもので、四脚門は、明治後期に新宿上落合の泰雲寺から移築したものである。石段の脇に建っている宝筐印塔には、「永代橋沈溺諸亡霊塔」と刻まれている。これは、文化4年(1807)年、深川八幡宮の祭礼のときに起きた「永代橋落橋事故」の犠牲者を供養したもので、寺の移転とともに同所に移された。寺の梵鐘は、天和3年(1683)に江戸初期の名匠藤原正次が鋳造したもので中国風の意匠が施されている。
14.五百羅漢寺
目黒の羅漢さんと呼ばれる天恩山五百羅漢寺は、元は江東区本所に松雲元慶禅師によって元禄8年(1695)に創建された黄檗宗の寺院である。京都の仏師であった松雲元慶は、諸国行脚で訪れた九州耶馬溪の羅漢寺で、五百羅漢を見て感動し、江戸に出て、托鉢して浄財を集めて、五百羅漢像の制作に取り掛かった。10数年の歳月をかけて、536体の像を完成させた。そのことを聞きつけた5代将軍綱吉の母桂昌院は、本所に土地と寺院建立の費用を援助、更に、八代将軍吉宗からも援助を得て創建した寺は、江戸随一の名勝とまで言われた。その様子は、北斎、広重の錦絵にも描かれたほどであった。しかし、安政大地震で被害を受けた羅漢像は、野ざらしにされ、無残な状態に成り果てていたが、当時の首相、桂太郎の愛妾で新橋芸妓のお鯉(のちに安藤妙照尼)が、住職を買って出て、五百羅漢像の保存に努力した。その甲斐あって、羅漢像は、松雲元慶が造り出した時の豊かな表情と輝きを取り戻し、現在305体が、東京都重要文化財として保存されている。羅漢寺は、昭和56年に再建され、近代的な御堂になっている。同寺には、妙照尼の墓であるお鯉観音や妙照尼と桂太郎の艶聞記を描いた平山蘆江の墓もある。

15.目黒不動尊
泰叡山龍泉寺は江戸五色不動の筆頭、目黒不動尊として江戸庶民の信仰を集め、「目黒のお不動さん」として親しまれてきた。三代将軍家光の帰依を受けて、寛永11年(1634)には、50余棟に及ぶ山岳寺院配置の大伽藍を完成し、江戸有数の名刹と称されるようになった。壮麗を極めた堂宇は、大半が戦災で消失してしまったが、前不動堂や勢至堂は難を逃れ、江戸中期の建築を、今に伝えている。本堂に上がる階段左側には、開創以来、途絶えたことがないと云われる独鈷の滝が流れ落ちている。急な階段の男坂には、家光ゆかりの「鷹居の松跡」があり、女坂の途中の石窟内には、寛政8年(1796)造立の「役の行者綺像」がある。本堂の裏手には天和3年(1683)に造立された大きな「大日如来座像」が安置されている。
  16.青木昆陽
日本橋の魚屋の1人息子として生まれる。儒学者である伊藤東涯に私淑して儒学を学ぶ。町奉行所与力・加藤又左衛門の推挙により南町奉行・大岡忠相に取り立てられ、幕府書物の閲覧を許される。享保20年(1735)救荒作物として有用な甘藷(かんしよ)の性質・栽培法などを記す「蕃薯考」(ばんしょこう)を発表した。8代将軍・徳川吉宗は、飢饉の際の救荒作物として西日本では知られていた甘藷の栽培を昆陽に命じ、小石川薬園と下総国(現在の幕張付近)と上総国(現在の九十九里町)とで試作をさせた。この結果、享保の大飢饉以降、関東地方や離島においてサツマイモの栽培が普及し、天明の大飢饉では多くの人々の命を救ったと評される。後世“甘藷先生”と称されたのは、この功績からである。元文元年(1736)には薩摩芋御用掛を拝命し、元文4年(1739)にはサツマイモ栽培から離れ、また幕臣となって御書物御用達を拝命した。昆陽は寺社奉行となっていた大岡忠相の配下に加わり、甲斐・信濃・三河など徳川家旧領の古文書を調査し、「諸州古文書」として纏めている。紅葉山火番を経て、評定所儒者となりオランダ語の習得に努め、弟子には「解体新書」で知られる前野良沢がいる。明和4年(1767)書物奉行を命ぜられた。明和6年(1769)風邪による肺炎で死去、享年72歳。
17.本居長世
明治18年(1885)4月4日 〜昭和20年(1945)10月14日。享年60歳。
作曲家。宣長6代孫(大平系)。生後1年で母と死別、父も家を去り祖父豊穎に育てられる。明治41年東京音楽学校本科を首席卒業。同期に山田耕筰がいた。その後も邦楽調査員補助となり母校に残る。邦楽を好んだ長世の関心は奥浄瑠璃、琉球歌謡、流行歌にまで及ぶ。大正7年2月「如月社」を結成し、邦楽と洋楽の調和を探る。この活動を通してやがて尺八の吉田晴風や箏の宮城道雄と組んでの新日本音楽運動へと発展、民謡興隆の原動力となる。また山田耕筰や中山晋平らとともに大正から昭和にかけての童謡運動に参加、大正9年3月、雑誌『金の船』に「葱坊主」を発表、以後多くの作品を作る。特に同年9月の「十五夜お月さん」は、11月に長女みどりの独唱で観客に感銘を与えた。主要作品は、おとぎ歌劇『月の国』、ピアノ曲『数え唄バリエーション』、童謡の『七つの子』『赤い靴』『めえめえ小山羊』『汽車ポッポ』等。

18.林試の森公園
北区西ヶ原にあった農商務省林野整理局樹木試験所から、現在の地、一帯に植樹を移し、明治33年(1900)6月に「目黒試験苗圃」を設置した。当時の広さは約45,000坪あった。明治43年(1910)に「林業試験場」と名称を変えた。また、この試験場の周辺には、明治から大正にかけて多くの研究所が置かれた。戦後にかけても、北里研究所、津村順天堂研究所、国立予防衛生研究所など、18余りの研究所が置かれていたことが見える。試験場は昭和53年(1978)につくば市に移転し、跡地は東京都に払い下げられて公園として整備、1989年6月1日に「都立林試の森公園」として開園した。開園面積は12万平方メートル(約36,000坪)ある