未分類

第1回 お江戸散策 皇居東御苑・靖国神社(解説)

2016年12月29日(木)
第1回 お江戸散策 皇居東御苑・靖国神社(解説版)
1. 【東京駅】
 1914年(大正3年)2月 竣工。設計者はジョサイヤ・コンドルの弟子辰野金吾。首都・東京の表玄関とも言うべきターミナル駅であり、JRは在来線が地上に5面10線と地下に4面8線の合計9面18線、新幹線が地上に5面10線、東京地下鉄が1面2線のホームを有する。面積は東京ドーム3.6個分、1日あたりの発着列車本数は約4,000本(日本一)という、名実ともに日本を代表する駅である。当駅はJRの東海道・東北新幹線と東海道本線・東北本線・総武本線・京葉線の戸籍上の起点駅となっており、当駅構内にはこれら各線の0キロポスト(起点)がある。
〔歴史上の件〕
・1921年(大正10年)11月4日
 - 原敬首相が丸の内南口(乗車口)で刺殺される
・1930年(昭和5年)11月14日
 - 濱口雄幸首相が第4ホーム(第10番ホーム)で狙撃される。

 
2. 【丸の内】
 徳川家康が1590年に江戸城を居所とする前は、東京湾の一部で日比谷入江と呼ばれていた。1592年からこの入り江が埋め立てられて江戸城が拡張された。新たに外堀が作られ、外堀であったものが内堀となったため、御曲輪内(おくるわうち)と呼ばれるようになった。親藩や譜代大名の藩邸が24あったため大名小路とも呼ばれた。南北町奉行や勘定奉行の奉行所もおかれた。明治維新後、官有地となり、陸軍の兵舎・練兵場などとなった。1890年にこれらが移転したあと三菱の岩崎弥之助に150万円で売却され、三菱ヶ原と呼ばれた。このため現在もこの地区には三菱グループ各社の本社が置かれ、界隈のオフィスビルは三菱地所が所有しているものが多い。1894年に土佐藩屋敷跡地に東京府庁舎(のちの東京都庁舎1991年新宿へ移転―現、東京国際フォーラム)が完成した。同時期にロンドンのロンバート街に倣って赤煉瓦街が建設され、一丁ロンドンといわれるようになった。1914年に三河吉田藩・信濃松本藩の屋敷跡地が東京駅となり、以降1923年に丸ビルが完成するなど、ビジネス街として急速に発展した。1960年代に煉瓦街は改築が進み、建物の高さ(100尺・約30m)がそろった近代的なビルが整然と立ち並ぶようになった。近年は再開発が急速に進んでおり、2002年に建て替えられた丸の内ビルディングは開業から僅か4ヶ月足らずで入場者数が200万人を突破するなど一躍観光スポットとなった。その後も2004年9月14日に日本国有鉄道本社跡地、JTB本社跡地、東京中央ビルヂングの跡地に丸の内OAZOや丸の内MY PLAZAがオープンした。さらに2007年4月27日には新丸の内ビルディングがオープンし常に注目を浴びる地域となっている。
 
3. 【江戸城】
 江戸城(現在は、皇居東御苑)は、徳川将軍家の居城であり、さかのぼれば12世紀初めに桓武平氏の流れをくむ江戸四郎が江戸の台地の要害に館を作ったことに始まります。 現在の江戸城は、天正18年(1590年)徳川家康が入城し、寛永13年(1636年)三代家光のときに完成。 その当時の面影を残こし、
現在は旧江戸城本丸、二の丸、三の丸の一部を皇居東御苑として一般に開放しています

 
4. 【大手門】
 大手門は、江戸城の正面門であり、特に重要な門であるため馬上9人、徒侍3人足軽30人、仲間20人鉄砲20丁弓10張、長槍20筋、持筒2丁、持弓2組、提灯30で警護にあたりました。何故なら江戸城の本丸に登城する際の正門であるため特に堅固に作られていました。やはり、現在も枡形門で高麗門をすぎると道が右に曲がっており大きな渡り門櫓があります。これは、万が一敵が攻めてきたら直進して攻められないようにできており、渡り門櫓でくい止めているときに櫓や石垣から攻撃できるように出来ています。

 
5. 【北の丸公園】
 元々太田道灌らが江戸城を築城した際に、関東の守護神でもあった築土神社(旧田安明神)の旧地であり、のち、徳川家康が入府した際に関東代官であった内藤清成らの屋敷となった。その後、徳川忠長や徳川綱重らの屋敷を経て明暦の大火以後は火除け地になっていたが、8代将軍である吉宗が就任してからは御三卿であった田安徳川家が1731年に、清水徳川家が1759年に上屋敷を構えるようになった。敷地内には御蔵地や植溜御用地、馬場などもあった。

6. 【科学技術館】
 科学技術の知識を広く一般に普及する目的で開館され、現代から近未来までの科学技術・産業技術に関する展示物を中心に、実験型ワークショップ、科学教室、講演会も数多く開催されている。


7. 【吉田茂】
 明治11年9月22日、高知県宿毛出身の自由民権運動の闘士竹内綱(小松製作所創始者)の5男として駿河台で生誕。後に貿易商・吉田健三の養子となる。麻生太郎は孫。外交官となり、イギリス大使等を歴任して、戦後東久邇宮、幣原内閣の外務大臣に就任。昭和21年5月、自由党総裁鳩山一郎の公職追放にともない後任総裁となり首相に就任した。一貫して親米路線を推し進め戦後日本の建て直しに奔走し、朝鮮戦争勃発により内外で高まった講和促進機運により、昭和26年9月8日、サンフランシスコ平和条約を締結、同日日米安全保障条約を結んだ。その調印には、他の全権委員たちを安保条約反対派の攻撃から守るために吉田のみがサインをした。その後、吉田学校といわれた池田隼人、佐藤栄作に引継がれ、経済による国力の復興を実現した。
(エピソード)
・ バカヤロー解散
・ 450万トン食糧支援・・・70万で済んだ
・ 健康を聞かれ、「元気そうなのは外見だけです。頭と根性は生まれつきよくないし、口はうまいもの以外受け付けず、耳の方は都合の悪いことは一切聞こえません。顔色がよいのは人を食っているからね」

 
8. 【日本武道館】
  日本武道館は、1964年開催の東京オリンピックの会場のひとつとして建設され、同年10月3日に落成。設計は山田守。法隆寺の夢殿をモデルにした八角形の意匠である。大屋根の稜線は富士山をイメージしている。東京オリンピックでは柔道競技が行われた。現在、柔道・剣道・空手などの武道やダンス、マーチングバンド・バトントワリングの競技会・演武会などに使われるほか、コンサートや格闘技の興行会場、大学などの大規模な入学式・卒業式会場として幅広く使用されている。1 966年にはビートルズ、1978年にはボブ・ディランの公演が行われた。最多公演歌手は、矢沢永吉であり計100回を記録、最多使用女性歌手は松田聖子である。また、バンドとしての最多利用はTHE ALFEEである。尚、一日に同時に同じ公演を行った回数はSMAPの6回が最多。

 
9. 【田安徳川家】
 幕府8代将軍吉宗の次男宗武を家祖とし、徳川将軍家に後継ぎがないときは他の御三卿とともに後嗣を出す資格を有した。家格は徳川御三家に次ぎ、所領は10万石。家名の由来となった屋敷、田安邸は日本武道館付近にあり同地が田安明神(平将門を祀る)の旧地であったことからこの名が付けられた宗武は、俊英で知られ国学を学び和歌をよくする好学の家系であったが、嫡子の2代治察が病弱で早世。弟の定国(久松松平家-伊予藩主)、定信(白河藩主)がいたが、3代目を相続することが認められなかったため田安の名跡は絶えた。余談ながら、NHK松平定知アナウサーは伊予松平家の分家の末裔。
 

10. 【靖国神社】
 明治2年6月29日に戊辰戦争での朝廷方戦死者を慰霊するため、大村益次郎の献策により「東京招魂社」として創建された。 1879年に「靖国神社」に改称。同時に別格官幣社となった。戦前においては神社行政を総括した内務省が職員の人事権を有し、陸軍省および海軍省によって共同管理される特殊な存在であり、国家神道の象徴として捉えられていた。運営の主導権は財政をになった陸軍省が有していた。 祭主は陸・海軍武官が勤めた。戦後は政教分離政策の推進により宗教法人となり日本政府との直接的な関係はないとされている。一方で1961年、遊就館に展示するBC級戦犯の遺書や顔写真の収集について、厚生省が遺族に出品を依頼、神社に便宜を図っていたことが、2006年7月に発覚し、問題となった。

11. 【大村益次郎】
 幕末期の長州藩の医師、兵学者。村田蔵六。長州征討と戊辰戦争で長州藩兵を指揮し、勝利の立役者となった。初代の兵部省兵部大輔を務め、事実上の日本陸軍の創始者。小村の村医であったが、大坂に出て緒方洪庵の適塾で学ぶ間に長崎で1年間遊学して蘭学を修めた。宇和島藩に招聘され、そこで蘭学、医学を教授する傍ら軍艦製造の研究を行った。のちに幕府の蕃書調所教授方手伝から教授に選ばれ、長州藩で注目されるようになった。その後長州に迎えられて軍制改革に着手し、西洋兵術書を取り入れ、その教え方も無駄がなく的確で実戦に即した戦術を確立した。第2次長州征伐の折、石州口方面の実戦指揮を担当して、その才能は遺憾なく発揮され、優れた戦術で幕府側をことごとく撃破し、浜田城を陥落させた。この戦術は、のちに上野に立て篭もった彰義隊征伐にも大いに発揮された。明治新政府のもとで木戸孝允、大久保利通と並ぶ幹部となり、武士を廃して、国民皆兵による近代軍隊の創設に尽くしました。これが武士を中心とした軍隊を主張する者達から恨まれ、志半ばにして、京都において刺客に襲われ、その傷がもとで大阪でなくなりました。その最後を看取ったのが、彼の弟子であった、日本最初の女性産婦人科医シーボルト・イネでした。

12. 【千鳥ケ淵戦没者墓苑】
 千鳥ケ淵戦没者墓苑は、昭和34年国によって建設され、戦没者のご遺骨を埋葬してある墓苑です。今から約60余年前の大東亜戦争では、広範な地域で苛烈な戦闘が展開され、海外地域の戦場において、多くの方々が戦没されました。戦後、遺骨が日本に持ち帰られましたが、ご遺族にお渡し出来なかったものを、この墓苑の納骨室に納めてあります。いわば「無名戦士の墓」とでもいうべきものです。現在、約35万柱のご遺骨がこの墓苑に納められております。
 

13. 【英国大使館】
 英国大使館は、さくらの名所として有名。このさくらは、幕末から明治において日本の近代化に功績を残した外交官アーネスト・サトウ (Sir Ernest Mason Satow)が1895年に駐日大使として赴任したときに、彼の意向で植樹された。親日家のサトウはこれに漢字を当てて「薩道」または「佐藤」という日本名を名乗った。本人も自らの姓が日本人に親しみやすいものだったため、大きなメリットになったと「一外交官の見た明治維新」の中で語っている。
 

 
14. 【半蔵門】
 名前は、警備を担当した徳川家の家来服部半蔵に由来する。立地条件や服部家の部下(与力30騎、伊賀同心200 名)が門外に組屋敷を構え、四谷へと通じる街道沿いは旗本屋敷で固められ、非常時には将軍を甲州街道から幕府の天領である甲府へ避難させる手はずになっていたと言われている。実質、搦手口にあたる。また、服部半蔵は、明智光秀謀反の際、堺に居た家康を浜松へ帰還する手助けをしたことから、家康に信頼される家臣になったことで有名である。

15. 【国立劇場】
 歌舞伎や日本舞踊、他に演劇が行われる大劇場、文楽・邦楽・日本舞踊(小規模公演)・雅楽・声明・民俗芸能が行われる小劇場、落語・漫才が行われる演芸場の3つで構成されている。また、伝統芸能の公演の他これに携わる人材育成も行っている。また、歌舞伎俳優や囃子方など。文楽関係は国立文楽劇場で行っている。2003年、国立劇場裏には伝統芸能情報館が開館している。

16. 【憲政記念館】
 憲政記念館は、昭和45年(1970年)にわが国が議会開設80年を迎えたのを記念して、議会制民主主義についての一般の認識を深めることを目的として設立され、昭和47年(1972年)3月に開館しました。この記念館のある高台は、室町時代に太田道灌が「わが庵は松原つづき海ちかく 富士の高根を軒端にぞ見る」と詠んだ松原の一角に連なっていた景勝の地で江戸時代の初めには加藤清正が屋敷を建て、その後、彦根藩の上屋敷となり、幕末には大老井伊直弼もここに住んでいましたが、明治になってからは参謀本部・陸軍省がおかれていました。昭和27年(1952)にこの土地は衆議院の所管となり、昭和35年(1960年)には、憲政の功労者である尾崎行雄を記念して建設されました。

 
17. 【三宅坂】
 坂の名前は、江戸時代、この坂の途中に三州田原藩・三宅家の上屋敷(現在の国立劇場周辺)があったことに由来する。当時はこの坂に沿って三宅家のほかにも近江彦根藩・井伊家上屋敷の広大な敷地(現憲政記念館・国会前庭等)もあった。また、三宅家や井伊家の屋敷から坂道を挟んだ向かい側は江戸城の内堀(桜田濠)であるが、堀端に橿の木が植えてあったため、橿木坂の別名があった明治には三宅家・井伊家の屋敷の用地は政府の手に移り、陸軍の中枢が三宅坂に沿って置かれた。坂道から一段高い台地になっている井伊家屋敷跡は参謀本部庁舎に転用され、戦前には「三宅坂」といえば「陸軍参謀本部」を指した。

 
18. 【桜田門】
 当初は小田原街道の始点として小田原口と呼ばれていた。1636年(寛永13年)に桝形門に改築、桜田門とよぶようになる。外側の高麗門と内側の渡櫓門の二重構造になっている。間に桝形とよばれる四角形の広場がある。この広場は門から打って出る兵の待機場所であり、また敵に攻められた時はここに敵兵を引き入れ周囲から弓・鉄砲などで攻撃するように作られている。江戸城無血開城の際、官軍はこの城門から江戸城に入城した。

19. 【「桜田門外の変】
 万延元年3月3日、江戸城桜田門外で水戸・薩摩の18名の浪士たちが大老井伊直弼を殺害した事件。大老 井伊直弼は天皇の勅許を得ないで開国したことにより、水戸をはじめ多くの諸藩から反対を受けましたが、これに対して力で弾圧を加えました(安政の大獄)。これに怒った水戸の尊攘激派志士は脱藩し薩摩の同志と連絡をとり、井伊大老の登城時に襲撃した。

(After Story)
(水戸・薩摩側)討死 1、自害 4、自訴 8、水戸へ逃走5名。自訴者のうち4名は重傷で数日内に死亡。
(彦根側)死者8名、重軽傷者13名。死亡者は跡目相続が認められたが、生存者は重傷が減知のうえ配流。軽傷が全員切腹、無傷の者は士分から駕篭かきにいたるまで全員が家名断絶のうえ斬首となった。
 
20. 【楠木正成像】
 幕末日本では「尊皇攘夷」という思想が流行し、その流れが明治政府を樹立させる力になりました。この流れを確立させた本が頼山陽の「日本外史」ですが、この本においては南北朝時代における南朝こそが正当であり、これを守って果敢に戦い、寡をもって衆を破った楠木正成を英雄視しています。明治から終戦までの時代においては、足利尊氏は天皇に刃向った逆賊、正成は忠臣として見られていたことによる。平河門外にある和気清麻呂像も同様の見解と思われる。この楠木正成像は、別子鉱山創業200年を記念して、住友吉左衛門が、明治30年(1897)寄進・建立したもので、正成像は高村光雲、馬は後藤貞行が制作した。

 
 

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です