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第6回 お江戸散策 湯島・本郷 (解説版)

2017年01月05日(木)
お江戸散策 湯島・本郷 (解説版)
1 駿河台・御茶ノ水
 神田川の対岸を本郷台(湯島台)、手前を駿河台といいます。もとは神田山(神田台)と呼ばれた地続きの丘陵でした。1603年天下統一をした徳川家康は、江戸城の防衛と城下の町作りのため、神田山の南を切り崩し、それにより発生した土を用いて、遠浅の海や干潟であった現在の浜町から新橋地域までを埋立造成しました。駿河台の名称は、徳川家康の死後、江戸に帰ってきた駿河詰の旗本をこの台地に住まわせたことによります。旗本屋敷が多かったため、駿河台は学業、武芸の学校も多くなり、それが明治以降に継承されて、この界隈は学校などの教育、武芸館が多くなり、学生も増えて、その学生や教師を相手にした古本屋街が発展しました。また、御茶の水の由来は、2代将軍秀忠が鷹狩りの帰りに、いまの順天堂医院辺りから水道橋付近まで敷地があった高林寺の庭の湧水でお茶を飲んで美味かったので、将軍御用達の「御茶の水」になったことによります。その名水「御茶の水」は、二度目の拡張工事で、水中に没してしまいました。

2 聖橋
 関東大震災後の帝都復興事業の一環として、昭和2年(1927)に完成しました。橋の長さ92m,幅員22mのアーチ橋で、「聖橋」という橋の名前は、この橋が「湯島聖堂」と「日本ハリストス正教会復活大聖堂(ニコライ堂)」の両聖堂を結ぶので、それに因んで、公募で決定されました。下を流れる神田川は、当初、現在の水道橋付近から江戸城の方に流れていましたが、寛永2年(1625)江戸城の災害防止と軍事上の目的から、神田台を掘削して浜町方面の海に注ぐ運河工事が行われました。幕府の命でこの工事を担ったのが伊達藩(仙台)でした。このことから神田川の谷は、仙台堀、伊達堀などとも言われております。この工事による伊達藩の内紛を題材にしたのが山本周五郎の小説「樅(もみ)の木は残った」です。
     伊達藩の労苦集めて川下り
  咲きほこる伊達の紫陽花神田川
江戸時代、神田川の谷は美しく、「三国志」にも出て来る中国の名勝「赤壁」にならい「小赤壁」と呼ばれました。下流の昌平橋(室町時代 に架設)からは、この渓谷と富士山が一緒に見えたことが、北斎の絵に描かれています。
その後、神田川は江戸湾から船がさかのぼって来られるようになり、江戸の経済発展に多大な成果を上げることになりました。

3 湯島聖堂
 徳川五代将軍綱吉は儒学の振興を図るため、元禄3年(1690)湯島の地に学問の聖堂を創建しました。これが現在の湯島聖堂の始まりです。その後、寛政9年(1797)幕府直轄学校として、世に名高い「昌平坂学問所」を開設しました。
明治維新を迎えると聖堂・学問所は新政府の所管するところとなり、明治4年(1871)文部省が置かれることとなり、180年間幕府の儒学の中心であった講堂は、ここにその歴史を閉じました。ついでこの年わが国最初の博物館(現在の東京国立博物館)が置かれ、翌5年(1872)には東京師範学校、7年(1874)には東京女子師範学校が設置され、両校はそれぞれ明治19年(1886)、23年(1890)高等師範学校に昇格して、のちの筑波大学、お茶の水女子大学へと発展して行きました。このように、湯島聖堂は維新の一大変革に当たっても学問所としての伝統を受け継ぎ、近代教育発祥の地としての栄誉を担っています。関東大震災では、すべてを焼失しましたが、鉄筋コンクリート造りで再建を果たしました。

4 神田明神
 天平2年(730)、武蔵国豊島郡芝崎村に入植した出雲系の氏族が祖神として祀ったのに始まる。承平5年(935)に敗死した平将門(まさかど)の首が当社の近くに葬られたことで東国の平氏武将の崇敬を受けた。延慶2年(1309)に当社の殿神とされ、祈願すると勝負に勝つといわれるようになった。江戸時代、江戸城の鬼門除け、江戸総鎮守として尊崇され、神田祭の山車は将軍上覧のために江戸城中に入ったことから「天下祭」とも言われ、江戸三大祭りの一つと言われるようになりました。明治7年、明治天皇が行幸するにあたって、天皇が参拝する神社に逆臣である平将門が祀られているのはあるまじきこととされて、平将門は祭神から外され、境内摂社に遷されたが、昭和59年(1984)になって本社祭神に復帰しました。また、野村胡堂の銭形平次が当神田明神下の長屋に住んでいたという設定から、敷地内の本殿右手横に「銭形平次の碑」があります。

5 霊雲寺
 真言宗霊雲寺派総本山宝林山大悲心院霊雲寺である。幕府は五代目の綱吉の時代で、幕府の体制は堅固になっており、これを子々孫々まで武運長久を維持することを渇望していました。そこで江戸城の鬼門である丑寅の方角に幕府直轄の寺院を建立することになり、時の権力者柳沢吉保は、当代真言宗切っての学僧であると同時に民衆から尊崇され、かつ将軍綱吉の篤い信任を得た浄嚴和尚を招聘して、元禄四年(1691)霊雲寺を幕命により創建しました。時は元禄文化の最盛期、芭蕉が「奥の細道」のための深川の旅立ちをした頃です。霊雲寺は元禄期以降も国家の安寧の祈願所として役割を任じ、幕府の庇護の下、伽藍を整い、学寮も作られ、土塀をめぐらす名刹として大いに隆盛しました。

6 麟祥院
 臨済宗 妙心寺派 天沢山 麟祥院と言い、通称からたち寺として親しまれています。徳川三代将軍家光の乳母として知られている春日局は、功なり名をとげて幕府の恩恵に報いるために、本郷湯島に寺院を建立しようと思い立ちました。これを知った将軍家光は願いを叶えさせるために本郷湯島の土地に寺院を贈りました。寛永七年(1630)渭川という高僧を新しく住職として迎え、改めて春日局自身の菩提寺としました。寛永11年(1634)渭川和尚から受戒の時に師から授かる称号(戒名)「天沢山麟祥院」という法号を送られたことを家光は聞き、これを寺号とするように命じたため、同寺を斯く、号するようになりました。
春日局:名は福、父は明智光秀の重臣斉藤内蔵助利三、母は公家の女で、はじめ稲葉正成の妻となり、3人の男子をもうけましたが、慶長九年(1604)三代将軍家光公の乳母として召出され三千石を賜りました。家光公が将軍職に就くため献身的な活躍をし、大奥の制度の確立に尽くしたことは有名です。また家光公が25歳のおり、疱瘡にかかり、瀕死の床にあるときは斎戒沐浴(心を清め身を洗うこと)して、将軍の病の平癒祈願をしたと言われています。将軍の病は回復し、お福を益々大事にするようになりました。そして寛永六年、京都へ上がり御所へ参内し、春日局の号を賜り、後水尾天皇の天盃を受けました。以後「春日局」と呼ばれるようになり、大奥での権勢をふるいました。寛永二十年(1643)65歳で没し、当院墓地に葬られました。

7 切通坂
 湯島の高台から御徒町への道を通すために開かれた坂。昔は急な石ころ道だったが、1904年に上野広小路から本郷三丁目への電車が通されてから坂が緩やかになりました。衣笠貞之助監督の「婦系図 湯島の白梅」でも歌われた。その中には湯島天神が登場します。また、東京朝日新聞社の校正係だった石川啄木は、夜勤終わりにこの坂を登って本郷三丁目の家に帰っていった。そんな状況を短歌にしたのが下の一作です。
「二晩おきに夜の一時頃に切通しの 坂を上がりしも勤めなればかな」

8 湯島天満宮(通称:湯島天神)
 第21代雄略天皇(458年)の勅命により天之手力雄命を祀る神社として創建されたと伝えられている。南北朝時代の正平10年(1355)、住民の請願により菅原道真を勧請(神仏の来臨を乞うこと)して合祀した。徳川家康が江戸城に入ってから徳川家の崇敬を受けました。江戸時代には多くの学者・文人が訪れ崇敬を集める一方、享保期には富籤(とみくじ)の興行が盛んになり庶民に親しまれた。本殿の建築様式は権現造で、社殿は明治18年に改築されたものであったが、老朽化が進んだために平成7年(1995年)に再建された。平成12年(2000)「湯島神社」から「湯島天満宮」に改称しました。江戸・東京における代表的な天満宮であり、学問の神様として知られる菅原道真公を祀っているため受験シーズンには多数の受験生が合格祈願に訪れるが、普段からも学問成就や修学旅行の学生らで非常な賑わいを見せている。また境内の梅の花も有名で、この地の梅を歌った「湯島の白梅」(1942年)は戦中時の歌として大ヒットしました。

  9 旧岩崎邸庭園
 この庭園は、越後高田藩榊原家江戸屋敷から元舞鶴藩知事・牧野弼成(すけしげ)邸そして岩崎家本邸へと変遷し、往時には、1万5,000坪余りに20棟もの建物が並んでいました。第二次世界大戦後、国有財産となり、最高裁判所司法研修所等として利用されました。平成6年(1994)に文化庁の所管となり、平成13年(2001)東京都の管理となりました。和館大広間は洋館東脇にある柚塀とともに宅地、煉瓦塀を含めた屋敷全体と実測図が平成11年(1999)に重要文化財に指定されました。 このような経緯をもつ旧岩崎邸は、明治29年(1896)に三菱創始者・岩崎家本邸として建てられました。現存するのは洋館・撞球室・和館の3棟です。建築設計は、ジョサイア・コンドルで、彼は、大学で教鞭を執る傍ら、100を越える洋館を日本で建てました。旧岩崎邸は現存するコンドルの作品では最古の建物で、邸宅建築の中では傑作と言われています。大名庭園の形式を一部踏襲している岩崎邸の庭は、本邸建築時に池を埋めて芝を張り、庭石・灯籠・築山が設けられました。建築様式同様に和洋併置式とされ、「芝庭」をもつ近代庭園の初期の形を残し、その後の日本の邸宅建築に大きな影響を与えました。

10 講安寺と無縁坂
 浄土宗講安寺は慶長11年(1606)の創建と伝えられ開山は重達上人。元和2年(1616)湯島天神下からこの地に現在地に移転しました。本堂は宝永5年(1708)頃の建築と伝えられ、社寺建築ながら防火のための土蔵造となっています。寺院の客殿、庫裏は江戸期の形式で作られ、文化財として貴重なものといわれています。無縁坂は鴎外の雁で東大生岡田とお玉の悲哀な恋の舞台であり、茶色のマンションが「格子坂の家」の場所です。昭和50年さだまさしが作詞・作曲したTVドラマ「ひまわりの詩」の主題歌『無縁坂』で有名になりました。

11東京大学
 東京大学は貞享元年(1684)に江戸幕府が設立した天文方と、安政5年(1858)に江戸の医者の私財によって設立された神田お玉ヶ池種痘所、寛政9年(1797)に創設された昌平黌を起源とされています。天文方はその後、蕃書調所(ばんしょしらべどころ)、開成所と変遷し、種痘所は文久3年(1863)に医学所へと変遷して行きました。これらの江戸幕府直轄の教育機関は、明治時代になってから、いろいろな呼称に変遷しますが、明治7年(1874)にそれぞれ東京開成学校、東京医学校と改称され、明治10年(1877)4月12日に両校が合併して東京大学となりました。これが日本で初めての近代的な大学の設立です。4月12日は東京大学記念日となっていて、毎年この日に入学式が行われています。東大キャンパスのシンボルとなっている銀杏並木や校舎は、6代総長の濱尾新 (1849-1925)が整備したものです。彼は女子教育の奨励、講座制を導入して、大学教授会自治の基礎も築いています。東京大学には校歌は存在せず、応援歌『ただ一つ』と運動会歌『大空と』が「東京大学の歌」として公認され、各式典で採用されています。

12 ジョサイア・コンドル(1852 – 1920)
 ジョサイア・コンドルはイギリスのロンドン出身の建築家。お雇い外国人として来日し、辰野金吾(日本銀行旧館、東京駅)、曽根達蔵(慶応大学三田図書館、)、片山東熊(赤坂迎賓館、東京国立博物館)ら、創生期の日本人建築家を育成し、建築界の基礎を築きました。のち民間で建築設計事務所を開設し、財界関係者らの邸宅を数多く設計しました。鹿鳴館、ドイツ公使館、岩崎弥之助深川邸などは現存していないが、ニコライ堂、岩崎久弥茅町本邸、三菱開東閣、三井家倶楽部、清泉女子大学本館(島津邸)、旧古河庭園大谷美術館などが現存して輝きを放っています。また、彼は日本人の妻をめとり、日本文化に傾倒して、河鍋暁斎に師事して日本画を学び、日本に永住して、趣味に生きる生涯を送りました。
注):コンドル設計のニコライ堂は関東大震災で倒壊し、現存の堂は岡田信一郎氏の設計。

13 安田講堂
 安田財閥の創始者、安田善次郎の匿名を条件での寄付により建設されたが、大磯の別邸で右翼に暗殺された安田を偲び、一般に安田講堂と呼ぶようになりました。建築家でのち総長になった内田祥三が基本設計を行い、大正10年(1921)に起工、関東大震災による工事中断を経て大正14年(1925)7月6日に竣工しました。震災後に建てられた学内の各学舎の建築が茶色のスクラッチタイルで統一されているのに対し、本講堂が赤レンガなのはこのためです。昭和43年(1968)の東大紛争・東大闘争では、全学共闘会議によって占拠されとき以降、長期にわたり大講堂は荒廃状態のまま閉鎖されていたが、富士銀行をはじめとする旧安田財閥ゆかりの企業の寄付もあり平成6年(1944)に改修されました。1991年より卒業式が再び安田講堂で行われるようになっています。

14 三四郎池
 三四郎池の正式名称は、「育徳園心字池」といい、池の形が「心」という文字を象って名付けられました。山手台地を浸食した谷に湧出する泉であるこの池は、江戸時代は加賀藩邸の庭園の一部でしたが、明治に入って東京帝大に移管され、後に夏目漱石の小説『三四郎』にちなんで、「三四郎池」と呼ばれるようになりました。現在の赤門から池にかけての一帯の地は、大坂の役後に将軍家から賜ったもので、この屋敷は、明治維新後に大部分が新政府の官有地に転ぜられるまで存在していました。育徳園は、寛永十五年(1638)、豪奢で風雅を好んだという四代目藩主、前田利常の時に大築造され、五代目藩主綱紀が加賀藩の時にさらに補修され、当時は江戸諸藩邸の庭園中、第一の名園とうたわれた。園中に八景、八境の勝があって、その泉水・築山・小亭等は数奇を極めたものだと言われている。

15 赤門
 御主殿門のことをいう。江戸時代、大名家に嫁した将軍家の子女たちが居住する奥御殿を御守殿あるいは御住居と称し、その御殿の門を丹塗(にぬり)にしたところから俗に赤門とよばれました。東京大学の代名詞となった東京都文京区本郷の赤門は現存する唯一のものです。ここはもと加賀金沢前田家の上屋敷であり、明治10年(1877)東京大学に移管され、昭和36(1961)に解体修理が行われた。現在は国の重要文化財に指定されています。 加賀前田家の御守殿門は、文政10年(1827)11代将軍家斉の溶姫が13代藩主前田斉泰に嫁入りしたときに建てられました。赤門は、火災などで焼失してしまったら再建してはいけない慣習があり、この赤門は災害などを免れて現存している貴重なものです。建築様式的には、切妻作りの薬医門で左右に唐破風(とうはふ)の番所を置いています。赤門は、明治9年(1876)当時東京医学校(現東京大学医学部)が下谷和泉橋通りから本郷に移ってから明治17年(1884)に他の学部が本郷に移ってくるまでの間、医学部の門として使われていたこともあり、医学部には赤門をデザインした紋章があります。

16 法真寺 
 浄土宗の寺院で、樋口一葉(1872-1896)の作品「ゆく雲」で紹介されています。「上杉の隣家は何宗かの御梵刹(おんてら)さまにて、寺内広々と桜桃いろいろ植えわたしたれば、此方の二階より見下ろすに、雲はたなびく天上界に似て、腰ころもの観音さま濡れ仏にておわします。 御肩のあたり、膝のあたり、はらはらと花散りこぼれて・・・」
文中の御梵刹が法真寺で、濡れ仏が本堂横に安置されている観音菩薩で、こなたの二階とは、境内のすぐ隣にあった一葉の家のことです。一葉は明治29年11月23日23歳の輝かしい、短い生涯を閉じましたが、この地に住んだ4歳~9歳まで5年間は、樋口家の最も豊かで、安定していた時期でした。一葉は病床で書いた雑記の中で、この幼少期を過ごした家を「桜木の宿」懐かしんでいました。桜木の宿は法真寺に向かって左手にありました。

17 燕楽軒跡
 この地にあった西洋レストラン店で、宇野千代が20歳の時にアルバイトをしていた。このレストランには、路地向かいにあった中央公論社の編集長をしていた瀧田樗陰(ちょいん)が芥川龍之介、久米正雄、菊池寛、佐藤春夫らを連れて頻繁に食事に来ていた。宇野千代はその機縁から文学を志すようになった。作家で、後に平泉中尊寺住職になった今東光は、美貌の千代を目当てに頻繁に食事に来て、彼女を小石川の家まで送ったこともあるようだ。千代は結婚して、札幌に住むが、懸賞小説に当選してから、離婚して東京に住み、尾崎士郎、東郷青児、北原武夫ら多くの有名芸術家との波瀾な結婚遍歴をもち、1996年98歳の長寿を全うしました。

18 菊富士ホテル
 このホテルは、大正から昭和10年代にかけて、多くの文学者、学者、芸術家、思想家たちが滞在し、ここを舞台に数々のエピソードを残した所です。主な止宿者には、宇野千代、尾崎士郎、谷崎潤一郎、直木三十五、広津和郎、正宗白鳥、竹久夢二、大杉 栄、月形龍之介、高柳健次郎など当時のそうそうたる人達です。昭和20年3月10日の戦災に依り50年の歴史を閉じました。オルガノ敷地内に記念碑が建っています。

19 宮沢賢治旧居跡
 宮沢賢治は25歳の大正10年(1921)1月~8月までの間、当地、稲垣方の2階に間借りしていました。赤門前の文信社で謄写版刷りの筆耕や校正などで自活し、昼休みは街頭で日蓮宗の布教活動などをする傍ら、童話、詩歌の創作に専念していました。妹トシの危篤の知らせに伴い帰郷しました。賢治は盛岡高等農林学校卒業後、花巻農学校の教師として農村子弟の教育にあたり、多くの詩や童話の創作を続け、30歳の時に農学校を退職して独居生活に入りました。ここで農民講座を開設し、青年たちに農業を指導しました。質店を営む裕福な出自と郷土の農民の悲惨な境遇との対比が生んだ贖罪感や自己犠牲精神、良き理解者としてのトシの死が与えた喪失感は作品に特有の陰影を加えていきました。賢治の芸術の根底には、幼い頃から親しんだ仏教、特に後に帰依した法華経による献身的精神があります。また特異で旺盛な自然との交感力は作品に極めて個性的な魅力を与えています。賢治作品の持つ圧倒的魅力はこの天性から生み出されたもので、詩集『春と修羅』、童話集『注文の多い料理店』に、その感性が表れています。これら以外にも、童話『銀河鉄道の夜』、『風の又三郎』、『グスコーブドリの伝記』などにロマンに満ちた賢治の世界を見ることができます。有名な「アメニモマケズ カゼニモマケズ」の詩は、本人の遺稿の手帳に書かれていたものです。

20 炭団坂(たどんさか)と一葉旧宅跡
 本郷台地から菊坂へ下る急峻な坂で、名前の由来は「ここは炭団の商売をする人が多くいた」とか「切り立った急な坂で転び落ちた者がいた」と言う事から付けられたと言われています。 台地の北斜面の下り坂であるため、常にじめじめしていて、今日のように階段や手すりのない時代の雨上がりの日には、炭団のように転げ落ちて、泥だらけになったそうです。この坂下の一角に、樋口一葉は18~20歳の時に住んでいて、「たま欅」、「五月雨」、「うもれ木」などを執筆しています。しかし、収入は5~6円程度で、家族一緒でしたから、大変貧しい生活でした。因みに、同じ頃、崖上住んでいた正岡子規は松山藩の給費生でしたが、月額7円が給付されていました。

21 鐙坂(あぶみさか)
 本郷台地から菊坂の狭い谷に向かって下り、先端が右にゆるく曲がっている坂である。名前の由来は、「鐙の製作者の子孫が住んでいたから」とか、その形が「鐙に似ている」ということから名づけられたといわれている。この坂の上の西側一帯は上州高崎藩主大河内家松平右京亮の中屋敷で、その跡地が右京山地区です。民俗学者で、石川啄木の先輩の友人であった金田一京助氏は同地に住んでいて、長男の言語学者金田一春彦氏は、大正2年(1913)にこの地で生まれたそうです


22.坪内逍遥旧居・常盤会跡
 坪内逍遥は安政六年尾張藩士の家に生まれ幼くして読本・草双紙などの江戸文学や俳諧(はいかい)、和歌に親しみました。東京大学を卒業後、東京専門学校(現:早稲田大学)の講師となり、のちに早大教授となりました。26歳で評論『小説神髄』を発表し、江戸時代の勧善懲悪の物語を否定し、小説はまず人情を描くべきで世態風俗の描写がこれに次ぐものであると論じました。この心理的写実主義によって日本の近代文学の誕生に大きく貢献しました。また、その理論を実践すべく小説『当世書生気質』を著しました。しかし逍遙自身がそれまでの戯作文学の影響から脱しきれておらず、これらの近代文学観が不完全なものに終っていることが、後に二葉亭四迷の『小説総論』『浮雲』によって批判的に示されています。小説のほか戯曲も書き、演劇の近代化に果たした役割も大きく、明治39年(1906年)、島村抱月らと文芸協会を開設し、新劇運動の先駆けとなりました。早稲田大学の演劇博物館は、逍遙のシェイクスピア全訳の偉業を記念して建設されたものである。ここは逍遥が明治17年から3年間住んだところでのちに旧伊予藩主久松氏の育英事業として「常盤会」という宿舎になりました。この宿舎には正岡子規が同郷の後輩であり、門弟でもある河東碧梧桐と3年間住みました。また、この常盤会の舎監は、子規の10歳年上の先輩であり、門弟でもあった内藤鳴雪でした。
23. 啄木ゆかりの理髪店喜之床
 石川啄木は明治41年5月北海道の放浪生活を経て上京し、赤心館にいた同郷の先輩金田一京助を頼って同宿しました。朝日新聞の校正係として定職を得て、明治42年6月、新築間もない理髪店喜之床の2階2間を借りて家族と一緒に住みました。5人家族を支えるために生活苦とのたたかい、嫁姑とのいさかいに嘆き、疲れた心は望郷の歌をつづることで癒しとなりました。社会の変動にも目を開いていき、ここ喜之床での2年半の生活は石川啄木の才能を開花させた時でした。明治44年8月小石川の播磨坂(はりまさか)近くに引っ越しますが、その8カ月後、26歳の若さで、その生涯を閉じました。理髪店喜之床は、現在明治村に移築されて、往時の姿を留めています。

24. かねやす
 享保年間(1716~1736)に、現在の本郷3丁目の交差点角に、兼康祐悦という歯科医が「乳香散」という歯磨き粉を売り出しました。これが大当たりして店が繁盛していたといわれています。享保15年(1730)に大火があり、湯島や本郷一帯が燃えたため、再興に力を注いだ町奉行の大岡越前守は、ここを境に南側を耐火のために土蔵造りの塗屋にすることを命じました。一方で北側は従来どおりの板や茅ぶきの造りの町家が並んだため、「本郷もかねやすまでは江戸の内」といわれました。

 

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