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第7回 鎌倉ウォーキング 江の島・腰越界隈 (解説版)

2016年10月14日(金)
7回 鎌倉ウォーキング 江の島・腰越界隈
1. 江の島
周囲4km、面積0.38km2、標高約61mの小島は、古代より信仰の島である。江の島神社の社伝によれば、第29代 欽明天皇の世に江の島の南の洞窟に宮を建てたのに始まると伝わ
寿永元年(1182年)源頼朝に平家追討を促した文覚上人を招いて、琵琶湖竹生島から弁財天を勧請し、奥州攻めの戦勝祈願をさせたという。その後も、江の島神社は歴代の鎌倉幕府将軍・執権や、代々の領主から崇敬を受けた。太平記によると、執権の北条氏は初代時政が参詣の折り神霊を授かって、三つ鱗の家紋は決めたものと言う。鎌倉時代以降も時の支配権力者に庇護され、民衆の信仰を集め、幕末期に至るまで、信仰の島として隆盛を極めました。

 
2. モース記念碑
縄文時代の生活様式を知る上で貴重な人骨や土器などの用具があった大森貝塚の発見者として知られるエドワード・S・ モース博士は、明治10年(1877)6月東京大学に動物学教授として招かれて来日した。早速、同年にシャミセンガイの研究で江の島に東洋初の臨海実験所を開設した。海洋生物の採取と研究に専念し、ダーウィンの進化論を実証して、貴重な貝類の標本を巧緻(こうち)なスケッチで多く残し、日本の海洋生物研究に大きな功績を遺した。その功績を記念して、江の島入口の
北緑地広場に記念碑が立てられた。
3. オリンピック記念噴水池
昭和39年(1964)の東京オリンピック開催を記念して 作られた噴水池。噴水に設置された計5体のブロンズ像は、日本芸術院会員で 藤沢市在住の加藤顕清氏が製作したもの。噴水中央に弁財天、そのまわりを西洋・東洋の女性像が並んでいる。この噴水池は江の島 入口の湘南港北緑地にあり、観光客の憩いの場となっている。
4. 青銅の鳥居
江の島弁財天信仰の象徴であるこの青銅の鳥居は、延享4年(1747)に建立され、現在のものは文政4年(1821)に再建されたもので、約200年の間、潮風をうけながらその姿をとどめている。鋳物師:粉川市正、藤原国信、世話人:浅草新鳥越の八百屋喜四郎、願主:新吉原の扇屋宇衛門、大黒屋勘四郎、松葉屋半蔵といった名が銘文に刻まれ、寄進者の中には花魁代々山という名もあり江戸時代の信仰の厚さを物語っている。
5. 岩本楼と恵比寿屋
江の島には格式の高い旅館が2つある。1つは岩本楼。岩本楼は、現在は旅館業を営んでいるが、明治維新の神仏分離令以前は岩本院(室町時代は岩本坊)と称し、江の島の寺社を支配する惣別当であった。寛永17年(1640)、岩本院は幕府からの朱印状を得てからは勢力を増し、全島の権益を握ることとなった。このように、江戸時代は江の島での宿泊、みやげ物、開帳等の権利を持ち、将軍・大名の宿泊所としても栄えていた。しかし、明治元年(1868)の廃仏毀釈により三重塔の他多くの仏教施設や仏像などが破壊された。明治6年(1872)には、仏式を廃して神社となり「江島神社」へ改称、県社に列せられた。
同時に江の島の坊主達は還俗して皆神主になってしまった。
岩本院は参詣者の宿泊施設としても利用されていたことから、「岩本楼」へ改称して旅館となった。
一方、恵比寿屋は、江戸時代中期に創業した旅館で350余年の歴史を誇る人気の老舗旅館である。古今かわらぬおもてなしで木戸孝允、伊藤博文など多くの貴人・旅人達から愛されてきた宿です。明治5年には第13代将軍家定の御正室だった天璋院篤姫も箱根に療養に行く途中、宿泊している。入口の前には明治期、江の島俳壇の中心人物 永野泉山の句碑がある。 
「住みなれて居てもすずしや島の月」。



 
6. 杉山検校の墓と福石
杉山検校は本名を杉山和一という伊勢国安濃津(現在の三重県津市)出身の鍼灸師である。江の島弁財天の祠へ詣でたとき、山から下りる帰り道に福石につまずいて倒れてしまった。
その時、偶然に拾った竹筒に松葉が入っていた。これをヒントにして杉山式管鍼術(くだばり)を考案した。この医療技術で将軍徳川綱吉の病気を治し関東全域の盲人を束ねる最高位・関東総検校にまで出世した。世界初の視覚障害者教育施設とされる「杉山流鍼治導引稽古所」を江戸に開設した。将軍綱吉の母桂昌院の病も献身的な施術で治したことで綱吉から称賛され、「和一の欲しい物は何か」と問われた時、「一つでよいから目が欲しい」と答え、その代わり、本所に1町(約12,000平方メートル)を拝領し、屋敷内に江の島弁天岩窟を模した祠を建て江島神社とした。明治に入り、江島杉山神社と改称し現存する。また、隅田川に架かる新大橋は、桂昌院が杉山検校の屋敷に赴くために建設されたとも云われている。


7. 江の島神社・辺津宮(へつのみや)
島内にある三つの宮 辺津宮・中津宮・奥津宮を総称して江の島神社と呼び、それぞれの宮には、海の守護神である女神が祀られています。辺津宮は、田寸津比賣命(たぎつひめのみこと)をお祀りしています。土御門天皇建永元年(1206年)、時の将軍・源実朝が創建。延宝三年(1675)に再建された後、昭和51年(1976)の大改修により、権現造りの現在の社殿が新築され、屋根には江島神社の社紋「向かい波三つ鱗」が見られます。高低差のある江の島(神域内)では、一番下に位置していることから『下之宮』とも呼ばれ、島の玄関口にも辺り、神社でのご祈祷はこちらで主にご奉仕されます。
8. 奉安殿
辺津宮の境内の八角のお堂・奉安殿には、八臂弁財天と日本三大弁財天のひとつとして有名な裸弁財天・妙音弁財天が安置されています。 江戸時代には、この江島弁財天への信仰が集まり、江の島詣の人々で大変な賑わいを見せました。世に云う「日本三大弁財天」とは、安芸の宮島・厳島神社、近江の竹生島・宝厳寺、江の島の金亀山与願寺の弁財天のことです。この他、奉安殿の中では、十五童子像、後宇多天皇の勅額、弁財天像扁額、弘法大師の手形が押された護摩修法による弁財天像が拝観できます。
9. 八坂神社
八坂神社は江の島神社の境内社ですが、京都の八坂神社と同様に、祇園精舎の守護神牛頭(ごず)天王を祀っています。毎年7月に開催される江の島天王祭(神幸祭)は、八坂神社と腰越の小動(こゆるぎ)神社の神輿が年1回海上渡御を行う勇壮な祭りです。現在の社殿は江の島神社鎮座1450年事業の一環として平成13年に改築されました。
10. 児玉神社
児玉神社は日露戦争で日本を勝利に導いた救国の英雄 児玉源太郎を祀り、明治45年(1912)創建されて勝運の神として崇められてきた。御祭神は台湾総督在任時、善政によって台湾の人々に慕われその縁で社殿の用材と石材は大部分が台湾から寄進された。社殿の設計は寺社建築の第一人者伊東忠太博士によるもので、境内には山縣有朋歌碑や後藤新平の詩碑、二〇三高地の石などの文化財が収められている。後藤新平は、児玉の下で台湾総督府民生長官として辣腕を発揮し、鉄道や港湾、道路など交通網のインフラ整備を行い、日本の諸都市に先んじて大規模な上下水道の整備・医療設備の近代化なども進めた。この植民地政策により、台湾の人口は増加し、小学校教育を強化したことにより人々の識字率は大幅に向上した。今日、台湾が親日的である背景には斯様な彼らが台湾の人々に善政をしたことが上げられる。

 
 写真は、改築前の本殿。

後藤新平の詩碑
11. 江の島神社・中津宮
中津宮は、市寸島比賣命(いちきしまひめのみこと)をお祀りしています。中津宮は、もとの上之宮で、文徳天皇・仁寿三年(853)に慈覚大師が創建。元禄二年(1689)に、五代将軍・徳川綱吉により、本殿・幣殿・拝殿からなる権現造りの社殿が再建されました。現在の社殿は、平成8年(1996)の全面的な改修によるもので、元禄二年当時の朱色が鮮明な社殿を再現しています。平成23年(2011)には幣殿、拝殿の床板を張り替え、御札授与所も再建され、社殿脇には水琴窟を構えた庭園が開園しました。また、境内には江戸時代における歌舞伎役者が奉納した石灯籠が並んでいます。弁天様は、もともとインドのサラスバティという河の神様。このことから美しい河の流れの音から発展し、音楽・芸能の神として信仰されました。このような背景から、江ノ島は、今も昔も芸能関係者の信仰が篤く、商人・芸人・庶民の信仰の深さをうかがい知ることができます。 (幣殿:参詣人が幣帛を供進するための建物で本殿と拝殿の間に 設けられている)
12. サムエル・コッキング苑
アイルランド出身の貿易商サムエル・コッキングは、1842年生まれで、明治2年(1869)に来日し、横浜居留地50番にコッキング商会を設立し、平沼に石鹸工場を造って、販売し、コレラによいと云われた石炭酸なども日本国内で大量に販売した。そして美術骨董品、お茶、はっかなどの輸出貿易も行い巨額の富を手に入れた。明治15年(1882)から造成した和洋折衷の庭園。サムエル・コッキング苑の敷地は、かって、与願寺修行僧たちが江の島神社用の蔬菜(そさい)を栽培していた所である。ここを来日したときから羨望していたコッキングが、当時200万円という巨額な金を払って手に入れたのである。当時の総理大臣だった伊藤博文の給与が800円だったことと比べても如何に破格であったかがわかる。世界各地から取り入れた熱帯、亜熱帯の植物を取り入れて開園し、豪華な別邸も作り、日本人の妻宮田リクとともにここで優雅な生活を送った。彼は、本国に帰らず大正3年(1914)平沼の自邸で死去した。横浜西区久保山墓地に墓がある。苑はその後所有者が転々し、一時江の島電鉄の所有になったが藤沢に移され現在に至っている。コッキング苑には南洋の植物や 四季の草花が集められて、植えられ、ツバキの名所としても知られている、さらに展望灯台があり、ここからの眺望は絶景である。いつ訪れても目を楽しませてくれる。

 


13. 江の島シーキャンドル
江の島サムエル・コッキング苑の中にある展望灯台で、苑と同じく平成15年(2003)にリニューアルされた。避雷針まで入れた高さは59.8m(海抜119.6m)あり、 その斬新なスタイルは江の島の新しいシンボルとして親しまれている。高さ41.75m(海抜101.56m)のところガラス張りの展望フロア、さらにその上には屋外展望台があり、 富士山や丹沢なのでワイドな眺望が楽しめる。1階にはエントランスのほか、カフェやグッズショップ、郷土資料室等もある。

14. 群猿奉賽像(ぐんえんほうさいぞう)庚申塔
奥津宮へ向かう道の途中にある庚申塔は、市指定重要有形民俗文化財の珍しい四角柱の石塔。4面には「見ざる、聞かざる、言わざる」のほかに烏帽子姿で扇をかざして舞う猿や綱渡りをする猿、棒乗りをする猿など36匹の猿の姿がユーモラスに浮き彫りにされている。本尊である山王神に奉賽(ほうさい)している様子で、庚申信仰者は無病息災や長寿を祈念して建てたものと伝わる。
15. 山田検校銅像
山田流筝曲の開祖・山田検校は、宝暦7年(1757)江戸に生まれ、幼くして失明するものの、琴を学び、人々に感銘を与える曲を多数作り、のちに山田流を興した。代表作に「江の島曲」 があり、実際に江の島に滞在して構想を練ったという。江の島と縁が深い山田検校の功績をたたえ、幸田露伴撰の顕彰碑と検校の座像が建てられた。
16. 奥津宮(江の島神社)
奥津宮は、多紀理比賣命(たぎりひめのみこと)をお祀りしています。多紀理比賣命は、三姉妹の一番上の姉神で、安らかに海を守る神様といわれています。相模湾を臨む岩屋(龍神伝説発祥の地)に一番近い奥津宮は、昔は、本宮または御旅所と称され、岩屋本宮に海水が入りこんでしまう4月~10月までの期間は、岩屋本宮のご本尊が、ここ御旅所に遷座したと言われています。社殿は壮麗を極めていましたが、天保 12年(1841)に焼失。翌13年(1842)に再建されたのが、現在の御社殿(入母屋造り)で、昭和54年(1979年)に御屋根が修復されました。また、平成23年(2011)に本殿が170ぶりに改修されました。拝殿天井に描かれているのは、竜宮からの使いという亀。どこから見ても、こちらを睨んでいるように見える「八方睨みの亀」で江戸の絵師・酒井抱一によって描かれたもので、平成6年(1994)に片岡華陽によって復元されたものである。藤沢市有形文化財指定され、実物は社務所にて保管されています。
                                   


17. 江の島大師
九州の鹿児島にある高野山真言宗最福寺の別院として平成5年(1993)に創建。真紅の仁王像が守る山門の奥に美術館を思わせる石造の本堂があり、その中には屋内に ある像としては国内最大級ともいわれる高さ6mの赤不動像が本尊として祀られている。本堂の中は自由に見学でき、毎日行われる護摩行に参加することもできる。
18. 恋人の丘「龍恋の鐘」
江の島岩屋のほぼ真上に位置する。「恋人の丘」に設けられた龍恋の鐘。江の島に残る「天女と五頭龍」の恋物語にちなんで造られたもので、その伝説にあやかろうと多くの若者やカップルが 訪れて鐘を鳴らす。また、鐘の下のフェンスには恋人達によってかけられた南京錠がたくさん。眺望もすばらしく、晴れた日には伊豆大島が望める。

 
19. 稚児ヶ淵
島の西南端、岩屋の周辺に広がる、隆起現象で生まれた海食大地。屏風のように連なる断崖の真下にあり、打ち寄せては砕ける波と、富士山の向こうに沈む夕日の美しさで知られ、「かながわの 景勝50選」にも選ばれている。磯釣りの名所としても知られ、休日には多くの太公望でにぎわっている。稚児ヶ淵の名前は、かつて稚児の白菊がここから身を投げたことから付いたという。
20. 江の島岩屋
島の最奥部にある海食洞窟。古くは弘法大師や日蓮上人も修行したといわれ、江の島信仰発祥の地として崇められてきた。養和2年(1182)には源頼朝が奥州藤原秀衡征伐を祈願したとも伝えられている。奥行152mで富士山の氷穴に通じているといわれる第1岩屋と56mで龍神伝説の地といわれる第2岩屋があり、ロウソクの炎に照らし出された石仏や岩壁が神秘の世界に誘ってくれる。
21. 常立寺
龍口寺を順番で護る輪番八ケ寺の一つ。毎年春、大相撲藤沢場所が開催されると、モンゴル出身の横綱 白鳳や日馬富士らの力士たちが参詣する寺院がある。それがここ日蓮宗常立寺である。参詣の理由は元寇のとき、元の使者5名が処刑され、その墓がこの寺院にあるからです。元が攻めてきた最初の文永の役において元は日本に強大な力を見せつけたと判断し日本に対して、元はその翌年服従を求める国書を送った。しかし、時の執権北条時宗はあくまでも服従拒否を貫き、その使者であった杜世忠(とせいちゅう)ら5名を龍ノ口刑場において処刑したのである。その後、その墓である五輪塔が常立寺に設置された。現在の元使塚は、大正15年(1925)に建てられた。元使塚にはモンゴルでは英雄を意味する色である青色の布が巻かれているが、これは藤沢巡業が行われた際にこの塚を訪れたモンゴル出身の力士らが巻いたものである。他にもモンゴル大統領などが参拝している。

 

 
22. 龍口寺
龍口寺。山号は寂光山。この場所は、鎌倉幕府の刑場のあった所で大庭景親の梟首、義経の首実検、元の使者杜世忠ら5人の処刑はここで行われた。日蓮上人も讒訴によって捕えられ、文永8年(1271)ここで斬首されそうになったが、江の島方面から電光が飛来して危うく難を逃れたと云う。しかし、この話は虚構で時の執権北条時宗の妻が出産したことから、殺生禁止の触れが出て、佐渡へ流罪になったのが真実と云われている。寺伝によると、寺の開基は日蓮の弟子日法で、宗祖法難の故地に延元2年(1337)に草案を設け、日蓮上人像を彫刻して安置したのが始りとされる。境内に堂宇が建てられ寺観が整えられたのは江戸初期慶長年間のことで、腰越津村の信者・島村采女が土地を寄進し、池上本門寺13世日尊上人が、日蓮宗の熱烈な信者である加藤清正の願いを受け入れて祖師堂(本堂)を建立させた。1度、天保3年(1832)に再建されたが、関東大震災で倒壊し、大正14年に再建され今日に至っている。祖師堂の背後には明治43年建立の五重塔および非武装、核廃絶を唱えて世界平和運動を主導していた日蓮宗日本山妙法寺住職の藤井日哲が寄進したパゴタ型の白亜の塔が建っている。

 


23. 小動(こゆるぎ)神社
昔「こゆるぎ松」という風もないのにぷらぷら揺れる美しい松の木があったことからこの岬を小動岬と名付けられ神社もその名で呼ばれるようになった。文治年間(1185~1190)江の島詣でに訪れた佐々木盛綱が、その松に魅せられ近江国八王子宮を勧請したのが始りと伝わる。盛綱は琴を奏でるように葉を揺らせる松を「天女遊戯の霊木」と称賛したという。盛綱は頼朝の挙兵に加わった武将で伊予や越後の守護になっている。
元弘3年(1333)新田義貞は鎌倉攻めの際に、この神社で戦勝祈願を行い、後に社殿を再興している。明治の神仏分離で、小動神社と改称し、明治6年(1873)腰越区の鎮守として村社に列挌された。7月の天王祭は江の島八坂神社の神輿との行合祭も行う盛大なもので、大いに賑わう。また、この岬では、昭和5年、東大生だった太宰治が銀座の女給と心中をはかり、女性は絶命したが、自らは助かった。

 
24. 満福寺
奈良時代の高僧行基が開山した真言宗大覚寺派の寺院。山号は龍護山。源義経の「腰越状」で知られる寺。元暦2年(1185)平家を壇ノ浦の戦いで滅亡させた源義経は、壇ノ浦で捕らえた平宗盛・清宗父子を護送して意気揚々に鎌倉に凱旋したが、鎌倉に入ることを許されず、ここ腰越の満福寺に留め置かれた。その理由は、幕府の許可を得ることなく検非違使の官位を受けたことや、平氏との戦いにおける独断専行をしたことである。これは、当時の鎌倉の武士社会では大きな犯罪であった。よって頼朝は許すことができなかったのである。義経は、兄頼朝の怒りを解こうと、頼朝側近の大江広元に書状を出して必死の力添えを頼んだ。これが「腰越状」である。結局、受け入れられず、失意のうちに京に戻った義経はその後、頼朝に謀反を起したが、兵が集まらず、都を追われ、わずかな従者とともに奥州平泉に逃れた。平泉では少年時代育ててくれた藤原秀衡が快く向い入れてくれたが、彼が病没するとその子泰衡は、再三の鎌倉の圧力に屈して義経の居館・衣川館を襲撃して義経を討った。義経の首は、鎌倉へ運ばれ龍の口で首実検を受けたのち、藤沢の白旗神社に埋葬されたと伝わる。

 

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