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第4回 お江戸散策 高輪・三田 (解説版)

2016年12月29日(木)
第4回 お江戸散策 高輪・三田 (解説版)
1. 品川駅の歴史
 品川駅は、わが国の鉄道駅の中で、最も古い駅であります。明治 5(1872)年10 月14 日新橋、横浜間の6駅中、新橋からの最初の駅として開業。木造平屋2棟、現在の位置よりやや横浜方、海に面したのどかな駅で、駅前線路の築堤から釣もできました。品川駅からすぐ海岸線が迫り、海上の築堤上を走って行き、のどかな風景が望めました。
2. 高輪プリンスホテル 貴賓館
 鹿鳴館時代を想わせる品格のある建物のこれは「貴賓館」と呼ばれ、ジョサイア コンドルに師事して、赤坂離宮(現迎賓館)を設計した片山東熊氏がこれも設計したものです。明治43 年に完成し、フランス・バロック様式といわれています。現在は結婚式やミニコンサートなどに使われ、ホテルに断れば内部も見ることができます。この敷地は、明治に入ってから北白川ノ宮の屋敷のあったところです。江戸期は隣のパシフィックホテルも含めて薩摩藩下屋敷のあったところで、慶応4 年3 月14 日に、西郷隆盛と勝海舟が江戸城無血開城について会見が行われたところです。

 
3. 東禅寺 イギリス公使館跡
 東禅寺は、徳川家康、秀忠の禅学の師であった嶺南禅師が虎ノ門に開山したのち、1636年にこの地に移転してきた。禅宗の大寺院として、多くの大名家が菩提寺としており、12 家の大名墓地があったと言われています。現在でも、日向飫肥藩、備前岡山藩池田家、伊予宇和島藩伊達家の大名墓群がある。安政6 年(1859)にイギリス公使館が置かれた。同寺は攘夷派に志士達の標的となり、2度の襲撃事件が起きている。1度目は水戸藩脱藩の攘夷派浪士有賀半弥ら14 名が押し入り、書記官や領事が殺され、英国公使オールコックは、あやうく難を逃れた。彼はアメリカのハリス、フランスのベルクール、オランダのデウィト各公使たちと共に幕府へ強硬な抗議をした結果、日本側警備兵の増強、賠償金1万ドルの支払いという条件で事件は解決をみた。2 回目は、東禅寺警備の松本藩士伊藤軍兵衛が起こした事件で、警備により自藩が多くの出費を強いられている事や、外国人のために日本人同士が殺し合う事を憂い、公使を殺害し自藩の東禅寺警備の任を解こうと考えた末の犯行で、警備のイギリス兵2 人を戦闘の末、倒したが自らも負傷し、番小屋で伊藤は自刃した。オールコックや後任のハリー パークスたちが駐在した奥の院は、当時のまま残されている。 この時期、外国人殺傷事件が相次いでおこり、3ケ月後の文久2 年8 月21 日には生麦事件が起きている。

 
4. 高輪消防署二本榎出張所
港区の重要歴史建造物にも指定されている高輪消防署二本榎出張所で、昭和8年に完成され、都内で唯一望楼が残されている消防署です。内部も外側のデザインも丸い曲線を多く使っており、建築上ドイツ表現派といわれています。高層ビルのなかった時代、海の方から見て「陸の上の軍艦」といわれていたそうです。内部はアールヌーボー風の曲線の高い天井で古いガス燈もそのまま保存されています。
5. 承教寺
元禄文化を代表する画家、英一蝶の墓があり、都の旧跡に指定されている。一蝶は承応元年(1652)伊勢亀山藩の侍医の子として大阪の藩邸で生まれた。15 歳で父とともに江戸に出て、狩野安信に絵画を学んだ。絵画のほかにも書や俳諧、音曲に優れた才能を発揮して、風流人として名声が高まり、芭蕉らの元禄文化人とも交流が深まった。しかし、「当世百人一首」「浅妻船」などの作品が、五大将軍綱吉や大奥を風刺しているとされ、三宅島に流罪となった。流人生活中でも絵を描き続け、12 年後、綱吉死去に伴う恩赦で、58 歳にして江戸に帰った。
その後、一蝶と名のり、人気絵師として73 歳で没するまで狩野派の大家として描きつづけた。名作「琴棋きんき書画図しょがず屏風びょうぶ」「琴棋の僧侶が参学する学寮でした。
6  泉岳寺
「それまではただの寺なり泉岳寺」と川柳に読まれたように、元禄15 年(1702 の赤穂浪士の吉良邸討入り後、日本中に知れわたった。討入りした義士たちは預け置かれた大名家で切腹したが、主君浅野内匠頭が眠る同に大石蔵之助ら46名の志士たちは並んで葬られた。戒名にはいずれにも「刃」「剣」の文字が使われている。関係者への報告役であった足軽の寺坂吉衛
門は但馬の大石夫人に顛末を伝えたのち自首したが不問に付され、放免となり、秋月家に奉公し74 歳まで長寿した。毎年12 月14 日と4 月1~7 日に赤穂義士祭が開催される。

7. 大石内蔵助自刃の地
当地は大石内蔵助ら17 名の赤穂浪士が切腹した熊本藩細川越中守の下屋敷でした。細川家は大石たちが切腹するまでの間、彼らを丁重にもてなしたと言われています。細川邸は54 万石の大名家にふさわしく、この付近を敷地とする広大なものでした。明治から大正にかけては高輪御所になったこともあり、現在も高松宮邸が近くにある。敷地内にはシイやいちょうの大木が生い茂っている。これは震災や戦災を免れた幸運もあるが、ここが旧大名家や皇室の用地であったことから開発の波を受けずに済んだからといわれています。

8.覚林寺
 覚林寺は寛永8 年(1631),熊本藩の中屋敷だった当地に日延上人が開いた寺であり,祀っているのは熊本藩主の加藤清正である。文禄元年(1592)から始まった朝鮮出兵で清正は二番手で一万の兵を率い,朝鮮に渡った。その後,破竹の勢いで首都京城に達した。だが,しばらくすると日本軍の旗色が悪くなり,帰国命令が出る。慶長2 年(1597)に秀吉は再び朝鮮出兵を命ずる。清正は再度一万の兵を率いて朝鮮半島へ上陸するも,前回とは違い,初めから苦戦続きであった。明の大軍に襲われ,九死に一生の思いで帰国した清正は,6 歳の女の子と4 歳の男の子を連れて帰った。この4 歳の男の子が,後の日延上人である。何故,清正が王族の子供を日本に引き連れてきたのかは謎だという。親と離ればなれになって日本にやってきた日延は,日蓮宗に帰依していた清正の計いにより,千葉・小湊の日蓮宗誕生寺に入門し,やがて最高位の18 代貫主までつとめあげた。貫主を退きのいた後,加藤家の下屋敷の一角に覚林寺を開く。彼は,この寺で30 年ほど余り,寺の境内を花畑にしたりして静かに余生を過ごしていたという。

 
9. 立行寺
天下のご意見番で有名な大久保彦左衛門(1560-1639)は三河松平家の家臣の家に生まれました。(彼の実兄は小田原城主 大久保忠世)彼は多くの兄たちとともに家康に従って数々の戦さで活躍し、家康を守って徳川幕府の成立に多大の貢献をしました。しかしひとたび平和な時代が訪れると時代は武威に優れた者よりも政治に必要な官僚を求めるようになりました。大久保家は所領を減らされ閑職に追いやられて不遇な時代が続きました。また家康が苦労をしていた頃に家康を裏切ったりしたよう
な元家臣が復権して高い地位に付いたりしているのを見るにつけ彦左衛門の憤懣は募るのでした。その彦左衛門に光を当てたのは家康の孫・三代将軍家光です。彼は彦左衛門を自分の伽衆に加え、祖父家康公の話や戦国の世の苦労話などを進んで聞いたと言われています。神田の駿河台に屋敷を構えていましたが、隠居後は、現在の八方苑の地に住み79歳まで長寿しました。一心太助は実在の人物で、若いころ大久保彦左衛門の草履取りだったという説もある彼もここ立行寺に眠っております。
10. 大信寺・石村近江の墓
石村近江は、名工として知られた江戸時代の三味線製作者でした。石村家は代々名を継いだが、とくに2代から5代までは名工と謳われました。バイオリンで言えば、アントニオ・ストラディバリに匹敵すると評価する人もいます。3代目が作った作品の「雷電」、「小蝶」は紀伊国屋文左衛門に愛用されたと言われております。3代が初期に製作した三味線は「古近江」と呼ばれて特に珍重されています。

 
11. 長松寺
 荻生徂徠(おぎゅうそらい)のお墓があることで有名。徂徠は柳沢吉保や八代将軍徳川吉宗への講学や政治的助言者として活躍した儒学者。赤穂浪士の処分裁定論議で、賛美助命論が高まる中、徂徠は「義は自分を正しく律するための道であり、法は天下を正しく治めるための基準である。今、赤穂浪士が主君のために復讐するのは、武士としての義を知るもので、それ自
体は理に適うものである。だが、それは彼ら見た論理にすぎない。そもそも浅野長矩は殿中をも憚らず刃傷に及んで処罰されたのに、これを赤穂浪士は吉良上野介を仇として幕府の許可も得ずに騒動を起こしたのは、法として許せぬことである。今、赤穂浪士の罪を明らかにし、武士の礼でもって切腹に処せられれば、彼らも本懐であろうし、実父を討たれたのに手出しすることを止められた上杉家の願いも満たされよう。そして、忠義を軽視してはならないという道理も立つ。これこそが公正な政道というものである」と私義切腹論を主張し、これを綱吉が採用して赤穂浪士の切腹が決まった。
12. 済海寺 ・フランス公使館跡
 済海寺は第26 番江戸観音霊場札所として知られた浄土宗の寺院。安政6年(1859)日仏修好通商条約によりフランス公使館が置かれました。伊予松平家の菩提寺で、同地は三田の高台にあることから、江戸湾を一望できる名所として知られていました。初代フランス公使として、ベルクールはここに駐在しました。文久3年(1863)に着任した後任のロッシュは幕府と好意的な外交を展開したことで幕府とフランスの関係は、かなり良好なものでした。1865 年(慶応元年)、徳川幕府はフランスから人材・資材の提供を受け、横須賀村に横須賀製鉄所および港湾施設を建設することになり、小栗上野介忠順と、フランス海軍技師のレオンヴェルニーが中心となり推進されることになりました。この建設工事は幕府が倒れた後も、新政府はそのままフランスに建設を委ね、明治4年に完成しています。ここに日本近代化の基盤が築かれました。最後の将軍である徳川慶喜もフランスびいきとして知られており、フランスから幕府に贈呈された伝習生の軍服や装備の一切を喜んで受け入れ、自らも陸軍の軍服を着用して写真に収めています。
13. 龍源寺
 わかりやすい仏教の本や講演で人気だった松原泰道さんが住職をしていた臨済宗の寺院。
松原泰道さの教え「七福」 ・・・戒めの幸福論とは
1.「惜福」・・・福を使い尽くし取り尽くしてしまわないこと。
2.「分福」・・・自分の幸福を他の人と分かち合うこと。
3.「植福」・・・未来に生きる人のために徳を積み、種を植えるこ   と。
4.「知足福」・・・足るを知る心を養うこと。
5.「逆縁福」・・・うまくいく縁に恵まれることを“順縁”という一方で、物事が裏目裏目に進んでしまうことを“逆縁”といいこの逆 境のときにこそマイナスをプラスに変えていく努力をできるチャンスで、それを人さまにおすそ分けしていくと説いている。
6.「点灯福」・・・心に灯をともせること。これはまた幸福なことであり、どんなときでも心に灯をともすことが大事であると説く。
7.「保福」・・・いまの幸せは、いろいろな方や先達からいただいたというより預かっている預かり物である。いまは自分のもとに保留しておいて、やがてそれはまた他の人にお預けしていく、そのためにいまの福を使い減らさないようにと言っている。

 
14.善福寺 アメリカ公使館跡
 善福寺は天長元年(824)、弘法大師が関東一円に真言宗を広げるために、西の高野山に模して開山したのが始まりと伝えられ、都内で最古の寺のひとつと言われている。鎌倉時代に親鸞聖人が滞在し、その教えに帰依した了海住職が、浄土真宗に改宗している。幕末の安政6 年にアメリカ公使館が置かれタウンゼント ハリスや通訳官ヒュースケンらが駐在した。ハリスは、5年余り、同寺に滞在し、通貨交渉において、金貨も銀貨も同質同量の原則すなわち、1 ドル銀貨は同じ質量に相当する一分銀3 枚と交換すべきとの主張を貫いた。この結果、国内の金貨(小判)が著しく海外に流出し、日本の経済は混乱に見舞われることになった。ハリスは安政5 年6 月、アメリカに有利な日米修好通商条約を幕府と締結し本国から賞賛された。経済の混乱は攘夷派浪士たちの怒りを増長し、文久3年(1859)には、水戸浪士たちが同寺を襲撃して放火し、書院を消失してしまう事件も起きました。境内には、樹齢700 年と伝えられる「逆銀杏」があります。また、三井物産の創設者益田孝が建てた「ハリス記念碑」、作詞家岩谷時子らによる「越路吹雪の碑」そして、昭和52 年に上大崎の常光寺から転墓した「福沢諭吉の墓」がある。

 
15.  綱町三井倶楽部
緑豊かな庭園を背景に優雅な佇まいを見せる綱町三井倶楽部本館は、三井家の迎賓館として鹿鳴館の設計者として知られる「ジョサイア・コンドル」の設計によって建てられました。大正2 年竣工。昭和4 年に改修。その原型を崩すことなく改修工事を施しました。 その後幸いにも第2 次大戦の戦禍を免れ、昭和28 年から三井グループ企業による会員制倶楽部として再生し今日に至っています。現在はわが国の明治、大正建築史上貴重な建造物としてまた西洋建築の傑作として注目されています。その隣に位置する別館は、緑多い庭園を見晴らせる宴会場として本館とともに、多くの方々にご利用されております。都心とは思えない静寂な環境、古き良き時代から受け継がれた伝統が脈々と息づき「三井グループの迎賓館」にふさわしい風格ある社交場になっております。

 
16. 慶応義塾 三田キャンパス
福澤諭吉は幕末の蘭医学者の緒方洪庵の適塾に学んだ。
1860(安政7)年、木村摂津守従者として咸臨丸で渡米して以降、度々欧米諸国を見聞した福澤は自らが設立した慶応義塾において、古いしきたりや慣習にとらわれない教育を実践していきました。明治5年に出版した『学問のすゝめ』では、「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言われている。今日、人間世界を見渡すと、賢い人愚かな人貧乏な人金持ちの人身分の高い低い人とがある。その違いは何だろう?人は生まれながらにして貴賎上下の別はないけれどただ学問を勤めて物事をよく知る者は貴人、富人となり、無学なる者は貧人となり下
人となるのだ。」と広く教養を高めることを説いている。この福沢諭吉の自由・平等・権利の尊さを訴求する教育理念は、慶應義塾に今も脈々と受け継がれています。

 
17. イタリア大使館
イタリアの大使館の庭は、伊予藩松平隠岐守の中屋敷跡で、東京でも有数の風雅で由緒ある名園である。17世紀にはすでにできていたのは確かで、何世紀もの歳月を経てきた樹木がその生き証人である。澤庵和尚の設計によるといわれ、典型的な日本庭園の様式をとどめている。小山の一つには今も祠が残っているが、これも造園当初からあったものと思われる。江戸時代、ここは、赤穂浪士の大石主税、堀部安兵衛ら10 名がこの庭で切腹したところで、中庭にはこの事件について日伊両国語で刻まれた記念碑が建立されている。明治になってからは内閣総理大臣をニ回つとめた松方正義が住み、松方コレクションの松方幸次郎はこの邸で育った。
18. 薩摩藩上屋敷跡
ここは薩摩藩江戸藩邸の上屋敷があったところです。
13代将軍家定に嫁いだ篤姫も嫁入りまで、2年間をこの屋敷で
過ごしたが、安政5年の大地震で建物の多くが倒壊し、一時渋
谷の方に転居する。後に再建され、ここから江戸城に輿入れをした。この藩邸には500余人の薩摩武士たちがいて、西郷隆盛の指示で、江戸城下に数々の狼藉をはたらき、犯人の所在を突き止めた町奉行方が犯人の引渡しを求めたが拒絶され、いがみ合いが端を発して、幕府側は屋敷を焼打ちする挙にでた。この結果、屋敷は全焼し、周囲の寺社も消失した。このことを契機として、薩摩・長州は戦の大義名分を得て幕府に宣戦布告し、慶応4年1月2日の鳥羽伏見の戦いが起った。

 
19. 西応寺 オランダ公使館跡
安政5年(1858)日英修好通商条約の締結のためにイギリス使節エルギン卿一行10名が宿泊した浄土宗の寺。エルギン卿らは上陸前から礼砲を打ち鳴らし、上陸後も軍楽隊付きのパレードを行って西応寺までを行進したため、見物客が押し寄せてお祭り騒ぎになったと言われています。同寺は、のちにオランダ公使館として使用され、初代公使クルティウスが駐在しました。慶應三年(1867)12月の幕府による薩摩藩邸襲撃事件の兵火により類焼して全焼。その後オランダ公使館は伊皿子の長応寺に移転しました。

20. 勝海舟、西郷隆盛会見の地  ( 戦火を避けて平和的解決)
ここは薩摩藩の蔵屋敷があったところで、慶応4年3月14日に勝
海舟と西郷隆盛との間で会見が行われ、駿府での予備折衝で
取り交わした約定について、第一条の徳川慶喜を備前藩に預けるという項目を水戸に隠居して謹慎するという内容に改正された以外は、ほとんど西郷が提示する要求を幕府側が承諾することで、江戸城総攻撃が回避された歴史的な場所です。
この一連の議題が済んだ後、西郷と勝は、友人同士としての会話を成し、会談終了後は、西郷が勝を見送りに外まで出て両者は別れた。勝はこの会談で西郷が取った「礼儀を失わず、勝者振ることもなく、敗軍の将に接するようなところが少しもなかった」と氷川清談で賞賛している。 西郷はこの会談の一ヶ月ほど前までは、江戸城総攻撃を断固遂行する考えでいた。しかし、イギリス公使・パークスが西郷に将軍・慶喜の処遇をどうするのか尋ねたところ、西郷が「大逆無道、その罪は死にあたるをもってす」と意気込んで答えると、パークスは「どこの国の法律でも、恭順し、降伏する姿勢を見せているものに更なる攻撃を加える法はない。まして徳川氏はこれまで天下統治の政権運営を300年も続けてきた。その徳川氏をあくまでも討ち滅ぼすというのであれば、英仏は合同して徳川氏を助け、新政府に攻撃を加える」という手厳しい非難を西郷に浴びせたという。 この諸外国行使らの意見が江戸を戦火から守る一因にあったことも特筆すべき点である。

参考 文久元年(1861) 5月28日 東禅寺第1次襲撃
文久元年(1861)12月 4日 ヒュースケン暗殺
文久 2年(1862) 5月29日 東禅寺第2次襲撃
文久 2年(1862) 8月21日 生麦事件
ハリー・パークス(1828 – 1885 年)
幕末期の英国外交官。イングランドのスタッフォードシャーの鉄工場主の長男として生まれた。1865 年(慶応元年閏5 月)にはオールコックの後任として駐日全権公使に就任。(37 歳)フランスの駐日公使ロッシュが徳川将軍権力の絶対主義路線を支援し自国の政治的有利を確立しようしたのに対して、パークスは通訳官アーネスト・サトウの助言もあり薩摩藩・長州藩と接近しその支援を行ない、高杉晋作と会談したり、鹿児島や土佐を訪問するなどして倒幕、明治新政府樹立の政治路線を大きく推進した。一方、英仏米蘭の連合艦隊を兵庫沖に派遣し威圧的に幕府と交渉、条約における税率の改正、兵庫開港を実現させるなど、巧みな外交手腕を見せた。1868 年の戊辰戦争では局外中立を保ち、江戸開城を斡旋、他の列強諸国が日本に介入することを防止する役目も果たした。明治政府を最初に承認し政府が対外的難局に直面すると政治的基盤の確立に力を貸し、自国の指導的立場を確固たるものにすることに尽力した。1878 年の条約改正問題では日本側の税権回復要請を拒絶したが、日本に対して西洋文明の導入を推進するなど、日本の近代化と日英交流に貢献している

ミシェル・ジュール・マリー・レオン・ロッシュ
(1809 年 – 1900 年)
1864 年、初代駐日公使であったドゥシェーヌ・ド・ベルクールの後任として横浜に来日した。ロッシュはアラビア語には堪能であったが、日本語には疎かったため、函館の宣教師・メルメ・カションを呼び出して公使館の通訳としている。その後は本国フランスがイギリスと対立している関係から幕府に接近し、積極的
な軍制改革などにおいて幕府を支援した。65 年横須賀製鉄所建設の請け負い、横浜仏語学校の設立を行った。66 年経済使節団を来日させ借款・武器契約の売り込みを結び67 年軍事顧問団を招聘し幕府に軍制改革を着手させた。徳川慶喜が将軍となると幕政改革の構想を建言し幕府中心の統一政権確立に努めた。一連の政策はイギリスの対日政策に対抗するものであった。67 年パリ万国博覧会への日本の参加を全面的に支援した。 しかし、本国で自らの親幕府外交を支持した外相が罷免され、後任の外相が親薩摩藩・長州藩政策を採用したため、ロッシュは公使を罷免されて1868 年に帰国した。

タウンゼント・ハリス
(Townsend Harris, 1804- 1878 年)
 ニューヨーク州出身。上海で貿易業を行っていたハリスは、1853 年マシュー・ペリー率いるアメリカ東インド艦隊への同乗を望むが、軍人でないために許可を得られなかった。ハリスは国務長官など政界人の縁を頼って政府に働きかけ、日米和親条約の11 条に記された駐在領事への就任を望み、初代駐日領事に任命される。ハリスは日本を平和的に開国させ、諸外国の専制的介入を防いでアメリカの東洋における貿易権益を確保することを目的に、日本との通商条約締結のための全権委任を与えられる。ハリスは通訳兼書記官ヘンリー・ヒュースケンを雇い、1856 年8 月に日本へ到着し伊豆の下田玉泉せん寺に領事館を構える。ハリスのたび重ね江戸出府を要請に対して、水戸斉昭らの反対もあり、幕府は拒んでいたが、1857 年7 月にアメリカの砲艦が下田へ入港すると、幕府は江戸へ直接回航されることを恐れて江戸城への登城、将軍との謁見を許可した。ハリス、ヒュースケンらの一行は1857 年10 月に13 代将軍
の徳川家定に謁見して親書を読み上げている。日本貨幣と米国貨幣との交換比率について幕府側と交渉を行ったハリスは金貨も銀貨も同質同量の原則すなわち、1 ドル銀貨は同じ質量に相当する一分銀3 枚と交換すべきと主張し、幕府側と対立したが、最終的にハリスの主張が通され、この結果、短期間のうちに多額に上る小判が日本国外へ流失する事態が発生した。翌年、日米修好通商条約を締結し、母国に有利な条約を締結したことで賞賛を博した。結果、初代駐日公使に任命され、公使館を江戸の元麻布善福寺に置いた。当時しきりに日本の領土を狙っている国があったが、それを排除する行動をとり幕府の信頼を得ていた。1862 年に病気を理由に辞任し5 年9 ヶ月の滞在を終えて帰国した。帰国後は特に公職には就かず、動物愛護団体の会員などになり、ニューヨーク市立大学シティカレッジの創設にも貢献している。反面、日本においては、自らも、日本国内と海外における金銀比価の違いを利用して小判を買い漁り、それを上海等で売却して私腹を肥やしていたという一面もあったと言われている。
アーネスト サトウ
1843 年、ロンドンで生まれた。1861 年イギリス外務省に入省、通訳見習として清国に赴き、1862 年9 月、英国駐日公使館の通訳見習として来日した。その直後の9 月14 日、生麦事件が勃発した。翌年には薩英戦争の現場に立会い、四国艦隊下関砲撃事件にも立ち会った。後に正規の通訳官及び書記官に昇進して、駐日公使ハリー・パークスの下で活躍し1883 年(明治16年)まで、20 年間日本に滞在した。その後、シャム、ウルグアイ、モロッコ駐在領事を経て、1895 年(明治28 年)日本に戻り、5 年間、駐日特命全権公使として活躍した。その後、駐清公使として北京に滞在し義和団事件の後始末や日露戦争を見届けた後、日本の枢密院顧問官に任命されている。英国大使館の桜並木は、サトウが植樹を始めたもの。「サトウ」という姓はスラヴ系の希少姓で、当時スウェーデン領生まれドイツ系人だった父の姓であり、もともと日本と関係はなかったが、親日家のサトウはこれに漢字を当てて「薩道」または「佐藤」という日本
名を名乗った。本人も自らの姓が日本人に親しみやすいものだったため、大きなメリットになったと言っていたらしい。日本滞在は計25 年間に及び、明治時代前期の外国人キー・パーソンと言っても過言ではない。私生活は法的には生涯独身であったが、明治中期に日本滞在時に武田カネを内妻とし3 人の子を設けた。カネとは入籍しなかったものの子供らは認知し経済的援助を与えており、特に次男の武田久吉をロンドンに呼び寄せ植物学者として育て上げた。また、最晩年は孤独に耐えかね家族の居る日本に移住しようとしたものの、病に倒れ果たせなかった。
 

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