2016年

寒が戻った4月5日、満開の桜にむかえられ母校体育館で第61期生の入学式が挙行されました。期待に胸をふくらませた277名の新入生がクラス別に入場。国歌斉唱に続き学校長が新入生全員の入学許可を宣言し、同窓会長およびPTA会長から入学のお祝いの言葉がよせられ、新入生代表からは「勉強はもちろん行事・部活にも全力をつくします」と力強い決意がのべられました。合唱部・吹奏楽部の演奏により校歌が披露され、おごそかで凛とした入学式が終了しました。卒業生は文武にわたる在校生の活躍を期待し応援していこうと思います。


  母校・庭園に咲き誇る満開の桜
クラスわけ掲示 部活勧誘
新入生入場前 同窓会祝辞

多摩高同窓会幹事・職域部会 各位
 
 
*************** 幹事会の御案内 *****************

日時:2016年 5月22日(日)
   幹事会15 : 00~17 : 00
   懇親会17 : 20~19 : 20
         (会費:3千円、但し 54期~58期 1千円)
      
場所:幹事会 川崎市総合自治会館 第1会議室 
         (川崎市中原区小杉町3-1) 電話 044(733)1232 
         武蔵小杉駅 徒歩7分  
   
    懇親会 串駒 (武蔵小杉駅近く、小杉町3-430)       
         電話  044(711)3929

1.議事
 議題1.平成27年度事業報告について
 議題2.平成27年度決算報告、監査報告について
 議題3.平成28年度事業計画について
 議題4.平成28年度予算案について
 議題5.その他
 
2.同窓会活動についての意見交換

3.参加者の自己紹介

※ 前回の幹事会の様子はこちら https://www.tamadou.jp/?p=659



 

多摩高校陸上競技部OB会 
副会長 19期 木原 真一郎
 
3月12日(土)「エポックなかはら」におきまして、陸上競技部OB会総会を開催しました。
当日は同窓会から安部会長、陸上競技部父母会五十嵐会長、歴代顧問の金田先生、深谷先生、現顧問の伊藤先生にもご参加頂き賑やかな会となりました。
現顧問の伊藤先生からは、校舎新築に伴いグランドが狭くなり練習スペースが確保しづらくなっている等の苦労話をお聞きしました。昔は優に300mトラックを確保できましたので恵まれていましたね。昨年OB会から走り幅跳び助走路を10m寄贈しており、今年も追加支援する予定です。
会の最後に、早稲田大学時代箱根駅伝で大活躍した50期矢澤曜君が現役引退する事に伴い、OB会から感謝と激励の花束を贈りました。

 

平成27年度 若手幹事会の報告

平成28年3月19日(土) 14時から 母校応接室

  すっかり定着した感のある当該年度の卒業生を囲んでの幹事会、今回は14名の参加がありました。まず役員から同窓会の意義について、卒業生の親睦をはかるとともに学校の要請に応じて学校・生徒の支援をおこない、卒業生のニーズに応じたサポート(一例として就職希望先の先輩の紹介)も可能なものについてはおこなうことの説明がありました。

 続いて卒業したばかりの58期生が自己紹介とともに多摩高での3年間を振り返りかえり、悔いのない青春を勉強・行事・部活に燃焼しつくし、充実した日々を過ごし多摩高校への愛着が深まったとの感想がのべられました。

 今回、初めての企画として社会人1年生の50期生・岩渕太君(東工大院卒・研究機関勤務)から経験談をかたってもらいました。

 要旨は次のとおりです。「多摩高で社会科・理科も幅広く学ぶことができて大学での学業や現在の仕事における基礎力になっていると感じます。今年卒業の皆さんも、専門にとらわれず積極的に広く多様な分野を勉強してほしいと思います」
  その後、質疑となり「大学院に進むにあたって留意すること」「社会にでるにあたり必要なこと」といった質問がだされ対応について経験談が披露され、なごやかな雰囲気で予定された1時間半があっという間にすぎました。

(出席者)
 (50期)岩渕
 (54期)原 雅彦  松本太一  阿部優梨那
 (55期)廣瀬開陽  
 (56期)荒井紀彦
 (58期)大塚俊貴  河村 人  岩崎愛由 根岸奈生
      安斎郁瑛  澤谷陽太  竹内真琴 五十嵐匠
 (役 員)安部 高山(桂) 中島 吉田




   

平成28年1月31日  臨時幹事会  開催報告
 
 平成28年1月31日(日)多摩高校同窓会臨時幹事会が、武蔵小杉の川崎市総合自治会館で開催されました。1期生の鈴木由起子さんから、最も若い方は高校卒業2年目・56期生の荒井紀彦さんまで、総勢31名に参加いただきました。

 会の冒頭では、安部会長から、昨年活躍したOB・OGについての紹介を交えて、ごあいさつをいただきました。引き続いて講演が行われました。今回は、18期生で同窓会副会長・内科医(医学博士)の中野知子さんを講師に、「今、なぜメタボ対策が必要か?~素のままでは、ヒトの寿命は50年です。~」という、中年にはちょっとショッキングな演題でご講演をいただきました。

 今、日本は世界一の長寿国ですが、江戸時代から昭和22年ごろまで平均寿命は50歳ぐらいだったそうです。今の日本人は、50歳を過ぎると死亡原因として、悪性新生物(がん)、心疾患、脳血管疾患が多くを占めますが、メタボリックシンドロームによって心筋梗塞、脳卒中、腎不全、大動脈解離、認知症などの血管系疾患が引き起こされるとのことです。高血圧・高血糖・高尿酸・高中性脂肪の共通の根となる肥満・内臓脂肪の蓄積を減らすこと、すなわちメタボ対策の必要性を、最新のデータに加えて、徳川将軍の寿命や藤原道長が糖尿病であったことなど歴史上の人物の話も交えて、分かりやすく説明していただきました。質疑も活発に行われました。

 次に、議長に三上さんが選出され議事に移り、「(1)活動状況の報告と意見交換」では、安部会長から同窓会費の支払い方法について、従来のゆうちょ銀行および市中銀行、インターネットバンキングの振込に加えて、コンビニエンスストアの振込について提案がありました。
コンビニエンスストア振込の場合は支払期限を設定する必要がありますが、毎年、7月に会報を送付すると7~9月に多くの会員が会費を振り込みますので、手数料を抑えるため、この時期に振込の期間を設定すること、コンビニエンスストア振込の場合は金額を変更できないので、金額を変更する場合は従来の郵便振込を使用するなど、について説明があり、質疑が行われコンビニストア振込導入については幹事会として了承され、5月幹事会で細部について補足説明することとなりました。幹事会で承認された基本事項は以下のとおりです。①コンビニエンスストア振込の導入(3ケ月)②ゆうちょ・市中銀行からの振込は従来どおり③振込用紙についてコンビニエンスストアは独自新規用紙、ゆうちょ等銀行の用紙は従来どおり。
「(2)今後の日程について」では、平成28年3月19日(土)に若手幹事会(54期~58期対象、会場は母校)を、5月22日(日)に幹事会を(会場未定)開催することが確認されました。
 最後に、懇親会に参加できない方々から自己紹介とごあいさつをいただき、臨時幹事会を終了しました。
 その後、場所を恒例の「串駒」に移し、懇親会を行いました。例年の通り、参加者全員に近況報告をしていただき、懇親会の最後は、校歌を斉唱して閉会しました。多摩高の歴史を反映するように、幅広い世代の方にご参加いただきましたが、世代を超えて多摩高の伝統が受け継がれていることを感じるひとときでした。
 
 

 

 
第6回 鎌倉ウォーキング 和田塚、和賀江島~披露山公園ー解説版 
1, ラングドン・ウォーナーは、アメリカの東洋美術研究家。親日家。 太平洋戦争が勃発すると、日本の三大古都の歴史遺産に戦禍が及ばぬよう訴え、芸術的歴史的建造物を空爆から救ったといわれている。 碑には、ウォーナーのレリーフがはめられ、碑文には「文化は戦争に優先する」と書かれている。昭和62年(1987)、古都保存法の制定20周年を記念して、社団法人 鎌倉同人会によって、ウォーナー博士の記念碑が建てられた。
2. 鎌倉市役所の裏にある御成小学校は、明治天皇の皇女のために造られた御用邸の跡地に建てられている。大正12年(1923)の関東大震災で御用邸は崩壊し、再建されることはなかった。正門は、コンクリート造に建て替えられたが、格好は御用邸の門が受け継がれている。門標は高浜虚子が書いた。地名ともなっている「御成」の名は、御用邸にちなんで付けられた。
3, 問注所跡と裁許橋
この一角は、かって問注所があったところである。問注所は鎌倉幕府の裁判機関で、元暦元年(1184)に設置され、当初は源頼朝の屋敷内(大倉幕府)にあったが、言い争いや喧嘩が絶えなかったことから、二代頼家のときにこの場所に移転されたといわれる。執事(長官)は学識にすぐれた三善康信(善信)が就任した。三善康信は、伯母が頼朝の乳母だったという縁で、京都に住み、伊豆に流されていた頼朝に京の情報を送り続けて、頼朝から信頼されていた。以後、三善氏が問注所執事を世襲している。 問注所での裁判の結果、無罪放免となった者が渡った橋を裁許橋と呼んでいる。一方、有罪となった者は六地蔵辺りにあった刑場で処刑された。

 
4, 六地蔵
由比ヶ浜通りと今小路の交差点に並ぶ六体の地蔵を云う。鎌倉時代、この北側には刑場があり、そのため「
飢渇()畠(けかちばたけ)()」と呼ばれる荒地であった。罪人の供養のために生死を繰り返す六つの迷いの世界(六道)から救うといわれる六体の地蔵が祀られた。江戸時代、俳人松尾百遊が、芭蕉を偲んで「夏草や兵どもが夢のあと」と刻んだ句碑を建てた。そのため、ここを「芭蕉の辻」とも呼ばれている。
 
5. 和田塚
かつて、この辺りは向原古墳群と呼ばれる古墳があった。その中には采女塚と無常堂塚があり、塚には多くの五輪塔が転がっていた。明治22年(1889)の道路改修工事によって采女塚が削られ、続いて、明治25年(1892)には無常堂塚が削られた。その時、無常堂塚からは多くの人骨が発見され、中には刀を握ったままの骨も発見されたという。調査の結果、その人骨が建暦3年(1213)に起こった和田合戦の戦死者のものだったことが分かり、無常堂塚を「和田塚」と呼ぶようになったという。明治42年(1909)、塚の上に「和田一族戦没地」と記された碑が建てられた。和田合戦は、執権 北条義時と幕府の軍事面の長官であった侍所別当 和田義盛との間で起きた権力闘争で、和田は三浦一族であったが三浦の助成を得られずこの地で敗退し滅亡した。この戦い以降、北条の権勢は強まり、義時の子、3代執権 泰時のとき盤石となった。
6. 下馬
鎌倉時代、現在の下馬四ツ角から鶴岡八幡宮までは、馬の乗り入れが許されず、参拝するときはここで馬を下りた。また、若宮大路を横切るときもここで馬を下りて礼拝したことから「下馬」と呼ばれるようになった。現在も地名として残されている。下馬橋は3つあって、源平池にかかる橋を「上の下馬橋」、二の鳥居付近の扇川に架けられていた橋を「中の下馬橋」、そして下馬四ツ角の橋が「下の下馬橋」と呼ばれていた。文永8年(1271)9月12日、龍ノ口刑場へと護送される日蓮は、下馬橋で鶴岡八幡宮に向かい、「法門のために霊験を現わしたまえ」と大音声で請願したといわれている。元治元年(1864)11月20日、下馬で江ノ島・鎌倉見物にきていた英国軍人ボールドウィン少佐とバード中尉の二人が殺傷されるという英国人殺害事件が起きた(鎌倉事件)。事件の犯人は、攘夷浪士の清水清次と間宮一で、二人はすぐに逮捕され、横浜西区にある「くらやみ坂」の刑場で斬首された。首は吉田橋に3日間晒されたのち、願成寺に葬られた。
7. 畠山重保の墓
 鶴岡八幡宮一の鳥居の傍らに建つ宝篋印塔は、畠山六郎重保の墓と伝えられ、明徳6年(1393)の銘のある石塔。重保は、頼朝の御家人畠山重忠の嫡男で、屋敷は、大鳥居の近くにあったと伝えられている。元久元年(1204)、三代将軍源実朝と公家坊門家息女との縁談が整ったことから、姫を迎え入れるため15人の若武者が京都へ差し向けられた。畠山重保もその一人に加わっていた。その折、京都守護の平賀朝雅と重保は些細なことから喧嘩となり、それを根に持った朝雅が、義父・北条時政に「畠山父子が謀叛を企てている」と讒言したことにより、畠山父子は討たれることになる。元久2年(1205)6月22日早朝、重保は、「由比ヶ浜に謀叛人が集結している」との報を耳にすると、従者3人とともに浜に向かった。しかし、待ち構えていた三浦義村の手の者が重保を取り囲み、重保は訳のわからぬまま討ち取られてしまった。同日、父重忠も北条義時らの軍に攻められ武蔵国二俣川で討死している。頼朝の側近で、幕府創設以来有力御家人として、幕府を支えてきた畠山一族は、比企一族に続いて、北条に滅ぼされた。

 
8. 一の鳥居
寛文8年(1668)江戸幕府第4代将軍徳川家綱によって、若宮大路に石造明神鳥居の一の鳥居、二の鳥居、三の鳥居の三基が建て替えられて、寄進された。高さは約8.5mあった。しかし、大正12年の関東大震災のとき三基とも損壊してしまった。その後、昭和12年(1937)、一の鳥居だけが石造で元通りに再建されたが、二の鳥居、三の鳥居は鉄筋コンクリートで再建された
9. 元八幡宮(由比若宮)
元八幡宮(由比若宮)は、康平6年(1063)、源頼義が前九年の役の勝利に感謝するため、源氏の氏神だった京都の石清水八幡宮を勧請して創建された。頼義の子・義家も社殿を修復するなどして源氏と鎌倉の結び付きを強くした。その後、鎌倉に入った源頼朝が、由比若宮を小林郷北山に遷座し、現在の鶴岡八幡宮が造営された。祭神は鶴岡八幡宮本宮(上宮)と同じく、応神天皇(第15代)・比売(神)(15代の妻)・神宮皇后()(15代天皇の母)。授けられる「破魔矢」は、源頼義が奉納した弓矢に因むものという。境内には、石清水ノ井、源義家「旗立の松」がある。
10. 妙長寺
正式には日蓮宗海潮山妙長寺という。創建は正安元年(1299)開山の日実は、伊豆で日蓮を救った漁師舟守弥三郎で、のちに鎌倉を訪れ一堂を建立した、これが妙長寺の始まりと云われている。境内には日蓮の法難を記念して建立された相輪搭、法難御用船の模型などがある。明治時代には鎌倉、逗子、三崎の漁師や魚商たちの手による鱗供養塔が建てられた。明治24年、作家泉鏡花は尾崎紅葉の弟子になる前、夏の2か月間を当寺で過ごし、この時の体験をもとに小説「みだれ橋」を書いた。のちにこの小説は「星あかり」と改題した。

 
11. 九品寺
九品寺は、新田義貞が京より招いた風航順西によって開かれた浄土宗の寺。この地は義貞が鎌倉攻めの際に本陣を構えたところとされ、北条方の戦死者を弔うために建立された。鎌倉では、唯一義貞が建立した寺で、山門の「内裏山」、本堂の「九品寺」の掲額は、義貞の筆蹟と伝えられている。本尊阿弥陀如来立像は宋元風様式を伝えるもので市の重要文化財。その他、石造薬師如来坐像(永仁4年銘の県重要文化財)、石造閻魔大王像、石造奪衣婆像があるが、鎌倉国宝館に
寄託()されている。九品寺の山門と本堂に掲げられた「内裏山」「九品寺」の額の字は新田義貞の筆跡を写したもので,当初の額は本堂に保存されている。
 


12. 光明寺
光明寺は、四代執権北条経時が然阿良忠を招いて開いた浄土宗の大本山(末寺56ヶ寺を有していた)。寛元元年(1243)の創建と伝えられ、鎌倉四大寺にも数えられる(他は建長寺・円覚寺・遊行寺)。良忠は浄土宗第三祖で、良忠が鎌倉に住まいしたことで浄土宗が関東以北へ広がったといわれる。
光明寺は朝廷との関係が深く、三門(山門)の扁額(天照山の文字)は後花園天皇の直筆と伝えられ、後土御門天皇からは「関東総本山」の称号を受けるとともに「お十夜法要」も勅許された。お十夜法要とは、三日三晩にわたり本堂で念仏や御詠歌を唱える法会のことで関東一円の浄土宗寺院の僧侶が一堂会して行われる当寺最大の行事である。江戸時代には、徳川家康によって念仏信仰と仏教研鑽の根本道場(僧侶の学問所)として「関東十八檀林」(浄土宗十八ヶ寺)が定められ、その筆頭寺院として栄えた。戦後には、新しい時代の教育を目指す自立大学「鎌倉アカデミア」が開校されている。光明寺記主庭園内に聳そびえる大聖閣は,宗祖法然上人800年大遠忌を記念して建てられた堂。鎌倉で唯一、鳳凰が乗せられた堂です。

 
13. 和賀江嶋
 現存する日本最古の築港遺跡として国の史跡に指定されている和賀江嶋は貞永元年(1232)、第3代執権北条泰時が、九州筑前でも港を築いた実績のある往阿弥陀仏という勧進僧に命じて築かせました。材木座の古名である和賀の地は、遠浅で、風波は強く難破、破損する船が多かったが、日本各地からの物産の集積、宋との交易などから大型の船が安全に出入りできる港湾の建造が求められていた。貞永元年(1232)往阿弥陀仏という勧進僧が、三代執権北条泰時の許しを得て造り上げた。相模川や酒匂川などから運ばれた石が海中に200メートル程積み上げられ、1か月ほどで完成したといわれる。材木座(由比ヶ浜)は、遠浅で風波が荒く、難破・破損する船が多かったため、防波堤の役割を果たしたと考えられる。積まれた玉石は、漬物の押石や石垣用としてよく盗まれたため、警官が巡回していた時代もあった。材木座海岸には、当時運ばれてきた陶磁器などの破片が今でも流れ着く。鎌倉時代には、極楽寺の管理下に置かれ、関料徴収の権利も極楽寺に与えられていた(港を利用する人や貨物から津料と呼ばれる税金を徴収していた)。

 
14. 住吉城跡
 この断崖の背後に続く丘陵と谷戸を含めた一帯は、自然の地形をうまく利用した山城で住吉城と呼ばれ、三浦半島に勢力を持っていた三浦氏が再興し、盟主・三浦道寸が出城としていた。三浦道寸はその後、平塚の岡崎城をも奪い、相模に勢力を拡大していった。永正9(1512)、小田原を本拠として、関東制覇をめざした北条早雲は果敢な攻撃で、道寸が篭もる岡崎城を攻略し、落城させた。続いて、逃げた道寸を追撃し、弟の道香とともに立て篭もる住吉城も昼夜を分かたぬ激しい攻撃を行い圧倒的な勢いで攻略した。城を抜け出し、三浦の本拠地に退却する弟道香は逗子延命寺近くで家臣たちとともに自刃したと云う。兄の三浦道寸は、本拠地・新井城(油壷湾に面した所)まで逃れ、北条に包囲されて籠城したが、3年後の永正13年(1516)、早雲の攻撃に耐えきれずこの城で自刃し、三浦氏は滅亡した。以降、三浦半島は小田原北条氏の勢力下になった。

 
15. 大崎公園
大崎公園は披露山高級住宅地奥の突き出した岬の上にあります。遊歩道とベンチしかない簡単な公園ですが、この公園からは江ノ島や富士山を眺望でき、 逗子マリーナ・小坪港を見下ろすことができます。一番奥に一段高い展望台があり、葉山の山々や葉山マリーナも見降ろすことができます。途中の休憩所には兎のモニュメントに刻まれた泉鏡花文学碑があります。


16.  披露山公園
披露山公園は、昭和33年(1958)に開園された。逗子市の西側に位置し、高さ100mほどの台地にある。ここからは東に逗子湾、北西には江の島とその背後に富士山、伊豆箱根連山、南には伊豆大島を望む絶景の景勝地になっている。披露は「ひらきあらわす」というめでたいこと、良いことを公表する意味があり、献上の品物を披露する役人が住んでいた所とも云われています。披露山公園の広場は戦時中、海軍の高射砲陣地があったところで、3つの高射砲座(直径12m)と監視所の地下室が残されていた。現在、これらを利用して砲座には展望台、円形花壇および猿舎になっている。監視所跡にはレストハウスが造られている。駐車場には終生逗子を愛した「憲政の神様」尾崎行雄の記念碑があり、「人生の本舞台は常に将来にあり」と刻まれている。

 


17.  高養寺(浪子不動) 今から600年以上も昔のこと、披露山あたりの山から毎晩ふしぎな光がさすようになり、それまで沢山獲れていた魚がとれなくなった。鎌倉の補陀落寺の住持頼基法印が人々の嘆きを聞き、周辺を調べると、岩の洞穴の中に石の不動尊を発見し、村人に大切に祀るようにさせたところ、また魚が獲れるようになったという。この祠は、小坪の船を暴風雨から守ったところから「浪切不動」とか、後ろに滝があるので「白滝不動」とか呼ばれ、漁村の信仰を集めるようになった。明治に入り、徳富蘆花の小説「不如帰」が、この地を舞台にしていたので主人公の「浪子」にあやかり、「浪子不動」と呼ばれるようになった。高養寺という名は、寺の建物を作るのを援助した政治家、高橋是清・犬養毅の名を取って付けられたものである。御堂の傍らにあった重要文化財指定の石造五輪塔は神武寺駅近くの東昌寺に移されている。また、昭和8年(1933)、御堂前の海中に蘆花の兄、蘇峯の筆による「不如帰」の碑が建てられた。引き潮時には、この碑のまで行くことができる。碑に使われた石材は江戸城を築くために九州鍋島藩が伊豆から運んできた石垣用の石が、船の難破で大崎の海に落ちたと言い伝えられている。
『不如帰』は、明治31年(1898)から32年(1899)にかけて国民新聞に掲載された徳冨蘆花の小説。のちに出版されてベストセラーとなった。 なお徳冨蘆花自身は『不如帰』の読みとして、少なくとも後年「ふじょき」としたが現在では「ほととぎす」という読みが広まっている。
「片岡中将の愛娘浪子は、実家の冷たい継母、横恋慕する千々岩、気むずかしい姑に苦しみながらも、海軍少尉川島武男男爵との幸福な結婚生活を送っていた。しかし武男が日清戦争へ出陣してしまった間に、浪子の結核を理由に離婚を強いられ、夫を慕いつつ死んでゆく。浪子の「あああ、人間はなぜ死ぬのでしょう! 生きたいわ! 千年も万年も生きたいわ!」、「ああつらい! つらい! もう女なんぞに生まれはしませんよ」は日本近代文学を代表する名セリフとなった。家庭内の新旧思想の対立と軋轢、伝染病に対する社会的な知識など当時の一般大衆の興趣に合致し、広く読者を得た。

 
18. 亀岡八幡宮
 亀岡八幡宮は、第15代の応神天皇を祭神とする神社。応神天皇は文明開化に意欲をもち、大陸文化の製鉄・製陶・機織・皮革加工・金工などのすぐれた技術をもつ帰化人を迎え入れ、幾内やその周辺に居住させ、我が国の産業・文化の発展に貢献した。また天皇の時代には、百済から王仁が「論語」と「千字文」を献上され、以後漢字を用いて記録や外交文書なども作製されるようになった。このように、応神天皇は日本の文明史上に重要な御事績を残されている。天皇は百才を越える長寿を保たれたと伝えられ、崩御後、豊後国宇佐の地に、八幡大神として祀られた。それが現在の宇佐神宮であり、全国7800ある八幡宮の大元である。亀岡八幡宮の勧請の年月は明らかではないが、「新編相模風土記稿」によれば江戸時代初期には延命寺を別当寺として村の鎮守に八幡宮があったと記されている。明治維新の神仏分離令により延命寺の管理から脱し、明治6年逗子の鎮守と定められ、境内がなだらかな岡で、亀の背中のようであったというところから、鎌倉の「鶴岡八幡宮」に対し「亀岡八幡宮」と名付けられたと云う。社殿は、大正12年2月に新築され、その年9月1日の関東大震災に遇ったが辛うじて倒潰を免れ、修覆を加えて現在に至っている。

 
3月13日(日)第6回目の鎌倉ウォーキングを行った。コースは和田塚、和賀江島、披露山公園を経て逗子駅に至るコースで、鎌倉の歴史上由緒ある宮、大きな事件があった所、名庭園のある寺院、海の中に建てられた文学碑そして、富士を望める絶景など多くの見どころのあるコースです。鎌倉駅西口に9:30集合して、駅前広場にあるラングドン・ウォーナー博士の銅像に挨拶。アメリカ人で、日本の文化に親しみを持ち、鎌倉に住む。太平洋戦争時、鎌倉への攻撃を止めるようにルーズヴェルト大統領に進言したと云われている。真偽は不明であるが、結果として鎌倉は戦災に遭わず、街も文化財も守られたことから顕彰されている。次に今小路通りに入って、重厚な門を構える御成小学校の向かいにある問注所跡を散策する。ここは、鎌倉時代の裁判所が設けられところで、裁判の結果、無罪放免になった者が渡ったと云う裁許橋が近くに流れる佐助川に架かっている。反して、罰せられた者は、小路を海辺に向かって観音通りに面した所にあった処刑場で刑を受けたと云う。現在、そこには六体の地蔵が置かれていて六地蔵と呼ばれている。観音通りを横切って、江ノ電和田塚駅を海岸に向かって少し行った所に和田塚がある。ここは建暦3年に起こった和田合戦の戦場だった所で、和田一族の慰霊碑が建っている。この塚を掘り返したとき、多くの人骨が発見され、頭蓋骨には刀傷を受けものが多くあったと云う。また、観音通りに戻って、若宮大路と交差した所に出る。ここは下馬と呼ばれ、馬の乗り入れが許されず、馬を下りて八幡宮を礼拝した所である。また、幕末、攘夷浪士が2人のイギリス士官に斬り掛り斬殺した「鎌倉事件」があった所でもある。若宮大路を、由比ヶ浜方面に向かうと散策スポットの徳川将軍から寄進された第一石造大鳥居とその傍らに大きな宝篋印塔の
畠山重保の墓がある。しばし見学したのち、若宮大路に面した所にある名門 鎌倉女学館の脇を抜けて、材木座方面に向かった。病院前のバス停を左折して、100m程の所の左側の路地を入ると正面に、元鶴岡八幡宮がある。この神社は、「元八幡」と呼ばれ、頼朝の曽祖父頼義が石清水八幡宮から勧請して建立した神社である。また、この界隈は明治から大正にかけて何人かの小説家が住み、芥川龍之介、「丹下左膳」を書いた林不忘そして、日蓮宗妙長寺には泉鏡花が仮寓している。妙長寺から、道沿いに100m程行った所に九品寺がある。九品寺の場所は、義貞が鎌倉攻めをしたとき新田義貞が本陣を構えた所で、北条を倒したあと開山した。本堂の扁額は、義貞の筆跡と云う。材木座には、浄土宗関東大本山の名刹 光明寺がある。天皇家や徳川家に庇護され、巨大な三門や小堀遠州作と云われる記主庭園そして三尊五祖の石庭は見ごたえがある。

 
 光明寺から左に折れて、海岸に出ると満潮時には見えないが、干潮時には岸辺に無数の巨石が転がっている。ここが日本最初の築港と云われる和賀江島である。800年の歳月を経て港の形跡は偲べないが、
宋時代の中国陶器の破片などが今日も海岸で見つかると云う。これより逗子マリーナ方面に向かう。途中、鎌倉十井の一つ六角の井や三浦氏が築いた住吉城跡などを視察して、小坪漁港に出る。小坪漁港の歴史は古く、鎌倉時代より存在している本市唯一の地場産業である。正月には、1年の豊漁と海上での安全を願う「みかん投げ」行事が行われる。その祝いみかんを食べると厄除けになると言われ、多くの人が集まって来る賑やかな祭りである。小坪の魚料理店「魚佐次」で昼食を取ることにした。熱つアツのアジやカマスのフライは実に美味しかった。
 腹ごしらえをして、次の散策に向かう。漁民家集まる家々の細い路地を抜けて、丘を登って行く先に長い階段の参道があり、登った所に天照大神がある。地元の漁師たちに敬われているらしく社は清潔に保存されている。旅の安全を祈って参拝し、神社を出ると、やたらと豪壮な家々の並ぶ住宅地にでる。ここが披露山高級住宅地である。かっては、元ソニー会長 大賀典雄氏もここに居住していた。  住宅地の右寄り道路を
進むと大崎公園に行く表示板がある。大崎公園は海に突き出した岬の台地に作られ、見晴らし台からの展望は実に素晴らしい。遠く富士山、箱根、丹沢連峰、伊豆半島、大島、そして逗子海岸から葉山、秋谷など三浦半島もくっきり眺望できる。しばし、この公園でしばし休憩を取ることにした。休憩後、対岸に見える披露山公園に向かった。この公園も眺望はよく、昭和初期には政治家、文人たちが住み着き、憲政の神様と呼ばれた尾崎行雄もここに住まいを構えた。戦時中は、軍用地になり本土防衛の堡塁が造られ、その痕跡が現在も残され、展望台や猿舎などに転用されている。公園から海岸まで崖のような急斜面の細い道を下って行くと海岸線を走る国道134号線の手前に、浪切不動尊を安置した高養寺がある。この寺は徳富蘆花の小説「不如帰」の舞台となり、その主人公「片岡浪子」に因んで、「浪子不動尊」と呼ばれるようになった。後年、蘆花の実兄蘇峰が不如帰と揮毫した石柱が海中に建立されている。海岸を内陸に少し入った所に、名門 開成高校の兄弟校、「逗子開成高校」がある。明治43年のボート遭難で、17名の学生が亡くなり全国的に知れ渡った学校で、校門前に「真白き富士の嶺・・」の鎮魂碑が建っている。もうすぐ逗子駅である。駅近くにある古社 亀ヶ岡八幡宮を参詣して本日の散策をお開きとした。
 本日は、鎌倉の歴史に触れる散策で、古戦場跡や寺院石庭鑑賞もできました。そして、アップダウンの登降を繰り返し、ひざ関節に堪える歩行であったが、素晴らしい眺望に癒されたり、ビバリーヒルズを彷彿させるような邸宅を鑑賞できたり、思い出残るウォーキングでした。 (石井義文)

 
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2016/03/20に県立多摩高校合唱部 第50回定期演奏会が行われました。

受験を終えた高校3年生は高校最後のステージです。

OB合同ステージは、現役高校生1年~3年の47名に、第1回定期演奏会に出演した8期生から57期までOB・OG 150名が加わり総勢200名の合唱となり、ミューザ川崎シンフォニーホールのパイプオルガンの伴奏とあいまって大迫力のステージとなりました。

在校生は、4月に入学してくる新入部員とともに、第83回NHK全国学校音楽コンクールの全国大会出場を目指すとのこと。頑張ってください。

写真は、リハーサル風景、演奏会終了後のレセプション風景です。
本番ステージの写真は、合唱部の公式ホームページで公開されるでしょう!
http://tamachorus.s343.xrea.com/index.html



   




うららかな春日和となった3月1日、第58回卒業式が母校体育館で行われました。
 

「国歌斉唱」に続いて58期生280名に「卒業証書」が授与され、学校校長から、様々な問題をかかえる国内国際情勢を踏まえ、これから直面する諸課題を解決し未来をきり拓いてほしい旨の言葉が贈られました。
 

来賓として参列した「PTA会長」「同窓会長」の祝辞に続いて、58期生から母校に「記念品」が贈呈され、在校生代表から「これからも伝統を引き継いでいきます」と力強い送辞が述べられた後、卒業生を代表して安斎君から「母校での3年間の思い出を生涯忘れることなく、人生を自らの強い意志で切り開いていきます」との固い決意が披露されました。

「校歌斉唱」で厳粛な雰囲気のなか卒業式は滞りなく終了し、58期生は新しい世界に向けて歩み出しました。

これまでの多摩高校での様々な経験を活かし、自分を成長させる可能性をもった280名がこの先の洋々たる未来にむかって母校を巣立つていきました。同窓会にとっても若い力が加わり頼もしい限りです。





福田校長 薬師神PTA会長
安部同窓会長 卒業生代表答辞

第3回 横浜散歩 旧横浜居留地・掃部山公園界隈ー解説版

1. 横浜三塔
 横浜市の歴史的建造物「キングの塔」「クイーンの塔」「ジャックの塔」は「横浜三塔」と呼ばれている。神奈川県庁本庁舎は「キングの塔」と呼ばれ、昭和初期に流行した帝冠様式の建物で、昭和3年(1928)に竣工した。神奈川県庁庁舎としては4代目の建物で、国の有形文化財に登録されている。この地は、安政6年(1859)、横浜開港に伴って神奈川奉行管理の下、神奈川運上所が設けられた所で、通関関税業務や各国領事との交渉をする外交業務、船の入出港手続き、洋銀両替、各国領事との交渉、違法行為取締りなどの業務を行っていた。 明治4年(1871)、通関事務などが大蔵省管轄となり、翌年には全国の運上所の名称が税関に変更された。 慶応2年(1866)の大火で焼失した後、横浜役所として新築され、その後、横浜税関に改められた。「クイーンの塔」は横浜税関本関庁舎の建物で、昭和9年(1934)に竣工した。イスラム寺院を想わせる緑色のドームが形づくられている。設計者は国会議事堂を設計した大蔵省営繕局の技師・吉武東里が担った。正面玄関の標札は、当時の大蔵大臣高橋是清の直筆と伝えられている。横浜税関本関庁舎1階にある資料展示室は「クイーンのひろば」と呼ばれ、開港からの横浜港・横浜税関の歴史をつづるスクロール年表や貿易の変遷、麻薬や拳銃などの密輸の手口、知的財産を侵害した偽ブランド商品やワシントン条約に該当するはく製や標本等を映像や実物展示により紹介している。「ジャックの塔」は、明治42年(1909)の横浜港開港50周年記念事業として、大正6年(1917)に完成した。関東大震災時に全焼したが、昭和2年(1927)に初期の建築を復元した状態で再建された。平成元年(1989)に高さ36mの時計塔ドーム部が再建されると同時に、国の重要文化財に指定され、現在は横浜市中区公会堂として利用されている。大阪市中之島公会堂などと並び、大正期の公会堂建築物の傑作の一つである。

キングの塔
クィーンの塔
ジャックの塔
2、 日米和親条約調印の地 (現・開港資料館)
  嘉永6(1853)年米国東インド艦隊司令長官ペリーが浦賀に来航し、大統領の国書を提出して日本の開国を要求した。 幕府はその威力に屈し、翌年3月横浜で日米和親条約を結ぶため、嘉永7年(1854)2月10日(太陽暦3月8日)正午、ペリー提督は随員を従えて横浜に上陸した。この地に作られた横浜応接所に入り、日米和親条約締結のため会談が始められた。日本側の全権は大学頭 林復斎が応対した。合計4回に及ぶ会談の結果、漂流民の救助、アメリカ船の伊豆下田・箱館(現函館)2港の入港、薪水・食料・石炭の補給、下田に総領事を置くことなどを取り決め、日米和親条約を締結した。わが国は長い鎖国の時期を終え、開国することになった。画面右端には水神社という小さな神社、背後の大木が「玉楠の
木」の元の姿と伝えられている。この絵はペリー艦隊の随行画家ハイネの原画による石版画である。そして、米国につづき英国、フランス、ロシア、オランダなど西欧諸国に相次いで門戸を開いていった。
その後、安政3年(1856)、下田駐在の総領事として来日したハリスは通商条約の締結を強く求めてきた。大老井伊直弼は天皇の勅許を得られないことで危惧を抱きながらも、開国が日本の将来に必要なことと判断し、下田奉行・井上清直,目付・岩瀬忠震を日本側全権に立てて会談に臨み、安政5年(1858)6月 横浜港沖に停泊していた米艦ポーハタン号艦上で日米修好通商条約に調印した。この結果、横浜は長崎・箱館・兵庫などと共に開港場となり、翌年から貿易が開始されることになった。



3、 岩亀楼跡
 幕末に開国して、外国人が大勢来るようになると、彼らの遊び場が必要となってきた。そこで、幕府は遊廓をつくることを思い立ち、決めた建設用地がこの辺だった。ここら一帯には、大・中・小の「遊廓」と芸者屋が急ごしらえで作られたが、その中で、最も豪華で「竜宮城」にも例えられた大店が岩亀楼だった。岩亀楼には、「異人客専門棟」と「日本人客専門棟」の2つの建物があり、2棟の遊女たちは、完全に区別されていた。異人客の相手をしていた女たちは、洋妾とよばれ蔑まれていた。洋妾たちの多くは、高給にひかれてやって来た貧しい漁村の娘たちで、美貌も教養も劣っていた。それに気付いた外国人客が不満を言い出したので、やがて日本人客相手の上級遊女を侍らすようになった。しかし、外国人に対する懼れや誤解がうずまく当時のこと。岩亀楼一の売れっ子・亀遊が自殺するという事件が起こった。亀遊の死は当時、外国人嫌いな日本人に利用され、大きく騒ぎ立てられた。
 「露をだに 厭ふ大和の女郎花 ふる亜米利加に 袖は濡らさじ」という、辞世の歌が捏造され、亀遊は、「異人に屈せず、誇りを見せた日本婦女子」として祀り上げられた。「亀遊が攘夷女郎にされていく」。このお話は歌舞伎にもなり、滑稽演劇にも上演されて世間の関心を集めた。しかし、反面、本気で尽くして、外国人と夫婦同然になった女たちもいた。カレーラス・モンブランが、幕府とフランスを結びつけることに成功したのは、ラシャメン「お政」の協力のおかげであり、横須賀製鉄所の技師ヴェルニーには、純愛で結ばれた「お浅」がいて、2人は仲良し夫婦のようであったと云う。このように世間の冷たい眼差しも国籍もそして生活文化の違いも乗り越えて尽くす素直で健気な日本女性たちがいたのである。

4、旧横浜生糸検査所 (横浜第二合同庁舎)
 横浜は幕末の一寒村から日本を代表する近代都市として急速に発展してきたが、その礎となったのは一貫して貿易によるものであった。開港すると貿易が始まり、大量の生糸が外国商館を通して輸出されだした。茶や海産物など、その後、蚕種(蚕の卵)の輸出も行われたが、主体は生糸であった。
文久2年(1862)には生糸が全輸出額の約86%を占め、その後も80%台の年が続くなど輸出品第一位の王座を長く守り続けた。しかし、避けて通れない日本の粗悪品生糸の課題を解決するため生糸検査制度が確立され、横浜と神戸に生糸検査所が設けられた。横浜生糸検査所が発足したのは明治29年(1896)4月のことである。フランスから製糸技術や生糸検査の方法を学び検査機械を買い入れて検査を始めたが、業務開始当初は利用者が少なかった。昭和2年(1929)からは輸出生糸検査法が施行され、輸出生糸はすべて強制的に正量検査を行うようになったので、相互に信頼できる貿易が行われるようになった。
5、 横浜指路教会
 横浜指路教会は、宣教師であり医師のヘボン博士を中心に設立された教会である。ヘボン博士は、明治維新より以前の安政6年(1859)にアメリカからクララ夫人を伴って来日した。当時はキリスト教が禁じられていた時代であった。ヘボン博士はまず日本語を学び、日本初の和英辞書を編纂し、英語塾をはじめた。「ヘボン式ローマ字」は、ヘボン博士の和英辞書に使われた日本語のアルファベット表記をもとに作られている。生麦事件で負傷したイギリス人を本覚寺に出向いて治療をしたのもヘボン博士である。「ヘボン」という名前は、本来は英語名「ヘップバーン」であって、当時の日本人の耳には、ヘップバーンがヘボンと聞こえたらしい。そこから博士は自己紹介でも「ヘボン」と名乗り、時には「平文」という漢字をあてて署名することもあった。ヘボン博士の英語塾では、後に総理大臣となる高橋是清や西園寺内閣の外務大臣となる林薫(初代陸軍軍医総監・松本良順の実弟)などそうそうたるメンバーが学んだ。この英語塾はやがて、明治学院やフェリス女学院となっていく。明治に入ってヘボン英語塾の青年たちを中心に教会設立の声が高まり、明治7年(1874)に横浜指路教会の前身となる教会が設立された。当初は何度か場所を変えたが、明治25年(1892)、現在の場所にヘボン博士の尽力で赤レンガの教会堂が建てられ、この時に横浜指路教会と名前も改められた。「指路」は、ヘボン博士がアメリカで属していた教会の愛称「Shiloh Church」の「Shiloh=シロ」に漢字をあてたものである。シロとは、旧約聖書にある「平和を招く者=メシア」と、「古い時代の聖なる町」という両方に用いられている言葉である。宣教師として33年もの間、敬愛されてきた、温厚なヘボン博士は横浜指路教会が完成した後、惜しまれつつ日本を去った。その後、大正12年(1923)の関東大震災により赤レンガの教会堂は倒壊してしまう。そこで3年後の大正15年(1926)年に再建されたのが現在の建物である。震災を教訓に当時最先端の鉄筋コンクリート造を採用しながら、デザインはゴシック風の教会らしい建物になっている。大きなバラ窓と、その上部を囲む尖頭アーチに、建物の角がそのまま持ち上がるようにそびえる鐘楼という厳粛な姿を今日も留めている。


6、 料亭 富貴楼跡 (現・中小企業センター)
尾上町5丁目、現在、中小企業センターが建っているところが、明治初期、有名を馳せた料亭 富貴楼
のあった所である。富貴楼の主はお倉(本名は斎藤たけ)」といい花柳界の女傑という異名があった女である。江戸で生まれ、6歳の時に家族が離散し、20歳のとき新宿で遊女となった。働いても放蕩者の夫が散財し、借金を返す日々で、芸者となって働いた。明治4年(1871)、宴席で横浜の生糸相場で財産を築いた田中平八の知遇を得たことが、お倉の人生を大きく好転させた。田中平八から資金を得て、関内・尾上町に料亭(待合)の「富貴楼」を開いた。富貴楼には富豪 田中平八が招く大久保利通・伊藤博文・井上馨・大隈重信・大山巌・西郷従道・山県有朋・陸奥宗光らの元勲そして、東京・横浜間の鉄道・国道工事に尽力して“横浜の父”と呼ばれた高島嘉右衛門などが出入りして、当時の新たな政治の舞台となっていった。現在に繋がる日本独特の料亭政治の形態を作ったのは富貴楼とも云われている。大久保利通の次男で、吉田茂の義父、牧野伸顕は「お倉は、もし男として生まれたら、大臣・参議にもなれた女傑であった。人を懐柔する力は実に大したもので、それは決して美貌や色恋で引付けるものではない。頑固だった父・大久保利通もお倉には参っていたよ」と云う。また、伊藤博文が、国会開設にあたり、喧嘩別れしていた大隈重信の助力を得たいと思っていたとき、両者の仲を取り持って、和解させる場を作ったのがお倉であったという。
お倉は、明治43年(1910)9月死去し、東福寺に永眠している。

 
7、 鉄の橋 (現・吉田橋)
幕末期、外国人居留地と現在の伊勢佐木町街とを結ぶために作られた架橋で、当初は木橋であったが明治2年(1869)、英国人土木技師 リチャード・H・ブラントンにより、橋長24m、幅員 6mの日本最初のトラスト橋が完成した。橋は「鉄の橋」と呼ばれ、市民に親しまれるとともに、文明開化のシンボルとして錦絵が描かれるなど大変人気を集めました。その他、ブラントンは、横浜居留地の日本大通などに西洋式の舗装技術を導入し、街路の整備も行っている。そして横浜公園の設計も行い、東京・築地~横浜間に日本初の電信架設を完成させ、灯台建設、日本最初の鉄道建設、そして大阪港や新潟港の築港計画に関しても意見書を提出するなど近代日本の黎明期に多大な貢献を果たしている。橋の下の高速道路の走っているところは、そのまた下には地下鉄が走っているが、昭和30年代前半までは、掘割になって、船が浮かび、ボート競技なども行われていた。

 
8、 東福寺 (赤門)
光明山遍照院東福寺は後嵯峨天皇の勅願で元心法師が寛元年間(1243~7)に開山し、太田道灌が中興したと伝えられる高野山真言宗の仏教寺院である。天正19(1591)年には徳川家康公より寺領3石の御朱印を拝領し、その折、葵の御紋の使用を許されたという名刹で、江戸時代は22の末寺を有していた。町名にもなっている朱塗りの山門、赤門でも知られている。往時の山門は二階の豪壮なものだったが、創建以来戦災を含めて七度焼尽され、現在のものは昭和35年に再建されたものである。ご本尊は90センチの観世音菩薩。東国八十八ヵ所霊場36番です。境内墓地には、「富貴楼お倉」」が眠っている。
9、 野毛山公園
 野毛山公園は横浜公園や掃部山公園に次ぐ歴史を持っており、元々都市防災の要地、また市民の憩いの場として国が整備したものを大正15年(1926)に横浜市が管理する事になったのがその始まりである。更に時を遡ると、現在の動物園区域は生糸商売で財を成した明治の商人、茂木惣兵衛の別荘地であり、樹林区域は同時期の豪商だった原富太郎(三溪)が、ここに別荘を所有していた。それが大正12年(1923)の関東大震災によって壊滅的打撃を受け、後年の震災復興とともに公園建設が行われたのである。そして終戦後は米軍に接収されたが、昭和24年に開催された日本貿易博覧会の会場となり、その後は、動物園と遊園地が設置され、昭和26年より市立野毛山遊園地となった。動物園の入園料は、現在に至るまで、無料となっている。公園内には展望台があり、高台という立地条件とあいまって眺望は素晴らしく、横浜の街並みを見事に一望する事ができる。今でも人々にとっての安らぎの場であり、また、子供達の楽しげな声が響く夢のある施設として、横浜市民にとって貴重な存在となっている。



10、 近代水道跡
横浜は土地柄、殆どの地区を沼や海の埋め立てによって成り立たせている為、水質は良いとは言えなかった。井戸を掘っても、飲料用になるものは少なく、人々は水売りから水を買うのが当たり前だった。しかし、横浜は市街地を中心に発展が目覚しく、人口も増加の一途であった。当然、水売りの水だけでは手が回らず、質の悪い井戸水や川の水を利用する者も多く、伝染病などが広まって行き、水道建設が必要とされた。当時の横浜の人口は7万ほどあり、神奈川県は充分な供給のできる水道作りに悩んだ。そこで、明治16年(1883)に広東の水道計画を成功させたイギリス人ヘンリー・スペンサー・パーマー元工兵少佐を雇い水道工事を委任した。 パーマーは、試行錯誤の末、水源を現在の津久井郡三沢村三井を流れる相模川支流の道志川に決定して、野毛山貯水池に至る44kmに及ぶ水道工事を断行し、明治20年(1887)9月、洋式水道を完成させた。現在は、山梨県道志村からの清涼な水が野毛山貯水池から市街へと配水され、横浜は水の悩みから解放され、横浜市民の喉を潤した。全てヘンリー・スペンサー・パーマー工兵少将無くしてはあり得なかった事である。これが近代水道の始まりである。




 
11、 伊勢山皇大神宮
 伊勢山皇大神宮は、明治維新後、神仏分離、国家神道の時代を迎え、横浜がわが国の貿易の要として開港されるに及び、人々の心を一つにして、国家の鎮護を祈ることを目的として、明治3年に、時の神奈川県知事 井関盛艮の発案により創建された。伊勢神宮と同じ、天照大御神を祭神とすることから「皇大神宮」「関東のお伊勢さま」とも称され、横浜の総鎮守として知られている。境内は4,500余坪、御社殿は神明檜造り。境内には、大山厳元帥や乃木希典陸軍大将が題字した日清・日露戦争戦没者慰霊の「彰忠碑」「表忠碑」そして「以徳報恩」をもって戦後処理の日本に対して天皇制を擁護するなど、寛大な処置をしてくれた中華民国 蒋介石総統の顕彰碑がある。
●井関盛艮(もりとめ)
宇和島藩主伊達宗城に仕え、大目付や寺社奉行を務めた後、新政府入りして、神奈川県知事、愛知県知事を歴任後、実業界入りして、東京―八王子間の鉄道敷設に貢献した。



12、 神奈川奉行所跡 (現・県立青少年センター)
 奉行所とは、現在で言うところの警察と役所を合体させたような機能を持った機関である。運上所が主に外交関係や税関業務を行っていたのに対し、奉行所は、開港間もない横浜で専ら行政事務や外国人遊歩区域内の風俗取締、裁判や農民・町人の出願事項の受付・処理などを行っていた。設立されたのは安政5年(1859)6月2日で、開港直後の事である。その所在地から「戸部役所」と呼称され、運上所と共に行政を司っていた。神奈川奉行は外国奉行とも呼ばれ、奉行所と運上所を馬で行き来していた。急坂を登ったり降りたりと、通うのに不便な事この上ないが、場所を戸部にした事には理由があった。一つは開港場の中央から離れた場所に設置する事で、外国人に内政を秘密にできたからである。二つには万が一、外国側との変事が起きた場合には横浜の町を眼下にできる好位置から、城砦へとその機能を変える事が容易だったからである。これにより、野毛を含む戸部地区には行政関連の施設が出現した。そのため、住民は移転する事を余儀なくされ、生業を失う者も多くあった。これに対する補償金もあったが3年待たないと支払われなかったと云われている。

13、 掃部山公園
掃部山は、江戸時代には「不動山」、明治時代に入ってからは「鉄道山」と呼ばれていた。これは日本に初めての鉄道が新橋~横浜間に敷設されたときに、この地が事業拠点となったからである。明治15年(1882)頃に旧彦根藩の藩士の孫で、横浜正金銀行の頭取であった相馬永胤が、旧士族らに呼びかけ、寄付金を募り、故井伊掃部頭直弼の記念碑建設のため、この「鉄道山と呼ばれていた丘を買収し、井伊家の所有としたのである。それに伴い、井伊直弼の官職名に因んで掃部山と呼ぶようになった。
井伊掃部頭直弼像は明治42年(1909)に横浜開港50周年を記念して建てられ、その除幕式は式典の10日後に行われた。しかし、その後、 第二次大戦中の金属回収令で取り払われてしまった。現在の銅像は昭和29年(1954)に開国100周年を記念して横浜市が再建した2代目である。銅像の制作者は鋳金師 慶寺丹長父子。慶寺丹長は薪を背負いながら読書する二宮金次郎の銅像を描いたことで知られている人物で、直弼を衣冠束帯姿で、朝廷から授かった位の高さを示し威厳を表して制作している。顔は直弼の四男で画家であった井伊直安が描いた直弼の肖像画から登用している。直安は幼少期、直弼に可愛がられていたので、優しい父の面影を追憶し描いたと云う。この像は台座を含めると11メートルある。この台座の作者は、「日本橋」、「横浜赤レンガ倉庫」、「横浜正金銀行本店(現、神奈川歴史博物館)」を設計した妻木頼黄である。妻木頼黄は東京駅を設計した辰野金吾、赤坂迎賓館を設計した片山東熊と並ぶ明治三大建築家の一人と謳われた人物で、発起人の相馬永胤が台座の設計をアメリカ留学時代からの友人であった妻木頼黄に依頼している。相馬永胤は、銀行頭取を退任したのち、教育に力を注ぎ、専修大学を創立している。相馬永胤の祖父隼人は彦根藩の公用人だった人物で、彦根藩の代表として、桜田門外で切り取られた井伊直弼の首を取り戻し、首と胴体を縫い付けさせて主君井伊直弼を豪徳寺に埋葬している。永胤は祖父隼人の意志を継いで、井伊直弼の無念を晴らすことを誓い、上野公園や日比谷公園に銅像建設を計画するが、政府の許可が下りず、立ち消えになりそうになったが、明治42年開国50周年の機会を得て、井伊直弼像建立が実現となったのである。大正3年(1914)、井伊家はこの地を市民の憩いの場として提供することとし、横浜市に寄贈した。横浜市は整備の後、同年11月に「掃部山公園」として開園した。この掃部山公園には、約200本の桜が植えられ桜の季節だけは花見客で大賑わいとなる。また、井伊直弼が茶道に通じていたことから、昭和40年(1965)より毎年8月には野点も開催している。園内には「横浜能楽堂」があり、毎年9月には「薪能」も開かれる。



14、第二代目横浜駅跡
 明治5年(1872)新橋~横浜間が開通され、現在の桜木町駅の場所に、初代横浜駅が作られた。その後東海道線を横浜~国府津(小田原市)に延伸する際に、駅の構造的な問題から、横浜駅に入った列車を一端、スイッチバックさせて、本線に戻り、保土ヶ谷方面に走らせなければならなかった。その不便を解消するため短絡直通線を開設し、そこに平沼駅を作るなどの試行錯誤を重ねたが、結果的にさらに不便になってしまい、東海道線が横浜駅を通過するような状況になってしまった。そこで新たに作られたのがこの二代目横浜駅である。しかし、残念ながら完成8年後の1923年に起きた関東大震災で二代目横浜駅は焼失し、閉鎖された。そして同所に再建するのではなく、直線的に大船方面に走らせるために、1928年、今日ある横浜駅の場所に3代目が作られた。現在の横浜駅は1980年に改築され、第4代目である。