源頼朝が、鎌倉に幕府を開いた最大の理由は、鎌倉が一方は海に臨み、三方は山に囲まれて、敵の攻撃を守る城塞都市を築ける軍事的要害の地だったからである。こうした外敵の不法侵入を防ぐ役割を果たした切通しが7つあり、これを「鎌倉七口」とか「七切通し」と云う。この切通しを、3回のウォーキングで辿り、その周辺の寺社仏閣の散策を企画した。 第1回は極楽寺坂、大仏坂、化粧坂の切通しを取り上げた。2月28日は快晴に恵まれ、稲村ガ崎からの江の島、富士山を望む景観を楽しむことから始めた。稲村ゲ崎と近くにある十一人塚の遺跡がある界隈は、朝廷方新田義貞が幕府方を攻略したときに激戦が行われたところであるが今日は静かな住宅地になっている。江の島電鉄沿いに鎌倉方面に歩む道は、鎌倉と藤沢方面を結ぶ古道で、極楽寺坂切通しはこの先にある。坂の途中には、日蓮上人が竜の口の刑場に連行されるときの休息の際、袈裟を松に掛けたとの碑がある。極楽寺駅の北側には真言律宗の高僧忍性が、幕府の庇護のもと建てられた極楽寺がある。壮大な伽藍が築かれていたと言うが度重なる火災で堂塔の多くが焼失し、今日ではその面影はない。忍性が貧者に対して施しを行ったという遺品の製薬鉢や茶臼にその幻影を見ることができる。 極楽寺を出て、坂を下ると材木座海岸を望める眺望のよい所があり、その右手アジサイ寺として知られる成就院、少し下った所にある奈良時代の高僧行基が虚空蔵求聞持法の修行をした虚空蔵堂と暗闇の夜の辺りを昼間のように輝かせたと伝わる星の井を見学した。次に向かう御霊神社の参道の角に、300年の歴史を誇る名店「力餅家」がある。この店の名物「権五郎餅」を食してしばしの休息を取る。 御霊神社は、勇将鎌倉権五郎景政を祀る神社で参詣者も多い。この境内に江の電が走っているのも興味深い。ここからほど近い所に、巨大な木造観音で知られる名刹長谷寺がある。何度も訪れたことのある寺なので拝観を割愛し、昼になったので、人気そば処「以志橋」に入り、腹ごしらえとした。 |
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昼食後の最初は以志橋の裏手にある日蓮宗光則寺を散策した。境内には天然記念物のカイドウの古木が本堂前にあるが、ザンネンながら開花はまだ先なので美しい花を見ることが出来なかった。 次に鎌倉大仏で有名な高徳院に向かう。晴天に恵まれた青空を背景にした大仏は、歌人与謝野晶子が詠ったように、誠に“美男”であった。1495年の津波で仏殿が流されて以降520年間、露座のまま、慈悲深い姿を見せ続けて、人々の心に響くものを感じさせてくれている。ここから大仏坂トンネル方面に進み、トンネル手前を登ったところから大仏切通に入る。 現在の、鎌倉七切通しの中でも、一番鎌倉時代の姿を彷彿できると云うだけあり、「切岸」「置石」「平場」などの遺構も見ることが出来大変興味深い。切通しを抜けた所は常盤という地で、八雲神社や7代執権北条政村の邸宅があったところを散策した。ここからは、笹をかき分けるような山道に入り源氏山公園へのハイキング道を歩む。源氏山公園には、後醍醐天皇の側近で、足利尊氏らと戦った日野俊基を祀る葛原岡神社や墓所があり、歴史の学習に訪れた地元の中、高校生たちが来ていて人が多かった。この源氏山は別名旗立山といい、遠く源氏の総帥八幡太郎義家が奥州遠征に行くとき、戦勝祈願をして、この山に源氏の白旗を立てたことに由来している。公園に建っている頼朝像は、頼朝がこの地から全国を統治し、睨みを利かしているようにも見える。ここから啼薬師で名高い海蔵寺への坂道が、化粧坂切通である。化粧の名は捕虜にした平氏の将の首を死に化粧して実検したことから呼ばれるようになったという。日野俊基もこの地で斬首されている。 坂を下った所には、平景清が幽閉されたという土牢跡も見られる。海臧寺は本堂裏手にある庭園は見事であるが、花も咲いていないこの時期は拝観できず、啼薬師をお参りして退出した。鎌倉駅方面に向かう途中、江戸期水戸家によって建てられた英勝寺を 時間の都合で素通りし、隣接する寿福寺へ向かった。この寺院は、北条政子が主人源頼朝の菩提を弔うために臨済宗の開祖栄西を招いて建立した寺院である。当初は七堂伽藍を擁する大寺院で、鎌倉五山第3位の格式を持っている。この寺の奥にある墓地には、北条政子や3代将軍実朝の墓があり、墓参して、寿福寺を後にした。 本日のハイキングは23,000歩を超え相当疲労したが、元気の余る有志とともに、小町通の居酒屋で今日を振り返えった。(石井義文) |
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