第5期生

第5回 鎌倉ウォーキング 円覚寺~大船界隈 (解説版)

2015年10月29日(木)
第5回 鎌倉ウォーキング 円覚寺~大船界隈  (解説版)

1.  円覚寺
円覚寺は、鎌倉五山第二位に置かれる名刹で、臨済宗円覚寺派の大本山である。山号は瑞鹿山。寺院建立の開基は第8代執権北条時宗、開山は時宗に招かれて宋から来た無学祖元である。時宗は文永・弘安の2度に亘る役で死んだ兵の菩提を弔うために、弘安5年(1282)に、ここ山の内に建立した。寺域は約6万平方メートルある。寺名の由来は起工の際、地中から、仏教の経典の1つである「円覚経」を納めた石櫃が掘り出されたことから名付けられたという。創建当時の伽藍は「仏堂」「僧堂」「庫裡」があるだけであったが、鎌倉幕府の祈願所に定められてからは、土地や建物の寄進を受け、次第に大きな寺院へと発展していった。1333年鎌倉幕府が滅亡したのち瑞泉寺を開山した夢窓国師が住職になってからは、後醍醐天皇、足利尊氏らの援護を受け、寺は繁栄し、塔頭が42院を数えるに至った。山門、仏殿、方丈などが1直線に並ぶ宋の禅宗様式で建てられている。建物の多くは室町から江戸にかけて再建されている。山門には伏見上皇勅筆の「円覚興聖禅寺」の額が掛っている。鐘楼には正安3年(1301)9代執権北条貞時が寄進した洪鐘があり、建長寺、常楽寺の梵鐘とともに鎌倉3名鐘と云われ国宝になっている。鋳物師は物部国光。「皇帝万歳 重臣千秋 風調雨順 国泰民安」と刻まれた梵鐘文は無学祖元の弟子で住持であった西澗子曇が記している。蘭渓道隆、無学祖元、そそして西澗子曇らは、ともに南宋から来た中国人僧侶であるが、それぞれ5代時頼、8代時宗、9代貞時に信頼されていたと云う。また、昭和29年再建された仏殿の天井には白龍図が描かれているが、この絵は当寺、日本画家の大御所前田青邨が監修し、その弟子である守屋多々志が揮毫したものである。

正続院:
山号は万年山。9代執権北条貞時が弘安8年(1258)、仏舎利を治めるために建立した祥勝院という堂宇であった。境内には日本最古の唐様建築で国宝の舎利殿、開山堂、正法眼堂(禅道)がある。舎利殿はもともと尼五山第一位大平寺の本堂であったが、大平寺が廃寺されたとき、当院に移築されたものである
 

仏日庵:
弘安7年(1284)に没した北条時宗の廟所として創建され、嫡男の9代執権貞時、孫の14代執権高時も合葬されている。庵に保管されている「仏日庵公物目録」には諸祖頂相をはじめ13~14世紀に中国から将来された絵画・墨跡・工芸等が記されており、中国から日本への文化の流入を知る上で大変貴重なものである。境内のハクモクレンは「阿Q正伝」で知られる中国の作家魯迅から贈られたもので、作家大仏次郎の「帰郷」の中にも描かれている。茶室の烟足軒では、北条時宗の命日にあたる毎月4日には、「四日会」という茶会が開かれていて、この四日会は 川端康成の『千羽鶴』の舞台となった。

黄梅院:
山号は伝衣山。五山文学の隆盛に貢献した夢窓疎石(国師)の塔所で、疎石を師とする夢窓派の関東における拠点となった。門弟の方外宏遠(ほうがいこうえん)が文和3年(1252)に開創した。のち、足利義詮の遺骨が分骨され、足利氏の菩提寺の性格もおびた。



 
帰源院:
大慶寺や浄智寺などの住職を務めた三十八世傑翁是英の塔所。境内に夏目漱石の「仏性は桔梗にこそあらめ」の句碑がある。漱石は明治27年(1894)の年末から翌年にかけて塔所に止宿参禅している。漱石は「昔し、鎌倉の釈宗演和尚に参して父母未生以前本来の面目はなんだ」と聞かれ、がんと参った」と綴っている。この体験をもとに小説「門」を書いた。釈宗演とは、臨済宗の高僧で、円覚寺、建長寺そして東慶寺の住職を務め、シカゴの万国宗教大会で講演し、欧米に禅(ZEN)を紹介した人物である。講演を英訳したのは、宗演の弟子で東慶寺に眠る鈴木大拙である。帰源院では毎年4月29日漱石の命日に「漱石の会」を催している。帰源院には、作家島崎藤村もここに出入りし、そのときの様子を『春』に描いている。
2. 光照寺
光照寺は藤沢にある時宗大本山藤沢山清浄光寺(遊行寺)の末寺で、時宗の開祖一遍上人が、鎌倉入りの際に巨福呂坂を守る武士に鎌倉入りを止められてやむを得ず行く先を江ノ島にする途中、野宿した所が、現在の光照寺であると言い伝えられている。山門の欄干にキリスト教の十字紋と同じクルス紋が掲げられている珍しい寺院である。近世には周辺の小袋谷村に隠れキリシタンの集落が存在し、光照寺が庇護していたという伝承が残る。寺には江戸幕府からの「隠れキリシタン」に対する文書が残っているという。山門脇には子育地蔵尊その向かいには、年寄や子供の咳が止まるご利益があると云う咳の神様「おしゃぶき様」の石祠がある。
 
3. 常楽寺
  臨済宗建長寺派粟船山(ぞくせんさん)常楽寺は、三代執権北条泰時が、嘉禎3年(1237)、妻の母の供養のために建てた「粟船御堂」を前身としている。その供養には、源頼朝や北条政子が帰依した退耕行勇が導師を勤めた。執権となった泰時は、「連署」や「評定衆」の設置、武家の法典である「御成敗式目」(貞永式目)の制定を行い、北条執権体制の基礎を固めた。また、和賀江嶋の築港を許可し、巨福呂坂・朝夷奈切通の開削も行っている。仁治3年(1242)に亡くなった北条泰時はこの地に葬られた。法名は「常楽寺殿」。仏殿背後に三基並ぶ石塔の左が泰時の墓。中央は龍淵和尚、右が大応国師(南浦紹明)の墓。その後、五代執権北条時頼が、中国宋から来日し壽福寺に寓居していた蘭渓道隆を招き、禅の道場が開かれた。道隆は、建長寺を開山する以前に、この地で禅を広めていたので、常楽寺は「建長寺の根本」と称されている。仏殿の雲龍の図は、江戸時代中期で活躍した狩野雪信作と云われている。龍淵和尚は中興開基と伝えられ、大応国師は建長寺十三世を勤めた高僧である。常楽寺の文殊堂は、英勝寺より移築された建物で、秘仏の木造文殊菩薩坐像は「日本七文殊」の一つとされ、1月25日に行われる「文殊祭」に開帳される(県重要文化財)。この文殊菩薩の頭は、開山蘭渓道隆が宋より持参し、胴体は自らが作ったものであると伝えられている。常楽寺の仏殿の右には鐘楼があって銅鐘が吊されていた。宝治2年(1248)3月21日、北条時頼が祖父泰時の供養のために鋳造したもので、建長寺梵鐘、円覚寺梵鐘とともに鎌倉三名鐘の一つに数えられ、国の重要文化財に指定され、鎌倉三名鐘の中では一番古い鐘である。しかし、梵鐘は現在、同寺にはなく、鎌倉国宝館に保管されている。
 
木曽義高: 
常楽寺の裏山の粟船山には、木曽義高の墓と伝わる塚がある。もともとは、ここから離れた木曽免と呼ばれていた田の中にあって、五輪塔が建てられていたが、延宝8年(1680)、土地の所有者石井次左衛門が塚を掘ってみると青磁の骨壺が出てきた。「これは義高の骨だ」ということになり、常楽寺の裏山に葬ったと伝えられている。木曽義高(清水冠者)は、木曽義仲の長男。寿永2年(1183)に挙兵した木曽義仲は、源頼朝と対立したが、長男義高を人質として差し出すことで和睦した。義高は、名目上、大姫の婿ということで鎌倉に送られてきている。しかし、頼朝は義仲討伐の兵を京に派遣し、源義経らが義仲を討つと、鎌倉の義高をも誅殺した。義高が殺されたことで、許嫁の大姫は大変傷つき、水さえも口にしないほど衰弱した。母の北条政子は義高を討った堀親家の家臣  藤内光澄を引き出し、その首を斬ったという。頼朝の命令で義高を討ち取ったのに、妻政子に家臣を斬られた堀は釈然としないで抗議したが、頼朝は何も答えなかったと伝わる。常楽寺の裏山粟船山の中腹(木曽塚の下)には姫宮の祠がある。これは北条泰時の娘の墓とされてはいるが、一説には、源頼朝の長女大姫の墓であるともいわれている。
 
4. 玉縄首塚碑
大永6年(1526)、安房の里見実堯が鎌倉に攻め込んだ。玉縄城の北条氏時(北条氏綱の弟)がこれを迎え撃ち、戸部川(柏尾川)付近で激しい戦闘となったこの戦いで両軍ともに多くの戦死者を出した。氏時方では甘糟氏をはじめとする30数名が里見軍に首を取られた。合戦後、氏時は里見方に申し入れて、互いに討ち取った首を交換し、この地に葬ったのだと伝えられている。塚に聳える榎(エノキ)は、このときに植えられたものと伝えられ、「甘糟榎」と呼ばれていた。塚も「甘糟塚」と呼ばれていたが、現在は「玉縄首塚」と呼ばれている。
 
5. フラワーセンター大船植物園
当植物園は、神奈川県内の観賞植物の生産振興並びに県民への花卉園芸の普及と植物に親しむ場の提供を目的に、昭和37年に開園しました。この地は昭和34年まで県の農業試験場があったところで、既に大正時代から「大船」の名を冠した「しゃくやく」、「はなしょうぶ」などが改良・育成されてきました。かつて周辺は水田等の低地が広がり、建設当初は近接する柏尾川の氾濫や台風による塩害に悩まされるなど、苦難の末の開園でした。開園当時、フラワーセンターのような施設は全国的にも数少なく、花や緑の園芸品種を展示する植物園として評判を呼びました。当初は輸出を目的とした観賞植物の展示普及等が業務の中心でしたが、そうした役割も時代とともに変わっていき、今では、花や緑を親しみ花き園芸に対する関心を高める施設としての役割が中心となっています。この地で改良・育成された「しゃくやく」、「はなしょうぶ」や体系的に収集してきた「ばら」、「しゃくなげ」など、国の内外から収集した植物は現在約5千余種・品種となり、園内に四季折々の彩りを演出しています。また、観賞温室では、熱帯・亜熱帯の花の美しい植物約1300種・品種を通年楽しむこともできます。
6. 龍宝寺
 龍宝寺(曹洞宗)は、文亀3年(1503)、玉縄城主北条綱成が建立した瑞光院を起源とし、天正3年(1575)、北条氏勝が現在地に移し、「龍宝寺」と称するようになった。七堂伽藍を備えた寺院であったが、豊臣秀吉によって小田原北条氏が滅ぼされると寺も衰退した。歴代玉縄城主や源実朝の位牌が安置されている。龍宝寺は、玉縄北条氏三代の菩提寺で境内には北条綱成、氏繁、氏勝の墓が残されている。現在の本堂は、昭和35年(1960)に再建された。茅葺きの山門は、元禄年間(1688~1704)に建てられたものという。境内にある龍宝寺の新井白石の碑は、享保11年(1726)に建てられたもので、碑文は江戸時代中期の儒学者室鳩巣の撰文といわれるが、風化によって読めない。なぜ、ここに白石の碑があるかというとここ植木は新井白石の知行地であって、当寺には多くの寄進していたことに因る。白石は朝鮮使節がやって来たとき、使節を藤沢の宿まで出迎え、龍宝寺を宿舎として提供し、もてなしたと云う。境内にある古民家は、関谷で名主を務めた旧石井家の住居の住宅が移築されたもの。江戸時代中期のものと伝えられ、三間取り、四方下家造りの構造になっており、戸口や窓の少ない閉鎖的なもので、当時の相模・武蔵国の農家の特色を伝えており、国の重要文化財に指定されている。
 
7. 玉縄城址
 玉縄城は、永正9年(1512)、三浦氏攻略のために北条早雲によって築城された。大永6年(1526)の安房の里見実堯の攻撃も、永禄4年(1561)の上杉謙信の攻撃や永禄12年(1569)の武田信玄の攻撃にも耐え難攻不落と呼ばれた。初代城主は、北条早雲の二男氏時、その後天正18年(1590)第6代氏勝のとき、豊臣秀吉の小田原攻めの際に徳川家康に包囲され開城した。江戸時代に入り、家康の側近本多正信が城主となったが、正信の死後、元和5年(1619)一国一城令により廃城となった。しかし、外国船が頻繁に日本近海に出没する江戸時代後期、寛政の改革を行った松平定信は、玉縄が三浦半島の付け根にあたる要衝の地にあたり、外国からの攻撃に対する江戸防衛の最前線として適地であると考え、定信自ら、数百名の家臣を従えて現地視察を行った。その再築城の計画をしていたが、その3ケ月後に定信が失脚してしまい、築城は幻に消え失せてしまった。
8. 大船観音寺
大船駅前の無我相山の山頂。ここに立つ白衣の大船観音は、高さ約25m、鉄筋コンクリート造りの聖観音上半身像で、1960(昭和35)年に完成した。昭和4年(1929)この国を護ろうとする金子堅太郎、頭山満、清浦圭吾らが発起人となって「観音思想の普及を図り、以て世相浄化の一助となさん」という護国観音として築造が開始されたが、世界大恐慌や続く日中戦争、第二次世界大戦の影響で一時中断された。戦後、昭和29年(1954)、曹洞宗大本山総持寺管長高階瓏仙(黙仙寺二世)、五島慶太氏が発起人となって「財団法人大船観音協会」が設立され、昭和35年(1960)東京芸術大学教授で建築家の吉田五十八氏を中心に画家の和田三造氏、建築家の坂倉準三氏、彫刻家の山本豊市氏の設計と指導のもとにに完成した。お身体は白黄色で、白衣を身に著し、左手に蓮華の花を持ち、右手は五指を伸べて腰前に安じて、常に蓮華台にあって坐禅をされているお姿であるといわれていますが、大船観音はその胸像のお姿です。「財団法人大船観音協会」は昭和56年(1981)に解散し、現在は曹洞宗仏海山大船観音寺と改称され、総持寺の末寺の宗教法人となっている。た。大船観音寺には、原爆被災祈念碑、戦没者慰霊碑など第二次世界大戦の犠牲者を弔う碑が並んでいる。梵鐘は昭和39年4月、味の素株式会社の創業者の長男で3代目社長鈴木三郎助氏からの寄進によるものである

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