2013年6月

幹事会     平成25年5月26日(日)川崎市市民自治財団 総合自治会館(武蔵小杉)にて

司会 木下茂副会長(17期)
定刻、安部会長から、昨今の同窓会の広がり、特に地域支部が形作られるような交流がさかんであることなどの挨拶があり、次いで田中宏幸副校長(19期)からご挨拶を頂戴した。
議長に中島秀隆副会長(19期)を選出して議事に入った。
議題 :平成24年度事業報告承認の件
:平成24年度会計報告承認の件
:平成25年度事業計画承認の件
:平成25年度予算案承認の件
:会則改正案承認の件
  熱心な議論を経て、いずれも賛成多数で承認可決された。特に、会則改正案に対しては、議場より、旧会則では、執行部の独断専行を防ぐための工夫や仕掛け(幹事会と常任幹事会によるダブルチェック体制)があったことに対して、改正案においては、会長、副会長、事務局長、事務局次長で構成される役員会の機動性を重視している(常任幹事会の廃止)点が心配である旨の意見があった。心して執行をすべしという指摘であった。
15:00に開始し、たっぷりと時間をとった会議日程だったはずだが、議論が白熱して17:00の閉会時刻がせまり、報告事項が駆け足になってしまった。
ここ数年来は、20期代から55期(新卒)までの若い幹事の出席が増えてきた。若手幹事会の成果だろう。39名出席。
懇親会は、串駒であったが、またしても満席となり、特に今年同期会開催を予定している24期は4人参加だ。こうして同窓会活動と各期の同期会とが互いに情報交換しながら連動していくのは、まさにひとつの理想の形であろう。懇親会41名出席。
同窓会幹事会に参加された方々
 

第16回 北千住.南千住

2013年06月18日(火) | コメント(0)
平成25年5月18日(土)、第16回お江戸散策は江戸四宿のひとつ千住界隈を取り上げた。、北千住に集合し、ここから散策をスタートした。駅から商店街を西に向かって、100メートルほど行くと日光街道と交差する。この北西の角地に掲げられている案内板によると、かって千住宿の本陣があったところらしい。この旧街道は昔と同様の道幅だったそうで、向かいあって店が軒を並べ、にぎやかな通りになっている。北に向かって歩くと右側にお休み処「千住街の駅」がある。ここのガイドさんに千住の見どころなどの解説をお願いした。ガイドさんによると、江戸期における千住は宿場町ばかりでなく農産物、材木などの生活物資 の商いが盛んで、大いににぎわっていて、日光街道沿いは羽振りの良い豪商が軒を並べ、旅人達に酒を振る舞い、時には飲み比べ大会のような催しをしていたという。
 千住の魅力をたっぷり聞いてから、街道沿いにある江戸中期から絵馬や行灯を描いて名高い吉田家を見学した。内部を見ることはできなかったが、江戸時代からの伝統を守りつづけ、貴重な民俗資料を保存している様子がガラス越しに見ることができた。その向かいには、江戸期、地漉き紙問屋として繁盛していたという横山家住宅跡ある。ここも中に入ることは叶わなかったが、江戸後期に建てられた家屋には、築後
150余年の豪商の風格を十分に備えた重厚さが感じられた。横山家の脇道は、かって、からたち寺と呼ばれた長円寺の参道だったところで正面に月松山の扁額を備えた長円寺がある。この寺院は豊前奥平家から寄進を受けるなど江戸期には多くの参詣者を集めていたという。 山門の左脇には、眼病に効くとして信仰された「めやみ地蔵尊」と呼ばれる祠があり、千住絵馬がぎっしり掛られていて、人々の厚い信仰心が感じられた。ここから、旧水戸街道を辿り、線路を潜り抜けていくと大きな幼稚園を併営している清亮寺に着いた。この寺院は、水戸黄門ゆかりの槍掛けの大松があったことで知られていたというが、現在、その松は枯れてなく、その松を撮影した写真とともに、槍掛けのエピソードが碑の銘板に語られていた。この寺院の裏手には荒川が流れている。この土手に上がってしばしの休息を取ることにした。川の河川敷は、大きなイベントが行われる「虹の広場」と呼ばれ、庶民の憩いの場となっている。この荒川は放水路と呼ばれる人工の河川である。度重なる洪水の対策として上流にある岩淵に水門を造って、分流させたのがこの放水路である。1913年から1930年(昭和5年)まで、17年間の歳月をかけて造られたもので、この川の完成以降、洪水はほとんどなくなったという。この土手に程近い所に、江戸時代から続く骨折治療の名医院と謳われた名倉医院がある。現在も開業していて、建物の外観からして、医院の格式を感じる。続いて、また旧日光街道の商店街に沿って、北千住駅の方へ足を向けた。駅脇の居酒屋などが立ち並ぶ細い路地を潜り抜けると、投げ込み寺と云われた金蔵寺の門前に出た。山門を入ると左手に供養塔が2つ並んでいる。一つは、天保年間における餓死者を供養した塔で、もう一つは千住宿で働いていた飯盛り女たちの霊を慰める供養塔である。塔の台座には彼女達の戒名が刻まれており、合掌しないではいられない気持ちになる。寺から50~60mほどのところに森鴎外の旧居跡がある。彼の父親が開業していた医院で、鴎外がドイツに留学するまでの4年間、彼も当院で働いていたという。次に向かったのは、将軍家からも庇護を受けていたという勝専寺。将軍が日光参詣の折には、ここで休息を取ったという。寺内には閻魔堂があり木造の閻魔大王坐像は、現在でも閻魔詣で多くの参詣者があるという。ここまで散策してくると、丁度ランチタイムになっていた。街道筋を南に向かいながら歩くと、適当なランチ店を見つけた。幸運なことに、11名が一緒に食事をすることができ、調度もシックな造りで、食事も大変美味しかった。
 空腹を満たしたところで、午後最初の散策地、源長寺に向かった。旧日光街道に面した源長寺では当時湿地帯であった千住の新田開発や掃部堤の建設に功績を遺した石出掃部亮吉胤を墓参した。その源長寺から千住大橋までの街道筋は、かって“やっちゃ場”と呼ばれ青果、川魚、米穀問屋などが軒を並べていたという。それぞれの屋号を書いた木札が立ち並び、大いに賑わい、繁昌していた当時の様子が偲ばれる。この通りには、千住プチテラスという千住観光のボランティアガイドが詰めていて、われわれに千住発展の歴史や千住固有の特色などを興味深く講義してくれる。この説明はなかなか圧巻であった。さらに南下して、千住大橋に至ると、ここには松尾芭蕉が奥の細道へ旅立った矢立ちの地の碑が建っている。”行く春や鳥啼く魚の目は泪”魚とは見送りに来た本業が魚問屋の弟子杉山杉風のことという。川の上流へ少し入ったところには江戸に荷物を運ぶ船頭たちの信仰を集めた橋戸稲荷社がある。ここの拝殿の扉には、江戸末期の名工伊豆の長八の鏝絵が治められているが、残念ながら本物を見ることは叶わずでした。千住大橋を渡り南千住に入る。橋を渡ったすぐの路地を少し入ると左手に材木問屋の信仰を集めた熊野神社がある。どういうわけか入口に施錠が掛けられていて、入ることができず拝観をしないで次に移る。
素戔嗚神社、この神社は創建が
1050年というから、約千年も経つ古社で、周辺61町村の総鎮守という格式らしく、社殿も鳥居も壮大な威容を放っている。神社から東に向かうと[荒川ふるさと文化館]があるが、時間の都合で割愛し、明治初期、富国強兵、殖産振興の政策から作られた千住製絨所跡を見る。そこは現在、スポーツセンターやショッピングセンターになっていて、面影はないが、製絨所を取り囲むようにできた煉瓦塀に当時の面影を見ることができた。次は、彰義隊ゆかりの円通寺。境内には、彰義隊士の墓、上野戦争において激戦のあった黒門口の黒門や榎本武揚新門辰五郎たちの追悼碑がある。続いて進んだのが吉原の投げ込み寺として名高い浄関寺。吉原遊女たちの悲しい運命に心から同情を示した永井荷風の詩碑に胸を打たれました。続いて訪れた永久寺は江戸五色不動の一つ目黄不動尊があるところだが、寺とは思えない狭い境内に拍子抜けだった。いよいよ本日の最終散策地である延命寺、回向院に向かう。延命寺は江戸期の刑場があったところに回向院から分離独立した寺で、巨大な延命地蔵が建っている。回向院には、安政の大獄で刑死した橋本左内吉田松陰その他桜田門外で井伊直弼を襲った水戸浪士たちの墓がある。また、ここは杉田玄白前野良沢たちが刑死者の腑分けに立ち会い、人体がオランダの医学解剖書「ターヘルアナトミア」に描かれているものと同様であることを確認し、解体新書を著したこと知られ、それを記念する「観臓記念碑」が院内入口の壁面に掲げられている。 これにて本日の散策は終了となり、例のごとく居酒屋で歓談に華が咲き、程よい酔いを以て楽しき一日が終わりました。(石井義文)
 【散策の後は・・・ビールでカンパイ!】