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第25回 お江戸散策 渋谷・恵比寿 解説

2015年02月18日(水)
第25回 お江戸散策 渋谷・恵比寿界隈 解説
1. 渋谷川
 渋谷の地形は、東から宮益坂、西から道玄坂が下って来る低地である。低地には川が流れ、その川は渋谷川と呼ばれ、江戸期には米や農作物の産地で、いくつもの水車が廻る、のどかな田園であった。この風景は歌川広重の浮世絵にも描かれている。渋谷川は北部の新宿御苑や天龍寺の池を水源として発し、暗渠になって渋谷駅まで流れている。駅南から開渠になって下流に行き、目黒川に合流して東京湾に注がれている。東急デパート食料品売り場の「デパ地下」が1階にあるのは、地下が川であるからである。また、渓谷のようになっているため、青山方面から地下を走ってきた銀座線の渋谷駅が地上3階にあるのは、このためである。地下鉄の高架橋は昭和13年(1938)に当時の技術の粋を集めた鉄筋コンクリートで作られ、レンガや石積みより堅固に築造され、今日にいたっている。

 
2. 金王八幡神社
 この神社は、八幡太郎源義家が後三年の役で勝利したとき、勝旗を当地に奉納して祀ったのがはじまりと云う。後に、源氏配下の河崎基家が寛治6年(1092) に八幡宮を創建し、その子重家が、相模国渋谷領(現綾瀬市)を有していたことから、渋谷姓で呼ばれるようになり、この地も渋谷になったといわれている。 現在の社殿は、徳川家光が3代将軍に即位したとき、守役の青山忠俊が家光の乳母春日局とともに慶長17年(1612) に寄進したもので、江戸時代前期から中期の建築様式をとどめている貴重な建物である。 渡り廊下は、大正14年(1925)に造られ、宮大工の手に依る優れた意匠を持ち、社殿に附属してその価値をいっそう高めている。境内の金王桜は、一重と八重が一枝に混在して咲く珍しい桜として、江戸時代には郊外三銘木のひとつと数えられている。 傍らには「しばらくは花の上なる月夜かな」と刻まれた芭蕉の句碑がある。

 
3. 東福寺
 渋谷山親王院東福寺は、承安三年(1173)圓鎭僧正によって、当地に開創されたと伝わる。東福寺は開創当初から、隣接する金王八幡宮の別当寺で、渋谷区内最古の寺院である。金王八幡神社社記によると、開基は寛治六年(1092)といい、宝永元年(1704)に鋳造された東福寺鐘銘には、後冷泉天皇の御世(1045~1068年)と記されている。梵鐘の周りには、金王八幡宮の縁起など渋谷の歴史が刻まれている。その一部に「後冷泉帝のとき、渋谷の旧号谷盛の庄は親王院の地にして七郷に分る。渋谷郷はその一なり」とあることから、渋谷の地を谷盛の庄とも呼んでいたと思われる。

 
4. 渋谷氷川神社
 渋谷区最古の神社で境内の領域4000坪を要する大きさを誇る。創始は非常に古く、慶長十年に記された「氷川大明神豊泉寺縁起」によると第12代 景行天皇の御代の皇子日本武尊が東征の時、当地に素盞鳴尊を勧請したとある。江戸期には江戸郊外 三大相撲の一つの金王相撲が行われ大いに賑わったという。現在では、恋愛成就の縁結びの神社として知られ、若い人々の信仰を受けている。

 
5. 国学院大学
 国学院は1882年に神職養成や国学普及などを目的に創設された皇典講究所が、教育事業の拡大を図り、1890年に設立した国学系の学生養成機関である國學院を起源としている。 1920年の大学令によって大学に昇格し、戦後は1948年に現行学制によって大学となった。國學院大學には神社本庁の神職の資格が取れる神職課程があり、大学でこの資格を取得できるのは國學院大學と皇學館大学(伊勢市)のみである。近年、神社界に奉職したいという学生が増え、同大学への志望が増加しているという。皇典講究所の初代総裁は有栖川宮幟仁(たかひと)親王 有栖川宮の歴代当主同様、書道および歌道の達人であり、「有栖川流書道」を大成させた。さらに、昭憲皇太后に歌道を、明治天皇に書道と歌道を指南したほか、五箇条の御誓文の正本も幟仁親王によって揮毫されている。熾仁親王(たるひと)は第1子で、和宮の許嫁だった人。

 
6. 吸江寺
 吸江寺は、江戸時代初期に京都所司代を勤めた板倉周防守重宗の正室玉樹院が、慶安3年(1650)に帰依して建立された臨済宗妙心寺派の寺院で板倉家の菩提寺である。板倉重宗は2代将軍 徳川秀忠の娘・和子を後水尾天皇の中宮(後の東福門院)として入内させることに奔走したことでも知られているが、徳川家光の乳母の於福に「春日局」と命名させて、後水尾天皇に謁見させる手配もしている。当時、臨済宗妙心寺派は朝廷との結びつきが強く、幕府は朝廷工作の一環として妙心寺を京都五山並みに格上げさせたり、諸大名に臨済宗妙心寺派に帰依させる工作を行っている。斯様な背景から板倉家は国許では曹洞宗に帰依しているが、江戸の菩提寺は臨済宗妙心寺派になったのである。板倉家は、幕末期、上州安中藩三万石で明治を迎えたが、その藩士の中に同志社を作った新島襄がいた。その他、境内地蔵堂の脇には日本刀の保存に尽力した高瀬隠史の碑がある。
7. 日本赤十字社
 日本赤十字社は、明治10年(1877)に創立された博愛社が基となっています。博愛社は、1877年2月に発生した西南戦争の折、佐野常民(さのつねたみ)と大給恒(おぎゅうゆずる)が官軍と薩摩軍の間に多数の死傷者を出した悲惨な状況に対して救護団体による戦争、紛争時の傷病者救護の必要性を痛感し、ヨーロッパで行われている赤十字と同様の救護団体の設立を思い立った。当初、博愛社の規則の中に敵味方の差別なく救護する」条項があったので、西郷従道らの反対で認可されなかったが、征討総督有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)の英断で博愛社の設立を許可された。佐野常民(さのつねたみ)と大給恒の献身的な博愛精神が赤十字社の設立を促したと言える。この日本赤十字社の初代院長が橋本綱常である。綱常は、幕末、安政の大獄で井伊直弼により斬首された橋本左内の末弟で、医学を志し陸軍省の軍医官のとき大山巌陸軍大臣に随行してヨーロッパの衛生制度や赤十字事業をつぶさに学び、修得して帰国する。その後、大給恒に招かれて、博愛社の設立に尽力していった。彼は救護員養成を奨める傍ら、軍医の臨床研究施設を建設するなどの功績を果たし、日本赤十字病院の前身を築いた。

 
8. 聖心女子大学
 聖心女子大学の敷地は、江戸期、下総佐倉藩堀田家の下屋敷があった所である。堀田家は幕末に老中堀田正睦を輩出し、正睦が老中のときには安政の五カ国条約の締結に尽力したが、勅許の取得に失敗して、老中を罷免された。堀田家の敷地は隣の日赤の敷地にまで広大な領域を占めていて、今でも西麻布方面からの上り坂を堀田坂と称するなど痕跡は残っている。明治に入り1908年、この地に、フランスに設立された女子修道会「聖心会」を母体とした聖心女学校が開校した。第2次世界大戦を挟んで、聖心女学校は、1948年4月、新学制の実施に伴い、日本における最初の新制女子大学の一つとして発足した。
現在、聖心会は、イタリア・ローマに聖心会総本部があり、広尾の大学構内には聖心会日本管区本部のほか、付属研究機関としてキリスト教文化研究所、カトリック女子教育研究所が設置されている。なお、同大学のキャンパスは、元久邇宮邸があり、香淳皇后(昭和天皇皇后)が幼少を過ごし、結婚の折にはこの地から宮中に向かった。また、皇后美智子妃殿下も同大学の出身(7回生)であり、本大学は、二代続けて皇后を輩出したキャンパスということになった。また、元国連難民高等弁務官だった緒方貞子(1回生)作家 曽野綾子(4回生)も同校の卒業生である。正門とパレスと呼ばれる伝統的日本家屋は、当時のものがそのまま修復保存されている。
9. 有栖川宮記念公園
 この地は、江戸時代、盛岡南部藩の下屋敷として使われていた。明治29年(1896)、有栖川宮威仁(たけひと)親王の新邸となった。有栖川宮が廃絶したのち、大正天皇のとき高松宮殿下に引き継がれた。児童福祉を目的とする遊び場に深い関心を寄せられていた高松宮殿下は、故有栖川宮威仁親王の20年のご命日にあたる昭和9年(1934)にこの地を東京市に賜与され、記念公園として一般開放された。管理事務所近くには、威仁親王の養父にあたり、皇女和宮の許嫁であった有栖川宮熾仁(たるひと)親王の銅像が建っている。大小2つの滝から流れる水は公園西側に位置する池に流れ込みます。中島や石灯籠が池は日本庭園らしい情緒が感じられます。また渓流では、深山を彷彿とする静寂な世界を味わえます。また、隣接する愛育病院は皇室の婦人科病院として知られ、今上天皇が生まれ、文仁親王妃紀子が悠仁親王を出産したのも当病院です。
10. 香林院
 香林院は祥雲寺の塔頭の1つで大給松平家の菩提寺として寛文5年(1665)建立された臨済宗大徳寺派の寺院である。大給松平家の本拠は三河国(岡崎)であったが、文久3年(1863)信濃田野口に転封となった。信濃田野口の竜岡城は、若年寄であった藩主松平乗謨(のりかた)が、造ったもので、ペリー来航後、軍備の増強、革新の必要性から、函館の五稜郭と同様の星形要塞の形状をしている。明治に入ってから乗謨は大給恒(おぎゅうゆずる)と改名して、新政府の賞勲局の要職に就き、日本の勲章制度の基礎を築いた。彼の考案したデザインは今日も継承されている。恒はそのかたわら、佐野常民に協力し、橋本綱常を登用して、日本赤十字の前身、博愛社を明治10年(1887)に創設し、日本の医療・福祉制度に尽力した。墓所は、祥雲寺山内にある。また、香林院茶室は、大正8年(1919)茶室建築の第1人者第仰木魯堂によって作られ、戦災で多くが失われた今日、都心に残されたものとしては、香林院茶室が唯一のもので極めて貴重な茶室です。
11.  祥雲寺
 瑞泉山祥雲寺は江戸時代初期の元和9年(1623)福岡藩主黒田忠之が父長政の冥福を祈って建立した。当寺の特徴に参道が左右に曲がっていることが上げられる。これはいざ合戦となったとき、敵の弓、鉄砲を避けるための設計と云われる。墓域には、明治33年ころペストが大流行した際、予防処置として鼠が大量に処分されたことの慰霊碑や黒田家をはじめ多くの大名家の墓碑群が並んでいる。黒田長政の墓は大きく社に囲われている。その他、世界最古の診断書を書き残した曲直瀬玄朔やその高弟で3代将軍家光の疱瘡を快癒させて名声を上げ、玄冶店で有名な奥医師岡本玄冶の墓もある。

 
12.  東北寺(とうぼくじ)
 臨済宗妙心寺派の末寺で、山号は禅河山。元禄9年(1696)、この地に建立された。檀家に大名家を抱え米沢上杉藩、佐土原藩島津家の大名墓地がある。上杉藩の墓所には吉良上野介妻梅巌院の墓がある。東北寺は、江戸期から、施主の木村家の支援を受けている。木村とは、近江出身の日本橋呉服の大店 白木屋の創業者 木村彦太郎のことである。門前の三界萬霊塔と地蔵菩薩像は木村彦太郎百回忌を記念して建立されたものである。墓域、左手には白木屋従業員の整然と並んで建てられている。昭和7年12月に発生した日本橋本店のデパート火災では、従業員14名が死亡、500余名が負傷する大惨事が起きたが、その時の被災者も当墓所に眠っている。三界万霊塔の三界とは
仏教の言葉で、欲界(食欲、物欲、性欲の世界)、色界(物質の世界)、無色界(欲も物もない世界)の三つの世界をいう。また、過去、現在、未来をいうこともある。これらの世界の霊、この世の生きとし生けるものすべての霊をこの塔に宿らせて祀りするために建てられた塔である。多くは寺の境内や墓地に建てられて、万霊の供養や無縁仏を供養するものとされている墓域、左手には白木屋従業員の整然と並んで建てられている。昭和7年12月に発生した日本橋本店のデパート火災では、従業員14名が死亡、500余名が負傷する大惨事が起きたが、その時の被災者も当墓所に眠っている。
13. 福昌寺
 曹洞宗の寺院で、山号は渋谷山。近代的な造りになっているが、1580年代(天正年間)に開山されている。慈覚大師作と伝わる阿弥陀如来立像を本尊として安置している。江戸時代には曹洞宗寺院の最高格式を有する寺格の寺院で、説法をする道場として旗(法幢ほうどう)を立て、仏教行事や布教教化の法事を修し得る地位を得ている。また、江戸期、閻魔堂への参詣者が多かったことから閻魔寺とも呼ばれている。本堂左手の石棺仏は石刻阿弥陀像で彫刻そのものが少ない15世紀ころの石仏で、和歌山県那智郡から当寺に寄進されたものである。しかも石材が6世紀頃の古墳の石棺の蓋として使われていた和泉砂岩である。これは奈良県に数例の発掘が見られるだけで、関東では極く稀で貴重な文化財である。

 

14.  恵比須神社
 恵比須神社は、大むかしより天津神社(大六天様)と称して家内安全、無病息災、五穀豊穣の神々として広く住民に崇められてきた。昭和34年(1959)、区画整理で駅前から遷座させた際、現在地に社殿を新築し、これを契機に商売繁盛、縁結びの恵比須神を兵庫県の西宮神社から勧請して合祀し、恵比須神社との社名に改称された。今日、若い人の参詣者が増えている。JR山手線 恵比須駅の名前は、この神社に起因しているのではなく、明治20年(1887)、この地に設立された日本麦酒酒造会社(サッポロビールの前身)で作られたエビスビールを運搬する駅として名付けられたものである

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