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第1回 鎌倉ウォーキング 解説版

2015年03月06日(金)
第1回 鎌倉ウォーキング 散策地解説
(鎌倉七切通し)
 源頼朝が、鎌倉に幕府を開いた最大の理由は、鎌倉が一方は海に臨み、三方は山に囲まれて、敵の攻撃を守る城塞都市を築ける軍事的要害の地だったからでした。そして都市への人々の往来や物資の運搬のため最小限の道は必要でした。そこで源頼朝は山を最小限度だけ切り取って鎌倉と各地を結ぶ道を作りました。これが「切通し」です。幕府の防衛意識は相当に周到なもので、曲がりくねった狭い道にして、加えて、山腹を垂直に切り落とした「切岸」や道の上に兵士たちを待機させた「平場」、道の真ん中に大きな自然石を置いた「置石」、亀ヶ岡団地に行く手前では狭い道幅に左右から大きな石が覆い被さり、敵を立ち往生させた「大空洞」、「小空洞」等複雑な防御機構などを設けていました。万が一、敵軍が攻め込んで、この切通しを抜けようとすると、その間に種々な仕掛けなどあり、その障害の為に大幅に戦力をそがれる、こうして外敵の不法侵入を防ぐ役割を果たしたのです。鎌倉には主要な切通しが、7つあり、これを「鎌倉七口」とか「七切通し」と呼びます。
 1、 坂ノ下と極楽寺を結び、藤沢、京都と鎌倉を結ぶ西の玄関口の「極楽寺坂切通し」
 2. 長谷と打越を結び、現在も大仏坂トンネルの山上に残る「大仏坂切通し」
 3. 藤沢からの出入口で扇が谷と佐助の間にある「化粧坂切通し」
 4. 亀ケ谷と山之内を結び険しい難所の為、亀も諦めて引返したと云う「亀ヶ谷坂切通し」
 5. 雪ノ下と山之内間を結ぶ「巨福呂坂切通し」。ここは現在、通り抜けは出来ません。
 6. 金沢、六浦と鎌倉を結び、物資の輸送のほか軍事的要路だった「朝夷奈坂切通し」
 7. 三浦半島と鎌倉を結ぶ海上貿易のための重要な幹線道路であった「名越坂切通し」
この他に都市内部の切通として岩壁を刳り貫いて作った「釈迦堂の切通し」がある。
1. 稲村ガ崎
 稲村ケ崎は霊仙山の丘陵が海中に突き出た岬の部分で標高は60mある。稲村ケ崎の名前は岬を海上から眺めると稲叢に似ているところから呼ばれたと云う。岬は急峻な絶壁で、人が通るのは危険を伴う難所になっていた。元弘3年(1333)朝廷方 新田義貞が鎌倉を攻めるさいこの岬で竜神に祈願して黄金の剣を投じたところ、海岸はにわかに引き潮になり、軍勢が攻め込んで、鎌倉攻略のきっかけになったと太平記で語られている。公園入口には「稲村ケ崎新田義貞徒渉伝説地」「明治天皇御製の歌」、七里ケ浜に面した公園西には「逗子開成中学生ボート遭難供養」そして丘陵の丘の上には「ドイツ人細菌学者コッホ博士来訪」の碑が建っている。

2. 十一人塚
 十一人塚の辺りは、極楽寺切り通しに向かう道の入口にあたり、交通の要所であった。新田義貞の鎌倉攻めの折り激戦の場となったが、鎌倉方の勇将本間山城左衛門の抵抗にあって、新田方の武将大舘宗氏ら11名が戦死した所と云われている。のちに、ここに十一面観音堂が置かれ、十一将を弔(とむら)ったことから十一人塚と呼ばれるようになった。

3. 日蓮袈裟掛けの松
 ここは日蓮上人が竜の口の刑場に連れて行かれるとき自ら着ていた袈裟を掛けたと伝わるところで近年まで古い松が残っていたが、現在は新しい松に植え替えられその名残を伝えている。




4. 極楽寺
 鎌倉第3代執権 北条泰時の異母弟の重時が、真言律宗の教えを鎌倉に広めようと大和国から高僧忍性を招いて、この地に極楽寺が建立された。忍性は単なる僧ではなく、貧民を救済するため、施薬院、療病院、薬湯院などの医療施設を作り、20年間で6万人も救済したと云う。その他、重時の山荘を建てるさい、資材運搬のための道路敷設工事の指導まで行っている。忍性の行動は重時やその子長時からも信頼され、極楽寺は隆盛していった。今日の寺の姿からは想像できないが、最盛期には七堂伽藍を備え、子院49、堂塔270が立ち並ぶ壮大な大寺院であったと云う。その大伽藍を誇った極楽寺も、元弘3年(1333)鎌倉幕府滅亡とともに多くの堂塔が兵火につつまれ、壮大な寺容は失われてしまった。現在、わずかに吉祥院の建物が極楽寺の本堂として名残りを留めている。宝物館には本尊の釈迦如来立像や十大弟子像が保存されている。本堂前の製薬鉢と千服茶臼は、忍性が寺で活動していた時の遺品である

 
5. 極楽寺切通し
 極楽寺切通しは、極楽寺住職の忍性が鎌倉と腰越・片瀬へ通じる道として、正元元年(1259)に開いた。この切通しができる前は、海岸の崖っぷちを歩いていたので、危険で、不便であった。切通しの完成は藤沢方面、さらには京都と鎌倉を結ぶ西の玄関口となり、人の往来が活発になるばかりでなく、鎌倉を敵の攻撃から守る軍事的要害の
役割を果たすことになった。

 
6. 成就院
 成就院は真言宗大覚寺派の寺院で極楽寺の子院。山号は普明山(ふめいさん)。寺号は法立寺。本尊は不動明王。アジサイの寺として知られる。鎌倉七口の一つである極楽寺坂切通しの途中に位置する。弘法大師が諸国巡礼の折、百日間にわたり、虚空蔵菩薩の真言を百万回唱える虚空蔵求聞持法の修行を行った所と伝わる。 承久元年(1219)、三代執権の北条泰時がこの寺を創建し、北条一族繁栄を祈ったという。元弘3年(1333)、新田義貞の鎌倉攻めの戦火で焼失したが、江戸時代に再建された。境内には弘法大師像や聖徳太子1300年忌に建てられた八角の小堂がある。寺には平安時代末から鎌倉時代初期の僧・文覚の荒行像がある。彫刻家荻原碌山は明治時代末期にこの像を見て感銘を受け、自身の代表作「文覚」を制作した。また参道には般若心経の文字数と同じ262株のアジサイが植えられている。

 
7. 星の井と虚空蔵堂
 鎌倉十井の一つ星の井は星月夜ノ井とも呼ばれ、昼間でも星影が見え、井戸の中に三つの明星が輝き、夜も付近を照らした。この現象が七夜も続いたことを全国行脚の途中立ち寄った高僧行基が聞き、村人の力を借りて、井戸水を汲み出してみると黒く輝く石があった。行基は「虚空蔵菩薩が石になって降りて来られた」と直感した。この事は、都の聖武天皇の耳にも入り、行基に虚空蔵菩薩の像を彫って祀るように命じたのだという。この菩薩は虚空蔵堂に安置され、行基はここで頭脳明晰、記憶力増進をはかる「虚空蔵求聞持法」を修行したと云う。本尊虚空蔵菩薩は、鎌倉時代には源頼朝の命により秘仏とされ、35年に一度だけの開帳だったが、現在では、1月、5月、9月の13日に開帳されている。虚空蔵菩薩は丑年と寅年生まれの守り本尊と云われ、13歳になった子が知恵を授かるための「十三まいり」が現在も行われている。

 
8. 御霊神社
 御霊神社は勇者の誉れ高い鎌倉権五郎景政を祀っている。平安後期、後三年の役に16歳で出陣した景政は,八幡太郎義家を助けて大いに奮戦した。敵将鳥海弥三郎に右目を射られたが、矢を突き刺したまま戦い敵を倒した。目の奥深くまでつき刺さった矢を、従兄弟の三浦為嗣が抜こうとしたが、なかなか抜けぬ矢に困りはてた為嗣が、景政をあおむけに寝かせ顔を踏みつけて抜こうとした。その時、景政は為嗣の足を払いのけ、「矢に当たって死ぬは武士の本望、なれど生きながら土足で顔を踏まれるは恥だ」と激しく怒った話は有名です。この英雄は神として祀られたが、その後も様々な災難にも厄払いの霊験が現れ、将軍の参詣や奉幣使の派遣が行われるようになったと云う。鎌倉権五郎景政の子孫には、源頼朝が北条時政とともに石橋山で旗揚げをして敗走した際に、平氏側に属しながら潜伏中の頼朝を故意に見逃し、のちに頼朝に臣従した梶原景時がいます。また、浅草寺境内にある市川団十郎の「暫」の像は、この鎌倉権五郎の勇者ぶりを演じたシーンである。

 
9. 長谷寺
 坂東三十三ケ寺の第四番札所として知られる長谷寺の観音は高さ9.18mという日本最大級である。木像の十一面観音像で右手に錫杖を持って死後の世界を導き、左手に蓮華の花瓶を持って、現生利益を約束する独特の像で、両方の功徳を合わせ持つことで多くの人々から信仰を集めている。金箔は足利尊氏が施し、光背は足利義満が納めたと伝えられている。徳川家康は、関ヶ原に出陣する際に参詣し、その後、観音堂を修復した。1300年ほど前、大和長谷寺の徳道上人がクスノキの大木で一体の観音像を造り、一体を奈良の長谷寺に安置し、もう一体は人々を救うように祈り、海に流した。この仏像が16年後に三浦半島に漂着した。その観音像を藤原房前が、鎌倉の地に移し、徳道上人を招いて天平8年に新長谷寺を開山したと伝わる。境内には観音像、阿弥陀堂、大黒堂、経堂などが建ち、四季折々の花が咲いている。山号が海光山と呼ぶにふさわしく、境内からは由比ヶ浜、遠く三浦半島まで一望できる。

 
10. 光則寺
 光則寺は第5代執権北条時頼の家臣宿屋光則によって開かれた。宿屋氏は法華信者を取締る役人で、「竜の口法難」で日蓮が佐渡に流された時は、弟子の日朗上人や信者の四条金吾を自宅裏の土牢に閉じ込める役を任じていた。日朗上人の人柄や日蓮の教えに触れるうち熱心な信者になったと云う。のちに上人の為に屋敷を提供し、文永11年(1174)寺院としたのがはじまりと伝わる。境内には、天然記念物のカイドウの古木や2つの土牢がある。

 
11. 高徳院
 鎌倉の大仏で有名なこの寺は真言宗大異山高徳院清浄泉寺と云う。開基、開山は不明である。本尊は建長4年(1252)に青銅で鋳造された座高11m、重量 120トンの阿弥陀如来像。当初は仏殿に安置されていたが、仏殿は、地震や台風でたびたび倒壊し、建武2年(1335)北条時行の兵が出陣前に仏殿に集まっていたところ大風で仏殿が倒れ、500余人が死んだと云う。その後、再建されたが明応4年(1495)の津波で流されてしまい、それ以降再建されないため、520年間、露座のままである。仏殿の回廊には、2.8mの大わらじが飾られているが、茨城県の児童が寄進したものである。仏殿裏の観月堂わきには、与謝野晶子が詠んだ「かまくらや みほとけなれど 釈迦牟尼は 美男におはす夏木立かな」の歌碑が建っている。

 
12. 大仏切通し
 大仏切通は鎌倉七口のひとつ。現在の鎌倉市長谷から梶原・深沢に抜け藤沢方面に通じる道。現在の大仏坂トンネル上の山道を歩き、切り立った岩肌、やぐら群、石塔などを眺めながら、歩みを続けると火の見下のバス停に出る、この道が往時の切通しである。この切通しのできた年は不明であるが、朝比奈、亀ヶ谷坂、巨福呂坂の切通しが造られた仁治元年(1240)~建長2年(1250)頃と云われている。

13. 常盤八雲神社
 常盤一帯は、鎌倉幕府の初期の重臣梶原景時の領地であった。景時はこの地に除災を祈願して社殿を建立し、これがのちに八雲神社として祀られることになったと云う。また、一説には慶長年間(1596~1615年)に、この地域を支配していた矢沢光広という人物が熊野社を勧請し八雲神社に合祀したとも伝わる。神社は、明治に入り、近くの御嶽神社と諏訪神社が合祀され、現在の地に社殿が建立された。余談ながら、梶原景時は源頼朝の側近として、万事にそつがなく、才気があり、洗練された教養と器量を備えていた。吾妻鏡には「文筆に携わらずと言えども言語巧みにする士なり」と書かれている。しかし、弁舌で巧みに人を陥れることもあり、頼朝の側近ということで他の御家人たちは内心苦々しく思っていたようだ。頼朝が、落馬が原因で死んだ1年後の正治2年(1200)、景時は「結城朝光に陰謀の疑いがある」と2代将軍頼家に讒言した。これを契機に景時追放を求める機運が一斉に吹き上がり、御家人66人が追放嘆願の連判状を将軍に提出するなどの混乱が起きて、景時は失脚してしまう。後に、京都に向かう折り駿河の国で地元の武士団と争い、その地で落命した。墓は常盤の深沢にある。

 
14. 北条氏常盤亭跡
  第7代執権北条政をはじめとする北条氏(政村流)は、鎌倉の防衛の要衝である常盤に別邸を構えた。この場所は、大仏切通の北に位置し約11万m2が国の指定史跡となっている。史跡内では、「法華堂跡」や「やぐら」が確認さている。「常盤」の名は政村の常盤院覚崇に由来している。
現在、円久寺が建てられている辺りが常盤亭の入口に当たる場所で、昔から「殿入」と呼ばれていた。また、常盤亭辺りには、親鸞の弟子唯善の草庵「一向堂」があったといわれ、現在も地名として残されている。北条政村は、第2代執権北条義時の後妻伊賀の方の子。伊賀の方は、義時が死ぬと政村を執権に据えようと画策したが失敗に終わっている。その後政村は、若い北条時宗の代わりとして第7代執権となったが、文永5年(1268)、蒙古襲来の危機に時宗が第8代執権となり、政村は連署となっている。「吾妻鏡」によると、弘長3年(1263)には、「相州常盤亭」で一日千首の和歌会が開かれたとある。北条政村は、和歌にいそしむ文化人でもあった。

 
15.  日野俊基墓所
  日野俊基は後醍醐天皇の側近で、正中元年(1324)、天皇の倒幕計画に参加した罪で捕らえられ、同じく側近の日野資朝とともに鎌倉に護送された(正中の変)。この時、俊基は許されたが、資朝は翌年、佐渡に流された。後醍醐天皇は権中納言の万里小路宣房(までのこうじのぶふさ)を鎌倉へ派遣し、「告文(こうぶん)」をもって弁明したため罪に問われなかった。告文とは、天皇が告げ申す文で、武家に出すことは前代未聞だったという。元弘元年(1331)、後醍醐天皇は再度倒幕計画を企てるが、これが露見し、日野俊基は再び捕らえられ、翌年、葛原ヶ岡で処刑された(元弘の変)。俊基は、鎌倉に入ることなく仮粧坂の葛原ヶ岡で斬首されたと伝えられている。同じ頃、佐渡に流されていた日野資朝も処刑され、後醍醐天皇は隠岐に流された。日野俊基の家臣後藤助光は、俊基の妻の手紙を持って鎌倉に来たが、幕府の警戒が厳しくなかなか渡せずにいた。処刑の日、俊基の乗り物が仮粧坂にさしかかったとき、役人に懇願しやっと渡すことができたという。

 
16.  葛原岡神社
葛原岡神社は、後醍醐天皇の側近・日野俊基を祀る神社です。鎌倉時代、葛原岡一帯は刑場だったといわれており、 後醍醐天皇の側近で、鎌倉幕府の倒幕に関わった日野俊基もこの場所で処刑された。その墓といわれる宝篋印塔がある。明治天皇は日野俊基に従三位を贈り、地元有志と全国の崇敬者の協力により明治20年(1887)に創建された。日野俊基は鎌倉幕府の倒幕の謀議に加わり、正中の変(1324)で捕らえられ許されたが、元弘の変(1331)で再度捕らえられ、翌年ここで処刑された。辞世の句「秋を待たで葛原岡に消える身の露のうらみや世に残るらむ」を残している。また、葛原岡神社の鳥居の傍らに藤原仲能の墓碑が建てられている。藤原仲能は、鎌倉幕府の評定衆を勤めた人物で、建長5年(1253)、六代将軍 宗尊親王の命によって、七堂伽藍を有する寺院を建立し、海蔵寺の中興に尽くした。

17. 源氏山公園(頼朝像)
 源氏山は、奥羽を舞台とする後三年の役(1083~1087年)で八幡太郎義家が出陣するときに、この山上に源氏の白旗を立てて戦勝を祈ったところから源氏山とか旗立山といわれるようになったという。 区域内には源頼朝像や大小の広場などがあり、 桜の名所にもなっている。銭洗弁天、佐助稲荷は、山を南に下ったところにある。

 
18. 化粧坂切通し
 化粧坂の名は捕虜にした平家の大将の首を死化粧して実検した所で、ここはあの世への旅支度の場所だったのである。日野俊基も葛原ケ岡に連行されるとき、ここで処刑された。平景清と人丸姫親子の最後の出会いもここで、坂の下に景清が捕らわれていた洞窟が残されている。新田義貞の鎌倉攻めのとき坂を防備していた13代執権だった北条基時は昼夜五日の戦いの末、手勢20騎とともにここで自害して果てた。基時は直前に跡継ぎの仲時が、近江番場で討ち死にしたことを聞いていたという。

 
19. 景清の土牢
  謡曲でも有名な平家の残党・平景清が死んだと伝わる土牢跡。化粧坂と山王ケ谷の分岐にあった。平景清の一族は皆、頼朝暗殺に並々ならぬ執念を燃やしていた。父は平氏滅亡後捕えられ、京都六条河原で斬首された。その子である忠光と景清は屋島、壇ノ浦で戦ったのち、戦場を離れて頼朝暗殺に執念を燃やす。忠光は建久3年(1192)に永福寺の工事現場で、頼朝暗殺を計画したが、失敗して捕縛され六浦海岸で梟首にされた。残された景清は、建久6年(1195)頼朝が東大寺供養に参列するために上洛するさいに、平氏の残党たちと一緒に暗殺しようとしたが、発覚して捕えられ、土牢に入獄中病死したという。勇猛果敢な平景清は平氏の中でも武勇者として語られている。

 
20. 海蔵寺
  扇谷山海蔵寺は、建長5年(1253)鎌倉幕府第6代将軍 宗尊親王の命によって、幕府の最高政務機関の評定衆だった藤原仲能が七堂伽藍を建立した。しかし、鎌倉幕府滅亡のとき、鎌倉防衛拠点の化粧坂に近かったため戦火の犠牲になり灰燼に帰してしまった。その61年後、明徳5年(1394)に、第4代鎌倉公方足利氏満の命で、扇谷上杉氏定が源翁禅師を招いて再建した。この寺院には、門前の道端には鎌倉十井の一つ「底脱の井」がある。仏殿の本尊薬師如来像は、俗に「啼薬師」とも呼ばれ、薬師如来の胎内には地中から掘り出されたと云われるもう一体の薬師像の面を収めている。子育てにご利益があると云う。また、境内奥に、水を湛えた直径70cm、深さ50cmの穴が16ケ所あり「十六井戸」と呼ばれる窟がある。この穴は納骨穴とも井戸とも云われ、穴の水は弘法大師のために用意した「金剛功徳水」で飲めば悪病が癒えると伝えられている。当寺は、境内の荻の花が美しいことで知られるが、梅、水仙そしてカイドウなども季節ごとに咲き、隠れた人気スポットでもある。

 
21. 英勝寺
  鎌倉で唯一の尼寺。開基の英勝院尼は太田道灌の子孫で、お勝の方と呼ばれた徳川家康の側室であった。家康の11男、水戸家初代藩主徳川頼房の養母をつとめた。家康の死後出家して英勝院と号した。1636年、三代将軍家光から祖先道灌の土地を賜り、英勝寺を建立した。頼房の息女・玉峯清因を開山に迎えて以降、代々の住持を水戸家の息女が務めたことから水戸御殿ともいわれた。水戸光圀(黄門)は第2代住持の清山尼が、黄門の養女であったことから、この寺院を訪れている。総門の屋根には徳川家の三葉葵の紋を掲げている。創建時の面影を残す仏殿、鐘、祠堂、唐門は神奈川県の重要文化財であり、仏殿には、家光が寄進した運慶作阿弥陀三尊像が安置されている。山門は2011年に修復された 四季折々の花が見られ、花の寺としても知られている。

 
22.  寿福寺
  亀谷山寿福寺のある地は昔、奥州征伐に向かう源頼義が勝利を祈願したと云われる源氏山を背にしている源氏父祖伝来の地であり、源頼朝の父義朝の館があったところである。頼朝は鎌倉入りしたとき、この地に自らの居館を設けようとしたが、すでに三浦一族の者が館を建てて居住していたことと、土地が狭かったことから大倉に館を構えた。頼朝が没した翌年の正治2年(1200)、妻政子は京より臨済宗の開祖栄西(ようさい)を招いて、頼朝の菩提を弔うために鎌倉五山の第3位に位置する寿福寺を建立した。栄西は日本に初めて茶を伝えた人物で、寿福寺を開山したのち、2代将軍頼家の庇護を受け、京都に建仁寺を開山している。創建当時は七堂伽藍を擁し、14の塔頭を有する大寺院であったが、宝治3年(1247)、正嘉2年(1258)に火災を起し一堂すら残さぬまで焼失している。寿福寺には栄西の弟子で浄妙寺を開山した退耕行勇、建長寺を開山した蘭渓道隆など、多くの名僧が入寺して、鎌倉の禅宗文化を後世に伝えた重要な存在の寺院である。
境内裏手の墓地には、陸奥宗光、高浜虚子、大佛次郎などの墓があり、鎌倉地方特有の横穴式墓所の「やぐら」には、北条政子と源実朝の墓と伝わる五輪塔がある

 

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