2015年2月

多摩高ワンダーフォーゲル部OB会では、下記のとおり平成27年4月19日(日)にOB会(奥多摩山行)を計画しています。
今のところ8期~22期のメンバー10人前後が参加予定です。
さらに幅広い年代のOB・OGの参加を募集します。
お誘いあわせの上、ご参加ください。どうぞよろしくお願いします。
 

 
開催日: 平成27年4月19日(日) 
行き先: 奥多摩(御岳山~大楢峠~もえぎの湯)難易度初級(歩程約8km)
行程案:
8:19 JR新宿駅発 ホリデー快速おくたま5号
8:47 JR立川駅発 同上
9:36 JR御嶽駅改札口外(集合場所)
 
JR御嶽駅 → (バス10分280円) →滝本駅 → (御岳山ケーブルカー6分590円)→山頂駅
→ (徒歩5分)→御岳山ビジターセンター→ (徒歩10分)→御嶽神社(昼食休憩)
→ (徒歩75分) → 大楢峠 → (徒歩70分) → もえぎの湯(入浴780円、懇親会)
→ (徒歩10分)→JR奥多摩駅(解散場所)
 
(エスケープルート)御岳山荒天時は往路を戻ってケーブルカーで下山し、JRでもえぎの湯へ
(補足)山歩きに自信のない方は、15:00頃にもえぎの湯の懇親会から合流可
 
16:57 JR奥多摩駅発 ホリデー快速おくたま6号
17:56 JR立川駅発 同上
18:22 JR新宿駅着
 
(参考情報)
http://www.geocities.jp/hmrmyamada/yamaaruki/mitakesanmoeginoyu.html
http://www.okutamas.co.jp/moegi/
 
参加申込先:多摩高ワンダーフォーゲル部OB会幹事 三上哲史(22期) mikami040709@m.jcnnet.jp
締め切り日:平成27年4月16日(木)


※写真は、前回、平成24年に奥蓼科に行った時のものです。

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第25回 お江戸散策 渋谷・恵比寿界隈 解説
1. 渋谷川
 渋谷の地形は、東から宮益坂、西から道玄坂が下って来る低地である。低地には川が流れ、その川は渋谷川と呼ばれ、江戸期には米や農作物の産地で、いくつもの水車が廻る、のどかな田園であった。この風景は歌川広重の浮世絵にも描かれている。渋谷川は北部の新宿御苑や天龍寺の池を水源として発し、暗渠になって渋谷駅まで流れている。駅南から開渠になって下流に行き、目黒川に合流して東京湾に注がれている。東急デパート食料品売り場の「デパ地下」が1階にあるのは、地下が川であるからである。また、渓谷のようになっているため、青山方面から地下を走ってきた銀座線の渋谷駅が地上3階にあるのは、このためである。地下鉄の高架橋は昭和13年(1938)に当時の技術の粋を集めた鉄筋コンクリートで作られ、レンガや石積みより堅固に築造され、今日にいたっている。

 
2. 金王八幡神社
 この神社は、八幡太郎源義家が後三年の役で勝利したとき、勝旗を当地に奉納して祀ったのがはじまりと云う。後に、源氏配下の河崎基家が寛治6年(1092) に八幡宮を創建し、その子重家が、相模国渋谷領(現綾瀬市)を有していたことから、渋谷姓で呼ばれるようになり、この地も渋谷になったといわれている。 現在の社殿は、徳川家光が3代将軍に即位したとき、守役の青山忠俊が家光の乳母春日局とともに慶長17年(1612) に寄進したもので、江戸時代前期から中期の建築様式をとどめている貴重な建物である。 渡り廊下は、大正14年(1925)に造られ、宮大工の手に依る優れた意匠を持ち、社殿に附属してその価値をいっそう高めている。境内の金王桜は、一重と八重が一枝に混在して咲く珍しい桜として、江戸時代には郊外三銘木のひとつと数えられている。 傍らには「しばらくは花の上なる月夜かな」と刻まれた芭蕉の句碑がある。

 
3. 東福寺
 渋谷山親王院東福寺は、承安三年(1173)圓鎭僧正によって、当地に開創されたと伝わる。東福寺は開創当初から、隣接する金王八幡宮の別当寺で、渋谷区内最古の寺院である。金王八幡神社社記によると、開基は寛治六年(1092)といい、宝永元年(1704)に鋳造された東福寺鐘銘には、後冷泉天皇の御世(1045~1068年)と記されている。梵鐘の周りには、金王八幡宮の縁起など渋谷の歴史が刻まれている。その一部に「後冷泉帝のとき、渋谷の旧号谷盛の庄は親王院の地にして七郷に分る。渋谷郷はその一なり」とあることから、渋谷の地を谷盛の庄とも呼んでいたと思われる。

 
4. 渋谷氷川神社
 渋谷区最古の神社で境内の領域4000坪を要する大きさを誇る。創始は非常に古く、慶長十年に記された「氷川大明神豊泉寺縁起」によると第12代 景行天皇の御代の皇子日本武尊が東征の時、当地に素盞鳴尊を勧請したとある。江戸期には江戸郊外 三大相撲の一つの金王相撲が行われ大いに賑わったという。現在では、恋愛成就の縁結びの神社として知られ、若い人々の信仰を受けている。

 
5. 国学院大学
 国学院は1882年に神職養成や国学普及などを目的に創設された皇典講究所が、教育事業の拡大を図り、1890年に設立した国学系の学生養成機関である國學院を起源としている。 1920年の大学令によって大学に昇格し、戦後は1948年に現行学制によって大学となった。國學院大學には神社本庁の神職の資格が取れる神職課程があり、大学でこの資格を取得できるのは國學院大學と皇學館大学(伊勢市)のみである。近年、神社界に奉職したいという学生が増え、同大学への志望が増加しているという。皇典講究所の初代総裁は有栖川宮幟仁(たかひと)親王 有栖川宮の歴代当主同様、書道および歌道の達人であり、「有栖川流書道」を大成させた。さらに、昭憲皇太后に歌道を、明治天皇に書道と歌道を指南したほか、五箇条の御誓文の正本も幟仁親王によって揮毫されている。熾仁親王(たるひと)は第1子で、和宮の許嫁だった人。

 
6. 吸江寺
 吸江寺は、江戸時代初期に京都所司代を勤めた板倉周防守重宗の正室玉樹院が、慶安3年(1650)に帰依して建立された臨済宗妙心寺派の寺院で板倉家の菩提寺である。板倉重宗は2代将軍 徳川秀忠の娘・和子を後水尾天皇の中宮(後の東福門院)として入内させることに奔走したことでも知られているが、徳川家光の乳母の於福に「春日局」と命名させて、後水尾天皇に謁見させる手配もしている。当時、臨済宗妙心寺派は朝廷との結びつきが強く、幕府は朝廷工作の一環として妙心寺を京都五山並みに格上げさせたり、諸大名に臨済宗妙心寺派に帰依させる工作を行っている。斯様な背景から板倉家は国許では曹洞宗に帰依しているが、江戸の菩提寺は臨済宗妙心寺派になったのである。板倉家は、幕末期、上州安中藩三万石で明治を迎えたが、その藩士の中に同志社を作った新島襄がいた。その他、境内地蔵堂の脇には日本刀の保存に尽力した高瀬隠史の碑がある。
7. 日本赤十字社
 日本赤十字社は、明治10年(1877)に創立された博愛社が基となっています。博愛社は、1877年2月に発生した西南戦争の折、佐野常民(さのつねたみ)と大給恒(おぎゅうゆずる)が官軍と薩摩軍の間に多数の死傷者を出した悲惨な状況に対して救護団体による戦争、紛争時の傷病者救護の必要性を痛感し、ヨーロッパで行われている赤十字と同様の救護団体の設立を思い立った。当初、博愛社の規則の中に敵味方の差別なく救護する」条項があったので、西郷従道らの反対で認可されなかったが、征討総督有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)の英断で博愛社の設立を許可された。佐野常民(さのつねたみ)と大給恒の献身的な博愛精神が赤十字社の設立を促したと言える。この日本赤十字社の初代院長が橋本綱常である。綱常は、幕末、安政の大獄で井伊直弼により斬首された橋本左内の末弟で、医学を志し陸軍省の軍医官のとき大山巌陸軍大臣に随行してヨーロッパの衛生制度や赤十字事業をつぶさに学び、修得して帰国する。その後、大給恒に招かれて、博愛社の設立に尽力していった。彼は救護員養成を奨める傍ら、軍医の臨床研究施設を建設するなどの功績を果たし、日本赤十字病院の前身を築いた。

 
8. 聖心女子大学
 聖心女子大学の敷地は、江戸期、下総佐倉藩堀田家の下屋敷があった所である。堀田家は幕末に老中堀田正睦を輩出し、正睦が老中のときには安政の五カ国条約の締結に尽力したが、勅許の取得に失敗して、老中を罷免された。堀田家の敷地は隣の日赤の敷地にまで広大な領域を占めていて、今でも西麻布方面からの上り坂を堀田坂と称するなど痕跡は残っている。明治に入り1908年、この地に、フランスに設立された女子修道会「聖心会」を母体とした聖心女学校が開校した。第2次世界大戦を挟んで、聖心女学校は、1948年4月、新学制の実施に伴い、日本における最初の新制女子大学の一つとして発足した。
現在、聖心会は、イタリア・ローマに聖心会総本部があり、広尾の大学構内には聖心会日本管区本部のほか、付属研究機関としてキリスト教文化研究所、カトリック女子教育研究所が設置されている。なお、同大学のキャンパスは、元久邇宮邸があり、香淳皇后(昭和天皇皇后)が幼少を過ごし、結婚の折にはこの地から宮中に向かった。また、皇后美智子妃殿下も同大学の出身(7回生)であり、本大学は、二代続けて皇后を輩出したキャンパスということになった。また、元国連難民高等弁務官だった緒方貞子(1回生)作家 曽野綾子(4回生)も同校の卒業生である。正門とパレスと呼ばれる伝統的日本家屋は、当時のものがそのまま修復保存されている。
9. 有栖川宮記念公園
 この地は、江戸時代、盛岡南部藩の下屋敷として使われていた。明治29年(1896)、有栖川宮威仁(たけひと)親王の新邸となった。有栖川宮が廃絶したのち、大正天皇のとき高松宮殿下に引き継がれた。児童福祉を目的とする遊び場に深い関心を寄せられていた高松宮殿下は、故有栖川宮威仁親王の20年のご命日にあたる昭和9年(1934)にこの地を東京市に賜与され、記念公園として一般開放された。管理事務所近くには、威仁親王の養父にあたり、皇女和宮の許嫁であった有栖川宮熾仁(たるひと)親王の銅像が建っている。大小2つの滝から流れる水は公園西側に位置する池に流れ込みます。中島や石灯籠が池は日本庭園らしい情緒が感じられます。また渓流では、深山を彷彿とする静寂な世界を味わえます。また、隣接する愛育病院は皇室の婦人科病院として知られ、今上天皇が生まれ、文仁親王妃紀子が悠仁親王を出産したのも当病院です。
10. 香林院
 香林院は祥雲寺の塔頭の1つで大給松平家の菩提寺として寛文5年(1665)建立された臨済宗大徳寺派の寺院である。大給松平家の本拠は三河国(岡崎)であったが、文久3年(1863)信濃田野口に転封となった。信濃田野口の竜岡城は、若年寄であった藩主松平乗謨(のりかた)が、造ったもので、ペリー来航後、軍備の増強、革新の必要性から、函館の五稜郭と同様の星形要塞の形状をしている。明治に入ってから乗謨は大給恒(おぎゅうゆずる)と改名して、新政府の賞勲局の要職に就き、日本の勲章制度の基礎を築いた。彼の考案したデザインは今日も継承されている。恒はそのかたわら、佐野常民に協力し、橋本綱常を登用して、日本赤十字の前身、博愛社を明治10年(1887)に創設し、日本の医療・福祉制度に尽力した。墓所は、祥雲寺山内にある。また、香林院茶室は、大正8年(1919)茶室建築の第1人者第仰木魯堂によって作られ、戦災で多くが失われた今日、都心に残されたものとしては、香林院茶室が唯一のもので極めて貴重な茶室です。
11.  祥雲寺
 瑞泉山祥雲寺は江戸時代初期の元和9年(1623)福岡藩主黒田忠之が父長政の冥福を祈って建立した。当寺の特徴に参道が左右に曲がっていることが上げられる。これはいざ合戦となったとき、敵の弓、鉄砲を避けるための設計と云われる。墓域には、明治33年ころペストが大流行した際、予防処置として鼠が大量に処分されたことの慰霊碑や黒田家をはじめ多くの大名家の墓碑群が並んでいる。黒田長政の墓は大きく社に囲われている。その他、世界最古の診断書を書き残した曲直瀬玄朔やその高弟で3代将軍家光の疱瘡を快癒させて名声を上げ、玄冶店で有名な奥医師岡本玄冶の墓もある。

 
12.  東北寺(とうぼくじ)
 臨済宗妙心寺派の末寺で、山号は禅河山。元禄9年(1696)、この地に建立された。檀家に大名家を抱え米沢上杉藩、佐土原藩島津家の大名墓地がある。上杉藩の墓所には吉良上野介妻梅巌院の墓がある。東北寺は、江戸期から、施主の木村家の支援を受けている。木村とは、近江出身の日本橋呉服の大店 白木屋の創業者 木村彦太郎のことである。門前の三界萬霊塔と地蔵菩薩像は木村彦太郎百回忌を記念して建立されたものである。墓域、左手には白木屋従業員の整然と並んで建てられている。昭和7年12月に発生した日本橋本店のデパート火災では、従業員14名が死亡、500余名が負傷する大惨事が起きたが、その時の被災者も当墓所に眠っている。三界万霊塔の三界とは
仏教の言葉で、欲界(食欲、物欲、性欲の世界)、色界(物質の世界)、無色界(欲も物もない世界)の三つの世界をいう。また、過去、現在、未来をいうこともある。これらの世界の霊、この世の生きとし生けるものすべての霊をこの塔に宿らせて祀りするために建てられた塔である。多くは寺の境内や墓地に建てられて、万霊の供養や無縁仏を供養するものとされている墓域、左手には白木屋従業員の整然と並んで建てられている。昭和7年12月に発生した日本橋本店のデパート火災では、従業員14名が死亡、500余名が負傷する大惨事が起きたが、その時の被災者も当墓所に眠っている。
13. 福昌寺
 曹洞宗の寺院で、山号は渋谷山。近代的な造りになっているが、1580年代(天正年間)に開山されている。慈覚大師作と伝わる阿弥陀如来立像を本尊として安置している。江戸時代には曹洞宗寺院の最高格式を有する寺格の寺院で、説法をする道場として旗(法幢ほうどう)を立て、仏教行事や布教教化の法事を修し得る地位を得ている。また、江戸期、閻魔堂への参詣者が多かったことから閻魔寺とも呼ばれている。本堂左手の石棺仏は石刻阿弥陀像で彫刻そのものが少ない15世紀ころの石仏で、和歌山県那智郡から当寺に寄進されたものである。しかも石材が6世紀頃の古墳の石棺の蓋として使われていた和泉砂岩である。これは奈良県に数例の発掘が見られるだけで、関東では極く稀で貴重な文化財である。

 

14.  恵比須神社
 恵比須神社は、大むかしより天津神社(大六天様)と称して家内安全、無病息災、五穀豊穣の神々として広く住民に崇められてきた。昭和34年(1959)、区画整理で駅前から遷座させた際、現在地に社殿を新築し、これを契機に商売繁盛、縁結びの恵比須神を兵庫県の西宮神社から勧請して合祀し、恵比須神社との社名に改称された。今日、若い人の参詣者が増えている。JR山手線 恵比須駅の名前は、この神社に起因しているのではなく、明治20年(1887)、この地に設立された日本麦酒酒造会社(サッポロビールの前身)で作られたエビスビールを運搬する駅として名付けられたものである

 第25回 お江戸散策は渋谷・恵比寿界隈を選びました。渋谷は地形的にも坂が多く、渋谷駅の辺りが低地になっているのがわかる。この低地の所には、新宿御苑の辺りを水源とした渋谷川が流れているのである。街を歩いても川は暗渠になっているのでわからないが、渋谷警察署付近で開渠しているので確認できる。川は、その先目黒川に合流して東京湾に注いでいく。この辺りをつぶさに見ると大変興味深い。渋谷警察署の南方面を歩むと、渋谷を代表する古社 金王八幡宮がある。平安時代中期頃、源氏配下の渋谷基家が、この丘陵に城を築き、支配していた。渋谷の名はここから呼称されるようになったという。金王八幡宮の東側に隣接して寺がある。八幡宮の別当寺であった天台宗東福寺で、かって八幡宮の上位にあったが、明治に入って発布された神仏分離令に端を発した廃仏毀釈により立場が逆転してしまいその存在も影のようになっている。寺院から南方へ数分歩いたところに、渋谷氷川神社がある。埼玉県大宮市にある武蔵一の宮氷川大社の分社で、都内に数か所ある氷川神社の1つであるが、境内は広く、参道も長く引かれていて、多くの参詣者を集めていると云う。
  氷川神社を出て道路を隔てたところに国学院大学がある。神職養成や国学普及などを大学の事業目的にしており、構内には神社も設置されている。大学の東側に臨済宗吸江寺がある。同志社大学を創設した新島襄を輩出した安中藩板倉家の菩提寺である。ここから広尾方面に向かう。正面ガラス張りで十数階建ての大きなビルディングの日本赤十字社医療センターが進行正面に見えてきた。 この赤十字社は西南戦争の折り新政府の重鎮 佐野常民と大給恒(おぎゅうゆずる)が尽力して、博愛精神の基に設立された病院で、当初、敵方の兵士を看護することに反対意見が多かったが、有栖川熾仁親王が負傷者に、「敵も味方もない」と英断して設立されたのである。
 医療センターに隣接しての入母屋造りの門が見える。聖心女子大学の正門である。この聖心女子大からは香淳皇后、美智子妃殿下と2代続けて天皇の后を輩出している。麻布台の方向に歩み続けると、区民の憩いの庭園、有栖川宮記念公園に辿り着いた。この公園は有栖川宮威仁親王の住居であったが、後に高松宮殿下の屋敷となってから東京市に賜与されて公園になったもので、日本庭園の情緒に加え静寂な世界を味わえる都内屈指の公園になっている。江戸期は、盛岡南部藩の下屋敷が置かれていた所でもある。ランチタイムになり、広尾駅周辺のレストランに分散して昼食を取ることにした。

  祥雲寺の山門前に集合して、午後の散策をスタートした。午後の最初は、祥雲寺の塔頭香林院。日本赤十字社の設立に尽力した大給松平家の菩提寺である。東京は戦災で多くの茶室が失われたが、当院の茶室は被災を免れて現存している。祥雲寺。筑前黒田藩の菩提寺である。初代黒田長政の墓をはじめ、多くの大名家の墓が現存して残されている東京都の史跡にもなっている寺院である。ここから恵比寿方面に向かい、臨済宗東北寺(とうぼくじ)に向かう。当院も2,3の大名家が菩提寺としていて格式を感じるが、日本橋にあった白木屋の創業者一族の墓とその従業員の墓もある。墓には、火災で亡くなった従業員の墓も一族に列して安置されており、白木屋が如何に従業員を大事に扱ってきたか、会社の精神を読みとることができる。
  恵比寿に近づき渋谷橋の交差点にやって来た。その一角に、モダン建築の寺院がある。曹洞宗で仏教行事や布教教化などの説法道場を有する寺格を誇る福昌寺である、当院には門前に、貴重な文化財で、関東には稀な古墳の石棺仏が置かれている。続いて、本日最後の散策地、恵比寿神社に向かう。この神社は小粒ながら、商売繁盛、縁結びに大変ご利益があるとかで、多くの参詣者を集めているという。われわれが参詣中にもお参りに来た婦人がいて、呼び止めて伺ったところ、「数十年お参りに来ていておかげで家庭円満、商売順調」と嬉しそうに語るご婦人が印象に残った。恵比寿駅の名称はこの神社に由来すると聞いていたが、これは間違いで、恵比寿ビールに起因しているとのことである。 このあと恒例の懇親会に進み、和気藹藹に通飲し、早めに引き上げて散会とした。 (報告・石井義文)
 (解説

 恵比寿の居酒屋で、楽しい歓談をしたあと散会しましたが、誰かが「目黒川の光のページェントが素晴らしいよ」と言いました。酔い覚ましにちょうど良いと中目黒まで歩くことにしました。何と目黒川の川岸は天空の星空のような
ブルー一色の幻想的な世界になっていました。誠にすばらしい、圧巻でした!!。  まさしく本日のお江戸散策を天が祝ってくれたかのようで、程よい酔いとハッピーな気分で家路に着きました。

 
第24回 お江戸散策 旧吉原・浅草界隈 解説
1. 入谷 鬼子母神
 「おそれ入谷の鬼子母神、びっくり下谷の広徳寺、そうで有馬の水天宮、志ゃれの内のお祖師様、うそを築地の御門跡」と語呂合わせで言われてきた入谷鬼子母神は、仏立山 真源寺と呼び、万治2年(1659)法華僧 日融が開山しました。雑司が谷の鬼子母神とともに出産、育児の神様として江戸市民に親しまれています。本尊は雑司が谷が立像なのに対し、当寺は座像。ここは朝顔市が有名で毎年7月6日~8日の3日間は境内から参道、沿道に朝顔を売る店がならび東京の風物詩になっています。語呂合わせを詠んだのは江戸狂歌界の中心人物大田南畝。別名は蜀山人。彼は清廉な能吏として、御徒・支配勘定役などを歴任した幕府の役人でした。幕府の人材登用試験では首席で合格する秀才でした。田沼時代には、文人として才能を発揮して、狂歌・漢詩文・随筆などの活動が大目に見られていたが、寛政期になってから、改革に対する政治批判の狂歌「世の中に蚊ほどうるさきものはなし ぶんぶといひて夜もねられず」を詠んで、上司に目を付けられ、後に大阪銅座、長崎奉行所に転任させられたと云うがこの狂歌は別人との異論もある。彼は公務に関しては真面目、誠実で実務を淡々と務めたと伝えられている。

 
2. 小野照崎神社
 この神社の祭神は、百人一首で「わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人の釣舟」と詠んだ小野篁。篁は法理に明るく、政務能力に優れているばかりでなく、漢詩文でも平安時代初期の屈指の詩人でした。小野篁は東国に下向した折、上野照崎の地(上野公園の一角)に留まり、里人たちを教化しました。里人らは彼を敬慕し、仁寿2年(852)小野篁が没すると、これを照崎の地に祀って小野照崎大明神と称しました。江戸期初期に、幕府が寛永寺を建立することになり、現社地に遷座(せんざ)を命じられて移転しました。江戸期、富士山を信仰・参拝する富士講が盛んになり、天明年間(1781~89)当社境内に富士塚(下谷富士)築造され、多くの参拝客を集めた。現在も当時のまま残り、国の重要文化財に指定されています。また、渥美清さんが、若いころに小野照崎神社に参詣して、いい役をくださいと祈ったところ、寅さんのオファーが来たということで、芸能の神様としての信仰も集めています。。

 
 3. 西徳寺
 真宗佛光寺派の寺院。山号は光照山。歌舞伎役者中村勘三郎の菩提寺として知られる。18代目中村勘三郎(波野哲明)は歌舞伎役者としては江戸の世話物から上方狂言、時代物、新歌舞伎から新作など、幅広いジャンルの役柄に挑み続けたことで知られた。コクーン歌舞伎や平成中村座を立ち上げ、現代劇の劇作家、演出家らと組んで、古典歌舞伎の新解釈版や新作歌舞伎の上演に取り組んだり、地方巡業や海外公演も精力的に行うなど、その演劇活動は常に進取的であった。2013年4月には新生・歌舞伎座こけら落としを控え、今後の歌舞伎界の牽引役の一人と目されていたが2012年12月に急性呼吸窮迫症候群のため57歳で死去した。早すぎる死は梨園にとどまらず多方面から大変惜しまれた名優であった。勘三郎の葬儀は築地本願寺で本葬が営まれ、多くの芸能関係者ばかりでなく一般の弔問客など1万2000人が訪れたという。2013年11月27日、当西徳寺に於いて18世勘三郎の一周忌追善法要と納骨式が執り行われた。

 
4. 鷲神社 (おおとりじんじゃ)
 浅草のお酉様で知られる。日本武尊が東国征伐の帰途、ここで熊手を掛けて戦勝を祝ったのが11月の酉の日で、以後この日を酉の市と定めたと云う。幸運や熊手を掻き込もうという縁起で、商売繁盛の神として信仰されている。江戸時代は近くに浅草寺、新吉原という盛り場を控えた地の利から多くの参詣者を集めた。蕉門十哲の一人 宝井其角は「春を待つ 事の始めや 酉の市」、高浜虚子は「人波に 押されて来るや 酉の市」と詠んでいる。
5. 吉原弁財天
 遊郭造成の際、池の一部は残り、いつしか池畔に弁天祠が祀られ、遊郭楼主たちの信仰をあつめたが、現在は浅草七福神の一社として、毎年正月に多くの参拝者が訪れている。池は現在の吉原電話局辺りにあり、ひょうたん池と呼ばれていた。大正12年の関東大震災では、囲い門のなかに閉じ込められた多くの遊女がこの池に逃れ、147人が焼死、溺死したという悲劇が起こった。弁天祠附近の築山に建つ大きな観音様は、溺死した人々の供養のため大正15年に造立されたものである。往時を偲ばせる「花吉原名残碑」とともに、遊郭での仕事が、どのようなものだったか。貧困な農民層が、生きるために、そこで生涯を閉じていったことが看板に書かれている。

 
6. 正法院(飛不動)
 享禄3年(1530)のこと。正法院の住職正山上人が、大和大峰山に本尊木造座像を持って修行に行ったところ、坐像が一夜にして正法院に飛び帰り、人々にご利益をもたらしたという。以来、本尊は飛不動と呼ばれ、一層の信仰を集めた。空を飛ぶ神様なので空の旅の安全祈願や「落ちない」ということで受験生の守り神として今日でも多くの参詣者が訪れる。また、境内の恵比寿神は下谷七福神1つとして信仰されている。10月10日の縁日には、近郊から菊の花が飾られ境内は菊の香りが漂う。

 
7. 樋口一葉旧居跡
 樋口一葉は吉原茶屋通り大音寺前と云われたこの地に明治26年(1893)7月から、1年程住んだ。母と妹の三人暮らしで、吉原通いの客や近隣に住む町人たちに、荒物、駄菓子を売る小さな店を営みながら文筆活動をつづけ、その生活体験が、名作「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」などの傑作を生んだ。1960年地元の人々によって、旧居跡の碑が建てられた。
 8. 一葉記念館
 明治の女流作家 樋口一葉の業績を保存、展示している記念館。24歳で亡くなるまでの生涯や代表作「たけくらべ」の草稿はじめ一葉の自筆原稿、朝日新聞の小説記者で師の半井桃水宛の書簡、衣類などの遺品、竜泉寺町旧居と周りの町並みの模型などが展示されている。記念館前の公園には、菊池寛の撰文、小島政二郎の補筆による樋口一葉記念碑が建っている。
 
9. 吉原大門 
 江戸時代初期までこの附近は湿地帯で、多くの池が点在していたが、明暦3年(1657)の大火後、幕府の命により、湿地の一部を埋立て、人形町付近にあった吉原遊郭がこの地に移された。以来、昭和33年までの300年間に及ぶ遊郭街新吉原の歴史が始まり、とくに江戸時代にはさまざまな風俗・文化の源泉となった。この吉原へは、富裕層は柳橋から猪牙舟を仕立てて、隅田川を上り、吉原に通じる山谷堀を抜けて来た。一方、一般層は山谷堀に沿って築かれた日本堤の土手を歩くか駕籠で来た。舟は地方橋で降りて夜間であれば、岸辺の提灯屋(大島屋)で猫提灯を求めて夜道を歩いた。吉原遊郭へは外部から見られないようにS字に曲がった五十間道と呼ばれた衣紋坂が造られ、ここを抜けると吉原大門に辿り着く。吉原遊郭で唯一の出入り口で、入口には不審者を見張る四郎兵衛番所と呼ばれた見番があった。吉原遊郭は、南北245m、東西355mの敷地に造られ、その周囲は遊女の逃亡を防ぐばかりでなく外部から犯罪者を侵入させない機能を果たしたお歯黒ドブと呼ばれる水路で囲まれていた。吉原には、約8,000人が暮らし、そのうち2,000人が遊女であったという。煌びやかな花魁、太夫が闊歩する別世界で、太夫の着飾った衣装を見たさに女性の見学者も多かったという。しかし、遊女の生活は過酷で、ろくな食事は取れず、医療設備も貧弱ななかでの生活で、乙女たちは自由もなく、廓の中で年季明けまで働いたという悲しい物語が多く伝わっている。 
10.見返り柳
 見返り柳は、土手通り吉原大門交差点にある柳の木です。土手通りは、浅草寺の北側にある待乳山聖天から浄閑寺などのある三ノ輪へ向かう通りで、かつて遊客が浅草から吉原へ向かう道に当たります。吉原遊郭で遊んだ客が吉原大門を出て、後ろ髪を引かれる思いを抱きつつ、この柳のあたりで遊郭を振り返ったということから「見返り柳」と呼ばれていたといいます。かつては山谷掘脇の土手にあったものの、道路や区画の整理により当地に移され、また、震災・戦災による焼失などによって、数代にわたり植え替えられているといいます。

 
1. 東禅寺
 寛永元年(1624)に創建された曹洞宗寺院で、洞雲山東禅寺と云う。宝永3年(1706)江戸深川の地蔵坊正元は病気平癒を祈念して、幕府に発願し、江戸の6街道の出入口に1丈六尺(約2.7m)の地蔵菩薩坐像を造立した。江戸六地蔵である。奥州街道は第四番目に当たり、ここ東善寺に造立された。因みに、第一番は品川寺(東海道)、第二番 太宗寺(甲州街道)、第三番 真性寺(中山道)、第五番 霊厳寺(水戸街道)、第六番 永代寺(千葉街道)である。ただし、永代寺は明治元年に発令された神仏分離令により廃寺となり、地蔵座像も取り壊された。東善寺には、他に神田青物市場の符牒碑、日本麺麭祖由来を記した木村屋パンの始祖 木村安兵衛の墓がある。

 
12. 春慶院 (高尾太夫の墓)
 曹洞宗の寺院で霊厳寺の末寺。吉原の花魁、二代目高尾太夫の墓があることで知られる。高尾太夫は吉原の代表的名妓で、この名を名乗った遊女は十一人いたとも云われるが、いずれも三浦屋の抱え遊女であった。当院に眠る高尾太夫は、幾多の伝説巷談を生んだ二代目で仙台高尾とか万治高尾と云われた。仙台藩第三代藩主 伊達綱宗は天下普請で小石川堀治水工事に関わっている折り、気晴らしに吉原に繰り出したが、そこで出会ったのが二代目高尾太夫。美貌と書画音曲に優れた才媛にぞっこん惚れ込み、連夜通いつめる入れ込み様になった。当然のことながら、身請けの話しにまで進むが、高尾本人は首をたてに振らない。破格の身請け金を提示して、晴れて大名家に受け入れるという最高の優遇をして、何とか身請けした綱宗だが、その後も高尾自身の心は開く事はなかった。結局、いつまで経っても、心底、自分の物にならない高尾の態度に怒った綱宗は、隅田川の船上で、高尾を縛り上げて斬殺したと云う。この横暴三昧は幕府の知るところとなり、綱宗は21歳の若さで隠居させられ、わずか2歳の嫡男=綱村が第4代藩主となる。これが伊達騒動の始まりと云われる。また、巷説には伊達綱宗との仲は相愛の関係であったといい、高尾が綱宗に宛てた手紙の一節「忘れねばこそ、おもい出さず候」、「君はいまあたりはほととぎす」の句が伝えられ、高尾太夫の墓は輝宗侯の内命によって建てられたと伝わる。墓は細部にまで意匠を凝らした笠石塔婆で、戦災で亀裂が入り、一隅が欠けている。高さ1.5m、正面に紅葉文様を表し、楷書で戒名、命日 万治2年(1659)12月5日が刻まれ、右面には辞世、「寒風に もろくも朽つる 紅葉かな」と刻まれている。

 
13. 待乳山本龍院 (まっちやまほんりゅういん)
 浅草寺の子院のひとつで通称 待乳山聖天という。当山の十一面観音菩薩像は、人々が旱魃で苦しんでいるのを救ったとして崇拝を受け、本尊として祀られるようになったという。境内随所にある紋章の砂金入り巾着は金銀財宝で商売繁盛、二股大根は健康で一家和合を表わし、大根を供えると聖天様が身体の毒を洗い清めてくれると言われている。ここの小高い丘は江戸時代筑波山や富士山も望まれる風光明媚な景勝地として知られ、安藤広重も描いている。また、大衆文学の作家 池波正太郎の生家は待乳山聖天公園の南側付近にありました。生まれた年の9月に関東大震災があり、生家は焼失してしまいましたが、その後も少年期、青年期を台東区で暮らしました。昭和35年「錯乱」で直木賞を受賞し、「鬼平犯科帳」「剣客商売」「仕掛人・藤枝梅安」などの人気シリーズをはじめ、時代小説の傑作をつぎつぎと生みだし、このあたりもたびたび舞台として描いています。「生家」は跡かたもないが、大川(隅田川)の水と待乳山聖天宮は私の心のふるさとのようなものだと記しています。

 
14. 市川団十郎「暫(しばらく)」の銅像
 この銅像は、明治の名優、九代目市川団十郎が、歌舞伎十八番の演目で、皇位へ就こうと目論む悪党の清原武衡が、自らに反対する加茂義綱らを打ち首にしようとするとき、鎌倉権五郎景政が「暫く~」の一声で、さっそうと現われて助ける名場面「暫」のシーンを名彫刻家新海竹太郎が制作した傑作です。大正8年、浅草寺境内に建立されたが、戦時中の、昭和19年11月 金属類拠出令により撤去され失ったが、昭和61年11月第12代市川団十郎の襲名を機会に歌舞伎の象徴的な場面「暫」の像が復元された。九代目団十郎は歌舞伎を下世話な町人の娯楽から日本文化を代表する高尚な芸術の域にまで高めた功労者で「劇聖」と謳われた。

2/7 多摩高新年会(野球部OB会主催)が、
1期の大先輩から現役高校生まで100名以上の参加により盛大に行われました。

新高3生からは、今年の大会にかける決意表明がありました。
「皆さん 応援よろしくおねがいします!」
※高校生は冒頭挨拶のみで帰宅

野球部主催の新年会は毎年行われ、野球部OBだけでなく、多摩高野球部を応援する同窓生が多数参加しています。

会の〆は、恒例の校歌大合唱とエールです。


100名以上の多摩高OBによる校歌大合唱!


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第24回お江戸散策は入谷から旧吉原に入り向島界隈の散策を行うこととしたJR鶯谷駅に集合し、近くにある入谷の鬼子母神で名高い真源寺からスタートした。真源寺は鬼子母神ばかりでなく7月は朝顔市でも大いに賑わう所と云う。続いて古社小野照崎神社へ進む、この古社は江戸期に富士山崇拝から富士講が盛んになった折り、実際に富士登山ができない人々のために境内に富士塚を造り、人々の参詣を促した。その富士塚の遺構が往時と変わらぬ姿で残されている。次に訪れたのは西徳寺。この寺院には、2013年惜しまれながら他界した第18代中村勘三郎が永眠しているので皆で墓参をした。この寺院の向かいには浅草酉の市で名高い鷲神社がある。生憎、市の前であったため境内はその飾りつけで工事関係者が多く入っており、邪魔になるので、早々に次の吉原弁財天に向かうことにした。この弁財天は遊郭吉原があったころ、遊郭楼主たちの信仰を集めた所で、築山には大きな観音像が「吉原の生活がどのようなものであったか?」「ここ起きた悲劇はどんなものであったか?」を伝えている。ここからほど近いところに航空関係者の信仰を受けている飛不動という神社がある。ここは「落ちない」というご利益から受験生の守護神として参詣も多いと云う。この付近は、樋口一葉一家が居住していたところで、名作「たけくらべ」「にごりえ」などの傑作の題材を生み出した旧居跡や一葉の業績を伝える一葉記念館もある。吉原のあった地は、往時と同様の区割りが残されていて往時の様子を想像しながら街を歩くと、名残を残す吉原大門見返り柳などに触れられる。ここまで歩くと、ランチタイムになって来た。ちょうどよい古めかしい造りのそば処があったので、皆でこの店に入り腹拵えした。腹ごしらえをして、店を出ると、外は本降りの雨となっていた。この調子では予定の向島界隈への散策は、歩行に難儀するし、交通機関のアクセスが良くないため急遽、予定を変更して、浅草に向かい、その界隈で打ち上げをすることにした。楽しみにしていた向島百花園や木母寺への散策は次回に繰り越しとした。浅草への途中には、めぼしい散策スポットがあるので、そこを訪れながら浅草に向かうことにした。雨中散策の最初は東禅寺。この寺院は江戸六地蔵の1つがあり、有名なパンの木村屋創始者の墓がある。続いて、春慶院。この寺院には第2代仙台藩主伊達輝宗に見初められて、身請けされた吉原の花魁第2代目高尾太夫の墓がある。藩主のこの行いが幕府に睨まれることになり、伊達騒動を引き起こす遠因になったという。歌舞音曲に秀でていた高尾の歌碑が建っている。ここから、ほど近いところに池波正太郎ゆかりの寺院待乳山聖天がある。江戸時代から無病息災、夫婦和合で多くの信仰を集め、眺望もよい人気スポットである。二王門から浅草寺境内に入った。浅草寺は雨天のなかでも多くの参詣者が訪ずれていて外国人も多数見られた。ここは皆、勝手知って、一度は訪れた所でもあり、市川団十郎「暫」像を拝観したところで本日の散策を終了としました。このあと、江戸の味を堪能できる居酒屋「小野屋」で本日の散策を振り返りました。
(石井義文・ 解説

 

多摩高校くさとり会開催の件
 
くさとり会の皆さんお元気ですか!
2015年一期生同窓会を当番幹事3組、4組の担当で下記のとおり企画いたしました。多数の参加を心よりお待ちしております。
 

開催日時    平成27年6月13日(土曜日) 16時~18時30分
          (受付15時30分より)
 
会場      チャイニーズダイニング桂林(JR武蔵溝ノ口駅構内0分)
         Tel 044-862-0281
 
アトラクション 多摩高吹奏楽部在校生 演奏会
 
世話人     高山健治朗 野口尚男 榎本靖子(五味)長岡和子(斉藤)
         花岡悦子(小川)
 
連絡      詳細は各人宛往復ハガキを5月1日ころまでにお送りします。
 
問い合わせ   e-mail  wako-n0621@nifty.com



※写真は、前回平成22年開催1期生同期会のものです。
                                 
平成27年2月1日  臨時幹事会  開催報告(議事録)
 
 平成27年2月1日(日)多摩高校同窓会臨時幹事会が川崎市総合自治会館で開催されました。大変寒い日でしたが、1期生の鈴木由紀子さんから、最も若い方は55期生の廣瀬開陽さんまでの総勢43名に参加いただきました。
 安部会長の開会あいさつに続いて、恒例の基調講演が行われました。今回の講演は、昨年5月から7月にかけて朝日新聞に連載された「青春スクロール母校群像記」を担当された同社川崎支局の村山惠二さんを講師にお迎えし、「新聞記者という仕事」と題してお話をいただきました。
 朝日新聞社に入社されるまでの経緯、鹿児島をスタートに赴任された各地での取材エピソードや、アメリカの歴代大統領が刻まれているラシュモア山へ粘り強い交渉の結果登頂することができたことなどを、プロジェクターを使用してお話しいただきました。また、大変フレキシブルな勤務時間の中で働く新聞記者のハードな日常生活のお話とともに、常に持ち歩いている取材道具の数々をカバンから取り出してご披露いただきました。1時間強の講演でしたが、平易に淡々とお話しされる村山さんのことばに参加者は熱心に聞き入っていました。

 講演後、議事に移り、安部会長からこれまでの活動状況として、ホームページを11月にリニューアルしたこと、多くの会員から存続の要望をいただいている母校の食堂問題について、PTA役員との協議をはじめたことなどが報告されました。
 質疑では、ホームページの移行に伴う旧データの取扱いについて質問があり、基本的には全てのデータを移行させているとの報告がありました。

 また、難病を患わっている同窓生への同窓会としての支援について質問があり、会長から同窓会の目的に照らして支援そのものをすることはできないが、その活動内容をホームページの一般記事として(事務局に送付の上)掲載することは可能であるとの見解が示され、参加者からこれに賛同する意見があり異論はでませんでした。

 議事終了後、校舎建て替えに伴い新旧校舎の記録撮影を受託している李 明勲さん(42期)から撮影状況の報告をいただきました。参加者から工事完了後に記録写真を冊子にまとめてはどうかとの意見がありました。

 最後に、残念ながら懇親会に参加できない方々から自己紹介とごあいさつをいただき、臨時幹事会を終了しました。

  次回の幹事会は、2015.5.24(日)です。


※写真をクリックすると大きな写真が表示されます。


 その後、場所を恒例の「串駒」に移し、村山惠二さん、副校長の田中宏幸さん(19期)にも参加いただいて懇親会を行いました。参加者全員の近況報告などによりいつものとおり大いに盛り上がり、世代を超えた親交を深めることができました。
 懇親会の最後は、吹奏楽部OBの田中 旭さん(5期)の歌唱指導と指揮で校歌を斉唱して閉会しました。



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多摩高校11期生 平成25年度同期会のご報告
    
 
 東日本大震災の翌日に行った還暦同期会から丸3年たった平成26年3月9日の日曜日午後1時、前回は来られなくなった人たちをはじめ100人を超える同期生が「帝国ホテル・光の間」に集合し、綾谷、濱田、小里、田山の諸先生と、同窓会から小林、中野両副会長にご出席いただいて盛大に同期会を開催することができました。
最高級のホテルサポートと料理を前に、大いに飲んで食べてお喋りを楽しみ、最後に1年生の時のクラスが集まって記念撮影の後、全員の記念撮影、田山先生指揮による校歌斉唱を行い、あっという間の2時間でした。



更に「うおや一丁銀座店」に70人が移動して、4時から二次会を開催、今度は落ち着いたお座敷に座っての2時間、さらに懇親を深めました。そして、まだまだ飲み足らない、お喋り足らないという仲間たちが、夜の銀座に消えて行きました。
 今回は残念ながら欠席された方々、事務費を入金頂き有難うございました。次回は是非お会いしましょう。
 
幹 事 
石川豊、大津元一、篠田隆志、内藤秀文、長谷川茂、秦野純一、飯田(山本)光子
古関(久住呂)みな子、小塚(高橋)久仁子、坂元(田邉)志津江、横山雄子
 
連絡先アドレス  tamakoukou-11ki★c00.itscom.net(篠田あて)
※参加されてのご感想、次回の要望などお書き込みください。幹事で共有します。
 ★を@に変えて送信をお願いします。


集合写真(クラス1~3)


集合写真(クラス4~6)


集合写真(クラス7~9)

※写真をクリックすると大きな写真が出ます。