2023年2月


【NPB主催「キッズフェスタin川崎」に参加しました】

2月26日(日)NPB主催の「キッズフェスタin川崎」が等々力球場で開催されました。神奈川県高野連からの依頼を受け、本校野球部からは5名が協力者として参加しました。本イベントの目的は、「未就学児にボール遊びや簡易化したゲームの楽しさを知ってもらい、スポーツに親しみを持っていただくこと」でした。

NPB講師陣は、元読売ジャイアンツ投手の西村健太朗氏(広陵高→読売)、元横浜DeNA外野手の荒波翔氏(横浜高→東海大→トヨタ自動車→ベイスターズ)など4名でした。本校野球部員は西村氏、荒波氏のサポート役として、得点管理やポジション調整などを担当し、西村氏、荒波氏とコミュニケーションを取りながらイベントを進行させました。元プロ野球1軍選手と直接関わり共に仕事をすることができたことは、大変貴重な経験となりました。

現在、部員は探究の授業(Meraki)のテーマとして「野球人口拡大のために高校生は何ができるか」ということについて研究をしています。本イベントに参加された保護者の方に対して野球振興に関するアンケート調査を実施し、今後の研究に活かし研究を進めていく予定です。

本校野球部は今後とも、野球の技術向上や試合での勝利を目指すだけでなく、野球の「課題研究」に取り組み、研究や統計の基礎知識の習得やコミュニケーション能力、プレゼンテーション能力の向上に努めてまいります。

今年も間もなくシーズンが始まります。今後とも変わらぬご支援、ご鞭撻のほど宜しくお願い申し上げます。

多摩高校野球部監督 飯島 佑















 
昨年12月に開催された「日本野球科学研究会第9回大会」の記事がスポーツ総合雑誌、「Number Webに掲載されました。ぜひご覧ください。

多摩高校野球部では、野球の技術練習だけでなく、「課題研究」にも熱心に取り組んでいます。課題研究を現在のプレーに活かすことはもちろん、高校野球を終えた後の大学野球で「アナリスト」や「分析班」として野球に携わることまでを視野に入れた活動をしています。
野球が好きな中学生の皆様、ぜひ多摩高校で一緒に野球を突き詰めて研究しましょう!

「強豪校女子マネの実態」「二塁走者の最適リードは?」高校生の野球研究が東大、社会人並みにスゴい…生徒、元プロの先生に話を聞いた – 高校野球 – Number Web – ナンバー
https://number.bunshun.jp/articles/-/856359?page=1


秋の県大会、延長14回の死闘
=甲子園全国優勝の桐蔭学園に惜敗=
(多摩高野球部15期チーム投手 峰野謙次)

1970年(昭和45年)、稲田中学3年の卒業式前に届いた手紙。それは当時の多摩高野球部・岸裕一監督(10期OB)からのものでした。母校の中学から程近い多摩高への入学も決まり、3月10日の卒業式を控えていた時期、野球部に入部する意思があるのであれば、「3月11日から練習に是非参加するように」といった内容でした。硬式野球部の監督から直筆の手紙をもらったという嬉しさから、私は迷いもせず練習に参加することにしました

同じ志を持った(中学野球経験者の)同期が5人いました。後で分かったことですが、野球部にはその時点で3年生、2年生の部員が6人しかいなかったので、新1年生が3人、春の市内地区予選の試合に出場しないと、チームができなかったのです。そんなわけで、4月の高校入学式も終わっていない私たちは、(正確には中学生ながら)高校野球部チームのレギュラーとして春の川崎地区予選に出場しました。
    
高校に入学してからは1年生部員の入退部があり、その年の夏の県大会前、1年生は5人でした。1年生ですから、早朝のグラウンド整備や道具の整備・準備、そして全員がレギュラーと同じメニューをこなさないといけない状況でした。多摩高生になったばかりというのに、肉体的にも精神的にも辛い毎日でした。

本当は触れたくないものの、避けて通れない出来事なので書きますが、そんな1年生部員全員で話し合い、夏の県大会を最後に退部することを決めたのです。最後ですから、13期の小黒誠二主将率いるチームにとって集大成の場となる夏の県大会は一生懸命プレーしました。そして、夏の県大会4回戦で強豪の横浜市立南高校に敗れた翌日に、5人全員で退部届を提出したのです。

その後、岸監督、14期の新チームの伊藤主将との話し合いがあり、その結果、2人が辞め、3人が残ることになりました。佐藤泰年、山根康生、私・峰野謙次の3人です。そして、8月に入り、伊藤主将を加えた4人での練習が始まるかと思われた日、佐藤が盲腸になり入院・手術で戦線離脱し、伊藤主将、山根、峰野の3人の練習となりました。その後の部員不足に見舞われ通しだった1年間については、部史の14期チーム紹介文にありますので、省略します。
    
私たち15期が最上級生となった1971年(昭和46年)8月。2年生の佐藤、山根、峰野、1年生の富永、斎藤、平田、山下の部員7人での始動となりました。秋の川崎地区予選では、一度退部した2年生の中川、帰宅部の大久保、落語研究会の小飼、バレー部の松本の4人に助っ人で来てもらい、どうにか試合ができることになりました。そして、何と川崎地区予選A組トップ通過で県大会に出場できました。

秋の県大会では、その直前のこの年の夏の甲子園初出場・初優勝の快挙を成し遂げた桐蔭学園と2回戦で当たることになったのです。これからは私の正直な思いを書きますが、桐蔭との対戦をチャンスだと思いました。自分たちの実力を測ることができると思ったのと、万が一勝ったりしたら、注目されると思ったからです。

桐蔭との試合は一進一退で9回まで進み、延長戦となりました。試合は延長14回までいきましたが、結果は4対5で惜敗。マウンドにいた私は、桐蔭学園だって同じ高校生、絶対に逃げずにピッチングをしようと決め、インコーナー(内角)の高めを決め球にして配球をしていきました。強気のピッチングが良かったのでしょう、フライをどんどん上げてくれて助かりました。ゴロとなると、守備が心配だったのです。

この試合では一度、絶体絶命のピンチが訪れ、2アウト1塁・3塁でバッターは甲子園大会で活躍していた4番打者の高橋。ベンチの稲垣謙治監督からは敬遠の指示。しかし、どうしても勝負したかったので、キャッチャーの山根を呼んで勝負しようと提案、山根も一つ返事で勝負OK。そして、見事に最後はインサイド高めのストレートでセカンドフライに打ち取りました。ベンチに帰って、稲垣監督に叱られましたが、そんなのはへっちゃらで、嬉しさの方が大きかったのを今でも覚えています。試合には負けましたが、大きな自信となりました。15期チームで一番印象に残っている試合です。
    
最後に、3年生のときのチームの選手を紹介します。
1番中堅手・佐藤(3年)、2番サード・斎藤(2年)、3番捕手・山根(3年)、4番投手・峰野(3年)、5番ショート・中野(1年)、6番左翼手・中川(3年)、7番右翼手・富永(2年)、8番セカンド・山下(2年)、9番ファースト・太田(1年)
控え選手=平田(2年)、三輪(1年)、高桑(1年)、高橋(1年)、前田(1年)、直井(1年)
マネージャー=大池(3年)、工藤(3年)、澤田(2年)

(筆者は多摩高卒業後、国学院大学に進学し、学生時代に野球部19期チームのOB監督として同チームを1976年=昭和51年=の夏の神奈川大会で多摩高初のベスト4に導いた)

■県立多摩高野球部部史「補遺」     2023年1月31日入稿

50年後も記憶鮮烈な2年先輩15期チーム
=強豪に善戦、中身濃い4カ月の野球部生活=
(多摩高野球部17期 太田伸彦)   

2022年(令和4年)9月下旬に母校に近い南武線・宿河原駅前の居酒屋で県立多摩高野球部OB会のシニア会(60歳以上がメンバー)の集まりに初めて参加し、その席で5年前に編集・刊行された野球部の部史(冊子)を14期の伊藤先輩から受け取り、昭和30年代初めの野球部草創期から20期までの野球部の活動を詳しく知ることができました。生田中学出身の私(太田)は1972年(昭和47年)入学の17期チームのメンバーですが、部史にはたまたま、自分が高校1年生のときに一緒に白球を追った2年先輩の15期チームの戦績などについて詳しい記述がなかったもので、高校入学後のわずか4カ月の一緒の部活動ながら、それから50年以上たった現在も当時のことを鮮烈に記憶しており、15期の先輩方の素晴らしい活躍ぶりなどを知っていただきたく、ペンを執った次第です。
    
1971年(昭和46年)秋から72年(昭和47年)夏までの15期チームの3年生部員(佐藤泰年=生田中、峰野謙次=稲田中、山根康生=稲田中、中川孝=今井中の諸先輩)とはわずか4カ月の野球部生活だったのですが、私にとっては5年以上に思えるほど中身の濃い数カ月でした。

佐藤さん、山根さんの厳しい叱責、峰野さんの天才的な二刀流、中川さんの穏やかさ。50年たった今でも、諸先輩のことは脳裡から離れません。
15期チームの先輩方は夏の県大会初戦(1972年7月19日)で、再興してきたY校(横浜商業)に1対4で敗れたためか、多くを語られませんが、私は言わずにおれません。

まず、前年秋の県大会2回戦では、その夏の甲子園大会で全国制覇を遂げていた奇本(旧姓)監督率いる桐蔭学園を相手に延長14回を戦い、4対5の惜敗。
翌年春の県大会では、1回戦で県立秦野高校を4対1(1安打完投)、2回戦で逗子開成を3対1でそれぞれ下し、3回戦では浅野高校に0対4で敗れましたが、ベスト16で夏の県大会組み合わせで第3シードとなりました。野球部員が十数人と少なく、入部して1カ月にも満たない2人の1年生をレギュラーに使ってのシード権獲得です。

6月の川崎市長杯でも準決勝で強豪の法政二高を相手に8回2死まで0対1の善戦でした。2死1・3塁で相手チームの8番打者に本塁打を浴び、力尽きましたが、0対4でベスト4です。ちなみに、この年(1972年)夏の神奈川大会の優勝校は東海大相模でしたが、準決勝では法政二高に9回2死(しかも無走者)まで2対6で負けていた。最終的にはそこから5点を入れて延長11回に7対6と奇跡の逆転勝利。法政二高が神奈川代表として甲子園へ行ってもおかしくなかった大会でした。

そして、夏の県大会決勝の相手は何と、春の県大会で峰野さんがエースの多摩高に敗れた秦野高校。無シードから勝ち進み、準々決勝では前年全国覇者の桐蔭学園を8対4で破るなど、快進撃を続け、マスコミでも秦野旋風と称えられた。最後は東海大相模を相手に0対5で敗れたが、地元高校の活躍ぶりに秦野市内はお祭り騒ぎとなった。

神奈川の高校球界ではこの年、木田勇投手(横浜一商→日本ハム)、田代富雄内野手(藤沢商→大洋)が活躍した。その当時から50年以上が経過した今でも、これらの記憶は鮮明です。
    
また、私が2年生だったときの1年先輩に当たる16期の先輩方にはいつも優しく励ましていただきました。斎藤秋英、山下博之、平田伸一、最強マネージャーの澤田みち子、中山悦子の5人ですが、三塁手・斎藤さん、二塁手・山下さんとは同じ内野手(太田は一塁手)だったこともあり、痛みを理解してくださったように私は思っています。

斎藤さんが主将の16期チームで一番印象に残っている試合は、1973年(昭和48年)春の川崎地区予選での対県立川崎高戦です。5回表の攻撃を終えて11対1の大量リード。しかし、その裏に5点を返され、8回と9回にも3点を失い、11対12のサヨナラ負け。このような負け方をすると、チームがどのようなことになるか、OBの皆さんなら想像できると思います。

(筆者は多摩高を卒業後に学習院大に進学し、同大野球部で活躍。大学卒業後は神奈川県立高校の世界史教諭の傍ら、県下の高校で野球部監督として長年にわたり生徒を指導した)





 
2023/2/4  3年ぶりに野球部OB会主催の新年会が開催され、1期~63期まで総勢50名の参加者が集まりました。

今回、野球部OBのみ(特別に野球部を応援してくれる方も参加)とし、規模は縮小となりましたが、久しぶりの再会もあり、高校時代の野球談議に花をさかせました。

会の〆、恒例の校歌大合唱、エール。来年も元気で再会できることを祈願しました。

野球部主催の新年会は毎年2月の第1週土曜日に行われ、野球部OBだけでなく、多摩高野球部を応援する同窓生が多数参加しています。

みんなで母校野球部を応援していきましょう!

※写真動画撮影時のみマスクをはずしています。